「…静か、ですね」
店内に音がないのだ。
音楽、もしくはラジオなどを流すイメージが強いが、このパン屋には何も流れていない。
「なぜか聞いてみるか」
「いえ聞くほどのことでもないでしょう。気にする人も少ないんじゃないですか」
九条は不服そうな顔をした。
「歌詞を見てみろよ、『音楽がきこえたらそれが合図よ』って歌ってる」
残る謎をどうにかすっきりさせたいのは日菜も同じである。ここに何か手掛かりがあるのは確かだ。
ガラス越しの厨房にいる店員と目が合った。
日菜はすぐさま笑顔を取り繕うと、相手も笑みを浮かべ日菜に会釈をした。
そして、日菜は並ぶパンに顔を戻し小さなクロワッサンをトレーに2個ほど置きながら九条に体を寄せた。
「ひとまず、歌詞通りにパンを買い、飲み物はコーヒーにしましょう。あの店員が何か隠してるとしても、最後の『ここよやなくよ のうなけわたし』という歌詞の意味がわからない限りは下手に動くのはよくないです」
「それなんだが」
「お客さん」
九条と日菜は肩をゆらして顔を声の方に向ける。
いつのまにか店員の男が会計の場所へ立ち、日菜たちの方を見ている。
日菜には分かった。
何か、裏がありそうな仮面のような笑顔である。
「お好きなパンはなかったですか?」
その瞳がまだ何も乗せられていない九条のトレーへと向く。九条は若干慌てたようにチョコクリームの入ったドーナツ型のパンをトングで掴んでトレーに置いた。
「色々好きなのがありすぎて迷ってしまいまして、アハハ」
そう言いながら会計に向かう九条。日菜も「そうですね、迷っちゃいます」と九条に合わせながら会計へと向かった。
「お飲み物は何になさいますか」
「2人ともコーヒーで」
「かしこまりました。後ほど席までお待ちしますね」
会計を済ませて九条と日菜は2人がけのテーブルに向かい合わせで座った。
「九条さんはこの場所を探し当てた時中には入らなかったんですか」
異常なほど静かな空間のため、両肘をテーブルに置き身を少し前にして声を顰めた。
「閉まってたんだ。定休日とかそういうやつだろ」
「なるほど。しかし、なぜここは何も音楽やラジオをかけていないんでしょうか、いつもこんなに静かなんですかね」
「それを売りにしてるのかもな。通常マスキング効果として店の音楽で厨房の音を客にきこえないようにしたり、外の車の走行音とかを気にしないようにするのも音楽をかける理由の一つだ。
単に周りもうるさくないし、静かすぎるのが心地いいみたいなそういうやつなんだろ」
静かすぎて少し気味が悪いが。
と、日菜はあたりを見渡す。日菜たち以外お客さんはいない。
すると、九条は「あ」と思い出したように声を出した。
「さっきの女子高生、ギター抱えてただろ。ここで弾いていたとしたら音楽がなくても違和感はないよな」
日菜も九条の言葉に「確かに」と頷いた。
そして気になるのは花田瑠衣歌の歌だ。『音楽がきこえたらそれが合図よ』
音楽がきこえたら、合図。
その歌詞に繋がっている呪文のような言葉。
ここよやなくよ のうなけわたし
日菜は自分なりにこの言葉を調べたが全く分からなかった。花田瑠衣歌は何を伝えたいのだろう。
頭を抱える日菜の前で九条が深刻な顔をして口を開いた。
「パンの歌の最後の歌詞なんだけど」
「なんですか」
九条は先ほどのレシートの裏を上に向けた状態でテーブルの上に置き、ポケットからボールペンを取り出した。
そこに『ここよやなくよ のうなけわたし』と書いた九条。そして反対の方に向け日菜側に紙を寄せる。
「さっき、この曲はヨナ抜き音階でできてるって言っただろ」
「はい」
九条はごくりと唾を飲み込む。
そして手に握っているボールペンを握りしめた。
「大きい声、あげるなよ」
「…分かりました。なんですか」
九条は、『ここよやなくよ のうなけわたし』と書かれている文字の「よ」と「な」を黒く塗りつぶす。
日菜は小さな声でたどたどしくそれを口に出した。
「こ、こ、や、く う、け、わたし」
ーーーここ、やく、うけわたし
日菜の脳内でそれが文章として変換された時、思わず声が出そうになり口をおさえた。
その時である、店員の男がパンとコーヒーを並べた2つのトレーを持ってきた。
静かな空間にやけに足音が響く。
九条は紙をくしゃりと握りつぶしポケットに入れた。日菜は平常心を装うように手を膝の上に置きにこりと笑う。
内心は穏やかではいられないが、ここで笑ったのは刑事の意地のようなものだ。



