彼女が真実を歌う時



「なんだよそれ」と笑った九条。目を細めた九条が数回日菜の苗字を呼び捨てと「さん」付けで口に出した。
どちらが違和感がないか確かめているようだが、日菜は心の内がむず痒くなる感覚になり、軽く胸をおさえる。もうやめてほしいと思う日菜に九条は追い討ちをかけた。


「日菜ちゃん」

唐突に呼ばれた下の名前。加えて「ちゃん」だ。数年呼ばれていないその呼び名に日菜は「はあ?」と九条を見上げる。


「療法では小さい子だと下の名前で呼んだりするんだよ」

「小さい子って…私は九条さんのところに通ってはいませんからやめてください」

「分かったよ、若月日菜」

「フルネームやめてください」


自分の下の名前を九条が知っていたことに日菜は驚きつつ「もう若月さんでいいですから」と九条を睨みつけた。
九条は苦笑いを浮かべ「へえへえ」とふざけ口調で日菜に返事をする。
お互いがくだらないやりとりだと気づく頃だった。
不意にパン屋の戸が開く。

ふわりとパンの香りが濃くなった。

「じゃ、お兄さんまた来ますね」

そう言って出てきたのは制服をきた女子高生であった。

戸の前で立っている九条と日菜に少し驚いたように肩を上げた女子高生はすぐに表情をかえ笑みを浮かべた。そして軽く会釈をして去っていく。
背中にはギターケースを背負っていた。

日菜はその姿を目で追う。制服、それからギター。

過去の情景に一瞬、とらわれた。


「なんか笑いかけられたけど、知り合いか」

九条からそう問われて日菜は「いえ」と首を横に振る。しかし。

「母校の制服です」

ぽろりと自分の口から出たその言葉に日菜は開示しなくてもいい情報であったと少し後悔をした。
九条はなんてことないかのように「へえ」と返事をする。

「あそこ、お嬢様校だろ。頭よかったんだな。まあその歳で刑事になってりゃ頭いいか」


皮肉や嫌味ではなく、本心での言葉なのだろうが日菜は唇を噛んだ。確かにあそこに行かなければ、警察官になっていないし、ここに立ってなどいない。
九条は日菜の反応をみて少し心配そうに「別に嫌味とかじゃないけど」と言葉を添える。
そして九条は気まずさを紛らすために日菜の向こう側で、とっくに小さくなっているそのギターケースの背中を見た。


「てか今学校の時間じゃねえの」

「テスト期間とかですかね」

どの時期にどんなテストがあったかなど日菜はとっくに忘れている。適当にいった言葉を九条は「なるほど」と頷いていた。


「九条さん、ここのパン屋カフェもやっているようなので入りましょう」


「お、いいね。腹も減ったし」


そういう目的ではない。が、美味しそうな香りにそそられたのは日菜も同じであった。
そしてこの曲の一番分からない謎の部分が解けていない。
戸を開ければ、カランとドアベルが鳴る。
中に入ればずらりとさまざまなパンがコの字で並んでおり、左奥にイートインスペースが用意されていた。

日菜たちに気づいて奥の厨房から顔を覗かせたのは若い男である。先ほど女子高生が「お兄さん、またきますね」と言っていた相手はこの人だろうと日菜は勝手に予測を立てる。
ガラス越しで厨房の中が見えており、店員はどうやら男1人である。


「いらっしゃいませ」


「あの、奥のカフェも利用したいんですが」


「ああ、大丈夫ですよ。ここからお好きなパンを選んでいただいて、お会計の時にお飲み物をお選びください。パンとセット料金になるのでお得ですよ」


「ありがとうございます」


日菜がお礼を言うと、男は厨房へとまた入っていった。日菜と九条はトレーとトングを手に取り、端からパンを選んでいく。


「なあ」

「なんですか」

「なんかおかしいよな、ここ」

日菜は九条の言葉に「何がですか」と答えながら、クリームパンをトングで掴みトレーに置く。
九条が声を顰めているのは、奥の店員に声が聞こえないようにだと日菜は気づいた時に、やっとその違和感を理解した。