彼女が真実を歌う時




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「いやあ、分かんないっすね」


パソコンの前で訝しげに腕を組んだのは、浦井である。

「この『パンの歌』に何か仕掛けがあると思いましたが、そういうわけでもなさそうですかね」


日菜は藁にもすがる思いで、浦井に『パンの歌』の解析を頼んだ。
専門外だと渋っていた浦井だったが、今回は『勤務中』だったため日菜の話をきいてくれた。
浦井は隣に立っている日菜の方にくるりとからだを向ける。そして「ないんじゃないっすか」と苦笑いを浮かべた。


「考えられるとしたら、人間の耳に聴こえない範囲での音声を発して暗号を託すとかありますけど」

「超音波みたいなことですか?」

「超音波より、高周波の中に人の音声を紛れ込ませるって言う方が正しいです。
ただこれ、曲に混ぜるとなると作る方も聴く方も大変なのでわざわざそんな小難しいことやるとは思えないですけど」


「花田瑠衣歌はアーティストです。そういうのも作れておかしくないと思います」


そして聴く方、と日菜は考える。花田瑠衣歌には九条がいる。


「花田瑠衣歌が頼りにしていた音楽療法士がいて、その人にしか分からない暗号をこの曲に潜ませていたっていう可能性ないですか」


「その音楽療法士はその暗号を紐解けるような人なんすか?」


浦井の言葉に日菜は頷いた。九条は分かるだろう。
ではなんで未だに連絡が来ないのだろうとふと疑問が頭をよぎっていく。九条を信用していいものなのか、そもそも『パンの歌』の真実はもっと違うところにあるのではないのか、とだんだん自信がなくなっていく日菜に、浦井はため息をついてパソコンに向き直った。

「一応調べてみますけど、そもそもこれ誰かから誰かに送られている過程で高周波自体が削られてる可能性もありますよ」

日菜は浦井の言っている意味がわからず首を傾げる。
浦井は「ええっと」と日菜にも分かるように言葉を選ぶように話し始めた。器用なことにパソコンのキーボードは叩き続けている。


「レコーディングして完成したものよりも、音質が悪くなっているってことです」

「なるほど」

「本当に分かってんのかな…」


浦井の呟きに日菜は少々むっとしながら「分かってますよ」と返事をした。
花田瑠衣歌が残した暗号がデータの劣化により消えてしまっている可能性があるということだと日菜は浦井の呪文のような言葉に無理矢理結論をつけた。


「作る側が音声と音楽をレコーディングしたあと、音声だけを人の聴こえない範囲の周波数まであげるってことっすね。そんで聴く側が音声を聴こえるところまで下げて調整していく作業がいります。まあ、簡単じゃないですけど」


「詳しいですね、浦井さん」


「音楽と数学と物理、それからプログラミングって結構近しいところありますよ。ほら『ピタゴラス音律』とかきいたことないっすか?」


ーーー『ピタゴラス』

ドクりと日菜の心臓が嫌な音をたてた。
日菜自身ほんの十数年前までは当然知らなかった。教えてくれたあの人がいなければ今でも知らないままであっただろう。こびりついて忘れようにも忘れられない。
もう、2度と会えないが。


「宇宙が音楽を奏でており、その調和が世界を支配している」


浦井は日菜の言葉に手を止めて意外そうに日菜の方を向いた。


「ピタゴラスでそれ出るの珍しいっすね、ピタゴラスといえば『万物の根源は数である』の方が有名ですけど」


「そ、そうですよね」


へらりと笑った日菜。変な汗が手のひらに滲んで両手を擦り合わせる。
浦井はそんな様子を不思議そうに横目にみたあと、再びパソコンとにらめっこを始めて、真剣に作業にとりかかり始めた。
しばらくの間日菜は大宮が残した資料などに目を通し始める。

カリンのマネージャーであった、細田朱莉の死が今回の花田瑠衣歌の失踪の1つのきっかけになっているとしたら、轢き逃げ犯と花田瑠衣歌を襲った人物が同じという可能性はないのだろうかと疑いがよぎった。
日菜は轢き逃げ事件の資料を一枚ずつ見ていく。

早朝5時。カリンを家まで迎えに行く交差点で事故が起きる。

朝早い時間ということもあり、目撃証言もほとんどなく、音を聞きつけて人が助けに入った時には犯人はすでに逃げていた。そして車は20キロほど離れた場所で乗り捨てられており、犯人の物的証拠も残っていない。