ーーー「やっぱり花田瑠衣歌は残してましたよ、その『愛の歌』ってやつ」
九条のその言葉に日菜と美奈子は「え?」と声を出す。九条は一台のスマホを日菜と美奈子の前に置いた。
そして美奈子の方をみる。
「何も分かってあげられないなんて、そんなことないです。あなたは宗馬くんを愛してる、それを彼は理解しています。そしてそれがここに詰まってます」
「なっ、何を…」
美奈子は理解できないといった顔で九条を見つめる。
九条の言葉をすぐに飲み込むことはできないが、意味を理解して救われたような、何とも言えないうずまく感情。耐えきれず顔をくしゃりと歪ませる。
自分はあのスーパーの時間だけは、宗馬から解放された気になっていた。何も気にせず、自分の買いたいものを買った。息子は大丈夫、公園にいる誰かがみてくれているのだから。
だが、息子を迎えにいくたびに罪悪感に苛まれるのだ。1人にさせてごめんね、何も理解できないでごめんね、大好きだからね。2度と1人にしないから、と。
「宗馬くんは上手く言葉を話せませんが、公園で出会った女の子が宗馬くんの代わりに『愛の歌』を完成させていました。おそらくあなたに聴かせるためでしょう」
「九条さん、それって」
日菜がおそるおそる九条に問う。
九条はゆっくり頷いた。
「花田瑠衣歌の歌声がここに入ってる」
日菜は画面に表示されているフォルダ名を視界に入れた。『愛の歌』と『パンの歌』、愛の歌はおそらく花田瑠衣歌がSNSに示していたものだろう。もう一つのパンの歌というのがよく分からない。
「曲を聴く前にお母さん、宗馬くんの身近に花田瑠衣歌以外で音楽に詳しい人物はいますか、もしくは物理などに詳しい人でもかまいません」
「音楽に詳しい人、ああ、夫が…宗馬の父が大学時代音響工学を勉強していたと話してました」
美奈子は「それが何か」と不安げに九条を見上げた。
九条はすべてに納得したように頷く。
「宗馬くんが口に出していた数字は、周波数です」
「周波数?」と日菜と美奈子は首を傾げた。
なんとなくきいたことはあるもののそれが何かと言われれば答えることは難しい。
九条は日菜の横の椅子に座り、もうすっかり冷めてしまった目の前のお茶を律儀に「いただきます」と一口飲んだ。
そしてわざとらしく音をたててテーブルの上に置く。
日菜も美奈子も何事かと身構えたが、その音に誰よりもはやく反応したのは日菜たちがいる部屋より少し離れた場所で畳の床に座り1人で遊んでいた宗馬であった。
「466164」
宗馬は日菜たちがいる方にそう言ってすぐに顔を逸らして床に転がっていた車のおもちゃを手のひらにさせてまた1人で遊びはじめた。
九条は親指を宗馬の方に向ける。
「あれ、おそらく今出した音の周波数です」
「なぜそんなことが分かるのでしょう、あの子そんなこと誰に」
「おそらくお父さんの影響じゃないですか、直接教えたかもしくは奥の部屋に置いてある音響工学の本などを読んでいた可能性があります。
通常絶対音感は聞こえた音を『ドレミファソラシド』の音階に当てはめられますが宗馬くんはそれが周波数に変換されている」
「そう、そうなのね、周波数を言っていたのね宗馬は。そんな難しいことできたの宗馬って」
「宗馬くんのような子は、1つのことを突き詰められるすごい才能がありますから」
九条の言葉に美奈子の顔が少し安堵に変わった。何も分からなかった息子のことが少しずつ理解できていくことが安心に繋がっていく。愛おしそうに宗馬の方を見てほっと息をはいた美奈子。
日菜は分かっていく真実に少しの安心を覚えたが、花田瑠衣歌自身のことについての情報不足が腑に落ちず九条の方に目を向けた。
「花田瑠衣歌は、それに気づいていたのでしょうか」
「ああ、おそらくな。このアプリを開くのにも周波数を打ち込まないと開けない仕組みになっていた」
「なるほど…でもなんで花田瑠衣歌はこれを残しているんでしょう。なぜSNSの投稿をして、それを九条さんに教える必要があったんでしょうか」
まさか花田瑠衣歌がこの親子を救うために失踪したとでも言うのだろうか。
「さあな」
「さあなって…」
そんな無責任な。と日菜が言う前に九条は立ち上がった。
「では、帰ります」
「え」
日菜は目を見開く。帰るってなぜ。
愛の歌とパンの歌をここで聴かなければ真実が分からないのではないか。先ほど九条は1人で聴いているのだろう、そんなのあんまりである。
日菜は不服そうに九条の腕を掴む。
「ちょっと九条さん」
「大丈夫だ、俺のスマホに転送してるから俺たちは俺たちで後で聴く」
「でも」
「愛の歌は、宗馬くんから母親へ向けた曲だ。ここで俺たちと聴くと母親の聴き方が変わってくる。この曲は事件の証拠として扱われるべきじゃない」
「…聴き方って、そんなの」
どこで聴いたって、その曲はメロディも歌詞も変わらないではないか。と日菜は言いかけて口をつぐんだ。いや、それは違う。
それは日菜自身も分かっていた。一緒に聴く人や環境、自身の感情によって音楽の捉え方も変わってくる。九条の言っていることは納得せざるを得ない。
日菜はおずおずと立ち上がって美奈子に「ご協力ありがとうございました」と頭を下げる。
「こちらこそ、ありがとうございます。えっと、花田瑠衣歌さんのこと、たいして協力もできずに申し訳ありません」
「そんなことないですよ」
九条は営業スマイルを貼り付けてそう言った。
「彼女は真実を歌っています。おそらくこの曲たちを俺たちに見つけさせるために宗馬くんのスマホに入れたのかも。また何かありましたらご連絡ください」
九条が1枚の名刺を美奈子に差し出した。『音楽療法士、九条凪』
日菜は慌てて自分の連絡先が書いた紙をその上から美奈子に差し出す。
「こちらにご連絡ください」
「んだよ、俺は事件のために渡してるんじゃない、宗馬くんの力になりたいから渡してるんだ」
「私だってそうです」
「ふふ、ありがとうございます。何かありましたらご連絡いたします」
美奈子は初めて2人の前で笑顔を見せて連絡先を受け取ったあと大事そうに宗馬のスマホを握りしめた。
まるでそこに宝物が眠っているかのように。
言葉をうまく話せなくとも、伝わる愛がある。



