「宗馬の母の相場美奈子です」
家に帰ってくれば少し落ち着いた様子の美奈子はそう自己紹介をして日菜の前にお茶を差し出す。
九条は日菜の横には座っていないため、空席の前にお茶が置かれた。美奈子は日菜の正面に座りながら奥の部屋で宗馬と何やら遊んでいるようにも見える九条をチラリとみる。
「あの方は」
「音楽療法士の九条凪さんです」
「音楽療法士…」
気になる様子で2人を伺う美奈子に、日菜は苦笑いを浮かべる。美奈子からすればなぜこの状況で音楽療法士がここに来ているのかさっぱり分からないのだろう。
そして九条は美奈子に説明することもなく、宗馬の前に座り楽器を並べていた。せめて自己紹介くらい自分の口ですればいいものを、と日菜は呆れたように息を吐いて美奈子に向き直った。
「行方不明になっている花田瑠衣歌さんなのですが、行方不明になる前にSNSにこんな投稿をしていまして」
日菜は美奈子の前にスマホを置いた。美奈子はたどたどしくそれを口に出して読む。
「ソドシラ、扉が開いたら、愛の歌、また小さな公園で歌おう」
「最初の『ソドシラ』とは美奈子さんがよく行っている『いろはと』のことだと仮定します」
「えっと…」
なぜ?と美奈子は疑問をぶつけるように日菜を見る。
日菜は自らのメモ帳とペンを取り出し、「ドレミファソラシド」とその下に「ハニホヘトイロハ」と書いた。そしてそれを美奈子に見せる。
「通常我々がよく聞く音階はこの『ドレミファソラシド』ですが、日本語音階にすると『ハニホヘトイロハ』となります」
「へえ、でもそうなると、読み方は『とはろい』になりませんか」
日菜の文字を人差し指でなぞりながらそう言った美奈子に日菜は小さく頷く。
「これはなぜか分からないのですが、花田さんがわざとそうしたのだと思っています。安易にバレないようにするためだったのか、スーパーの裏口側の文字を読んだのか…」
「なるほど、で『愛の歌』っていうのは」
「あのスーパーでは表の出入り口からも裏の出入り口からもスピーカーがついていて、ずっと曲が流れています。
以前、九条さんがいろはとでずっと流れている曲をスマホの鍵盤アプリで簡単に弾いたんですが、その時に宗馬くんが『あいのうた』と言っていました」
「あいの、うた」
美奈子は宗馬を見た。九条が奏でる音色ききまた数字を言いながら体を揺らしている。
美奈子は両手で顔を覆った。
「やっぱり、分かりません」
「美奈子さん…」
「あの子がその花田さんを見つける重要なことを理解していたとしても、私にそれを伝えることができないと思います。
私はダメな母親だから…」
よほど追い詰められているのだろう。美奈子は鼻を啜って以前よりもくまがひどくなっている目元を拭いながら日菜の方をみた。
日菜はなんと言ったらいいのか分からなかった。「そんなことはないです」そんな軽々しく、無神経なことは言えない。ここまでどうやって生きてきたのか過程もしらなければ、自分は子供育てたこともなく、母親への同情はできるものの共感はできないかもしれないからだ。
硬い硬い扉の前でただ手を添えて立っている。
いつもそうやって立ち向かおうとして、踏み出そうとしているところで足を止めてしまう。
その人の本心を知るのがこわくなるから。
日菜が言葉を詰まらせていた時である。
いつのまにか、立ち上がって日菜と美奈子の方を向いていた九条が口開いた。
「やっぱり花田瑠衣歌は残してましたよ、その『愛の歌』ってやつ」



