たばこをベンチのすぐ横にある灰皿スタンドに押しつけて九条は「よお」と日菜に声をかける。
日菜が来たことにたいしてさほど驚いてもいない様子だった。
「九条さんがなぜここに?」
「まあ、そこそこ近所だし」
以前日菜が話を聞きに行った仕事場はここから近い距離ではない。九条の家からそのまま出てきましたといわんばかりの風貌からここは九条自身の家から近いということになる。
そこで日菜ははっとする。
ーーー『ソドシラ、扉が開いたら、愛の歌、また小さな公園で歌おう』
まさか、ヒルイと九条は。
「まて、違う、なんか変な想像してるだろお前。大外れ推理繰り出すなよ頼むから」
早口で捲し立てるようにそう言った九条が手のひらを日菜の方に向ける。日菜の『大外れ推理』は言葉として吐き出されることはなかった。
そのかわり、「じゃあなぜ」と控えめな声がそこに響く。
「花田瑠衣歌が残したあの投稿、気になって色々調べた」
「え」
「音楽療法士としてではなく、俺個人として気になったからだ」
ーーー『言ったろ、俺はただの音楽療法士だ。それ以上でも以下でもない。彼女の心の状態は気になっても、素性を探ろうなんて思っていないし、どうだっていいんだ』
日菜は以前の九条の言葉を思い出す。あの時は薄情なものだと思った。ヒルイはなぜこんなところに救いを求めていたのかと。
だがあの言葉は『音楽療法士』としての言葉で、九条自身は何か違う気持ちを抱えていたのかもしれない。
加えて、あの時は日菜の隠すことのない疑いの目もあった。
「まあ座れよ」
九条はベンチの端に少し身体をずらしてもう1人分座れるくらいのスペースをつくった。
日菜はもう遅いのは分かっていたが、スーパーの袋を背中に隠しつつ九条の隣に座る。
「なんだか、以前お会いした時と雰囲気が違いますね」
「まあ、今日休みだし。そっちこそ前よりなんか、こう、小綺麗だな」
「こぎれいって…私も今日お休みだったんです、友達と会ってきた帰りで」
「へえ。持ってるもんはかわいくねえけど」
九条が軽く笑って日菜の背中に視線を向ける。
ベンチと背中に挟まっている袋の中でビールの缶が2つぶつかった。
「1本、いりますか」
「え、まじ?ラッキー、ありがとう」
少年のような笑みを浮かべた九条。日菜は困惑を表に出さないように堪えた。あの時とのイメージがまるで違う。もっと真面目そうで堅苦しくて、つっけんどんな感じがしていた。今はプライベートということもあってこっちが素なのだろう。
そんなことを考えながら日菜はビールを1缶九条に差し出す。
九条は受け取って早々にそれをあける。日菜は忘れていた。スーパーからここまで全力で走ってきていた。
「うわっ、最悪」
ビールは案の定溢れ出てきたため、九条が慌てたように立ち上がる。しかし、もったいないのか缶の飲み口にすぐに口を添えた。その姿がなんとも滑稽で日菜は思わず口元に手をあてる。
「なんか拭くもんない?たばことスマホ以外持ってなくて」
「すみません、これどうぞ」
と、日菜は鞄から取り出したハンカチを九条に差し出した。九条は受け取ると自分の手や腕を拭いて「洗って返す」とポケットにそれを突っ込んだ。
「いえ、大丈夫ですよ」とは日菜は言わなかった。九条がやはりヒルイについて何か知っていると思ったからだ。ハンカチを返すタイミングは仕事上の中でも可能。情報がつかめればなんでもいい。
日菜は自分のビールの缶を開けないまま袋に戻した。
九条は日菜の隣に座りなおし、一口ビールを飲んだあとふうっと息を吐く。
「よく気づいたな」
「え?」
「あれ」
九条が指を差した先にあるのは、先ほど日菜がビールを買ったスーパー。
「『いろはと』反対に読んで『とはろい』そんで、イタリア音階読みにすると、『ソドシラ』になる」
日菜は知っていた。日本語での音階はドから『ハニホヘトイロハ』となる。裏出口に書いてあった『とはろい』は九条の言うとおり『ソドシラ』である。
「それだけだと、ヒルイがここに来ていたという証拠にはなりませんが…」
「それだけじゃないだろ、『扉が開いたら、愛の歌』は、あのスーパーの入り口でけたたましくなってる音楽、『小さな公園』もここで当てはまる」
九条はいつから気づき、いつからここにいたのだろうか。日菜はスーパーの入り口から溢れでる音楽を耳にいれながらその疑問をぶつけようとした。
その時だった。
先ほどの日菜と同じように走って公園に入ってきたのは、1人の少年であった。
そして丸い砂場の周りを走り始める。
「来たか」
九条は小さな声でそう呟いた。
「ルイがいません、ルイがいません、いません、いません、いません」
少年がそう言いながら砂場の周りをぐるぐると走り続ける。何が起こっているのか理解ができず日菜はただその少年を見つめた。
その横で九条が立ち上がり、少年を視界に入れたまま口を開いた。



