制服に着替え、学校に行く準備をする。一日遅れの登校だ。
母からは「もう大丈夫なの?」と聞かれ「大丈夫」と答えたが、正直、学校には行きたくはない。
でもやらなければいけないことある。蒼空の未練を叶えるという人生最大のミッションだ。
家を出てから学校に着くまでの間、昨日の夜の出来事を思い返していた。
――雪乃の恋を叶えてほしい
最初は理解できなかった。富田雪乃は蒼空の好きな人で、なぜその人の恋を応援しているのか? 脳内でこんがらがる糸を解いていると、
「高校は違うんだけど雪乃には幼馴染がいて、その人のことが好きらしいんだ。相手も雪乃のことが好きで、告白もされてる」
解決した。何もせずとも恋が実っている。私は何をすればいいのだろう?
「でも雪乃は、その返事を返せていない。本当は付き合いたいんだけど、あと一歩が踏み出せない。だから雪乃の背中を押してほしい」
富田雪乃という完璧な存在に対し、教室の隅で息をする私では何の力にもならない。
「富田雪乃は何で付き合えないの?」
容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群、聖人君主、あらゆる肩書きを持った人間がなぜ一歩踏み出せないのか? しかも相手は告白もしてきている。
「俺も理由は分からない。相談されていたけど、根本にあるものまでは言ってこなかった。きっとそこに踏み出せない理由があるんだと思う。雪乃は言いたいけど言えないって感じだったから、俺も無理には聞かなかった。それを千星にお願いしたい」
蒼空は片思いの相手から恋の相談を受けていた。雑貨屋で言った「きっと叶わないから」はそう言う意味だったのか。
「あの日のことがあるから、他の人と話せないのは分かる。でも……やってほしい。千星にしか頼めない」
正直自信はない。蒼空の言う通り、他の人とまともに話せない。あの出来事から他人と関わることが怖くなってしまった。
――うざい
この言葉が今も耳に張り付いて離れない。だが、蒼空の命を間接的に奪ってしまった私が断るなんてもってのほかだ。もってのほかだか……
「私には無理だよ。背中を押すどころか、話すこともできないと思う。だって、五年もまともに話してないんだよ? 絶対出来っこない」
こんな言い方よくないのに、つい感情が先走ってしまった。人と関わりたくないということに加え、蒼空の『好きな相手』という肩書きが理性を押し潰す。
「これからは自分で自分のことを支えないといけない。過去についた傷は、今という時間の中で向き合う必要がある。今の先に未来があるから。それに俺はもう……そばにいれない」
蒼空は突き放すように言った。声に決意のようなものを感じる。
「分かってる。このままじゃいけないっていうのは。臆病な自分も大っ嫌いだし、変わりたいとも思ってる。だけどもう傷を作りたくない。あの日みたいなことはもう嫌なの。逃げるのはダメなこと? なんで辛くなると分かってるのに、自分から足を踏み入れないといけないの」
自分のバカ。何でこんな言い方するんだよ。蒼空はずっと私の味方でいてくれたのに、当たり散らすなよ。
「千星」
蒼空は真っ直ぐな目で私を見てきた。
「過去から目を背けることはダメじゃない。でも、人はいつか変わらないといけない。あの日の出来事は、簡単に払拭できるものではないけど、自分自身と向き合う日は必ず来る。そのときに逃げたら、一生自分を好きになれないよ」
あの日にできた傷が痛みを帯びる。
自分でも分かっている。でも怖くて逃げ続けた。
日常の中で孤独という傷を作っては、蒼空という居場所で傷を癒やした。
でも今は自分で傷を治さなければいけない。過去に背を向けてきたぶん、たった一歩進むことも、ものすごく大きく感じるようになった。忘れられない言葉が足枷となり、呪いのように纏わりつく。それを祓うのは……
「難しいことだけど、やってほしい」
蒼空は先ほどどは変わって、優しい目で私に投げかけた。
「勇気って、前を向こうとした人だけが掴めるものだよ」
これから進む険しい冒険のための、地図を渡されたようだった。人生という道で迷ったとき、過去に縛られて自分を見失ったとき、そんな場面で道しるべになるような言葉だった。
「でも、他人との向き合い方が分からない」
五年間、人を避けてきた私にとって、他人とは未知の生物だ。ただ話すだけでも、そこら辺のRPGより難しい。
「人と人との間には見えないフィルターがある。権威や権力などの立ち場的なものだったり、自分がその人を好きか嫌いかの好み、過去から来るトラウマ的なもの。千星はあの日の出来事で人の見かたが変わり、それがフィルターになった。だから自分の中の認識を変えないといけない。今必要なのは、人に触れて考え方の幅を持たせることだと思う。だから富田雪乃という人間を知ろうとしてほしい。学べることがたくさんあるから。それに、ずっと苦しんできた千星なら、誰よりも人に寄り添うことができる」
拠り所を求めていた私が、誰かの拠り所にならないといけない。しかも好きな人が好きな人の。
それは辛いことではあったが、蒼空のためならやるしかないと思った。あのとき私が逃げ出さなければ、蒼空は今も……
「分かった。でもできるかな? 私に」
自信がないから、もう一つ言葉が欲しかった。躊躇したとき、前に進むための言葉が。
「できるよ。千星なら」
蒼空はなんの迷いもなく答えた。シンプルな言葉だが、好きな人に言われると『私ならやれる』と思えてしまう。
私は目を瞑り、大きく息を吸う。そして吸った以上の息を吐いてから蒼空を真っ直ぐと見つめた。
「やってみる。自分のためにも」
「ありがとう」
いつものように優しく笑ってくれた。
すべてを受け止めてくれるようなその笑顔は、私の支えとなっていた。
だけどもう蒼空に助けは求められない。自分で自分を支えないといけない。未来に道をつくるために過去を払拭する。たとえ過去の傷に痛みを帯びても背中は向けない。
それは自分のためでもあったが、一番は蒼空に笑ってほしかったからだ。
「もう一つの未練は?」
「一気に言ったら負担になるから、まずは雪乃の背中を押してほしい。それが叶えられたら、二つ目を話す」
「分かった」
富田雪乃のことが好きなのかも聞こうとしたが、やっぱりやめた。
今までと同じ距離で四週間を終えたい。その名前を蒼空の口から聞けば取り繕ってしまいそうだった。
余った時間で軽い雑談といつもの冗談を言い合い合ってると、時間になる一分前に結衣さんが来て、目の前でカウントを始めた。
あとで聞いたら、「本当はそんなことしないけど、お別れのキスとかされたらムカつくから見張ってた」らしい。
次はしないでとお願いすると、不貞腐れながら「分かった」と呟いた。
最後に蒼空とした「またね」が嬉しかった。
家の前でするいつもの感じが懐かしかったし、また会えるんだと分かったことで安心できたから。次に会えるのは一週間後だ。
列車に乗ると、結衣さんは運転席に行かず私の隣に座った。指を鳴らすとドアは閉まり、列車も動き出した。
「運転は?」
懐中時計を返したあとに、そう聞いた。
「自動で動く」
「来たときは?」
「この人こんな綺麗なのに運転もできてすごい! ってなるじゃん。だから、運転してる風を醸し出した」
別に思わない。
「あっ、眩しくなるから目瞑ってな」
結衣さんがそう言うと、強い光が窓から差し込んできて列車内を覆い尽くす。
私は両手で目を覆い、光を遮断した。
「もういいよ」
その声でゆっくりと目を開くと、窓の外には星空が映っていた。
「それでどうだった? 久しぶりにあった感想は」
光のせいで目がシュパシュパしたので、何度か瞬きを繰り返したあと答えた。
「嬉しかったです。ずっと会いたかったから。理想を言えば毎日会いたい」
結衣さんは「そうだね」と小さく零したあと、話を続けた。
「四回しか会えないのは私が決めたの。死んだ人を思い続ければ、現世の人間は縛られ続ける。そしたら新たに未練を作ることになるでしょ? だから回数も決めて、会える時間も制限した。人って余裕があると先延ばしにして、言いたいことを言えなくなる。でも決められていれば、何を伝えるか、何を言わなければいけないのか、本当に大事なことだけ選択できる。一週間空くのは、考える時間でもあるの。一時間しか会えないのも同じ理由」
私はずっと先延ばしにしてきた。言いたいことを言えないまま。
「蒼空くんからルールは聞いた?」
「はい」
「とりあえず、もう一回言うわ」
結衣さんはルールの説明を始めた。さっき蒼空が言っていたことと一緒だが、一つだけ気になっていたことがある。
「何で会えるのは私だけなんですか?」
「たまにね、期限を過ぎても会えると思い込んで、ずっと列車を待っている人がいるの。だから一人だけにした。未練を叶えるために呼んだのに、その人が未練を作ってたら意味ないでしょ? そういう場合は流星の駅での記憶を消すの。胸糞悪いからやりたくないんだけど、それしかない」
「記憶を消せるんですか?」
「できるよ。でも流星の駅に関する記憶だけ。だから四週間後には会えなくなるっていうのは覚悟しといてね。私との記憶が消えるのは嫌でしょ?」
普通、蒼空の方だろ。
「他の人にこのことを言っても記憶を消す。さらに言えば、喋ったことを後悔するくらいの苦痛を与えるから、気をつけてね」
気をつけてねの『ね』の後ろにハートマークが付いていた。語尾と言ってることの内容に整合性がない。
「はい。おっしゃる通りにします」
怖いから、丁寧に約束した。
「本当にかわいいね、千星ちゃんは」と、髪の毛をクシャクシャにされながら頭を撫でられた。
さんざん掻き回したあと、結衣さんは真剣な顔つきになる。
「伝えたいことがあるなら、ちゃんと伝えないとダメだよ。未練は呪いにもなるけど、成長の種でもあるから」
意味は分からなかったが、とりあえず頷いた。
岬公園に着き、「じゃあ来週の今日、また同じ時間にくるから」と言って、結衣さんは空に帰っていった。
家に着いても眠れず、星を見ながら今日を迎えた。
そして今、憂鬱な気持ちで学校に向かっている。
こっちの世界に蒼空はいない。今の私は結び目が解かれた状況だ。
そのうえ、富田雪乃の恋も応援しないといけない。
校門に足を踏み入れたとき変な緊張があった。入学初日みたいなソワソワとした胸騒ぎに近い。
あのときは隣に蒼空がいたが今日は一人だ。
二年近く通った学校が、まるで初めて来る場所に思える。
それほど奥村蒼空という人物が自分の世界で色を作っていたということだ。
教室に入ると、いつもより少し重たい空気が漂っていた。それは現実世界で蒼空が亡くなったことを実感させる。
蒼空は学年の中心にいて、みんなから慕われていたように思う。そんな人が急に足跡を消せば消失感は否めない。桜の咲かない春を迎えたようだった。
いつもなら教室の中央は人が賑わってる。蒼空の席を囲むように笑い合っていた場所も今は空虚が佇む。
廊下側に富田雪乃の姿も見えた。その背中に哀愁を感じる。
周りに人が集まっているが、自分の居場所を探して来ているというより、ぽっかり空いた穴を埋めるために、富田雪乃のそばに来たと見受けられる。
蒼空は自分だけではなく、他の人にとっても大きな存在だったことがこの教室から感じとれた。
この空気に押しつぶされそうだったが、私には富田雪乃の恋を叶えるという約束がある。今はそれに集中しよう。
まずはどう話しかけるかを考えないといけない。最初の壁からものすごく高いが、それを越えないと先には進めない。
今日一日、富田雪乃を観察することにした。まずは人となりを知らなければいけない。
とりあえず彼女のことで私が知っている情報をまとめてみた。
成績は学年トップであり、バスケ部のキャプテン。蒼空と同じく学年の中心にいて慕われている。教師や同級生、先輩後輩からも信頼は厚い。周りの生徒が聖母と呼んでおり、性格は優しく明るいらしい。学級委員長を務めていて悔しいが美人。良い匂いがする。よく笑っているところを見る。モテる。
完璧すぎて心が折れた。領域展開ができ、写輪眼を開眼させ、念系統をすべて完璧に習得し、四十ヤードを四秒二で走り、亀有公園前の派出所に勤務しているようなものだ。私はこんな怪物と競い合っていたと思うと、鳥肌が背伸びする。
一限目の英語では彼女は完璧な発音で英語を話していた。
二限目の体育では二位の人に一周差をつけて校庭五周をゴール。
三限目は指数関数と対数関数を教科書よりも上手く説明。
四限目は自らの解釈を添えて古典を解説していた。
大人が理想とする高校生とはこういうことだろう。勉強ができて、運動もこなす。教科書通りの優秀な生徒だ。
私が担任の教師なら自慢したくなる。でも同い歳となれば別だ。富田雪乃が空を優雅に飛ぶ美しい白鳥だとすれば、私は地下で走り回るドブネズミのようなものだ。
ここまで格差があると嫉妬すら烏滸がましい。もう別の世界の生物に見えてきた。出身はたぶん暗黒大陸だろう。
こんな人が一歩進めない恋なんてあるのだろうか? 蒼空の言っていた根本にあるものって何なんだろう? 表面からは奥にあるものまでは見えない。やっぱりちゃんと話してみないと分からない。
昼休みになり、教室で弁当箱を開けた。
いつもならここでは絶対に昼食をとらないが、富田雪乃が同じクラスの女子二人と近くの席で食べていたため、耳をそばだてながら、ぼっちめしをすることにした。
「今度和也くんとデートすることになったんだけどさ、どんな服がいいと思う?」
コンビニで買ったであろうサンドイッチを頬張りながら、ひとりの子が言った。
「マジ! そこまでこぎつけたんだ」
もうひとりの子が言う。
「ちょー頑張った」
蒼空が亡くなったのにデートに浮かれやがって、と怒りが沸いたが、今は自分の感情を人に押し付けるのはやめよう。富田雪乃に集中すべきだ。
「裕子は甘めのコーデが多いから、そこにストリート要素を入れて、今っぽいカジュアルにすると良いんじゃないかな」
「なるほど、カジュアルっぽくか」
「たとえば、上下はモノトーンにして、スニーカーはソフトピンクのニュアンシーなカラーとかにすると、大人っぽさも出せると思う」
富田雪乃はファッションも押さえているのか。
「香水も変えようかと思ってるんだけどさ、何がいいと思う?」
「いつもと同じで良いんじゃない。街角でその香水の匂いがすると、その人を思い出すんだって。それをプルースト効果って言うみたい。今の匂いを嫌がってないんだったら、覚えてもらうって意味でも、同じでいいと思う」
そうだったのか。それを早く知っていれば、蒼空と会うときはファブリーズを振り撒いたのに。そうすれば部屋にいても私を思い出す。
「雪乃ってなんでも知ってるから本当に頼りになる。友達にいてくれて助かるわ」
「それな。私も恋愛のことは雪乃に頼りっぱなしだもん」
富田雪乃は恋愛上手でもあるのか。でも自分の恋は叶えられてない。相手からは告白もされていて、二つ返事で返せばいいだけ。相手側に何か不安要素があるということなのか。
「てかさ、なんで雪乃は彼氏作らないの? 秒で作れるっしょ」
「私もそれ思ってた。こんな可愛いのにもったいなよね」
ナイス。今、私が聞きたいのはそれだ。
「部活のこともあるし、今は恋愛って気分じゃないかな」
相手がどうこうじゃなく部活が理由か。キャプテンの責任もあるのかもしれない。でもそれなら、蒼空にそう言えばいい。
踏み出せない理由があり、それを言いたいけど言えなかった。きっとこれは本音じゃない。
「雪乃も恋したほうがいいよ。青春の半分は恋愛だから。マジ損してる」
「部活だけだと味気ないよね。女子高生って恋してなんぼだもんね」
なんだろう、この二人なんか苦手だ。理由は説明できないが、なんか苦手だ。鼻の中にスイカをぶち込んでやりたい。そこでスイカ割りをしたい。スイカパーティーを開催して、夜通しスイカを鼻にぶち込んでいたい。
「……そうだね。恋愛も大事だよね」
富田雪乃は笑ってはいるが、どこか悲しさを帯びた目が印象に残る。心の奥に閉まった何かが、一瞬だけ表に現れたように見えた。
放課後、体育館に来ていた。
女バスの顧問にお願いして、部活の見学をすることにしたからだ。
顧問には「プロリーグを見て興味を持ったので」と言って頼んだ。
私は邪魔にならないよう、体育館の隅で富田雪乃を観察する。
女バスは県大会でも上位に入る強豪だった。
去年の夏の大会では、もう少しで全国に手が届きそうだったが、惜しくも敗退してしまったらしい。
そして今は富田雪乃がキャプテンを務める。
私はバスケのことはまったく分からないが、彼女が上手いのだけは分かった。ドリブル、シュート、パス、どれをとっても周りと違う。
何が違うかは分からないが何かが違う。とりあえず、何かが違うことだけが分かるほど何かが違った。
率先して声掛けをし、後輩の指導も卒なくこなす。みんなが富田雪乃を頼りにしているのが空気感で伝わってくる。
こちらが吐き気を催すほどの練習が続いてるのにも関わらず、彼女は苦しそうな顔を一切見せない。みんな膝に手をついて肩で息をしているのに、一人だけ声を出して鼓舞している。
監督が一年生に厳しい言葉を投げかけたら、すぐさまその子のもとに行き激励する。漫画に出てくる理想のキャプテンそのものだった。
休憩が入り、なぜか私がホッとする。息をするのも忘れるくらいの練習内容で、こちらまで体に力が入っていた。
ひと息つくと、「藤沢さん」と声をかけられた。
前を見ると、ポニーテールを揺らしながら富田雪乃がこちらに向かって来る。再び体に力が入った。
何を話そうかと頭の中で話題になるものを探した。だが『ブラジルの首都はサンパウロではなくブラジリア』ということしか出てこない。
ブラジリア一本で勝負するのは無謀だ。これでは関ヶ原の戦いをマカロニ一本で戦うようなものではないか。
困惑している私をよそに、富田雪乃が隣に座った。
「バスケ興味あるの?」
なんでもない質問なのに、職質されてるような気分だ。
「テレビで見て」
目を伏せながら答えた。
「そうなんだ。もし何か聞きたいことがあったら言ってね。ルールが分からないと、見ててつまらないと思うから」
「うん」
これだけ厳しい練習の最中、他人のことに目を向けれるのはすごいと思った。
『お前邪魔なんだよ、小指の第二関節折られたくなかったら、はよ出て行かんかい。いてこますぞ』と言われたらどうしようかと考えてたが、彼女はそんなこと一切思っていなかったらしい。格の差を見せつけられた。
「藤沢さん、最後まで見て行く?」
「一応……」
「じゃあさ、終わったら一緒に帰らない?」
びっくりして相手の顔を二度見してしまった。その反応が面白かったのか、富田雪乃は笑みを浮かべている。恥ずかしくなり、再び目を伏せた。
「私ね、藤沢さんと話してみたかったの」
また二度見しそうになったがなんとか堪えた。
でもなんで私と話したいのだろう。理由が思いつかない。
「雪乃先輩、ポストプレイのことで聞きたいことがあって」
タオルで汗を拭いながら、一年生がやってきた。
富田雪乃は立ち上がり、私に視線を送る。
「もし一緒に帰ってくれるなら昇降口で待ってて」
そう言って、後輩とコートに戻っていった。
私と話してみたいと思ってる人がいることに驚いた。学校では蒼空以外の人をずっと避けてきたし、話しかけらても、一言、二言で会話を終わらせていた。だから一年生の夏前には、蒼空以外に話してかけてくる人はいなくなった。
一体何を話したいんだろう? なんで私なんかに興味を持ったのだろう? 何度も考えたが分からなかった。でもこれで彼女との接点が生まれる。とりあえず第一関門は突破だ。
私は富田雪乃と何を話そうかと考えながら、彼女の観察を続けた。
練習が終わり、顧問に挨拶したあと体育館を出た。
富田雪乃に声をかけようと思ったが、後輩に囲まれていたため、何も言わずに昇降口で待つことにした。
待っている間、ソワソワして歩き回った。結局何を話していいか分からないままだ。
他の人は何を話しているんだろう? 蒼空とはどんな話をしていたんだろう? 考えれば考えるほど緊張して頭が回らなくなる。
好きな人のことを聞きたいが、いきなりそんな話をするわけにもいかない。マッチングアプリで会う人は毎回こんな苦境に立たされているのだろうか。
私からしたら出会い系アプリではなく修行系アプリだ。初めて会う人間と話すことなんてない。
なさすぎて「最後にレーズンを食べたのはいつですか?」とか聞いちゃいそうだ。いや、そんなことはどうでもいい。とりあえずバスケの話は聞いておこう。好きな選手を聞いても分からないから、好きなドリブルを聞こう。いや、好きなドリブルって何だ。食べ物みたいに言うな。そうだ、好きな食べ物を聞こう。よし、一個増えたぞ。
「藤沢さんごめん。待たせちゃったね」
制服姿の富田雪乃が駆け足でやってきた。私はまだ心の準備ができていない。
「じゃあ帰ろうか」
「うん……」と聞こえるか、聞こえないかぐらいの声をこぼして、私たちは校舎を出た。
沈黙が降り積もる。
学校を出てから五分、会話が途切れた。
最初は富田雪乃がリードしてくれていた。「寒いよね」「バスケ見ててどうだった?」「休みの日は何してるの?」「進路ってもう決めてる?」など聞いてくれたが、私は「うん」「面白かった」「特に何も」「まだ決めてない」と、進行を遮断するような返答しかできず、会話は冬を迎えていた。
蒼空といるときは何も考えずに話すことができた。それは受け入れらているという絶対的な信頼があったから。
私がどういう人間かを知っていたし、蒼空がどういう人かも分かっていた。だから意味のないことも言えたし、沈黙だって怖くなかった。
――うざい
あの一言が他人との会話のブレーキになる。もしまた同じように思われたら……そう考えると無意識に会話を途切れさせてしまう。
もう五年も経つのに、未だに過去が手を離してくれない。多くの人はそんなこと忘れたらいいのにと言うだろう。私もそう思う。
でも一度ついた恐怖心は中々拭うことはできない。蒼空もそれを理解してくれていた。
だけど、このままではダメだということも言っていた。自分でも分かってる。分かってるけど、その一歩が踏み出せない。
臆病すぎて自分で自分を嫌悪する。
「蒼空がね、よく藤沢さんの話をしてたの」
沈黙に足跡をつけるように、富田雪乃が言葉を発した。
「二人で話してるときも、必ずと言っていいほど藤沢さんの名前が出てくる。だからどんな人なんだろうって思ってた」
「蒼空は私のことなんて言ってたの?」
シンプルに気になる。
「藤沢さんがどんな本を読んで、どんな音楽を聞いてるのか。あとは……昨日はこういう会話をしたとか、ツンデレをしたいけど下手なこととか」
最後のは余計だ。でも他人との会話で私の名前を出してたのは初めて知った。
「色々聞いてるうちに、私と似てるのかもって思った」
全然似てない。むしろ正反対だ。鎧を身につけたおじいちゃんと、おじいちゃんを身につけた鎧くらい違う。
「だから藤沢さんとなら、話せそうだなって」
富田雪乃は夜空を眺めながら白い息を吐いた。どこか憂いた目をしながら。
「私との共通点は人間ていうところだけで、あとは比較にもならない。みんなから慕われてないし、勉強も普通だし、運動もたいしてできないし、優しさなんて一ミリも持ちあわせてないし、誰かの相談なんて乗れないし、綺麗でもない。私なんて道端のごみと同じようなものだから」
自分で言って悲しくなった。ここまで卑下する必要はない。でも相手が富田雪乃なら実際の私はこれくらいの存在だ。
「全部作り物だよ。私はそんな自分が嫌い」
吐き捨てるように言った言葉にどんな意味があるかは分からなかったが、その言葉に富田雪乃という人間の本心が隠れているような気がした。蒼空も開けなかった扉の鍵がそこにある。なんだかそう感じた。
「なんてね。そうだ、この間ね……」
誤魔化すように笑ってバスケ部の話を始めた。
何かを取り繕うように饒舌になる彼女は、自分で吐き捨てた言葉を、自分の言葉で埋めているようだった。
富田雪乃の家とは反対方向だったので、私たちは駅のホームで別れた。
「また明日ね」と笑顔で手を振る彼女に、私も小さく手を振る。
今日は少しだけ進展した気がする。まったく接点のないところから、一緒に帰るというところまで近づけた。でもほとんど話せなかった。
好きな人のことを聞き出さなくてはいけないのに、このペースでは一生聞き出せない。
蒼空との約束には期限がある。その間に必ず叶えたい。そのためにはもう少し関係を築かなければ。
でも他人と深く関わるには、過去と向き合わないといけない。新しい傷を作らないように生きてきた私にとって、逃げることは自分を守るためでもあった。
ただでさえ過去の傷が残ってるのに、これ以上傷を増やしても苦しくなるだけだ。なら痛みを伴いながら進むより、立ち止まって過去の傷を眺めながら生きるほうが楽。
いつからかそう思っていたのかもしれない。
変わらなきゃいけないときは必ず来る。
それは自分でも分かっていた。きっと蒼空も。だから私を選んだのかもしれない。新しく世界との結び目を作るために。
――勇気って、前を向こうとした人だけが掴めるものだよ。
蒼空の言葉が頭をよぎる。
ずっと過去に背中を見せてきた。振り向くときが来たのかもしれない。
明日、自分から声をかけてみよう。ほんの少しでも前を向けるように。
母からは「もう大丈夫なの?」と聞かれ「大丈夫」と答えたが、正直、学校には行きたくはない。
でもやらなければいけないことある。蒼空の未練を叶えるという人生最大のミッションだ。
家を出てから学校に着くまでの間、昨日の夜の出来事を思い返していた。
――雪乃の恋を叶えてほしい
最初は理解できなかった。富田雪乃は蒼空の好きな人で、なぜその人の恋を応援しているのか? 脳内でこんがらがる糸を解いていると、
「高校は違うんだけど雪乃には幼馴染がいて、その人のことが好きらしいんだ。相手も雪乃のことが好きで、告白もされてる」
解決した。何もせずとも恋が実っている。私は何をすればいいのだろう?
「でも雪乃は、その返事を返せていない。本当は付き合いたいんだけど、あと一歩が踏み出せない。だから雪乃の背中を押してほしい」
富田雪乃という完璧な存在に対し、教室の隅で息をする私では何の力にもならない。
「富田雪乃は何で付き合えないの?」
容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群、聖人君主、あらゆる肩書きを持った人間がなぜ一歩踏み出せないのか? しかも相手は告白もしてきている。
「俺も理由は分からない。相談されていたけど、根本にあるものまでは言ってこなかった。きっとそこに踏み出せない理由があるんだと思う。雪乃は言いたいけど言えないって感じだったから、俺も無理には聞かなかった。それを千星にお願いしたい」
蒼空は片思いの相手から恋の相談を受けていた。雑貨屋で言った「きっと叶わないから」はそう言う意味だったのか。
「あの日のことがあるから、他の人と話せないのは分かる。でも……やってほしい。千星にしか頼めない」
正直自信はない。蒼空の言う通り、他の人とまともに話せない。あの出来事から他人と関わることが怖くなってしまった。
――うざい
この言葉が今も耳に張り付いて離れない。だが、蒼空の命を間接的に奪ってしまった私が断るなんてもってのほかだ。もってのほかだか……
「私には無理だよ。背中を押すどころか、話すこともできないと思う。だって、五年もまともに話してないんだよ? 絶対出来っこない」
こんな言い方よくないのに、つい感情が先走ってしまった。人と関わりたくないということに加え、蒼空の『好きな相手』という肩書きが理性を押し潰す。
「これからは自分で自分のことを支えないといけない。過去についた傷は、今という時間の中で向き合う必要がある。今の先に未来があるから。それに俺はもう……そばにいれない」
蒼空は突き放すように言った。声に決意のようなものを感じる。
「分かってる。このままじゃいけないっていうのは。臆病な自分も大っ嫌いだし、変わりたいとも思ってる。だけどもう傷を作りたくない。あの日みたいなことはもう嫌なの。逃げるのはダメなこと? なんで辛くなると分かってるのに、自分から足を踏み入れないといけないの」
自分のバカ。何でこんな言い方するんだよ。蒼空はずっと私の味方でいてくれたのに、当たり散らすなよ。
「千星」
蒼空は真っ直ぐな目で私を見てきた。
「過去から目を背けることはダメじゃない。でも、人はいつか変わらないといけない。あの日の出来事は、簡単に払拭できるものではないけど、自分自身と向き合う日は必ず来る。そのときに逃げたら、一生自分を好きになれないよ」
あの日にできた傷が痛みを帯びる。
自分でも分かっている。でも怖くて逃げ続けた。
日常の中で孤独という傷を作っては、蒼空という居場所で傷を癒やした。
でも今は自分で傷を治さなければいけない。過去に背を向けてきたぶん、たった一歩進むことも、ものすごく大きく感じるようになった。忘れられない言葉が足枷となり、呪いのように纏わりつく。それを祓うのは……
「難しいことだけど、やってほしい」
蒼空は先ほどどは変わって、優しい目で私に投げかけた。
「勇気って、前を向こうとした人だけが掴めるものだよ」
これから進む険しい冒険のための、地図を渡されたようだった。人生という道で迷ったとき、過去に縛られて自分を見失ったとき、そんな場面で道しるべになるような言葉だった。
「でも、他人との向き合い方が分からない」
五年間、人を避けてきた私にとって、他人とは未知の生物だ。ただ話すだけでも、そこら辺のRPGより難しい。
「人と人との間には見えないフィルターがある。権威や権力などの立ち場的なものだったり、自分がその人を好きか嫌いかの好み、過去から来るトラウマ的なもの。千星はあの日の出来事で人の見かたが変わり、それがフィルターになった。だから自分の中の認識を変えないといけない。今必要なのは、人に触れて考え方の幅を持たせることだと思う。だから富田雪乃という人間を知ろうとしてほしい。学べることがたくさんあるから。それに、ずっと苦しんできた千星なら、誰よりも人に寄り添うことができる」
拠り所を求めていた私が、誰かの拠り所にならないといけない。しかも好きな人が好きな人の。
それは辛いことではあったが、蒼空のためならやるしかないと思った。あのとき私が逃げ出さなければ、蒼空は今も……
「分かった。でもできるかな? 私に」
自信がないから、もう一つ言葉が欲しかった。躊躇したとき、前に進むための言葉が。
「できるよ。千星なら」
蒼空はなんの迷いもなく答えた。シンプルな言葉だが、好きな人に言われると『私ならやれる』と思えてしまう。
私は目を瞑り、大きく息を吸う。そして吸った以上の息を吐いてから蒼空を真っ直ぐと見つめた。
「やってみる。自分のためにも」
「ありがとう」
いつものように優しく笑ってくれた。
すべてを受け止めてくれるようなその笑顔は、私の支えとなっていた。
だけどもう蒼空に助けは求められない。自分で自分を支えないといけない。未来に道をつくるために過去を払拭する。たとえ過去の傷に痛みを帯びても背中は向けない。
それは自分のためでもあったが、一番は蒼空に笑ってほしかったからだ。
「もう一つの未練は?」
「一気に言ったら負担になるから、まずは雪乃の背中を押してほしい。それが叶えられたら、二つ目を話す」
「分かった」
富田雪乃のことが好きなのかも聞こうとしたが、やっぱりやめた。
今までと同じ距離で四週間を終えたい。その名前を蒼空の口から聞けば取り繕ってしまいそうだった。
余った時間で軽い雑談といつもの冗談を言い合い合ってると、時間になる一分前に結衣さんが来て、目の前でカウントを始めた。
あとで聞いたら、「本当はそんなことしないけど、お別れのキスとかされたらムカつくから見張ってた」らしい。
次はしないでとお願いすると、不貞腐れながら「分かった」と呟いた。
最後に蒼空とした「またね」が嬉しかった。
家の前でするいつもの感じが懐かしかったし、また会えるんだと分かったことで安心できたから。次に会えるのは一週間後だ。
列車に乗ると、結衣さんは運転席に行かず私の隣に座った。指を鳴らすとドアは閉まり、列車も動き出した。
「運転は?」
懐中時計を返したあとに、そう聞いた。
「自動で動く」
「来たときは?」
「この人こんな綺麗なのに運転もできてすごい! ってなるじゃん。だから、運転してる風を醸し出した」
別に思わない。
「あっ、眩しくなるから目瞑ってな」
結衣さんがそう言うと、強い光が窓から差し込んできて列車内を覆い尽くす。
私は両手で目を覆い、光を遮断した。
「もういいよ」
その声でゆっくりと目を開くと、窓の外には星空が映っていた。
「それでどうだった? 久しぶりにあった感想は」
光のせいで目がシュパシュパしたので、何度か瞬きを繰り返したあと答えた。
「嬉しかったです。ずっと会いたかったから。理想を言えば毎日会いたい」
結衣さんは「そうだね」と小さく零したあと、話を続けた。
「四回しか会えないのは私が決めたの。死んだ人を思い続ければ、現世の人間は縛られ続ける。そしたら新たに未練を作ることになるでしょ? だから回数も決めて、会える時間も制限した。人って余裕があると先延ばしにして、言いたいことを言えなくなる。でも決められていれば、何を伝えるか、何を言わなければいけないのか、本当に大事なことだけ選択できる。一週間空くのは、考える時間でもあるの。一時間しか会えないのも同じ理由」
私はずっと先延ばしにしてきた。言いたいことを言えないまま。
「蒼空くんからルールは聞いた?」
「はい」
「とりあえず、もう一回言うわ」
結衣さんはルールの説明を始めた。さっき蒼空が言っていたことと一緒だが、一つだけ気になっていたことがある。
「何で会えるのは私だけなんですか?」
「たまにね、期限を過ぎても会えると思い込んで、ずっと列車を待っている人がいるの。だから一人だけにした。未練を叶えるために呼んだのに、その人が未練を作ってたら意味ないでしょ? そういう場合は流星の駅での記憶を消すの。胸糞悪いからやりたくないんだけど、それしかない」
「記憶を消せるんですか?」
「できるよ。でも流星の駅に関する記憶だけ。だから四週間後には会えなくなるっていうのは覚悟しといてね。私との記憶が消えるのは嫌でしょ?」
普通、蒼空の方だろ。
「他の人にこのことを言っても記憶を消す。さらに言えば、喋ったことを後悔するくらいの苦痛を与えるから、気をつけてね」
気をつけてねの『ね』の後ろにハートマークが付いていた。語尾と言ってることの内容に整合性がない。
「はい。おっしゃる通りにします」
怖いから、丁寧に約束した。
「本当にかわいいね、千星ちゃんは」と、髪の毛をクシャクシャにされながら頭を撫でられた。
さんざん掻き回したあと、結衣さんは真剣な顔つきになる。
「伝えたいことがあるなら、ちゃんと伝えないとダメだよ。未練は呪いにもなるけど、成長の種でもあるから」
意味は分からなかったが、とりあえず頷いた。
岬公園に着き、「じゃあ来週の今日、また同じ時間にくるから」と言って、結衣さんは空に帰っていった。
家に着いても眠れず、星を見ながら今日を迎えた。
そして今、憂鬱な気持ちで学校に向かっている。
こっちの世界に蒼空はいない。今の私は結び目が解かれた状況だ。
そのうえ、富田雪乃の恋も応援しないといけない。
校門に足を踏み入れたとき変な緊張があった。入学初日みたいなソワソワとした胸騒ぎに近い。
あのときは隣に蒼空がいたが今日は一人だ。
二年近く通った学校が、まるで初めて来る場所に思える。
それほど奥村蒼空という人物が自分の世界で色を作っていたということだ。
教室に入ると、いつもより少し重たい空気が漂っていた。それは現実世界で蒼空が亡くなったことを実感させる。
蒼空は学年の中心にいて、みんなから慕われていたように思う。そんな人が急に足跡を消せば消失感は否めない。桜の咲かない春を迎えたようだった。
いつもなら教室の中央は人が賑わってる。蒼空の席を囲むように笑い合っていた場所も今は空虚が佇む。
廊下側に富田雪乃の姿も見えた。その背中に哀愁を感じる。
周りに人が集まっているが、自分の居場所を探して来ているというより、ぽっかり空いた穴を埋めるために、富田雪乃のそばに来たと見受けられる。
蒼空は自分だけではなく、他の人にとっても大きな存在だったことがこの教室から感じとれた。
この空気に押しつぶされそうだったが、私には富田雪乃の恋を叶えるという約束がある。今はそれに集中しよう。
まずはどう話しかけるかを考えないといけない。最初の壁からものすごく高いが、それを越えないと先には進めない。
今日一日、富田雪乃を観察することにした。まずは人となりを知らなければいけない。
とりあえず彼女のことで私が知っている情報をまとめてみた。
成績は学年トップであり、バスケ部のキャプテン。蒼空と同じく学年の中心にいて慕われている。教師や同級生、先輩後輩からも信頼は厚い。周りの生徒が聖母と呼んでおり、性格は優しく明るいらしい。学級委員長を務めていて悔しいが美人。良い匂いがする。よく笑っているところを見る。モテる。
完璧すぎて心が折れた。領域展開ができ、写輪眼を開眼させ、念系統をすべて完璧に習得し、四十ヤードを四秒二で走り、亀有公園前の派出所に勤務しているようなものだ。私はこんな怪物と競い合っていたと思うと、鳥肌が背伸びする。
一限目の英語では彼女は完璧な発音で英語を話していた。
二限目の体育では二位の人に一周差をつけて校庭五周をゴール。
三限目は指数関数と対数関数を教科書よりも上手く説明。
四限目は自らの解釈を添えて古典を解説していた。
大人が理想とする高校生とはこういうことだろう。勉強ができて、運動もこなす。教科書通りの優秀な生徒だ。
私が担任の教師なら自慢したくなる。でも同い歳となれば別だ。富田雪乃が空を優雅に飛ぶ美しい白鳥だとすれば、私は地下で走り回るドブネズミのようなものだ。
ここまで格差があると嫉妬すら烏滸がましい。もう別の世界の生物に見えてきた。出身はたぶん暗黒大陸だろう。
こんな人が一歩進めない恋なんてあるのだろうか? 蒼空の言っていた根本にあるものって何なんだろう? 表面からは奥にあるものまでは見えない。やっぱりちゃんと話してみないと分からない。
昼休みになり、教室で弁当箱を開けた。
いつもならここでは絶対に昼食をとらないが、富田雪乃が同じクラスの女子二人と近くの席で食べていたため、耳をそばだてながら、ぼっちめしをすることにした。
「今度和也くんとデートすることになったんだけどさ、どんな服がいいと思う?」
コンビニで買ったであろうサンドイッチを頬張りながら、ひとりの子が言った。
「マジ! そこまでこぎつけたんだ」
もうひとりの子が言う。
「ちょー頑張った」
蒼空が亡くなったのにデートに浮かれやがって、と怒りが沸いたが、今は自分の感情を人に押し付けるのはやめよう。富田雪乃に集中すべきだ。
「裕子は甘めのコーデが多いから、そこにストリート要素を入れて、今っぽいカジュアルにすると良いんじゃないかな」
「なるほど、カジュアルっぽくか」
「たとえば、上下はモノトーンにして、スニーカーはソフトピンクのニュアンシーなカラーとかにすると、大人っぽさも出せると思う」
富田雪乃はファッションも押さえているのか。
「香水も変えようかと思ってるんだけどさ、何がいいと思う?」
「いつもと同じで良いんじゃない。街角でその香水の匂いがすると、その人を思い出すんだって。それをプルースト効果って言うみたい。今の匂いを嫌がってないんだったら、覚えてもらうって意味でも、同じでいいと思う」
そうだったのか。それを早く知っていれば、蒼空と会うときはファブリーズを振り撒いたのに。そうすれば部屋にいても私を思い出す。
「雪乃ってなんでも知ってるから本当に頼りになる。友達にいてくれて助かるわ」
「それな。私も恋愛のことは雪乃に頼りっぱなしだもん」
富田雪乃は恋愛上手でもあるのか。でも自分の恋は叶えられてない。相手からは告白もされていて、二つ返事で返せばいいだけ。相手側に何か不安要素があるということなのか。
「てかさ、なんで雪乃は彼氏作らないの? 秒で作れるっしょ」
「私もそれ思ってた。こんな可愛いのにもったいなよね」
ナイス。今、私が聞きたいのはそれだ。
「部活のこともあるし、今は恋愛って気分じゃないかな」
相手がどうこうじゃなく部活が理由か。キャプテンの責任もあるのかもしれない。でもそれなら、蒼空にそう言えばいい。
踏み出せない理由があり、それを言いたいけど言えなかった。きっとこれは本音じゃない。
「雪乃も恋したほうがいいよ。青春の半分は恋愛だから。マジ損してる」
「部活だけだと味気ないよね。女子高生って恋してなんぼだもんね」
なんだろう、この二人なんか苦手だ。理由は説明できないが、なんか苦手だ。鼻の中にスイカをぶち込んでやりたい。そこでスイカ割りをしたい。スイカパーティーを開催して、夜通しスイカを鼻にぶち込んでいたい。
「……そうだね。恋愛も大事だよね」
富田雪乃は笑ってはいるが、どこか悲しさを帯びた目が印象に残る。心の奥に閉まった何かが、一瞬だけ表に現れたように見えた。
放課後、体育館に来ていた。
女バスの顧問にお願いして、部活の見学をすることにしたからだ。
顧問には「プロリーグを見て興味を持ったので」と言って頼んだ。
私は邪魔にならないよう、体育館の隅で富田雪乃を観察する。
女バスは県大会でも上位に入る強豪だった。
去年の夏の大会では、もう少しで全国に手が届きそうだったが、惜しくも敗退してしまったらしい。
そして今は富田雪乃がキャプテンを務める。
私はバスケのことはまったく分からないが、彼女が上手いのだけは分かった。ドリブル、シュート、パス、どれをとっても周りと違う。
何が違うかは分からないが何かが違う。とりあえず、何かが違うことだけが分かるほど何かが違った。
率先して声掛けをし、後輩の指導も卒なくこなす。みんなが富田雪乃を頼りにしているのが空気感で伝わってくる。
こちらが吐き気を催すほどの練習が続いてるのにも関わらず、彼女は苦しそうな顔を一切見せない。みんな膝に手をついて肩で息をしているのに、一人だけ声を出して鼓舞している。
監督が一年生に厳しい言葉を投げかけたら、すぐさまその子のもとに行き激励する。漫画に出てくる理想のキャプテンそのものだった。
休憩が入り、なぜか私がホッとする。息をするのも忘れるくらいの練習内容で、こちらまで体に力が入っていた。
ひと息つくと、「藤沢さん」と声をかけられた。
前を見ると、ポニーテールを揺らしながら富田雪乃がこちらに向かって来る。再び体に力が入った。
何を話そうかと頭の中で話題になるものを探した。だが『ブラジルの首都はサンパウロではなくブラジリア』ということしか出てこない。
ブラジリア一本で勝負するのは無謀だ。これでは関ヶ原の戦いをマカロニ一本で戦うようなものではないか。
困惑している私をよそに、富田雪乃が隣に座った。
「バスケ興味あるの?」
なんでもない質問なのに、職質されてるような気分だ。
「テレビで見て」
目を伏せながら答えた。
「そうなんだ。もし何か聞きたいことがあったら言ってね。ルールが分からないと、見ててつまらないと思うから」
「うん」
これだけ厳しい練習の最中、他人のことに目を向けれるのはすごいと思った。
『お前邪魔なんだよ、小指の第二関節折られたくなかったら、はよ出て行かんかい。いてこますぞ』と言われたらどうしようかと考えてたが、彼女はそんなこと一切思っていなかったらしい。格の差を見せつけられた。
「藤沢さん、最後まで見て行く?」
「一応……」
「じゃあさ、終わったら一緒に帰らない?」
びっくりして相手の顔を二度見してしまった。その反応が面白かったのか、富田雪乃は笑みを浮かべている。恥ずかしくなり、再び目を伏せた。
「私ね、藤沢さんと話してみたかったの」
また二度見しそうになったがなんとか堪えた。
でもなんで私と話したいのだろう。理由が思いつかない。
「雪乃先輩、ポストプレイのことで聞きたいことがあって」
タオルで汗を拭いながら、一年生がやってきた。
富田雪乃は立ち上がり、私に視線を送る。
「もし一緒に帰ってくれるなら昇降口で待ってて」
そう言って、後輩とコートに戻っていった。
私と話してみたいと思ってる人がいることに驚いた。学校では蒼空以外の人をずっと避けてきたし、話しかけらても、一言、二言で会話を終わらせていた。だから一年生の夏前には、蒼空以外に話してかけてくる人はいなくなった。
一体何を話したいんだろう? なんで私なんかに興味を持ったのだろう? 何度も考えたが分からなかった。でもこれで彼女との接点が生まれる。とりあえず第一関門は突破だ。
私は富田雪乃と何を話そうかと考えながら、彼女の観察を続けた。
練習が終わり、顧問に挨拶したあと体育館を出た。
富田雪乃に声をかけようと思ったが、後輩に囲まれていたため、何も言わずに昇降口で待つことにした。
待っている間、ソワソワして歩き回った。結局何を話していいか分からないままだ。
他の人は何を話しているんだろう? 蒼空とはどんな話をしていたんだろう? 考えれば考えるほど緊張して頭が回らなくなる。
好きな人のことを聞きたいが、いきなりそんな話をするわけにもいかない。マッチングアプリで会う人は毎回こんな苦境に立たされているのだろうか。
私からしたら出会い系アプリではなく修行系アプリだ。初めて会う人間と話すことなんてない。
なさすぎて「最後にレーズンを食べたのはいつですか?」とか聞いちゃいそうだ。いや、そんなことはどうでもいい。とりあえずバスケの話は聞いておこう。好きな選手を聞いても分からないから、好きなドリブルを聞こう。いや、好きなドリブルって何だ。食べ物みたいに言うな。そうだ、好きな食べ物を聞こう。よし、一個増えたぞ。
「藤沢さんごめん。待たせちゃったね」
制服姿の富田雪乃が駆け足でやってきた。私はまだ心の準備ができていない。
「じゃあ帰ろうか」
「うん……」と聞こえるか、聞こえないかぐらいの声をこぼして、私たちは校舎を出た。
沈黙が降り積もる。
学校を出てから五分、会話が途切れた。
最初は富田雪乃がリードしてくれていた。「寒いよね」「バスケ見ててどうだった?」「休みの日は何してるの?」「進路ってもう決めてる?」など聞いてくれたが、私は「うん」「面白かった」「特に何も」「まだ決めてない」と、進行を遮断するような返答しかできず、会話は冬を迎えていた。
蒼空といるときは何も考えずに話すことができた。それは受け入れらているという絶対的な信頼があったから。
私がどういう人間かを知っていたし、蒼空がどういう人かも分かっていた。だから意味のないことも言えたし、沈黙だって怖くなかった。
――うざい
あの一言が他人との会話のブレーキになる。もしまた同じように思われたら……そう考えると無意識に会話を途切れさせてしまう。
もう五年も経つのに、未だに過去が手を離してくれない。多くの人はそんなこと忘れたらいいのにと言うだろう。私もそう思う。
でも一度ついた恐怖心は中々拭うことはできない。蒼空もそれを理解してくれていた。
だけど、このままではダメだということも言っていた。自分でも分かってる。分かってるけど、その一歩が踏み出せない。
臆病すぎて自分で自分を嫌悪する。
「蒼空がね、よく藤沢さんの話をしてたの」
沈黙に足跡をつけるように、富田雪乃が言葉を発した。
「二人で話してるときも、必ずと言っていいほど藤沢さんの名前が出てくる。だからどんな人なんだろうって思ってた」
「蒼空は私のことなんて言ってたの?」
シンプルに気になる。
「藤沢さんがどんな本を読んで、どんな音楽を聞いてるのか。あとは……昨日はこういう会話をしたとか、ツンデレをしたいけど下手なこととか」
最後のは余計だ。でも他人との会話で私の名前を出してたのは初めて知った。
「色々聞いてるうちに、私と似てるのかもって思った」
全然似てない。むしろ正反対だ。鎧を身につけたおじいちゃんと、おじいちゃんを身につけた鎧くらい違う。
「だから藤沢さんとなら、話せそうだなって」
富田雪乃は夜空を眺めながら白い息を吐いた。どこか憂いた目をしながら。
「私との共通点は人間ていうところだけで、あとは比較にもならない。みんなから慕われてないし、勉強も普通だし、運動もたいしてできないし、優しさなんて一ミリも持ちあわせてないし、誰かの相談なんて乗れないし、綺麗でもない。私なんて道端のごみと同じようなものだから」
自分で言って悲しくなった。ここまで卑下する必要はない。でも相手が富田雪乃なら実際の私はこれくらいの存在だ。
「全部作り物だよ。私はそんな自分が嫌い」
吐き捨てるように言った言葉にどんな意味があるかは分からなかったが、その言葉に富田雪乃という人間の本心が隠れているような気がした。蒼空も開けなかった扉の鍵がそこにある。なんだかそう感じた。
「なんてね。そうだ、この間ね……」
誤魔化すように笑ってバスケ部の話を始めた。
何かを取り繕うように饒舌になる彼女は、自分で吐き捨てた言葉を、自分の言葉で埋めているようだった。
富田雪乃の家とは反対方向だったので、私たちは駅のホームで別れた。
「また明日ね」と笑顔で手を振る彼女に、私も小さく手を振る。
今日は少しだけ進展した気がする。まったく接点のないところから、一緒に帰るというところまで近づけた。でもほとんど話せなかった。
好きな人のことを聞き出さなくてはいけないのに、このペースでは一生聞き出せない。
蒼空との約束には期限がある。その間に必ず叶えたい。そのためにはもう少し関係を築かなければ。
でも他人と深く関わるには、過去と向き合わないといけない。新しい傷を作らないように生きてきた私にとって、逃げることは自分を守るためでもあった。
ただでさえ過去の傷が残ってるのに、これ以上傷を増やしても苦しくなるだけだ。なら痛みを伴いながら進むより、立ち止まって過去の傷を眺めながら生きるほうが楽。
いつからかそう思っていたのかもしれない。
変わらなきゃいけないときは必ず来る。
それは自分でも分かっていた。きっと蒼空も。だから私を選んだのかもしれない。新しく世界との結び目を作るために。
――勇気って、前を向こうとした人だけが掴めるものだよ。
蒼空の言葉が頭をよぎる。
ずっと過去に背中を見せてきた。振り向くときが来たのかもしれない。
明日、自分から声をかけてみよう。ほんの少しでも前を向けるように。