月明かりに照らされる美月ちゃんの顔には、空夜のような寂しさが浮かんでいた。
美月ちゃんも才能はあると思う。でも紗奈ちゃんの絵は他の絵を力でねじ伏せるような存在感があった。
「才能という圧倒的な存在の前では、夢を見ることすらできない」
月を見上げながら美月ちゃんは言う。
牧野に腹が立った。もし人のことを考えて言葉を選んでいたなら、こんなことにはなっていなかったかもしれない。
最高傑作であった月の絵を間接的に否定した。それは、美月ちゃん自身の否定にもなる。
起因は才能の差を感じたことかもしれない。だが崖から背中を押したのは牧野だ。
あいつはたぶん悪気なく言ったのだろうが、結果、美月ちゃんから夢を奪い、それが紗奈ちゃんのせいになってしまった。
きっと嫉妬も混ざっていてんだと思う。だけど大人が子供の才能を摘み取ってはいけない。
「知ってた? 月は自分一人では輝けないの。太陽の光を反射して、はじめて夜を照らすことができる。周りに認められないと何の価値もないんだよ」
美月ちゃんが寂しげに吐いた言葉が、冬の夜風と共に耳に触れる。
誰しも世界との結び目がある。私は蒼空で、雪乃は求められる自分。花山は優しさで美月ちゃんは絵。
その結び目が才能で解かれて、自分という存在が世界から零れてしまった。
「美月ちゃん、絵をやめたとしても価値がなくなるわけじゃない。私はずっと友達だから。どんなことがあっても」
「ありがとう。でもね、絵がないと私は私でいられない。絵が自分を作っていたから、描けなくなったらもう何も残ってないんだよ」
絵を続けるべき……私がそう言ったところで、空いた穴は塞がらないと思った。それほど絵という存在が大きい。
だが、絵の代わりになるような結び目なんてあるのだろうか? 他で補えるようには思えない。雪乃や花山とは違った向き合い方が必要だ。
「美月ちゃんはもう絵を描かないの?」
「……自信がない。自分の描いた絵が誰かの影でしか生きられないと思うと、筆を握ることすら怖くなる」
それでも描こうよ、なんて言葉を軽々しく吐くわけにはいかない。正解がまったく分からなかった。何を言っても、どう答えても、ぜんぶ的外れなことを言ってしまいそうで、私も口を閉ざしてしまった。
「もう帰ろっか」
私が思案していると、美月ちゃんは立ち上がって言った。
「ごめんね千星ちゃん、心配かけて。でも嬉しかった、私のこと探してくれて。じゃあ行こう」
歩き出した美月ちゃんの背中を追いかけた。世界から逸れてしまわないように。
家に戻ると美里さんが血相を変えて出迎えてくれた。
「まあまあ」となだめながら美里さんをリビングまで連れていき、美月ちゃんには部屋に行くよう、ジェスチャーで伝えた。
ダイニングに着き、美月ちゃんが学校に行かなくなった理由を説明すると、美里さんは思い悩んだ様子で天井を見上げていた。
「また絵を描けるようになったら学校に行けると思うの。今はどうしていいかは分からないけど、でもなんとかしてみせる」
根拠はなかった。でもきっと道はある。今は光が遮断され、それが見えていないだけだと思う。
「ありがとう、千星」
美里さんは寄り添ってあげて、と言葉を残したあと、美月ちゃんの部屋に向かった。
「月の絵を見せて」と言うと、美月ちゃんはクローゼットからキャンパスを取り出し、机の上に置いた。
美しい月が海の上空に浮かんだ絵。綺麗だった。ずっと見ていたいと思うほど。でも……
「すごくいい絵だよ。やめることない。美月ちゃんだって十分すごいよ」
本当に素晴らしい絵だった。本当に……
「私も自信はあった。自分の描く月が好きだった。でも、ずっと描き続けてきたものが簡単に追い越されて、支えになっていたものが踏み潰されていくみたいだった。これだけは誰にも負けたくなかったのに……周りと繋がることができたきっかけだったのに……ずるいよ、才能だけですべてを超えていくなんて」
夢という希望は失望の底に落ちて涙に変わった。
目の前の女の子は雲に覆われ消えてゆく月のようだった。
美月ちゃんにかける言葉を何十個も考えた。
でもその中に、再び絵を描けるような言葉は見つからなかった。
安易な慰めや同情では、その涙は拭えないと思った。
昼休み、雪乃と花山と一緒に体育館のステージ上で昼食をとった。
一人で食べていた花山を、私と雪乃で誘ったかたちだ。
「雪乃は将来バスケ選手になるの?」
「うーんどうだろう? バスケは好きだけど、それで食べていこうとまでは思ってないかも。それに自分より上手い人なんてたくさんいるし」
「もし自分が一番上手かったら目指してた?」
雪乃は箸で掴んだタコさんウインナーを見ながら考えている。相談しているんだろうか。
「プロでやれるのか、引退してからどうするのか、そういうこと全部考えてから決めるかな。やめてからの方が人生長いしね」
現実的な考えだ。それも間違ってない。
「花山は将来やりたいこととかあるの?」
「警察官になろうかなって思ってる」
購買で買ったカツサンドを頬張りながら答えた。
「そうなの?」
雪乃がタコさんの頭を齧りながら言う。
「なろうかなって思ってるだけで、確定ではないけど」
「千星は?」
将来の夢を持ったことがなかった。何をしたいとかもなく、ただ一日一日を流れてきただけの十七年だなと思った。
「まだ分からない。そもそも夢ってなんなんだろう?」
「人は現実だけで生きていくのは苦しいから、夢を見て紛らわす。でもその夢が覚めたら人は道を失う。それを知ってるからこそ、人は夢を見続けるために自分に嘘をついて現実から目を背ける。眠っていれば幸せは終わらないから」
花山は紙パックのレモンティーにストローを刺して言った。
「誰の言葉?」
雪乃が花山に視線を傾け聞いた。
「元詐欺師がテレビのインタビューで答えてた」
どこから引用してるんだ。
「そいつはさ、芸能界を目指している子たちを騙して事務所の登録料をふんだくってた。被害者の人たちが口を揃えて言ってたのが、『俺がスターにしてやる。その言葉を信じて騙されました』って言うんだよ。犯罪者を肯定するつもりはないけど、夢を人に託した時点で、その人たちの夢は枯れてたんだと思う。もし俺が警察官なら被害者に優しい言葉だけじゃなく、自分の力で歩んでいけるような言葉もかけたいなって……それを見てて思った。夢って人を成長させるものでもあると思うし」
「それで警察官になろうって思ったの?」
「うん……」
雪乃の問いかけに、花山は照れくさそうに答えた。
「花山くんは良い警察官になるかもね」
「まだなるって決めたわけじゃない」
「花山が警察官になったらパトカーで京都に行こう」
「いいね、私パトカーで京都行ってみたかったんだ」
「勝手に決めるな。パトカーをタクシー代わりに使うな。何で京都なんだよ。新幹線の方が早いだろ。車だと時間かかりすぎるだろ。そんなことしたらクビになるぞ。そもそも簡単にパトカーに乗れないだろ」
花山が丁寧にツッコミをいれるのがおかしくて、私と雪乃は顔を見合わせて笑った。
それが恥ずかしかったのか、花山はステージを降りて「先に戻ってる」と言って出口に向かった。
「おい教室に戻るのか。昼休みはまだ残ってるだろ。何で先に行くんだ。みんなで戻ったほうがいいだろ。カツサンド美味しかったか。そもそもレモンティーとカツサンド合わないだろ」
私が煽ると「うるせー」とだけ残して去っていった。
再び雪乃と顔を見合わせると、二人で笑顔を零した。
放課後、出版社と自宅の中間にある駅で降車し、閑静な住宅街にある、おしゃれなカフェに入った。
おしゃれな椅子におしゃれな机、おしゃれな店員におしゃれな制服、おしゃれな照明におしゃれな絵、おしゃれのスクランブル交差点か、と心の中でおしゃれにつっこむ。なんだか私までおしゃれな存在に感じるほど、おしゃれなカフェだった。
要約すると、店内の壁がレンガで造られており、木製のラウンドテーブルと椅子が均等にいくつか並んでいる。一番奥の席はチェスターフィールドソファが置かれており、天井にはシーリングファンライトが回っている。ヴィンテージのインテリアとBGMで流れるジャズ、それらが店の雰囲気を作っている。
客層は大人ばかりで、制服を着ているのは私だけだった。
出版社から私の家の最寄り駅までの距離を調べたら、一時間以上かかることが分かった。なので青木さんに電話をして、場所を変えることにした。
自分から話を聞きたいと言ったのに、わざわざ遠くから来てもらうのは申し訳ない。
少し早めに着いたので、先にホットコーヒーを頼んで席に着いた。鞄から、枯木青葉の最後の作品を取り出す。
枯木青葉は最後にどんなことを想って書いたのだろう? それを知れば何か変わるんじゃないかという期待があった。生きていた時と亡くなってからの変化、そこに枯れた夢を再度咲かせる何かがあると思っている。自分の作品を批判され命を投げ出した作家は、この本に何を残そうとしたんだろう。
「奥村千星さん?」
五分ほど待っていると声をかけられた。本を読んでいた私は顔を上げ、声の主を確認した。
黒のセーターの上に紺のジャケットを羽織り、下はベージュのチノパン。メガネをかけており、縁の部分に前髪がかかっている。ビジネスバックを肩にかけ、カップを乗せたトレーを持っていた。三十代半ばで雰囲気は優しそうだった。
「はい」
本を閉じて返答した。
「白川出版の青木といいます」
青木さんは席に腰を下ろしたあと、爽やかな表情で言った。
「奥村です。今日は来てくださってありがとうございます」
緊張からかたどたどしい挨拶になる。
「久しぶりに結衣さんが来たからびっくりしたよ。もう何年前かな? あの頃と全然変わってないね。見た目も中身も」
若作りに必死なんだと思います。こんなことを言ったら、急に出てきて首を絞められそうだと思い、言うのをやめた。
「枯木くんのことを聞きたいんだよね?」
「はい。この本を書いたときのことを教えてほしいです」
手元にあった枯木青葉の死後に発表された作品、『夜の祈りは星になる』を指差して言った。
「どこから話せばいいかな」
思い出を辿るように、宙に視線を向けて言った。
「枯木さんは作品への批判が原因で、自ら命を絶ったんですよね?」
「うん。枯木くんの作品てさ、読者のために書いた作品ではなく、自分のために書いた作品だったんだよ。主人公に自分の想いを代弁させて、世間の人に枯木青葉という人間を受け入れてほしかった。彼の作品は彼自身なんだ。読者にとっては作品の批判でも、枯木くんにとっては自分に向けられた批判だった。だから自分のすべてを否定されたと思い、命をなげうった」
僕は好きなんだけどね、と青木さんは付け足した。
作品と自分を重ね合わせる。そこは美月ちゃんと共通するところだ。
「彼は自分の過去を話したがらなかった。たぶん、ずっと孤独の中で生きていたんだと思う。小説というものが自分と世界を繋いで、いつからか生きる意味に変わった。でもその糸が切れたとき、枯木青葉という人間はこの世を去った。誰にも知られないまま生きるより、知ってもらってから背中を向けられる方が辛いのかもしれない」
青木さんは静かにカップを持ち上げて、湯気の立つコーヒーを口にした。
「この本だけ他の作品と違うテイストになってますよね? 四作品までは自分のために書いていたと思います。でも最後の作品は“自分”ではなく“誰か”のために書いたように感じました。亡くなってから何か変化があったんですか?」
カップを静かに置いたあと、青木さんは思い出に浸るような目でコーヒーを眺めた。
「僕が流星の駅に呼ばれたとき、彼はもう一度本を書きたいと言ったんだ。『今までは自分のために書いてきた。でも最後は同じ悩みを持つ人たちが救われる本を書きたい。俺を満足させるために存在していたキャラクターたちを、誰かの心の中でずっと生き続けるようにしてあげたい。あの女の人に言われて気づいた。俺が書いた小説は俺自身じゃなく、自分の子供だって。だからこの手で生み出した作品もキャラクターたちも、みんな報われてほしい。読んでくれた人たちに好きになってもらいたい。それが親としての責任だと思います』そう言ってた」
青木さんは私の手元にある本を見た。まるで旧友を懐かしむように。
「それから一緒に話し合った。どうやったら読者の心に残るのか、その人の人生に影響を与えられるのか、辛いときの支えになれるかを。編集の仕事を始めてから、その期間が今までで一番楽しかった。自分のためにやることも大事だけど、読んでくれる人のために作ることも、同じくらい大切だって気づけたから。設定とプロットを練ったあと、最後の一週間で彼は初稿を仕上げた」
青木さんはメガネの縁にかかっていた前髪を小指で掻き分ける。
「最後の日に枯木くんが言ったんだ。『死んだことを後悔してます。誰かに否定されたからって死ななくても良かった。小説なんて書かなければよかったと思っていたけど、もっと書いていたい。読んでくれた人が笑って生きていけるような作品をもっと作りたかった。死んでからそれに気付くなんて、俺バカですよね』って」
青木さんを見ると目が潤んでいた。
私の視線に気づいたのか、誤魔化かすようにコーヒーを飲む。カップがソーサーに戻るまで少し時間がかかったが、私は置かれるまで何も言わずに待つことにした。
ゆっくりとカップを置くと、青木さんは再び話し始めた。
「そのあとは枯木くんの意図を汲み取りながら、細かい修正を僕がやった。だからその本は甥っ子みたいなものなんだ。売れたときは本当に嬉しかった。その本と枯木くんが報われたようで」
この本には枯木青葉の想いが込められている。でもそれは“自分”に向けられたものではなく、“誰か”に向けられたものだ。そこに今までの作品との違いがある。
「でも一番嬉しかったのは、本を読んだ人から手紙が来たことなんだ」
青木さんは鞄から一枚の封筒を取り出し、中から便箋を出した。
「一ヶ月前に出版社に届いた手紙なんだけど、読んでみて」
折り畳まれた便箋を広げると、丁寧に書かれた文章が綴られていた。そこにはこう書いてある。
枯木青葉先生が書かれた「夜の祈りは星になる」を
拝読させていただきました。
本を読んで手紙を書こうと思ったのはこれが初めて
です。
当時の私は死のうと考えていました。
幼い頃から孤独の中で生き、自分の存在価値が見出
せなかったからです。
でもこの作品を読んで、もう一度生きてみようと思
いました。
言葉一つ、一つが孤独な私に寄り添ってくれて、こ
んな自分を肯定してくれた。
今、抱えている苦しさは私だけじゃなく、他の人も
持っている。だから一人じゃない、『あなただって
生きていていいんだよ』そう言ってくれているよう
でした。
当時の私は死ぬ以外の選択肢を持っていなかった。
死ぬことだけが救いだと思っていた。
でもこの本に出会えたことで『生きることに希望を
抱いてもいいのではないか』と考えらるようになり
ました。
私の人生が変わった瞬間だった。
今は結婚して子供を授かることができました。
あのとき死んでいたら、この子に会えていなかった
です。
私はこの作品に救われ、生きていてよかったと思え
るようになりました。
枯木先生に直接言葉を届けることは叶いませんが、
この作品を世に出して頂いたことを心より感謝申し
上げます。
枯木青葉は最後の作品で人の命を救い、そして新しい命に繋げた。一つの作品の持つ力は、私が思っていた以上なのかもしれない。
青木さんに手紙を返すと、慎重に封筒に戻してから鞄に仕舞った。
「すごいですね。面白いと思わせるだけでも大変なのに、人の人生にまで影響を与えるなんて」
「人を救う仕事っていくつかあるでしょ? そのほとんどが何かあってから救うという行動に移すけど、自分たちの仕事は“何かある前に”誰かの命を救うことができる。こんな素晴らしい仕事なんだよって、枯木くんは最後に教えてくれた。良い作品って、読み終わった後に道を作ってくれるんだと思う。だから今は、読んでくれた人に何を残せるかを考えながら物語を作ってる」
何気なく読んでいた本には、もう一つ見えないストーリーがあって、それが顕在化した作品が『夜の祈りは星になる』だった。
そして顕在化したものが読者の現実に反映されたとき、作品はその人の中で生き続けるのかもしれない。
「もし才能の壁にぶつかって夢を諦めてしまった人がいるとしたら、どう声をかけたらいいと思いますか?」
萎れていく才能を枯木青葉は再び咲かせた。美月ちゃんが再び夢を拾い上げることだってできると信じたい。
「その人は夢を目指している人?」
「はい。その子は絵を描いているんですけど、枯木さんと同じく作品に自分を投影させています。圧倒的な才能に触れて、自分の価値がなくなったと思い込んでしまった。だけど何て言ったらいいか分からないんです。私は何かを目指したことがないから、正しい言葉が見つからなくて……」
今は道が閉ざされ、どこに向かって良いのか分からない。だから希望が見えるような言葉を言ってほしかった。
「才能の種は誰にでもあると思う。でも多くの人は育てかたが分からなかったり、育てかたを間違ってしまう。躓いたときは一度立ち止まって、自分と向き合うことが必要なんだ。創作って自分の理想を追い求めてしまうけど道は一つじゃない。その人の軸になっているものが、どうやったらもっと良くなるのかを考えると視野が広がっていく。迷いは新しい道を探すきっかけなんだよ。でもそれをスランプとか才能がないって方向に変換してしまう。本当は才能の芽が育っているのに」
美月ちゃんは才能に躓いて立ち止まってしまっている。今必要なのは自分の絵と向き合って、視野を広げることなのかもしれない。
そのあと青木さんのスマホに着信がきて、職場に戻らないといけなくなった。
「ごめんね、急用ができちゃって」
「いえ、色々とお話が聞けて良かったです。ありがとうございました」
青木さんはトレーを持って立ち上がると、私を見てこう言った。
「好きなだけでは続けられないかもしれない。でも、好きなだけでも続けていいんだよ。誰かより下手だったとしても、自分が自分でいられるなら、その人にとっては必要なものだから」
最後に「結衣さんによろしく言っといて」と言葉を残し、青木さんは店を出て行った。
何かを続けるのに大きな理由はいらないのかも知れない。
『好きだから』これも立派な理由だった。
本を開き、再び読み直した。ここには書いていないストーリーを重ねながら。
本に夢中になってしまい、気づけば外の世界は夜を迎えていた。母からの着信で現実に引き戻され、速やかに帰る支度をする。
店内を出ると、少し欠けた月が夜空に浮かんでいた。
月は夜の中で圧倒的な存在を示している。だが孤独にも見えた。
星は周辺の星と繋がって星座となるが、月は一人で夜空に佇む。
外の世界と繋がりを感じれば孤独は薄まる。
だが美月ちゃんは一人なってしまった。
いや、一人になることを選んだ。絵という結び目が解ければ、自分の周りから人が離れていく。そう思ったから、解ける前に自ら解いてしまったのかもしれない。そっちの方が傷が浅くなるから。
ふと紗奈ちゃんの顔が浮かぶ。美月ちゃんが再び世界との結び目を作るには、彼女の力が必要だ。そう思ったら無意識にスマホを開いていた。
少し遅い時間だったからかけるのに躊躇したが、早めに話しておいた方がいいと思い、路地に入って電話をかける。
――もしもし
「こんな時間にごめんね。今大丈夫?」
――はい
紗奈ちゃんに美月ちゃんのことを話した。彼女には言わないといけないと思う。知らないままでは何も変わらないから。
なぜ絵をやめたのか、なぜ学校に行かなくなったのか、その理由と起因を紗奈ちゃんに伝えると、沈黙がしばらく続いた。
――土曜日に奥村さんを美術室に連れてきてもらえませんか。直接彼女と話したいので
沈黙の間に色んな想いを反芻していたのだろう、声から覚悟を感じる。
「分かった。明日、会いに行って話してみる」
――ありがとうございます
時間などを決めたあと電話を切り、再び月を見上げた。
夜という世界で美しく佇み、朝になれば太陽に埋もれてしまう。自分よりも光り輝く存在が現れれば、どんな美しいものでも影に消えていく。多くの人はその光に飲み込まれていくんだと思う。
だけどそれでも生きていかないといけない。妥協して、自分に嘘をついて、消える光を眺めながら、才能の芽を自ら摘み取って、新たな道を探していく。そうしないと世界に置いていかれてしまうから。
でも捨てる必要はない。自分らしくいられるなら、光は消えないのだから。
美月ちゃんも才能はあると思う。でも紗奈ちゃんの絵は他の絵を力でねじ伏せるような存在感があった。
「才能という圧倒的な存在の前では、夢を見ることすらできない」
月を見上げながら美月ちゃんは言う。
牧野に腹が立った。もし人のことを考えて言葉を選んでいたなら、こんなことにはなっていなかったかもしれない。
最高傑作であった月の絵を間接的に否定した。それは、美月ちゃん自身の否定にもなる。
起因は才能の差を感じたことかもしれない。だが崖から背中を押したのは牧野だ。
あいつはたぶん悪気なく言ったのだろうが、結果、美月ちゃんから夢を奪い、それが紗奈ちゃんのせいになってしまった。
きっと嫉妬も混ざっていてんだと思う。だけど大人が子供の才能を摘み取ってはいけない。
「知ってた? 月は自分一人では輝けないの。太陽の光を反射して、はじめて夜を照らすことができる。周りに認められないと何の価値もないんだよ」
美月ちゃんが寂しげに吐いた言葉が、冬の夜風と共に耳に触れる。
誰しも世界との結び目がある。私は蒼空で、雪乃は求められる自分。花山は優しさで美月ちゃんは絵。
その結び目が才能で解かれて、自分という存在が世界から零れてしまった。
「美月ちゃん、絵をやめたとしても価値がなくなるわけじゃない。私はずっと友達だから。どんなことがあっても」
「ありがとう。でもね、絵がないと私は私でいられない。絵が自分を作っていたから、描けなくなったらもう何も残ってないんだよ」
絵を続けるべき……私がそう言ったところで、空いた穴は塞がらないと思った。それほど絵という存在が大きい。
だが、絵の代わりになるような結び目なんてあるのだろうか? 他で補えるようには思えない。雪乃や花山とは違った向き合い方が必要だ。
「美月ちゃんはもう絵を描かないの?」
「……自信がない。自分の描いた絵が誰かの影でしか生きられないと思うと、筆を握ることすら怖くなる」
それでも描こうよ、なんて言葉を軽々しく吐くわけにはいかない。正解がまったく分からなかった。何を言っても、どう答えても、ぜんぶ的外れなことを言ってしまいそうで、私も口を閉ざしてしまった。
「もう帰ろっか」
私が思案していると、美月ちゃんは立ち上がって言った。
「ごめんね千星ちゃん、心配かけて。でも嬉しかった、私のこと探してくれて。じゃあ行こう」
歩き出した美月ちゃんの背中を追いかけた。世界から逸れてしまわないように。
家に戻ると美里さんが血相を変えて出迎えてくれた。
「まあまあ」となだめながら美里さんをリビングまで連れていき、美月ちゃんには部屋に行くよう、ジェスチャーで伝えた。
ダイニングに着き、美月ちゃんが学校に行かなくなった理由を説明すると、美里さんは思い悩んだ様子で天井を見上げていた。
「また絵を描けるようになったら学校に行けると思うの。今はどうしていいかは分からないけど、でもなんとかしてみせる」
根拠はなかった。でもきっと道はある。今は光が遮断され、それが見えていないだけだと思う。
「ありがとう、千星」
美里さんは寄り添ってあげて、と言葉を残したあと、美月ちゃんの部屋に向かった。
「月の絵を見せて」と言うと、美月ちゃんはクローゼットからキャンパスを取り出し、机の上に置いた。
美しい月が海の上空に浮かんだ絵。綺麗だった。ずっと見ていたいと思うほど。でも……
「すごくいい絵だよ。やめることない。美月ちゃんだって十分すごいよ」
本当に素晴らしい絵だった。本当に……
「私も自信はあった。自分の描く月が好きだった。でも、ずっと描き続けてきたものが簡単に追い越されて、支えになっていたものが踏み潰されていくみたいだった。これだけは誰にも負けたくなかったのに……周りと繋がることができたきっかけだったのに……ずるいよ、才能だけですべてを超えていくなんて」
夢という希望は失望の底に落ちて涙に変わった。
目の前の女の子は雲に覆われ消えてゆく月のようだった。
美月ちゃんにかける言葉を何十個も考えた。
でもその中に、再び絵を描けるような言葉は見つからなかった。
安易な慰めや同情では、その涙は拭えないと思った。
昼休み、雪乃と花山と一緒に体育館のステージ上で昼食をとった。
一人で食べていた花山を、私と雪乃で誘ったかたちだ。
「雪乃は将来バスケ選手になるの?」
「うーんどうだろう? バスケは好きだけど、それで食べていこうとまでは思ってないかも。それに自分より上手い人なんてたくさんいるし」
「もし自分が一番上手かったら目指してた?」
雪乃は箸で掴んだタコさんウインナーを見ながら考えている。相談しているんだろうか。
「プロでやれるのか、引退してからどうするのか、そういうこと全部考えてから決めるかな。やめてからの方が人生長いしね」
現実的な考えだ。それも間違ってない。
「花山は将来やりたいこととかあるの?」
「警察官になろうかなって思ってる」
購買で買ったカツサンドを頬張りながら答えた。
「そうなの?」
雪乃がタコさんの頭を齧りながら言う。
「なろうかなって思ってるだけで、確定ではないけど」
「千星は?」
将来の夢を持ったことがなかった。何をしたいとかもなく、ただ一日一日を流れてきただけの十七年だなと思った。
「まだ分からない。そもそも夢ってなんなんだろう?」
「人は現実だけで生きていくのは苦しいから、夢を見て紛らわす。でもその夢が覚めたら人は道を失う。それを知ってるからこそ、人は夢を見続けるために自分に嘘をついて現実から目を背ける。眠っていれば幸せは終わらないから」
花山は紙パックのレモンティーにストローを刺して言った。
「誰の言葉?」
雪乃が花山に視線を傾け聞いた。
「元詐欺師がテレビのインタビューで答えてた」
どこから引用してるんだ。
「そいつはさ、芸能界を目指している子たちを騙して事務所の登録料をふんだくってた。被害者の人たちが口を揃えて言ってたのが、『俺がスターにしてやる。その言葉を信じて騙されました』って言うんだよ。犯罪者を肯定するつもりはないけど、夢を人に託した時点で、その人たちの夢は枯れてたんだと思う。もし俺が警察官なら被害者に優しい言葉だけじゃなく、自分の力で歩んでいけるような言葉もかけたいなって……それを見てて思った。夢って人を成長させるものでもあると思うし」
「それで警察官になろうって思ったの?」
「うん……」
雪乃の問いかけに、花山は照れくさそうに答えた。
「花山くんは良い警察官になるかもね」
「まだなるって決めたわけじゃない」
「花山が警察官になったらパトカーで京都に行こう」
「いいね、私パトカーで京都行ってみたかったんだ」
「勝手に決めるな。パトカーをタクシー代わりに使うな。何で京都なんだよ。新幹線の方が早いだろ。車だと時間かかりすぎるだろ。そんなことしたらクビになるぞ。そもそも簡単にパトカーに乗れないだろ」
花山が丁寧にツッコミをいれるのがおかしくて、私と雪乃は顔を見合わせて笑った。
それが恥ずかしかったのか、花山はステージを降りて「先に戻ってる」と言って出口に向かった。
「おい教室に戻るのか。昼休みはまだ残ってるだろ。何で先に行くんだ。みんなで戻ったほうがいいだろ。カツサンド美味しかったか。そもそもレモンティーとカツサンド合わないだろ」
私が煽ると「うるせー」とだけ残して去っていった。
再び雪乃と顔を見合わせると、二人で笑顔を零した。
放課後、出版社と自宅の中間にある駅で降車し、閑静な住宅街にある、おしゃれなカフェに入った。
おしゃれな椅子におしゃれな机、おしゃれな店員におしゃれな制服、おしゃれな照明におしゃれな絵、おしゃれのスクランブル交差点か、と心の中でおしゃれにつっこむ。なんだか私までおしゃれな存在に感じるほど、おしゃれなカフェだった。
要約すると、店内の壁がレンガで造られており、木製のラウンドテーブルと椅子が均等にいくつか並んでいる。一番奥の席はチェスターフィールドソファが置かれており、天井にはシーリングファンライトが回っている。ヴィンテージのインテリアとBGMで流れるジャズ、それらが店の雰囲気を作っている。
客層は大人ばかりで、制服を着ているのは私だけだった。
出版社から私の家の最寄り駅までの距離を調べたら、一時間以上かかることが分かった。なので青木さんに電話をして、場所を変えることにした。
自分から話を聞きたいと言ったのに、わざわざ遠くから来てもらうのは申し訳ない。
少し早めに着いたので、先にホットコーヒーを頼んで席に着いた。鞄から、枯木青葉の最後の作品を取り出す。
枯木青葉は最後にどんなことを想って書いたのだろう? それを知れば何か変わるんじゃないかという期待があった。生きていた時と亡くなってからの変化、そこに枯れた夢を再度咲かせる何かがあると思っている。自分の作品を批判され命を投げ出した作家は、この本に何を残そうとしたんだろう。
「奥村千星さん?」
五分ほど待っていると声をかけられた。本を読んでいた私は顔を上げ、声の主を確認した。
黒のセーターの上に紺のジャケットを羽織り、下はベージュのチノパン。メガネをかけており、縁の部分に前髪がかかっている。ビジネスバックを肩にかけ、カップを乗せたトレーを持っていた。三十代半ばで雰囲気は優しそうだった。
「はい」
本を閉じて返答した。
「白川出版の青木といいます」
青木さんは席に腰を下ろしたあと、爽やかな表情で言った。
「奥村です。今日は来てくださってありがとうございます」
緊張からかたどたどしい挨拶になる。
「久しぶりに結衣さんが来たからびっくりしたよ。もう何年前かな? あの頃と全然変わってないね。見た目も中身も」
若作りに必死なんだと思います。こんなことを言ったら、急に出てきて首を絞められそうだと思い、言うのをやめた。
「枯木くんのことを聞きたいんだよね?」
「はい。この本を書いたときのことを教えてほしいです」
手元にあった枯木青葉の死後に発表された作品、『夜の祈りは星になる』を指差して言った。
「どこから話せばいいかな」
思い出を辿るように、宙に視線を向けて言った。
「枯木さんは作品への批判が原因で、自ら命を絶ったんですよね?」
「うん。枯木くんの作品てさ、読者のために書いた作品ではなく、自分のために書いた作品だったんだよ。主人公に自分の想いを代弁させて、世間の人に枯木青葉という人間を受け入れてほしかった。彼の作品は彼自身なんだ。読者にとっては作品の批判でも、枯木くんにとっては自分に向けられた批判だった。だから自分のすべてを否定されたと思い、命をなげうった」
僕は好きなんだけどね、と青木さんは付け足した。
作品と自分を重ね合わせる。そこは美月ちゃんと共通するところだ。
「彼は自分の過去を話したがらなかった。たぶん、ずっと孤独の中で生きていたんだと思う。小説というものが自分と世界を繋いで、いつからか生きる意味に変わった。でもその糸が切れたとき、枯木青葉という人間はこの世を去った。誰にも知られないまま生きるより、知ってもらってから背中を向けられる方が辛いのかもしれない」
青木さんは静かにカップを持ち上げて、湯気の立つコーヒーを口にした。
「この本だけ他の作品と違うテイストになってますよね? 四作品までは自分のために書いていたと思います。でも最後の作品は“自分”ではなく“誰か”のために書いたように感じました。亡くなってから何か変化があったんですか?」
カップを静かに置いたあと、青木さんは思い出に浸るような目でコーヒーを眺めた。
「僕が流星の駅に呼ばれたとき、彼はもう一度本を書きたいと言ったんだ。『今までは自分のために書いてきた。でも最後は同じ悩みを持つ人たちが救われる本を書きたい。俺を満足させるために存在していたキャラクターたちを、誰かの心の中でずっと生き続けるようにしてあげたい。あの女の人に言われて気づいた。俺が書いた小説は俺自身じゃなく、自分の子供だって。だからこの手で生み出した作品もキャラクターたちも、みんな報われてほしい。読んでくれた人たちに好きになってもらいたい。それが親としての責任だと思います』そう言ってた」
青木さんは私の手元にある本を見た。まるで旧友を懐かしむように。
「それから一緒に話し合った。どうやったら読者の心に残るのか、その人の人生に影響を与えられるのか、辛いときの支えになれるかを。編集の仕事を始めてから、その期間が今までで一番楽しかった。自分のためにやることも大事だけど、読んでくれる人のために作ることも、同じくらい大切だって気づけたから。設定とプロットを練ったあと、最後の一週間で彼は初稿を仕上げた」
青木さんはメガネの縁にかかっていた前髪を小指で掻き分ける。
「最後の日に枯木くんが言ったんだ。『死んだことを後悔してます。誰かに否定されたからって死ななくても良かった。小説なんて書かなければよかったと思っていたけど、もっと書いていたい。読んでくれた人が笑って生きていけるような作品をもっと作りたかった。死んでからそれに気付くなんて、俺バカですよね』って」
青木さんを見ると目が潤んでいた。
私の視線に気づいたのか、誤魔化かすようにコーヒーを飲む。カップがソーサーに戻るまで少し時間がかかったが、私は置かれるまで何も言わずに待つことにした。
ゆっくりとカップを置くと、青木さんは再び話し始めた。
「そのあとは枯木くんの意図を汲み取りながら、細かい修正を僕がやった。だからその本は甥っ子みたいなものなんだ。売れたときは本当に嬉しかった。その本と枯木くんが報われたようで」
この本には枯木青葉の想いが込められている。でもそれは“自分”に向けられたものではなく、“誰か”に向けられたものだ。そこに今までの作品との違いがある。
「でも一番嬉しかったのは、本を読んだ人から手紙が来たことなんだ」
青木さんは鞄から一枚の封筒を取り出し、中から便箋を出した。
「一ヶ月前に出版社に届いた手紙なんだけど、読んでみて」
折り畳まれた便箋を広げると、丁寧に書かれた文章が綴られていた。そこにはこう書いてある。
枯木青葉先生が書かれた「夜の祈りは星になる」を
拝読させていただきました。
本を読んで手紙を書こうと思ったのはこれが初めて
です。
当時の私は死のうと考えていました。
幼い頃から孤独の中で生き、自分の存在価値が見出
せなかったからです。
でもこの作品を読んで、もう一度生きてみようと思
いました。
言葉一つ、一つが孤独な私に寄り添ってくれて、こ
んな自分を肯定してくれた。
今、抱えている苦しさは私だけじゃなく、他の人も
持っている。だから一人じゃない、『あなただって
生きていていいんだよ』そう言ってくれているよう
でした。
当時の私は死ぬ以外の選択肢を持っていなかった。
死ぬことだけが救いだと思っていた。
でもこの本に出会えたことで『生きることに希望を
抱いてもいいのではないか』と考えらるようになり
ました。
私の人生が変わった瞬間だった。
今は結婚して子供を授かることができました。
あのとき死んでいたら、この子に会えていなかった
です。
私はこの作品に救われ、生きていてよかったと思え
るようになりました。
枯木先生に直接言葉を届けることは叶いませんが、
この作品を世に出して頂いたことを心より感謝申し
上げます。
枯木青葉は最後の作品で人の命を救い、そして新しい命に繋げた。一つの作品の持つ力は、私が思っていた以上なのかもしれない。
青木さんに手紙を返すと、慎重に封筒に戻してから鞄に仕舞った。
「すごいですね。面白いと思わせるだけでも大変なのに、人の人生にまで影響を与えるなんて」
「人を救う仕事っていくつかあるでしょ? そのほとんどが何かあってから救うという行動に移すけど、自分たちの仕事は“何かある前に”誰かの命を救うことができる。こんな素晴らしい仕事なんだよって、枯木くんは最後に教えてくれた。良い作品って、読み終わった後に道を作ってくれるんだと思う。だから今は、読んでくれた人に何を残せるかを考えながら物語を作ってる」
何気なく読んでいた本には、もう一つ見えないストーリーがあって、それが顕在化した作品が『夜の祈りは星になる』だった。
そして顕在化したものが読者の現実に反映されたとき、作品はその人の中で生き続けるのかもしれない。
「もし才能の壁にぶつかって夢を諦めてしまった人がいるとしたら、どう声をかけたらいいと思いますか?」
萎れていく才能を枯木青葉は再び咲かせた。美月ちゃんが再び夢を拾い上げることだってできると信じたい。
「その人は夢を目指している人?」
「はい。その子は絵を描いているんですけど、枯木さんと同じく作品に自分を投影させています。圧倒的な才能に触れて、自分の価値がなくなったと思い込んでしまった。だけど何て言ったらいいか分からないんです。私は何かを目指したことがないから、正しい言葉が見つからなくて……」
今は道が閉ざされ、どこに向かって良いのか分からない。だから希望が見えるような言葉を言ってほしかった。
「才能の種は誰にでもあると思う。でも多くの人は育てかたが分からなかったり、育てかたを間違ってしまう。躓いたときは一度立ち止まって、自分と向き合うことが必要なんだ。創作って自分の理想を追い求めてしまうけど道は一つじゃない。その人の軸になっているものが、どうやったらもっと良くなるのかを考えると視野が広がっていく。迷いは新しい道を探すきっかけなんだよ。でもそれをスランプとか才能がないって方向に変換してしまう。本当は才能の芽が育っているのに」
美月ちゃんは才能に躓いて立ち止まってしまっている。今必要なのは自分の絵と向き合って、視野を広げることなのかもしれない。
そのあと青木さんのスマホに着信がきて、職場に戻らないといけなくなった。
「ごめんね、急用ができちゃって」
「いえ、色々とお話が聞けて良かったです。ありがとうございました」
青木さんはトレーを持って立ち上がると、私を見てこう言った。
「好きなだけでは続けられないかもしれない。でも、好きなだけでも続けていいんだよ。誰かより下手だったとしても、自分が自分でいられるなら、その人にとっては必要なものだから」
最後に「結衣さんによろしく言っといて」と言葉を残し、青木さんは店を出て行った。
何かを続けるのに大きな理由はいらないのかも知れない。
『好きだから』これも立派な理由だった。
本を開き、再び読み直した。ここには書いていないストーリーを重ねながら。
本に夢中になってしまい、気づけば外の世界は夜を迎えていた。母からの着信で現実に引き戻され、速やかに帰る支度をする。
店内を出ると、少し欠けた月が夜空に浮かんでいた。
月は夜の中で圧倒的な存在を示している。だが孤独にも見えた。
星は周辺の星と繋がって星座となるが、月は一人で夜空に佇む。
外の世界と繋がりを感じれば孤独は薄まる。
だが美月ちゃんは一人なってしまった。
いや、一人になることを選んだ。絵という結び目が解ければ、自分の周りから人が離れていく。そう思ったから、解ける前に自ら解いてしまったのかもしれない。そっちの方が傷が浅くなるから。
ふと紗奈ちゃんの顔が浮かぶ。美月ちゃんが再び世界との結び目を作るには、彼女の力が必要だ。そう思ったら無意識にスマホを開いていた。
少し遅い時間だったからかけるのに躊躇したが、早めに話しておいた方がいいと思い、路地に入って電話をかける。
――もしもし
「こんな時間にごめんね。今大丈夫?」
――はい
紗奈ちゃんに美月ちゃんのことを話した。彼女には言わないといけないと思う。知らないままでは何も変わらないから。
なぜ絵をやめたのか、なぜ学校に行かなくなったのか、その理由と起因を紗奈ちゃんに伝えると、沈黙がしばらく続いた。
――土曜日に奥村さんを美術室に連れてきてもらえませんか。直接彼女と話したいので
沈黙の間に色んな想いを反芻していたのだろう、声から覚悟を感じる。
「分かった。明日、会いに行って話してみる」
――ありがとうございます
時間などを決めたあと電話を切り、再び月を見上げた。
夜という世界で美しく佇み、朝になれば太陽に埋もれてしまう。自分よりも光り輝く存在が現れれば、どんな美しいものでも影に消えていく。多くの人はその光に飲み込まれていくんだと思う。
だけどそれでも生きていかないといけない。妥協して、自分に嘘をついて、消える光を眺めながら、才能の芽を自ら摘み取って、新たな道を探していく。そうしないと世界に置いていかれてしまうから。
でも捨てる必要はない。自分らしくいられるなら、光は消えないのだから。