家々に灯り始めた明かりを眺めながら、彩月は土手から住宅街へと続く道を歩き続ける。ここまで来たら短大に入るまで住んでいた実家はもうすぐそこだった。
「寒くはないか? もう少し身を寄せた方が良いだろうか……」
「大丈夫だよ。ありがとう」
先程から彩月の腕の中に収まったうさぎがピッタリと彩月にくっついてくれるので、そこだけほんのりと身体が温まる。まるで天然のカイロだった。
「それより良いの? 私にくっついたらドブ川の臭いが移っちゃうよ」
「臭いならいくらでも身体を洗えばいい。だが君の身体はその身一つだけだ。風邪でも引いたら大変だろう」
「平気平気。健康だけが取り柄だから」
そうは言いつつも、先程から風が吹く度に身体からは体温を奪われて身震いが止まらなかった。その度に彩月の身体からは腐った食べ物が発する生ゴミのような臭いと泥が混ざったドブ川の悪臭まで漂うので、鼻も曲がりそうになる。
あのままずっと川辺にいるわけにもいかず、とりあえずうさぎを連れて爽月と両親が待つ実家に行くことにしたが、帰ったら帰ったで爽月と両親に咎められることは間違いない。もしかすると汚らしい彩月の格好を見て、家の中に入れてくれない可能性だってある。そうなったら実家に入るのは諦めて、普段住んでいる学生寮に戻るしかない。
寮母夫妻には外泊の申請をしていたが、適当に事情を説明して取り下げてもらえば良いだけのこと。うさぎにはぬいぐるみの振りをしてもらえばいい。
「君には丈夫な体以外にも良いところがあるだろう。そう謙遜せずとも……」
「私なんて、何も良いところ無いよ?」
それ以上、触れてはいけない何かがあると思われてしまったのか、うさぎは口を閉ざしてしまう。その代わりに先程よりも彩月に身体を密着させてきたので、慰めてくれているのかもしれない。
うさぎにまで余計な気を遣わせてしまった罪悪感から首の後ろを撫でていると、前から長身の若い男性が近づいてきているのに気付く。
濡羽色のロングヘアをうなじまで伸ばして、紺のテーラードジャケットと黒のスラックス、そして黒いサングラスといった若干派手な見た目。
閑静な住宅街には不釣り合いなパンクスタイルに似た格好をした男性に声を掛けられないように彩月は目線を下に向けていたが、男性は何かに気付いたようにすれ違いざまに声を掛けてくる。
「可愛いうさぎだね。君のペット?」
「えっ!? えっと……その……」
目をつけられないように俯いていたのが逆効果だっただろうか。答えに困って腕の中のうさぎに助けを求めるが、ぷいとそっぽを向いていた。人見知りなのか、この男性が嫌いなのか。
そうして戸惑っているうちに、男性は「ごめんごめん」と害は無いというように両手を上げたのだった。
「怖がらせるつもりはなかったんだ。実はペットのうさぎが逃げちゃってね。探しているところだったんだ。だからつい君のうさぎが気になっちゃって」
「はあ……?」
先程よりも幾分か柔らかくなった耳心地の良いバリトンボイスに彩月もそっと胸を撫で下ろす。
もしかしたら見た目に反して悪い人では無いのかもしれない。彩月は警戒心を緩めると苦笑する男性の話に耳を傾ける。
「前から脱走癖はあったんだけど、勝手に戻ってくるからそのままにしてたんだよね。いつもだったらこの時間には戻ってくるはずなんだけど、なんでだか今日は帰って来なくて。一応……探していたんだ」
「早く見つかるといいですね」
「ありがとう。もし見つけたら、保護しておいてくれないかな。丁度、君が抱いているような黒うさぎだからさ」
男性は口元を緩めて人好きな笑みをうさぎに向けるが、うさぎは目さえ合わせなかった。やはりわざと無視しているような気がしてならない。
そして彩月は軽く頭を下げると背を向けるが、「ちょっと待って」と両肩に布を掛けられる。それが男性が羽織っていたジャケットだと気付くと、彩月は慌てて振り返ったのだった。
「何があったのか知らないけど、女の子が身体を冷やしちゃダメだよ。早く温かいシャワーを浴びて、身体を温めてね」
「ありがとうございます。でもこんな高そうなお洋服をお借りできません。今の私はその……お世辞にも綺麗とは言い難い格好をしていますし……」
「気にしないで。家に帰れば同じような服が沢山あるから。それに……君とはまた会うような気がするからね」
秘密というように人差し指を口に当てた後、男性は「じゃあね」と去っていく。
「優しい人だね……」
「気障ったらしいの間違いだろう」
つい見惚れてしまった彩月だったが、うさぎの悪態で我に返る。男性の温もりと花のような甘い香りが残るジャケットに袖を通しながら、「そういえば」とうさぎに尋ねる。
「まだ名前を聞いていなかったけれど、うさぎさんには名前あるの? 私は彩月って言うの」
「ああ。俺は響葵という。それより先を急がなくていいのか」
「そうだった! 早く帰らないと爽月に怒られちゃう!」
響葵と名乗ったうさぎを庇いながら彩月は十六夜が照らすアスファルトの道を駆け出す。土手沿いを歩いている時は憂鬱でしか無かった帰路が、響葵と名乗る不思議なうさぎのお陰で少しだけ足が軽くなったように感じられた。
しかしそれも実家の玄関を開けるまでのこと。弾むような勢いで扉を開けた彩月を待っていたのは、「遅いっ!」という爽月の怒鳴り声とどこからか飛んできた雑誌であった。
「寒くはないか? もう少し身を寄せた方が良いだろうか……」
「大丈夫だよ。ありがとう」
先程から彩月の腕の中に収まったうさぎがピッタリと彩月にくっついてくれるので、そこだけほんのりと身体が温まる。まるで天然のカイロだった。
「それより良いの? 私にくっついたらドブ川の臭いが移っちゃうよ」
「臭いならいくらでも身体を洗えばいい。だが君の身体はその身一つだけだ。風邪でも引いたら大変だろう」
「平気平気。健康だけが取り柄だから」
そうは言いつつも、先程から風が吹く度に身体からは体温を奪われて身震いが止まらなかった。その度に彩月の身体からは腐った食べ物が発する生ゴミのような臭いと泥が混ざったドブ川の悪臭まで漂うので、鼻も曲がりそうになる。
あのままずっと川辺にいるわけにもいかず、とりあえずうさぎを連れて爽月と両親が待つ実家に行くことにしたが、帰ったら帰ったで爽月と両親に咎められることは間違いない。もしかすると汚らしい彩月の格好を見て、家の中に入れてくれない可能性だってある。そうなったら実家に入るのは諦めて、普段住んでいる学生寮に戻るしかない。
寮母夫妻には外泊の申請をしていたが、適当に事情を説明して取り下げてもらえば良いだけのこと。うさぎにはぬいぐるみの振りをしてもらえばいい。
「君には丈夫な体以外にも良いところがあるだろう。そう謙遜せずとも……」
「私なんて、何も良いところ無いよ?」
それ以上、触れてはいけない何かがあると思われてしまったのか、うさぎは口を閉ざしてしまう。その代わりに先程よりも彩月に身体を密着させてきたので、慰めてくれているのかもしれない。
うさぎにまで余計な気を遣わせてしまった罪悪感から首の後ろを撫でていると、前から長身の若い男性が近づいてきているのに気付く。
濡羽色のロングヘアをうなじまで伸ばして、紺のテーラードジャケットと黒のスラックス、そして黒いサングラスといった若干派手な見た目。
閑静な住宅街には不釣り合いなパンクスタイルに似た格好をした男性に声を掛けられないように彩月は目線を下に向けていたが、男性は何かに気付いたようにすれ違いざまに声を掛けてくる。
「可愛いうさぎだね。君のペット?」
「えっ!? えっと……その……」
目をつけられないように俯いていたのが逆効果だっただろうか。答えに困って腕の中のうさぎに助けを求めるが、ぷいとそっぽを向いていた。人見知りなのか、この男性が嫌いなのか。
そうして戸惑っているうちに、男性は「ごめんごめん」と害は無いというように両手を上げたのだった。
「怖がらせるつもりはなかったんだ。実はペットのうさぎが逃げちゃってね。探しているところだったんだ。だからつい君のうさぎが気になっちゃって」
「はあ……?」
先程よりも幾分か柔らかくなった耳心地の良いバリトンボイスに彩月もそっと胸を撫で下ろす。
もしかしたら見た目に反して悪い人では無いのかもしれない。彩月は警戒心を緩めると苦笑する男性の話に耳を傾ける。
「前から脱走癖はあったんだけど、勝手に戻ってくるからそのままにしてたんだよね。いつもだったらこの時間には戻ってくるはずなんだけど、なんでだか今日は帰って来なくて。一応……探していたんだ」
「早く見つかるといいですね」
「ありがとう。もし見つけたら、保護しておいてくれないかな。丁度、君が抱いているような黒うさぎだからさ」
男性は口元を緩めて人好きな笑みをうさぎに向けるが、うさぎは目さえ合わせなかった。やはりわざと無視しているような気がしてならない。
そして彩月は軽く頭を下げると背を向けるが、「ちょっと待って」と両肩に布を掛けられる。それが男性が羽織っていたジャケットだと気付くと、彩月は慌てて振り返ったのだった。
「何があったのか知らないけど、女の子が身体を冷やしちゃダメだよ。早く温かいシャワーを浴びて、身体を温めてね」
「ありがとうございます。でもこんな高そうなお洋服をお借りできません。今の私はその……お世辞にも綺麗とは言い難い格好をしていますし……」
「気にしないで。家に帰れば同じような服が沢山あるから。それに……君とはまた会うような気がするからね」
秘密というように人差し指を口に当てた後、男性は「じゃあね」と去っていく。
「優しい人だね……」
「気障ったらしいの間違いだろう」
つい見惚れてしまった彩月だったが、うさぎの悪態で我に返る。男性の温もりと花のような甘い香りが残るジャケットに袖を通しながら、「そういえば」とうさぎに尋ねる。
「まだ名前を聞いていなかったけれど、うさぎさんには名前あるの? 私は彩月って言うの」
「ああ。俺は響葵という。それより先を急がなくていいのか」
「そうだった! 早く帰らないと爽月に怒られちゃう!」
響葵と名乗ったうさぎを庇いながら彩月は十六夜が照らすアスファルトの道を駆け出す。土手沿いを歩いている時は憂鬱でしか無かった帰路が、響葵と名乗る不思議なうさぎのお陰で少しだけ足が軽くなったように感じられた。
しかしそれも実家の玄関を開けるまでのこと。弾むような勢いで扉を開けた彩月を待っていたのは、「遅いっ!」という爽月の怒鳴り声とどこからか飛んできた雑誌であった。