(あれは……うさぎ?)

 カメラをズームにすれば、黒い毛に覆われたうさぎが川を覗き込むように立っていた。ピンと立った長い耳と大きな身体から大人のうさぎだろうが、この川辺でうさぎを見るのは初めてだった。どこかの家から逃げ出したペットだろうか。

(せっかくだし、一枚くらいなら写真を撮ってもいいよね)
 
 それならうさぎと一緒にキョウくんのマスコット人形も撮影しようと、もう一度スマホを構える。すると今度はカメラの外からうさぎに向かって黒い塊が音もなく近づいているのが見えた。すぐさま黒い塊に焦点を合わせてズームすれば、昔からこの近辺を根城にしている野良猫が画面に写された。

(た、大変! あのうさぎさん気付いているかな……)

 うさぎは警戒心が強くて物音に敏感という話を聞いたことがあるが、川辺の黒うさぎが気付いている様子は無さそうだった。何かを考えこんでいるかのように、川の一点をじっと見つめて動かない。

(どうしよう……)

 彩月は辺りを見渡すが、他には誰もいなかった。猫を止めた方がいいのか、それとも見なかった振りをして行き過ぎればいいのか分からない。
 自然の摂理に任せるのならここは止めずに見守った方がいい。ただそれならあのうさぎの飼い主や家族はどんな気持ちになるのだろうか。傷つけられたうさぎに心を痛めないだろうか。
 彩月とは違って、うさぎにはきっと大切な家族がいるだろうから。

(ネコさん、ごめんね)

 彩月は深呼吸をすると、土手に足を踏み出す。伸び放題になった草が滑ってバランスが取れないが、その勢いのままに彩月はバッグを放り投げると奇声を上げながらうさぎと猫の間に割って入ったのだった。

「うおおおおお……っ!」

 自分の口から出たのは鬨の声というよりは、ゴリラのような野太い奇声だった。もし誰かこの状況を見ている人がいたら、間違いなく笑い者にされただろう。
 ただその甲斐があったのか猫は飛び上がるようにして逃げ去り、うさぎは驚きのあまり動けなくなったのか咄嗟に抱き上げた彩月の腕の中に大人しく収まってくれたのだった。

「あ、危なかったね……」

 普段は出さない大声を出したからか、彩月の喉は掠れていた。心臓もバクバクと大きな音を立てていたが、それでも不思議と達成感に満たされていた。目の前で猫に襲われるうさぎを見なくて済んだからだろうか。

「これからは気をつけてね。早くおうちに帰れますように……」

 最後は祈るような気持ちでその場に降ろすが、何故かうさぎはその場から動かなかった。人慣れしているのか、それともまだ衝撃から抜け出せていないのか。彩月は目線を合わせようとその場に膝をつくが、やはりうさぎは警戒するどころか物言いたげな様子で彩月を見つめるだけであった。

「君はこの辺りに住んでいるの? 家族は? はぐれたちゃったの?」

 答えてくれないと分かっていても、ついつい話しかけてしまう。試しに手を伸ばせば、うさぎは鼻をヒクヒク動かしながらも、素直に首を撫でさせてくれた。柔らかな温かい毛並みに、彩月の昂っていた感情も少しずつ落ち着いていく。

「一緒に家族を探してあげたいんだけど今日は急いで家に帰らないとだし、普段は大学の寮に住んでいるから飼えないし……どこかに預けられないかな。代わりに警察に連れて行ってくれる人とか……」

 そこまで考えたところで持っていたスマホとキョウくんのマスコット人形がどこかにいってしまったことに気付く。スマホはバッグと一緒に放り投げた記憶があるが、マスコット人形はどこにいったのか……。
 辺りをキョロキョロ見渡していると、少し離れた水面で裏返しになったマスコット人形が落ちているのが見えた。

「きょ、キョウくん!?」

 彩月は弾かれたように駆け出すがその間もどんどん流されていき、やがて川の中州付近に生える水草に引っ掛かってしまう。

「いま行くからっ!」

 ジャケットとパンプスを脱ぐと、彩月は迷わず川に飛び込む。川岸近くはどうにか彩月の足がつく程度であったが、すぐに足がつかなくなってしまう。慎重に立ち泳ぎをしながら中州に向かったのだった。
 
(私のバカバカ! 大切なキョウくんを川に落としちゃうなんてっ!)

 波を立てないように泳ごうとするが水を吸った衣服が重くて全く進まず、結んでいた髪も解けて顔に纏わりついては視界を遮る。加えてお世辞にも綺麗とは言い難いドブ川の水が口や鼻から入ってきて気持ち悪い。苦しいものの、命よりも大切なキョウくんをあのままにしておけなかった。

(私の生き甲斐。私を救ってくれたキョウくん。大好きで大切な私の推し……!)

 藻掻くようにして泳いでもう少しで届くというところで、一際大きな波が立って水草が揺れる。マスコット人形はするりと水草から離れると流されてしまったのだった。

「まっ……キョウくっ……げほげほっ……!」

 口を開けた瞬間に川の水が大量に入ってきて咳き込んでしまう。態勢を整えようにも近くに掴まれるものも無く、彩月はすっかりパニックに陥ってしまったのだった。

「だれかっ……たすけっ……! キョウくっ……!」

 どうにか息を吸おうと水面から顔を出そうとするが、水を吸った衣服が邪魔をする。水音を立てることで通行人に気付いてもらおうとするが、夕方も遅い時間帯だからか誰も通らなかった。
 先程まで川面を照らしていた夕陽が沈んでどんどん暗くなっていき、彩月の体力も限界に近づいていた。

(もうだめ。力が入らな……)

 身体から力が抜けて意識を失いかけた時、彩月の耳にはっきりと若い男性の言葉が入ってきたのだった。
 
「君、こっちだ! 早くこっちに来い!」