「こっちだ。庭に出る近道がある」
 
 月祈乃の部屋を後にした彩月は月の神器を収めた桐箱を眉月に預けると、響葵の案内で広い屋敷の廊下を進んでいく。響葵が言っていた通り、少しして縁側に辿り着くと草履を履いて庭に出たのだった。

「わあ、すごい……!」

 口をついて感嘆の声が漏れてしまう。屋敷の庭には色とりどりの花々が植えられていた。桜、藤、菖蒲、撫子、秋桜、金木犀、桔梗、椿など、本来であれば同じ時期に咲かないような花まで咲いており、花好きにとっては夢のような光景であった。

「見事な光景だろう。月には四季が存在しないからか、全ての花が一斉に開花する。これも『月の加護』を含んだ月の土壌によるものらしい」
「この花は全て地球から運んだの?」
「姫が月で暮らし始めた時にな。この屋敷も元は寝殿造と呼ばれる昔の造りをしていたが、姫が来た時に建て直したと聞く。故郷の生家を再現したと」
「それで歴史の教科書に出てくるような昔懐かしいデザインなんだね。なんだかタイムスリップしたみたい」
「歩いて見ていては時間が足りない。池に小舟を用意させたから、それに乗って庭を回ろう」

 庭の中央には大きな池があり、岸には小舟が係留されていた。
 響葵の手を借りて彩月が小舟に腰を下ろすと、櫓を持った響葵が漕ぎ始める。小舟は水面を滑るようにゆっくりと動いたのだった。

「四季が無いからなのかな。暑くもなければ寒くもなくて過ごしやすいね」
日本(あっち)に行ったばかりの頃、寒暖差の激しさに驚いた。噂には聞いていたものの、雨や雪も初めて見たからな」
「天気も無いの?」
「月の都は年中晴れているぞ。四季と天気は無いが昼と夜はある。そして夜になると、姫が『月の加護』を送る」
「知らないうちに、私たちは月祈乃さんの恩恵を受けていたんだね」

 それからは響葵が説明してくれる屋敷の庭や花について耳を傾けていたが、どうしても響葵が気になって彩月はちらちらと見てしまう。やがて響葵も視線に気付いたのか、「どうした?」と問い掛けてきたのだった。

「響葵くん、元は髪が長かったんだなって」
「事務所の社長に切るように言われて、美容院に連れて行かれた。切ったばかりの頃は軽くて落ち着かなかったが、慣れてしまえば手入れが楽ということに気付いてな。それからはこの髪型を維持している」
「前に響葵くんが出演した時代劇風ミュージカルのポスターを見たけれど、長髪もとても似合っていたよ」
月の都(ここ)では老若男女関係なく、皆が髪を伸ばしていた。日本(あっち)では髪を短くしていて驚いたものだ。それにしてもよく知っているな。ミュージカルに出たのは、俺がスカウトされてすぐのたった一回きり。それも事務所の先輩の代役でだぞ」
「響葵くんの名前を知ってから沢山調べたから。出演作以外にも趣味や特技、好きな食べ物、休日の過ごし方まで……響葵くんに関する知識なら、きっとどのファンにも負けないと思う」
「嬉しくもあり恥ずかしくもあるな。だがそんな君が月の姫であることを嬉しく思う。これからは俺も君のことを知ろう」

 風が頬を撫でて背中に流した髪が靡く。会話が途切れてしまうと、櫓が水を掻く音だけが静かに聞こえる。
 
「響葵くんはもうアイドルに戻るつもりは無いんだよね……?」
「俺にとってのアイドル活動は“目的”ではなく、月の姫を探すための“手段”だった。そして“目的”が果たされた以上、戻る必要も無い。未練も無いからな。君が俺を……響夜が忘れられないように発信し続けていたことには感謝するが」
「いつか戻ってきた時のために居場所を残しておきたかったの。居場所が無いのは辛いことだから……」
「そうだな……」

 消え入るような呟きの後、響葵は池を一周する前に小舟を泊めてしまう。岸につけると、「少し歩こう」と提案される。