***

「もう目を開けても大丈夫ですよ、椿さん」
「は、はい」

 羅漢に抱きかかえられた椿は、幽世へ到着するまで目を閉じているように言われたのだ。人の世から幽世へと移動する際、目を開けままだと、慣れない者では目を病んでしまうことがあるという。

「どこか痛いところはありますか? もしも体調が優れないようでしたら、従者にすぐに手当てさせますので」
「痛むところはございません、羅漢様。お気遣いありがとうございます」

 大切な宝物のように、椿を抱いていてくれたからだろうか。椿は羅漢の腕の中が心地良かった。思わずうとうと微睡んでいたとは、とても言えない椿だった。

「では我が家には馬車でまいりましょう、椿さん。子どもたちもあなたを待っていますよ」
「羅漢様。息子さんたちは私の体のことをご存知でしょうか? こんな体の継母(はは)なんて嫌じゃないでしょうか」

 すでに子どもがいる羅漢との婚姻は急に決まったため、羅漢の子どもたちのことを椿は何も知らない。

「椿さん、心配なさらないで下さい」
「でも……」
「我が家に到着すれば、わかりますから」

 なぜか詳しく話してくれない羅漢を不思議に思う椿だ。
 用意してもらった馬車に羅漢と共に乗り込み、子どもたちが待つ屋敷へと向かったのだった。



「到着しましたよ、椿さん」
「は、はいっ……!」

 いよいよだ。羅漢の子息、椿の継子となる子たちとの初対面。初めて乗る馬車にも緊張しているが、子どもたちに会うほうがもっと心配だ。

(子どもの姿の私を見たら、どう思うかしら。お母さんだなんて思えるわけないわよね……)

 不安と緊張で、馬車から降りることができない。そんな椿を察した羅漢が、優しく手を差し出してくれた。

「大丈夫ですよ。わたしと一緒に馬車を降りましょう」

 包容力あふれる羅漢の大人の微笑みに緊張が和らいだ気がした。羅漢の大きな手に自らの小さな手を重ねる。

「はい。よろしくお願いいたします」

 羅漢に支えてもらいながら、椿は馬車をゆっくりと降りた。地に足をつけると、風がふわりと椿の頬を優しく撫でる。

「椿さん、こちらが我が家ですよ」
「えっ……?」

 想像とは全く違う家屋が、椿の目の前にあった。羅漢に「我が家」と案内された家は、洋風の大きなお屋敷だったのだ。天宮家の外に出たことがない椿は、洋式の建物も写真でしか見たことがない。
 羅漢はあやかしであり鬼なのだから、純和式の家屋だろうと椿は勝手に思っていた。だが実際はお伽話に出てくるお城のような洋風のお屋敷。驚いた椿は呆然とお屋敷を見上げている。

「驚かせてしまったようですね。幽世でも最近は洋式のものを取り入れるのが流行っておりまして。でも安心してください。中に入れば和式の家屋も渡り廊下で繋がっておりますので、そちらを椿さんの部屋にしましょう」

 ということは、かなり大きなお屋敷ではないだろうか。羅漢の具体的な立場や仕事はまた知らないが、相当な財力があるようだ。

「お帰りなさいませ、羅漢様」

 音もなく出迎えに現れたのは、黒い燕尾服を着た、羅漢より少しばかり歳上と思われる男性だった。

秋羽(あきば)、出迎えご苦労。使いの烏に連絡させたが、こちらの方がわたしの花嫁となられる方だ」
「心得ております。離れの和式の館を花嫁様のために御用意させていただきました」
「さすがは秋羽だ、対応が早いね。椿さん、こちらは我が家の執事、秋羽だよ」
「しつじ……?」

 聞いたことがない職種に、椿は不思議そうに頭を傾ける。

「我が家に仕える使用人の采配やわたしの仕事の補佐、家の用事など様々なことをやってくれている。洋式の屋敷にするなら仕える者もこだわるべきだと率先して執事になってくれた。今では我が家には欠かせない存在だよ。ちなみに同じ鬼の一族だ」
「過分な御言葉、恐縮でございます。花嫁様、わたくしは執事の秋羽でございます。椿様にも心を込めてお仕えさせていただきます」

 右手を胸元に当て、腰から体を体を曲げて、執事の秋羽は丁寧に椿に挨拶してくれた。

「こ、こちらこそよろしくお願いしますっ!」

 椿も慌てて頭を下げる。子どもの姿をした椿を秋羽は羅漢の花嫁として扱ってくれるようだ。その気遣いがありがたい。

「それで子どもたちは今どこに?」
「はい、それが……」

 秋羽が小声で説明し始めた時だった。

「えーいっ!」
「とやぁっ!!」

 元気の良いかけ声と共に、二つの小さな影が秋羽の背後から飛び出してきた。くるっと宙を回転し、椿の目の前に見事に着地する。さっと顔を上げた二人のことを、椿はよく知っていた。

「椿ちゃん、青斗だよ! えへへ、びっくりしたぁ?」
「よぅ、椿ぃ。赤瑠だぜっ! おれさまのこと、忘れてないよなぁ?」

 椿の前に飛びこんできたのは、何度も天宮家にこっそり遊びに来ていた鬼の子どもたち、青斗と赤瑠だった。

「青斗くん、赤瑠くん? なんでここに?」

 状況を理解できない椿は、妙な声を発してしまった。もう二度と会えないと思った双子の鬼たちに再会できたけでも驚きなのに、まさか羅漢のお屋敷で会えるとは。

「だってココ、ぼくたちのおうちだもん」
「そうだぜ。ココはおれたちのおうち!」
「羅漢様のお屋敷が二人のお家? ということは二人は……?」

 なんとなくわかってきた。だが頭の中が混乱している椿には、言葉がすぐに出てこない。

「こらっ! 青斗に赤瑠。いきなり飛び出てきて椿さんを驚かせるんじゃないっ!」
「あっ、おとしゃん、いたの?」
「とーちゃん、いるならいるっていえよぅ」
「さっきからここにいるだろう? どうしておまえたちは目の前のことしか見えてないんだ!」

 それぞれ呼び方は違うが、青斗と赤瑠は羅漢のことを「父」と呼んでいる。それはつまり、青斗と赤瑠は羅漢の息子ということになる。

「椿さん、申し訳ございません。青斗と赤瑠、二人がわたしの双子の息子たちでして。このとおり、とても元気です。元気すぎるほどに。二人とも、改めて椿さんに御挨拶しなさい。礼儀正しくな」

 父の羅漢に命じられた青斗と赤瑠は、二人同時にぺこりと頭を下げた。

「青斗です! 椿ちゃん、これからもよろしくね」
「赤瑠だぞ! これからもよろしくなっ!」

 きゅるんとした笑顔で愛らしく挨拶した青斗に、片手を上にびしっとあげて元気いっぱいに挨拶した赤瑠。礼儀正しい挨拶かどうかはともかく、二人の性格の違いがよくわかる微笑ましい挨拶だ。

「椿さんはもう、おまえたちの友だちじゃないんだぞ。青斗と赤瑠の継母(はは)になられる方だ。椿さんと名前で呼ぶのではなく、『お母さん』と言いなさい」

 継母となる椿に息子たちが友だちと同じような挨拶しかできないことを、羅漢はお怒りの様子だ。

「羅漢様、どうか怒らないであげてください。青斗くんと赤瑠くんにはこれぐらい元気であってほしいですから。それより二人が羅漢様の息子さんであることに驚いています」

 青斗と赤瑠が羅漢の実子であり、二人は椿の継子となることはわかった。だが椿の元にこっそり遊びに来ていた双子の鬼が、なぜ継子になるのだろうか。

「奥の部屋でお話ししましょう」

 執事の秋羽に案内され、離れにある和式の家屋で羅漢に説明してもらうこととなった。青斗と赤瑠は使用人に世話をしてもらいながら庭で遊んでいると羅漢は話してくれた。

「椿さんにもお話したかと思いますが、青斗と赤瑠の実母はすでに他界しております。二人を産んですぐのことでしたので、青斗と赤瑠は母の顔も知りません。父であるわたしがあの子たちを慈しんで育てているつもりですが、足りない部分もあるのでしょうね。父にも秋羽にも内緒で、こっそり外へ行くことが増えたのです。まさか人間の世界に遊びに行っているとは思いませんでしたが。もちろん危険な行為だと諭しましたが、青斗と赤瑠は人間の世界、つまり椿さんのところへ行くことを止めませんでした」

 青斗と赤瑠はどうしても椿のところへ来たかったようだ。母親がいない二人が寂しいのは理解できる気がするが、なぜそれが椿のいる天宮神社だったのだろうか。

「羅漢様、青斗くんと赤瑠くんはどうして人間の世界にこっそり来ていたのですか? 幽世のお友達は?」

 椿が聞くと、羅漢が急に表情を曇らせた。どうやら話しにくいことのようだ。

「あの、何か御事情がおありでしたら、無理にお話ししてほしいとは思いませんので……」

 継子となる青斗の赤瑠の生い立ちは知りたいが、かといって過去のことを何でも暴きたいわけではない。そっとしておいてほしいことがあると思うのだ。人もあやかしも。

「椿さんにはお話ししましょう。青斗と赤瑠はあやかしの子どもたちとその親に避けられているのです」
「えっ、それはなぜですか?」

 元気すぎるところはあるが、青斗と赤瑠はとても良い子たちだ。嫌われる理由はないように思う。

「青斗と赤瑠の母、美蓮(みれん)が二人を産んですぐに亡くなったからでしょう。母親の命と引き換えに生まれてきた子たち、不吉な双子鬼だと言われているのです」
「そんな……。青斗と赤瑠くんに何の罪があるというのですか? 実のお母様の美蓮さんが命がけでお産みになったから、あんなに元気な男の子たちに成長しているのに」
「我々あやかしは寿命が長く、病にかかることも少ない。そのためか、突然仲間が死んでしまうようなことがあると、あやかしは激しく動揺します。美蓮の死も突然のことでしたから、双子の青斗と赤瑠が生まれたせいだと考える者もいるのです」

 なんと不条理なことだろうか。あやかしが人間とは違う価値観をもっていたとしても、いたいけな子どもたちを不吉な双子と決めつけるのは酷すぎる。

「不吉な双子と言われているためか、青斗と赤瑠は幽世の子どもたちと遊びたがらないのです。わたしも無理に仲良くしろとは言えなくて……でも誰かと遊びたかったのでしょうね。人間の世界に度々行くようになってしまったのです」
「そこで偶然見つけたのが私だった、ということですか?」
「はい。青斗と赤瑠は椿さんをとても気に入ったようです。椿さんの境遇に、青斗と赤瑠は自分たちと似たものを感じたのかもしれません。椿さんとこれからもずっと一緒に遊びたい。それなのに椿さんは天宮家の事情で家を出されるという。椿さんと二度と会えなくなるのは嫌だ、椿さんがいなくなるぐらいなら、幽世に連れて来て一緒に暮らしたい……と青斗と赤瑠に懇願されました」

 羅漢の話を聞いて、椿はようやくすべてを理解できた気がした。天宮家の花嫁としての役目を果たせない椿を妻として迎える理由。それは愛する子どもたちのためだったのだ。

「それで羅漢様は私を二度目の妻としてお迎えに来られたということなのですね」
「親馬鹿とお思いでしょう。ですが父への初めての『おねだり』だったのです。だから何としても叶えてやりたかった。申し訳ございません。椿さんとしては納得できない嫁入りですよね……」
「そんなことありません。青斗くんと赤瑠くんが好きなので嬉しいです」

(きっと羅漢様は私を妻にと心から望まれたわけではないのだわ。私は青斗くんと赤瑠くんの遊び相手。ふふ、羅漢様に女性として愛されてると思って、ちょっとだけ期待しちゃった。馬鹿だなぁ、私……)

 だが椿を天宮家から引き取るためには、羅漢の花嫁として迎えるのが一番良い方法だということは椿にもよくわかる。強欲な父が納得できる形が幽世への嫁入りだったのだから。
 椿は姿勢を整えると、羅漢に向けて頭を下げた。

「羅漢様、青斗くんと赤瑠くんの遊び相手兼お世話係として、私を働かせてください!」

 青斗と赤瑠のために羅漢の元へ引き取られたのなら、自分にできることを精一杯やろう。それが羅漢、そして青斗と赤瑠へのせめてもの恩返しだと椿は思った。

「椿さん、わたしはあなたを使用人や乳母にするつもりで幽世に連れてきたわけではありません。椿さんは私の妻。そして青斗と赤瑠の継母です。それだけは忘れないでください」
「はい。お気遣いいただきありがとうございます」

 形式上は羅漢の妻ということなのだろう。羅漢のこれまでの椿への接し方を思えば、妻として大切にするという言葉も嘘ではないように思えた。

(それでも私はきっと羅漢様の契約妻みたいなものね。立場をわきまえて行動しよう)

 羅漢に女として求められているわけではないとしても、役立たずと罵られる毎日よりずっといい。可愛い双子の子守りをできるのだから、椿としては願ってもない居場所だ。

「羅漢様、どうぞよろしくお願いいたします」
「椿さん、そんな堅苦しい挨拶はやめてください。あなたはもうわたしの妻。堂々としていてください」

 羅漢の言葉は嬉しい。だがその妻に敬語で話しかけているのだから、やはりあくまで自分は羅漢にとって形式上の妻であると思ってしまう。

(私にできることを頑張ろう。羅漢様と、青斗くんと赤瑠くんのためにも)

 本当の妻ではないが、辛い世界から羅漢が救いだしてくれたことは事実。ならばせめて恩返ししたいと椿は秘かに決意するのだった。

 *

 翌日から椿はできるだけ青斗と赤瑠のそばにいるようにした。羅漢のお屋敷にまだ慣れていないため、まだ二人の子守りとまではいかないが、青斗と赤瑠のことをもっと理解したいと思うからだ。
 青斗と赤瑠の話し相手をしながら、二人をよく見て感じたこと。
 青斗と赤瑠はとても仲が良く、常に二人で過ごしている。青斗と赤瑠だけがわかる会話を楽しんで、二人きりの世界で遊んでいる。双子だからということもあるのだろう。青斗と赤瑠だけの特別な繋がりがある様子だ。実の母がすでに他界、そして父親である羅漢は仕事で多忙。愛してくれる父と母が近くにいないため、青斗と赤瑠はお互いしかいない状態になっているのかもしれない。お屋敷には執事の秋羽や使用人も多くいるため、大人に放置されているわけではないのだが、一歩距離を置かれているように感じた。

「青斗様と赤瑠様はとても仲がよろしいので、我々使用人はお二人の邪魔をしないように気を配り、少し離れた場所から見守っております。ですが最近はお二人で人間の世界へこっそり遊びに行かれることが多く、我々使用人も悩んでおりました。青斗様と赤瑠様の監視役として誰かをそばにつけても、わずかな隙をねらってお屋敷を抜け出し、人間の世界へ行ってしまわれるのです。不甲斐ないばかりでございます。至らぬ執事で申し訳ございません」

 執事の秋羽は椿に深々と頭を下げながら話してくれた。

「青斗くんと赤瑠くんのことをお話ししてくださってありがとうございます。これからは私がそばにいるようにしますね」

 執事の秋羽には羅漢の仕事を支える仕事もある。そのぶん椿が青斗と赤瑠のことをしっかりと見守っていくことにしようと思う椿だ。

「羅漢様と青斗くんと赤瑠くんの親子関係はどんな様子ですか? 親子で遊ばれるところを見ない気がするんですが」
「羅漢様はお仕事がお忙しく、親子で過ごされる時間が少のうございますね。青斗様と赤瑠様も御父上を困らせたくないのでしょう、遊んでほしいとせがむこともございません」
「では青斗くんと赤瑠くんは、何か買ってほしいと羅漢様にお願いしたこともないんですか?」
「ございません。椿様を羅漢様のお屋敷に連れて来てほしいとお願いされたのが、お二人の初めての『おねだり』でございました」
「そうだったのですね……」

 父と息子たちの間に心の距離はあるが、それでも互いを思い合っているのは確かなようだ。

(思えば私も、お父様に甘えたことがほとんどないわ……。『天宮家の花嫁としてふさわしい女であれ』と厳しく教育されたもの)

 父に良い娘と認めてほしいから、椿は必死に花嫁教育を頑張ってきた。父の膝に乗って甘えたことも、遊んでもらった記憶もない。
 だが椿が花嫁になれないとわかった途端、冷遇されるようになった。父の理想を叶えられる娘しか必要なかったのだろう。

(せめて青斗くんと赤瑠くん、そして羅漢様には仲の良い親子であってほしい。私のようにならないように)

 青斗と赤瑠、そして羅漢の関係を良くするために何をすればいいのだろう。自分自身が父と良き親子になれなかっただけに、すぐに答えは見つけられない気がした。
 執事の秋羽に教えてもらったことを胸にとどめ、椿は青斗と赤瑠のそばへ駆け寄った。

「青斗くん、赤瑠くん。一緒に遊ぼうか?」
「うんっ! 椿ちゃん、あそぼー」
「おぅ! あそぼうぜぃ、椿」

 羅漢や秋羽にはあまり懐いていない青斗と赤瑠だが、椿には素直に遊んでほしいと言ってくる。そんな二人がとても可愛いと思う。

(私は体が子どものままだから、青斗くんと赤瑠くんも警戒しないのかもしれない。成長しない体に何度も絶望したけれど、まさかこんな形で役立つことがあるなんて)

 大人に素直に甘えられない青斗と赤瑠が、唯一心を開いているのが椿なのだ。

「何して遊ぶ?」
「うんとね~今日はどうしようかな~」

 青斗は腕を組みながら頭を傾け、うーんと悩んでいる。その姿が微笑ましい。

「青斗、かけっこしようぜっ! おれ、走るのだいすき!」

 赤い瞳をきらきらと輝かせながら、赤瑠が元気よく叫んだ。

「椿ちゃん、いいの?」

 椿のことを心配してくれているのか、青斗は遠慮がちに見つめてくる。

「私は走るのは得意じゃないから、二人の後を追いかけていくね」
「うん! 遅れてもいいからついてきて」
「ゆっくりでもいいぜっ!」
「じゃあ、よーいドン! で走ろうね」
「「うん!」」

 椿の提案に、青斗と赤瑠は片腕をあげながら返事をした。

「じゃあいくよ。よーいドン!」

 椿のかけ声を待ってましたとばかりに、一斉に走り出す青斗と赤瑠。二人の後について走ろうと思った瞬間、予想もしないことが起きた。なんと青斗と赤瑠は、まったく逆方向に走り始めたのだ。青斗は椿から見て左側のお屋敷本宅に向かって走り、赤瑠は右側の中庭へと走っていく。

「え……?」

 かけっこと言うのだから、青斗と赤瑠は同じ方向に並走して走ると思っていたのに、真逆の方向へ走っていくとは。仲良しの双子なのに、走る時だけ別行動になるのだろうか。突拍子もない動きに椿は慌てふためく。

「ど、どうしよう? どちらを追いかければいいの?」

 双子兄弟がまったく違う方へ走っていった場合、どちらを優先して後を追えばいいのか、瞬時の判断が求められる。

(本宅には秋羽さんか使用人の皆さんがおられる。ならまずは中庭に走って行った赤瑠くんを追いかけないと。池もあったから落ちたら大変)

 元気すぎる赤瑠が危険な行動をしないよう、最初に赤瑠を追いかけることを決めた。だが青斗も放置するわけにはいかない。

「青斗くーん! あとですぐ行くから、本宅で待っていてね!」

 椿が叫んで伝えると、赤瑠よりも少し走るのが遅い青斗の耳に届いたようだ。

「はーい!」

 青斗の返事を確認すると、椿はすぐに赤瑠の後を追った。すでに赤瑠の小さな背中は、はるか遠くだ。

「待って、赤瑠くん!」

 椿の声が聞こえていないのか、赤瑠はぐんぐん走っていく。キャハハと笑う声が聞こえてくるから、楽しくてたまらないのだろう。
 
「椿が追いかけてきたぁ! 捕まらないぞぅ!」

 椿と追いかけっこになったことが嬉しい赤瑠は、中庭の池のほうへと突っ走る。

「その先は池だよ、赤瑠くん!」

 椿が必死に叫ぶと、池の直前で赤瑠の足がぴたりと止まる。息切れしながらと駆け寄ると、にかっと明るく笑った赤瑠が待っていた。

「椿、やっときたぁ」
「赤瑠くん、足早いんだもの」
「おれ、はやいか? ならもっとはしる!」
「待って、赤瑠くん、そこは池よ!」

 くるりと背を向けた赤瑠が池へ飛びこもうとしている。椿は慌てて両手を伸ばし、赤瑠の体を抱き止めようとした。ところが。
 うさぎのような跳躍力で、赤瑠は池を見事に飛び越えたのだ。ひらりと飛び降り、向こう岸へと着地する。

(え……?)

 まさか赤瑠が池の上空を飛んでいくとは思わず、両手を前方に広げた形の椿の体は、なす術なく池に落ちていく。激しい水音と共に椿の体は水の中へと沈み、すぐには水面に浮かび上がることができない。

(早く水面へ。でも足が……)

 全力で走ったからか、足に激痛が走る。痙攣をおこしたようだ。必死にもがくが、水を吸った着物の重みが椿の小さな体を水の中へ沈めていく。

(息がもう……だれか、助けて。羅漢様……)

 椿は咄嗟に羅漢の名を心の中で呼んだ。形式上の妻であっても、椿にとっては唯一の旦那様なのだから。
 体の力が完全に途絶えた瞬間、力強い腕が椿の体をつつみ込んだ。

「椿、大丈夫か!?」

 名を叫び、椿を水の中から救い出してくれた御方がいる。最初は誰なのかわからなかった。
 ゆっくり目を開けると、そこにいたのは羅漢だった。椿を抱き上げ、心配そうに見つめている。漆黒の髪が水で濡れ、眩しいほど輝いて見えた。

「大丈夫かい? 息子たちがとんでもないことを」

 椿の小さな体を、羅漢は大切そうにぎゅっと抱きしめる。羅漢の温もりに、椿の目から涙がほろりとこぼれ落ちた。

(羅漢様が助けに来てくださった……うれしい)

「羅漢様、椿様、御無事でございますか!」

 事態に気づいた秋羽や使用人たちが続々と集まってくる。

「暖炉に火を入れてくれ。それから体を温めるものを」
「かしこまりました」

 羅漢の指示を聞いた秋羽が手際よく暖炉を準備する。メイドと呼ばれる女中さんのおかげで濡れた着物を脱ぎ、軽い洋装に着替えることができた。羅漢は着替えの時だけ椿のそばを離れたが、すぐに椿をまた抱きかかえ、暖炉のある部屋へと運んでいく。
 椿がいくら大丈夫、自分で歩けると言っても、羅漢は椿の体から手を離そうとはしなかった。
 薪がくべられた立派な洋式の暖炉の前に下ろされると、椿は毛布でぐるぐる巻きにされ、さらに羅漢の膝の上で背後から抱きしめられる。

「このほうが早く体が温まるから」

 理屈はわかるが、ずっと抱きしめられたままでは、さすがに椿も恥ずかしくなってきた。顔まで暖炉の火のように熱くなる。

「あなたが無事で本当に良かった……」

 椿の背中越しに、羅漢が囁いた。

「妻がわたしの目の前で死ぬのは、もう二度と御免だ……」
「羅漢様……」

 羅漢の最初の妻、美蓮のことは詳しく知らない。だが妻に先立たれることに平気な夫はいないだろう。妻を愛していたのなら尚更だ。その心の痛みを椿は想像することしかできない。だが労わることはできるように思えた。

「私は死にません、羅漢様。青斗くんと赤瑠くんのためにも。だからどうか心配なさらないでください。元気な双子の男の子の子守りを、私は甘く考えていたんだと思います。今後は十分気をつけますから」
「あなたのせいじゃない。いけないのは青斗と赤瑠だ。後でしっかりと叱っておきます」
「叱らないであげてください。私の不注意なんです。あの子たちはきっと遊び方を知らないんです。同世代の子たちと遊んだことがないと聞いてますし、大人にもあまりかまってもらってないようですから」
「それでは父であるわたしの責任だね」

 背後から椿を抱きしめる羅漢のほうへ顔を向け、羅漢を見上げて椿は懸命に伝える。

「誰の責任という話をしたいのではありません、羅漢様。私はお伝えしたいのは、青斗くんと赤瑠くんの心にもっと寄り添ってあげたいということなんです。あの子たちは羅漢様との時間が少なくて、寂しく思っていると思います。子どもというものは親に愛してほしいものなんです。だから必死にいい子になろうとする。私がそうでしたから、よくわかります」

 羅漢は椿の話にじっと耳を傾けている。静かに聞いていてくれる気遣いが嬉しい。

「私は父が望む『天宮家の花嫁』になるため、必死に努力してきました。だって父に、いい子だと頭を撫でてほしかったから。父に認められ愛されることが、私のただ一つの願いでした。その夢は叶わなかったけれど、天宮家を離れてわかったことがあります。父は私のことを、父が望む縁談を運ぶための駒でしかなかったんだって。私と父は良い親子関係を作れませんでしたが、羅漢様と青斗くんと赤瑠くんは違います。だってお互いへの愛情がちゃんとありますから。だからどうか二人の心にもっと寄り添ってあげてください。私も継母として、青斗くんと赤瑠くんを愛し、守っていきたです」

 自分が父にも母にも愛されなかったぶんだけ、青斗と赤瑠を幸せにしてあげたい。それが縁があって継母となった椿の責務であり、生きる目的だと思った。

「椿さん、わたしはあなたのことを見くびっていたようだ。正直言えば、わたしはあなたに継母としては期待していませんでした。あくまで遊び相手であってくれればいいと。でもあなたは本気で継母になろうと考えてくれているんだね」
「偉そうなことを申し上げましたが、二人の良き継母になりたいと思う気持ちに偽りはありません。だってあんなに可愛い双子ちゃんたちのお母さんになれるんですもの」

 体が子どものまま成長が止まっている椿では、可愛い子をもつことは夢でしかなかった。だが羅漢のおかげで継母になれたのだ。今の立場に甘えず、可愛い子どもたちのために努力することに椿は一切迷いはなかった。

「私、もっと頑張ります。だから羅漢様もお力を貸してくださったら嬉しいです。そして少しでもいいから、あの子たちと遊んであげてください。みんなで遊び方を学びましょう」

 子どもの遊びは、ただ共に遊べばいいというものではない。危険がないか周囲を確認し、危険な遊び方をしないよう、子どもに指導していく必要もあるのだ。椿は今日の経験で、それを痛いほど痛感した。

「椿さん、ありがとう。わたしはしっかり者の妻を娶ることができたようだ」
「私はただ青斗くんと赤瑠くんのために、できることを考えていきたいだけです」

 羅漢に守られるだけでは、良き継母にはなれない。心も体も、強くならねばいけないのだ。
 
「椿さん……」
 
 羅漢の赤い瞳が椿をじっと見つめている。視線を感じた椿は、心臓がとくんと跳ねるのを感じた。手を伸ばした羅漢の指先が、椿の頬をそっと撫でる。くすぐったさに椿は思わず目を閉じた。

「羅漢様、失礼いたします。青斗様と赤瑠様をお連れしました。椿様にお会いしたいそうでございます」

 執事の秋羽の声だ。椿と羅漢がいるのは暖炉がある客間のため、ドアを軽く叩いて来訪を告げてくれたようだ。

「秋羽か。二人を通してくれ」
「かしこまりました」

 秋羽に連れられ、青斗と赤瑠がおずおずと客間に入ってくる。二人とも今にも泣きそうな表情だ。

「おとしゃん、椿ちゃん。ごめんなしゃい……」
「とーちゃん、椿、ごめんよぅ~。おれのせいで椿がぁ……わぁ~ん!」

 先に泣き始めたのは、赤瑠だった。おいおいと泣く赤留の横で、青斗もぽろぽろと涙をこぼす。

「椿が死んじゃうって思ったら、おれ、うごけなくて……ごめんよぉぉ~」
「ぼくらのせいで、ごめんなしゃい、ごめんなしゃい~」

 大声で泣きながら、必死に詫びる青斗と赤瑠。そんな幼子二人の姿を見たら、誰が責められるだろう。羅漢は青斗と赤瑠の元へ歩み寄り、二人の頭を撫でた。

「青斗も赤瑠も反省しているようだから、わたしからはもう何も言わない。椿さんは父さんの大切な妻であり、おまえたちの継母ということだけは忘れないように」

 すすり泣きながら、青斗と赤瑠がこくりと頷く。

「青斗と赤瑠が無茶な遊び方をしているのは、おまえたちにかまってやれなかった父さんの責任でもあると思う。だから今後は青斗と赤瑠と過ごす時間を増やそうと考えている。おまえたちはどう思う?」

 羅漢は息子たちの意思を確認したいようだ。青斗と赤瑠は互いの顔を見つめ、不思議そうに頭を傾けている。

「おとしゃん、ぼくたちのこときらいなんでしょ? なのに、ぼくたちとあそぶの?」

 おずおずと青斗が話したことに、羅漢が驚いた表情を見せる。

「わたしが青斗と赤瑠を嫌っている……? なぜそんなことを? おまえたちを育てるために、慣れぬ西洋とも取引して、必死に仕事をしているというのに」

 落ち着いて話しているように見えるが、羅漢の顔が徐々に険しくなっている。青斗の発言に、戸惑いと苛立ちを感じているのだろう。羅漢が鋭い眼光で睨みつけているため、青斗と赤瑠は怯えて、かたかたと震えている。
 椿は慌てて羅漢と子どもたちの間に入り込み、青斗と赤瑠の体を支えた。

「羅漢様、落ち着いてくださいませ。まずは二人の話を聞きましょう」

 椿の言葉で、子どもたちが怯えていることに気づいたようだ。羅漢は子どもたちから顔を背け、ふぅっと息を吐いた。

「すみません、混乱してしまって。椿さん、青斗と赤瑠に話を聞いてみてもらえますか?」
「はい、承知いたしました」

 抱き合って震えている青斗と赤瑠を見つめ、椿はにっこりと微笑んだ。

「青斗くん、赤瑠くん、大丈夫だよ。お父様は怒ってないからね」

 青斗と赤瑠の体を優しくさすってやると、体の震えは止まったが、不安そうに椿を見つめている。

「ほんと? おとしゃん、おこってない?」
「とーちゃん、こわいよぅ……」

 羅漢は怒っているわけではない。ただ悲しく、辛かったのだ。
 愛する息子を育てるため、羅漢は仕事の手を広げ、多忙な生活を送っていた。だが子どもたちから「お父さんは僕たちを嫌ってる」と言われて平気な親などいるはずがない。体は子どもであっても、心は大人である椿には羅漢の気持ちを理解できるが、まだ幼い青斗と赤瑠にはわからないのだろう。

「椿に話してもらえるかな? どうして『お父様は僕たちを嫌い』だなんて思ったの?」

 微笑みながら問いかけると、青斗と赤瑠は互いの顔を見つめ、ゆっくり話し始めた。

「だって、ぼくたちが生まれたから、おかあしゃんが死んじゃったんでしょ?」
「おれたちのせいで、かーちゃんは死んだって、いわれたもん……」
「だから、おとしゃんは、ぼくたちがきらいなんでしょ?」
「おれたち、『不吉な双子』ってやつ、なんだろ……」

 たどたどしい話し方ではあったが、青斗と赤瑠の悲痛な叫び声のように感じられた。

(ああ、この子たちはずっと自分を責めていたんだ。お母様の花蓮さんが亡くなられたのは、二人が生まれたせいだって。だからお父様にも嫌われてるって。そんなはずないのに……)

 幼い彼らの心の痛みを想像するだけで、たまらない気持ちになる。ずっと二人だけで遊んでいたのも、支え合えるのがお互いしかいなかったからなのだ。
 椿は両の腕をめいっぱい広げ、青斗と赤瑠を抱きしめた。

「青斗くん、赤瑠くん。御父上の羅漢様はあなたたちのことを嫌ってないわ。とても大切に思ってらっしゃる」

 椿に抱きしめられた青斗と赤瑠が、目をぱちくりとさせている。すぐには信じられないのかもしれない。

「おとしゃん、ぼくたちのこと、好きなの?」
「そうよ。お父様はあなたたちのことが大好きです。もちろん私もね」
「でもよう、とーちゃんはいつも、おれたちをしかるよ。きらいだから、怒るんだろ?」
「青斗くんと赤瑠くんが心配だから叱るの。危ないことをして傷ついてほしくないからよ。大切に思ってるからこそ注意するの」

 青斗と赤瑠は互いの顔を見つめ合い、きょとんとした顔をしている。まだ完全には理解できてない様子だ。

「青斗と赤瑠、椿さんの言うとおりだ。わたしはおまえたちのことをとても大切に思ってる」
 
 三人の様子を見守っていた羅漢が腰を下ろし、青斗と赤瑠の目線に合わせて話しかける。

「おとしゃん、ほんと……?」
「とーちゃん、おれらのこと、きらいじゃないの?」

 羅漢は逞しい両腕を拡げ、青斗と赤瑠、そして椿を大きな体でつつみ込む。

「青斗、おとしゃんはな。青斗のことが大好きだ。赤瑠、とーちゃんは赤瑠のことが大好きだよ」

 父の言葉を聞いた青斗と赤瑠は羅漢にしがみつき、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。

「ぼくも、おとしゃんが大好きだよぉ~」
「とーちゃん、とーちゃん。おれも好きだぁ~」

 泣きじゃくる息子たちの小さな頭を、羅漢は愛おしそうに撫でている。互いを思い合う父子の姿。なんて尊いのだろう。

(良かった……本当に良かった……)

 椿のような不仲な親子にならずにすんで良かった。この場に自分がいられることが、椿はたまらなく嬉しかった。

「椿ちゃんも、泣いてるぅ~」

 青斗に言われ、椿は自分も涙を流していることに気づいた。

「私までもらい泣きしちゃった……」

 羅漢が手を伸ばし、椿の涙を指で拭う。

「椿さん。あなたのおかげで息子たちとの誤解が解けたよ。ありがとう」
「私は何もしてません、羅漢様」
「なんだか椿さんが大きく感じられ……おや? 椿さんの体、本当に大きくなってないか?」
「え?」

 羅漢に言われ、椿は自身の体を手や足、体を見つめた。
 少しだけだが、手足が伸びているように感じる。胸元にも膨らみがわずかにできている。慌てて立ち上がり、周囲を見渡すと、目線が以前より高くなっていた。

「羅漢様、信じられません……私の体、少しだけ成長してるみたいです」

 今の椿の体は十三歳ぐらいだろうか。まだ大人とは言えないが、小さな子どもの体ではない。これまでずっと成長してほしいと切望していたのに、なぜ今になって体が少し大きくなったのだろうか。理由はわからないが、初めて自分の体が愛おしく感じられる気がした。

「椿ちゃん、おかあしゃんって、呼んでいーい?」

 椿を見つめた青斗が、きゅるんとした笑顔で言った。

「おれも、かーちゃんで呼んでいーか?」

 赤瑠が照れくさそうに笑っている。

「青斗くん、赤瑠くん……お母さんって言ってくれるの?」

 少し成長できたとはいえ、まだ大人の体になれたわけではない。それでも継母(はは)として、胸を張っていいのだろうか。

「おかあしゃん」
「かーちゃん」

 青斗と赤瑠が継母(はは)と呼んでくれる。それは椿にとって、新しい家族の一員になれたことを意味する。ずっと夢見ていた、温かな家族に。そして子どもたちの継母(はは)になれた瞬間だった。

「これからは君のことを、『椿』と呼びたいと思う。許してくれるかい? 椿」
「もちろんです、羅漢様。いいえ、旦那様」

 天女の末裔の娘として生を受けながら、不遇な人生を歩んできた椿が、ようやく居場所を見つけた。
 夫の二度目の妻、そして継母(はは)として、大切に家族を守っていこうと誓う椿だった。