「椿さん、君との婚約は破棄させてほしい」

 椿の許嫁、新堂誠が婚約破棄を申し入れてきたのは、椿が二十歳の誕生日を迎える直前のことだった。

「誠さん、なぜでございますか? 私はあなたの妻になるために生きてきましたのに」

 椿が二十歳の誕生日を迎えたら、新堂家の嫡男である誠の妻となるはずだったのだ。椿が三歳の時に決まった婚約だった。
 無言でうつむく婚約者の表情をよく見ようと、椿は誠の腰下にすがりついた。

「はしたない真似はおよしなさいな、お姉様。誠さんが説明しなくても、お姉様の姿を見たら、誰だって一目瞭然ですのに」

 誠の背後から姿を現したのは、花梨の二つ違いの妹の牡丹だった。その名のとおり、あでやかな花のような美少女だ。

「牡丹、私は誠さんに聞いてます。あなたではないわ」
「お姉様、誠さんがなぜあなたにすべてを伝えないのか、おわかりにならないの? いいわ、誠さんに代わってわたしが説明してあげる」

 牡丹は誠の腰辺りにしがみつく姉の首根っこ掴むと、強引に引き剥がした。そのまま庭の池ほうへと連れていく。まるで捨て猫を運んでいるかのようだ。椿が抵抗したくとも、妹の牡丹のほうがずっと力が強いのだ。

「ごらんなさい、お姉様。お姉様はまもなく二十歳になられる。にもかかわらず今のあなたの姿はどうかしら? 二十歳の大人の女性と言える?」

 澄んだ池の水に映る椿の顔と体は、驚くほど小さい。背丈が低い小柄な女性と言い切るのも少々無理がある。胸元や臀部は平たく、腕や足は細く短い。目は大きくて愛らしい顔立ちなのだが、それがかえって椿の幼さを強調している。
 牡丹に指摘されずとも、嫌というほど椿は理解していた。椿の体は子どものまま。十年前に突然成長が止まってしまったのだ。体が未成熟のまま、年齢だけ重ねてしまったのが今の椿だ。

「お姉様はわたしより二歳年上のはず。けれど今のお姉様は、歳の離れたわたしの妹にしか見えない。そのせいでわたしがどれだけ恥ずかしい思いをしたことか」

 十歳の子どもにしか見えない姉を恥と思っている牡丹は、他人には椿を「お手伝いさんの子」と説明している。姉だと言いたくないのだろう。

「確かに私の体は十年前から成長が止まっている。けれど心は違うわ。誠さんの花嫁になるために頑張ってきたもの」
「そうね、お姉様は花嫁修業を一日も欠かさなかった。お裁縫だってお料理だって、わたしより上手。でもね、お姉様。今のあなたは『天宮家の花嫁』としてのお役目を果たせるの?」
「それは……」

 牡丹が何を言いたいのかわかる。だが椿からは言いたくなかった。まもなく二十歳になる女性としては辛いことだからだ。

「だってお姉様は、月のものが来てないじゃないの。大人の女性になれないお姉様は、天宮家の花嫁になれないわ。ただの役立たずよ」

 とうとう言われてしまった。誠に聞かれないように、離れたところで指摘してきたのは牡丹なりの姉への気遣いだろうか。
 
『天宮家の花嫁』としてのお役目。それは嫁ぎ先で子を産むことだった。
 天宮家は天女の末裔と言われている。天から人の住む地へと降り立った天女が、人間の男の妻となったことが天宮家の始まりとされる。古き伝承ではあるが、天宮家が天女の末裔と言われる理由は別のところにあった。
 天宮家に誕生した娘が他家に嫁ぎ、夫との間に子を産むと、その子は『才華(さいか)』と呼ばれる特殊な異能の力をもって生まれるからだ。才華の力をもっている者は体のどこかに花の形の痣があるため、生まれればすぐにわかるという。才華の力をもつ者はあらゆる才能に恵まれ、多くの人々を惹きつける美貌と魅力をもっているため、その一族は繁栄を極めていくこととなる。ゆえに名家ほど天宮家の娘を花嫁に欲しがるのだ。
『天宮家の娘を妻に迎え、夫として認められることは男たちの誉れ』
 男児がいる名家は天宮家の娘を妻にさせるため、まだ子どもの頃に婚約を申し込み、許嫁となる。嫁ぎ先が決まった天宮家の娘は、花嫁修業の毎日だ。望まれて結婚した天宮家の娘は嫁ぎ先でも大切にされ、天女の末裔として敬われるからだ。

 長女に生まれた椿も、『天宮家の花嫁』として大人になったら許嫁の元へ嫁ぎ、幸せになるのだと当然のように思っていた。だが椿の体の成長は十歳でぴたりと止まってしまった。幾度も医師に診てもらったのだが、どこの医師も「原因不明」と言うだけだった。あちこちの神様にお参りして回ったが、それでも椿の体が成長することはなかった。

「きっと体の成長が心に追いついてないだけよ。二十歳になれば、きっと大人の体になれるはず」

 毎夜の寝床でのお祈りも欠かさなかった。すこやかな成長には睡眠が欠かせないと知ってからは、夜は家族の中で誰よりも早く寝るようにした。

「神様、どうか明日こそは私の体を大きくしてください。立派な天宮家の花嫁となれますように」

 けれどどれだけぐっすり寝ても、椿の体は成長することはなく、子どもの体のままだった。子どもの肉体では天宮家の役目を果たせない。

「もう良い。椿は天宮家の花嫁になれぬ。あの子は役立たずだ。どこへなりとやってしまえ!」

 十七歳になった時、天宮神社の神主である椿の父が、容赦なく椿に宣告したのだ。

「もう少し、あと少しだけお待ちください、お父様。せめてあと三年。二十歳までお時間をください。それまでにきっと成長してみせますから」

 畳に頭をこすりつけて、父親に三年の猶予をもらった。神頼みすることしか椿にできることはないのだが、それでも三年あれば大人の女性の体になれると信じたかったからだ。
 だが現実は容赦なく、椿に過酷な運命を強いた。二十歳の誕生日が近づいても、椿の体は成長することはなく、あどけない子どもの姿を保っていたのだ。
 優しかった許嫁の誠もそっけなくなり、父も母も椿に話しかけることはなくなった。長女の椿が役立たずだとわかると、両親は妹の牡丹にすべての愛情と期待を寄せるようになった。牡丹は年齢を重ねるごとに美しく成長し、まさに天女のようだと近所でも評判の娘となった。椿の許嫁の誠も、牡丹に熱い眼差しを向けていることが一度や二度ではなく、恋愛感情を抱いていることが誰の目にも明らかであった。妹の牡丹が誰からも愛されるようになると、牡丹は姉の椿を明らかに見下すようになる。それでも妹のすることだからと、椿は黙って耐えていたのだ。かつては仲の良かった妹だからこそ、牡丹を悪く思いたくなかった。
 けれどその妹から、ついに椿は「役立たず」という烙印を押されてしまった。

「いつまでも大人になれない椿お姉様は、もうわたしの姉ではないわ。椿、役立たずのあなたに代わってわたしが誠さんの花嫁になってあげる。彼からも御両親からも、新堂家の嫁にと強く望んでいただいているのよ」
「牡丹、あなたが誠さんの花嫁に……?」
「そうよ。でも勘違いしないでね? わたしが誠さんに頼んで、椿との婚約を破棄しろと頼んだわけではないわ。すべて誠さん自らお考えになって決めたことよ」

 許嫁の誠が椿ではなく、妹の牡丹に恋焦がれていたことはとっくに気づいていた。二人が楽しそうに話しているのを何度も目にした。二人だけで観劇やカフェーにも行っているらしい。椿は誠と出かけたことは一度もないのに。
 それでも婚約者としての誠の誠意にすがっていた。いつか彼と結婚できると。花嫁として迎えに来てくれると信じていたのだ。
 だがもうそれも叶わない夢となった。誠は椿ではなく、妹の牡丹を選んだのだ。
 しばらく様子をうかがっていた誠も、ゆっくりと歩いてきて、当然のように牡丹の隣に立った。咲き誇る花のように美しい牡丹と眉目秀麗と評判の誠。残酷なほど、似合いの二人だった。

「誠さんとの婚約の破棄、承知いたしました。これまでありがとうございました」

 椿は池の脇に腰を下ろして正座すると、静かに頭を下げた。どれだけ辛くても、受け入れるしかない。大人の体になれない椿では誠の花嫁になれないのだから。

「椿さん、君には申し訳ないけれど、僕も新堂家の嫡男としての立場があるんだ。理解してくれたこと感謝する」

 もう話はついていると判断したのか、誠は牡丹の肩をそっと抱いた。牡丹があでやかに微笑む。新しい婚約者をうっとりとした表情で見つめる誠の視界には、椿が入る余地はどこにもない。

「僕の花嫁、そして新堂家の妻は牡丹さんだ。半年後に祝言をあげるつもりだ」

 そこまで話が進んでいるとは思わなかった。すでに二人の婚約は決まっていたのだろう。知らされていなかったのは椿だけのようだ。

「誠さん、牡丹。御婚約、そして御結婚おめでとうございます。どうぞお幸せに」

 偽りの言葉ではない。二人には不幸にはなってほしくない。自分の分まで幸せになってほしいと思う。

「椿さん、お祝いの言葉ありがとう。でも嫌味にしか聞こえないわね」

 妹の牡丹は、姉の言葉を素直に受け止めてはくれなかったようだ。

「誠さん、行きましょう。お披露目のこと、詳しく決めておかないと」
「そうだね、牡丹。美しい君を友人たちに紹介できるのが楽しみだよ」
「わたしもよ、誠さん」

 誠と牡丹は肩を寄せ合うにして、母屋のほうへ消えていく。誠が元婚約者の椿のほうを振り返ることはない。去っていく二人の背中を椿はただ見つめることしかできなかった。


 
 閉ざされた島国であった和国が開国して数十年。西洋の文化や学問が人々の生活を変え、豊かになっていく者がいる一方で、時代の流れについていけず、没落する一族もある。家門を守るため、優秀な跡継ぎを欲しがるのは世の常。天宮家の娘が嫁ぎ先で産む「才華」という異能の力をもった子は、一族の希望の星なのだ。

 新堂誠と椿の結婚が正式に決まってから、天宮家は準備でにわかに忙しくなった。花嫁衣裳はどうするか、嫁入り道具は何にするかと牡丹は両親と楽しそうに相談している。支度金も充分すぎるほど渡されているようで、父も母もご機嫌で花嫁道具を吟味している。
 居場所のない椿は、一人寂しく天宮神社の境内を掃除していた。子どもの姿の椿を人に見られたら恥ずかしいからと、外出は禁止されている。椿は神社の境内でも最奥の、人が来ない場所を掃除するように命じられている。枯葉を竹ぼうきで集めながら丁寧に掃除していると、いつのまにか白い霧が椿の足元を覆い始めていた。

「これは……ひょっとしてあの子たち?」

 突然現れた白い霧を椿は知っていた。あやかしが「(あわい)」という特別な空間を作り出しているのだ。人間を自分たちの領域へと誘い込むために。(あわい)に人間を囲い込むことができたら、そこはもうあやかし上位の世界だ。特別な能力をもった存在以外は手出しできないし、助けてくれという声も外へは響かない。人間を(あわい)へ誘い込む理由は悪戯目的が大半だが、時には人間を獲物と思って狙ってくることもある。安全に人間を捕らえるための領域が(あわい)なのだ。
 すっぽりと白い霧に包まれた空間で椿が周囲を見渡していると、くすくすと笑い合う声がどこからか響いてくる。小さな子どもの声だ。

青斗(あおと)くん、赤瑠(あかる)くんね?」

 椿が囁くと、それが合図と思ったのか、二つの影が飛び出してきた。すばやい獣のような俊敏な動きで、椿の目の前に滑り込む。二つの影は椿の前でゆっくりと顔をあげた。

「椿ちゃん、あそぼ。絵本もってきたんだぁ。いっしょによもう~」

 大事そうに絵本を抱えているのは、青い瞳をしたあやかしの子どもだ。名は青斗。頭には金色の角がある。

「椿ぃ、あそぼうぜぇ! かくれんぼだ!」

 一刻も早く走りたいのか、その場で駆け足をしているのは赤い瞳をしたあやかしの子どもだ。名は赤瑠。この子にも頭に金色の角がある。
 頭に角があるとおり、二人は鬼の子だ。年齢は三~四歳ぐらいだろうか。すばやい身のこなしだけを見れば大人のあやかしに思えるのだが、話してみるとまだ幼いことがよくわかる。
 
「青斗くん、赤瑠くん、もうここには来ては駄目って言ったのに」

 諭すように二人の鬼の子に椿が話しかけると、それぞれ元気よく答えた。

「だってぇ~。椿ちゃんがさびしそうだったんだもぉん。青斗がいってあげなくちゃって思って」

 甘えた声を出してはいるが、青い瞳をした青斗は椿のことを心配してくれたようだ。

「椿ぃ、泣きそうな顔してんなぁ。いじめるヤツはどいつだ? オレがぶっ飛ばしてやるぞ!」

 物騒なことをいうのは赤い瞳をした鬼の子、赤瑠だ。

 真逆な反応を見せているが、二人は双子の鬼だと教えてもらった。双子の鬼は、あやかしの中でも珍しい存在らしい。
 
「私を心配して来てくれたの? ありがとう」
「うふふ。いいんだよぅ。ぼくらは椿ちゃんとあそびたいだけだもぉん」
「そうだぞ。オレたち椿とかけっこしたい!」

 青斗と赤瑠、双子の鬼の子が椿のところへ遊びに来るのは、これが初めてではない。すでに何度も、こっそり来ている。
 二人が初めて天宮神社に来たときは、間と言う特別な領域に閉じ込められたこともあって、恐怖で叫びそうになった椿だ。だが姿を見せたのは、愛らしい姿をした双子の鬼の子。二人に邪気はまったくなく、きゅるんとした笑顔で「あそぼ!」と誘ってくる。双子の鬼は人間の世界に興味をもち、遊びに来ただけだと悟った。だから青斗と赤瑠が満足するまで遊びに付き合ってあげた。そしてもう二度とここには来ないようにと教えれば、もう天宮神社に来ることはないと思ったのだ。だが椿の予想に反し、青斗と赤留は何度も椿の元へやってくる。

「だってココに来ると椿と、めいっぱいあそべるしな!」
「それにね、椿ちゃんといっしょにいると、ぼくたちも元気になれるの。なんでかなぁ?」

 鬼の双子の愛らしい笑顔を見ているだけで、冷え切っていた椿の心がほんのり温かくなる。

(ああ、やっぱり子どもって可愛いなぁ。いたずらっ子だったり無鉄砲だったりするけれど、素直で無邪気なところがいいんだよね)

 元々小さな子どもが好きな椿は、「天宮家の花嫁」となったら当然のように自分の子をもてるのだと思っていた。だが大人の体になれない椿では、自分の子をもつことは叶わない夢だと知ってしまった。だから青斗と赤瑠のことも、最初は複雑な気持ちで相手をしてあげていた。何度か相手をすれば椿に飽きて来なくなると思っていたのに、二人は何度もこっそり遊びに来るのだ。青斗と赤瑠と三人で共に遊んでいると心も童心に戻るのか、椿は自然と笑顔になる。二人がこっそり来ることは危険なことと理解していつつも、青斗と赤瑠が来てくれることを椿は秘かに楽しみにしていた。

(今では私のほうが青斗くんと赤瑠くんの笑顔に救われてるのよね。二人と一緒にいると辛いことも忘れられる……)

 青斗と赤瑠、双子の鬼の子は椿にとても懐いている。椿は心は大人だが、姿は子どものままであるため、遊びに誘いやすいのだろう。天女の末裔である椿に特別な力を感じているのかもしれない。
 実のところ、天宮神社にあやかしが姿を見せるのは珍しい話ではない。天宮家の娘を花嫁に欲しがるのは、人間だけではないからだ。それはあやかしも同じ。天女の末裔である天宮家の娘を花嫁にすれば、より力の強いあやかしの子が生まれるらしい。時には天宮家の娘を無理やり攫っていくあやかしもいるため、天宮神社にはあやかし除けの結界が張られている。だが青斗と赤瑠はその結界を簡単に突破して、椿の元へと遊びに来る。幼い子たちではあるが、力の強い鬼のようだ。

「わかったわ。みんなで遊びましょ」
「「わーい!!」」

 青斗と赤瑠は同時に声を発した。二人は声が重なることがよくある。さすがは双子と言うべきか。

「でももうこれで最後にしてね。私はあと少ししたら、ここを追い出されると思うから」
「ええっ! なんでだよ!」
「そうだよぉ、ここは椿ちゃんのおうちなんでしょ? なんで追い出されるの?」

 あやかしが天宮家に姿を見せることはあっても、歓迎はされていない。あやかしが天宮家の娘を強引に攫っていくこともあるため、外敵と思われているのだ。椿の父、源太郎もあやかしを嫌っており、「おぞましい存在」とまで口汚く罵っている。だから青斗と赤瑠には何度も来ないように伝えたのだ。だが椿がいなくなれば、双子の鬼の子は源太郎に見つかる可能性も高くなる。それだけは避けたい。幼い双子の鬼を守ってやりたかった。

「私は天宮家の花嫁さんになれない役立たずだもの。だからもうじきよそへ行くの。だからここにはもう来ては駄目」
 
 椿の両親がこっそり話しているのを聞いてしまったのだ。牡丹のめでたい祝言に、子どものままの姉がいれば天宮家にとって恥辱。だから椿を遠縁の家に奉公に行かせようと相談していたのだ。目障りな存在でしかない椿を排除したいようだ。

「椿ちゃんは役立たずじゃないよぅ! 椿ちゃんはね、ちっちゃいけど、すごい力があるよ。うまくお話できないけど、ぼくわかる」
「椿はチビだけど、ただもんじゃないって、オレもわかる! だから元気だせ!」
 
 幼児らしい謎の理屈で椿を励ましてくれる双子の鬼の子たち。二人の言葉を聞くと、不思議と勇気が湧いてくる気がした。

「ありがとう、青斗くん、赤瑠くん。おかげでよそへ行っても頑張れそうだよ」
「そしたらもう、あそべないの? 椿ちゃん……」
「こればかりは私ではどうにもならないことだから……ごねんね」

 椿がぺこりと頭をさげて詫びると、青斗と赤瑠は泣きそうな表情をしている。

「椿ちゃんがとおくにいっちゃの、やだよぅ~」
「ぜったい、ヤダ! 椿はオレたちともっとあそべよぉう!」

 ぽろぽろと大粒の涙をこぼし始める双子の鬼たち。椿はおろおそしながら二人を慰める。

「私なんていなくても青斗くんと赤瑠くんなら大丈夫! だって二人は男の子でしょ? うんと強くならないとね。笑ってお別れしよう」

 椿なりの別離の言葉だったが、青斗は別の解釈をしたようだ。

「そうだよ、ぼくたち強いんだもん。ぼくたちにしかできないことあるよ。赤瑠、ちょっと耳かして」

 何かを思いついたのか、青斗は赤瑠に小声でないしょ話をしている。

「そっか! 青斗、あったまいい~! すぐやろう」
「うん、やろう!」
「椿ちゃん、じゃあね!」
「またな!」

 椿と最後の別れと思ってないのか、青斗は赤瑠はいつもと同じように、風のように去って行ってしまった。あやかしが造り出す領域、間も消えている。

「いっちゃった……可愛かったなぁ、鬼の双子ちゃん。もう会えないと思うけど元気でね」

 強い力がある鬼の子とはいえ、気軽に人間の世界に度々やってくることは危険だ。椿の父親のようにあやかしを敵と思っている人間も多いのだから。あえて強めの言葉で二人に別れを告げたのは、青斗と赤瑠を守りたかったからでもある。

「さっ、掃除の続きをしよう」

 椿は涙を手で拭うと、再び掃き掃除を始めた。



「椿、話がある。こちらへ来なさい」

 青斗と赤瑠、双子の鬼の子が去って十日後、ついに父の源太郎が椿を呼び出した。

(ああ、ついに奉公に出されるのね。天宮家ともお別れだわ……)

 すべてを覚悟した椿は父のいる和室の前で腰を落として正座すると、「椿です。失礼いたします」と伝えた。

「椿か。入りなさい」
「はい」

 静かに襖を開けると、椿は深々と頭を下げた。これが父との最後の対面になるかもしれない。

「お父様、椿が参りました。御用をお申しつけください」
「そのまえに椿、顔をあげてお客様に御挨拶をしなさい」
「えっ?」

 てっきり父の源太郎に奉公先を告げられるだけと思っていた椿は、客人がいるとは思っていなかったのだ。慌てて顔をあげ、父の前に座している男性の背中を見つめた。男はゆっくりと振り返り、椿に視線を向ける。その顔を見た途端、椿は驚いて声をあげそうになった。
 西洋の服を着た驚くほど美しい男だった。闇に溶ける濡れ羽色の髪に滑らかな白い肌、すっと伸びた鼻梁は高貴な身分を思わせる。それだけなら椿は驚きはしなかった。椿をじっと見つめる男の瞳は血のように赤いのだ。

(この方は……人間ではないのだわ)

 詳しい素性はわからないが、目の前の男は人ではないことだけは理解できた。父と対面しているのに、気配すら感じられなかったのも、男が人ならざる存在であることを示していた。

「お初はお目にかかります。天宮椿と申します。御挨拶が遅れました非礼、どうかお許しくださいませ」

 動揺を隠しながら、椿は品よく礼をした。

「こちらこそ突然の訪問、失礼いたしました。わたしの名は羅漢(らかん)。椿さんはすでにお気づきのようですが、わたしは人間ではありません。幽世に住む鬼でございます」

 羅漢と名乗る男は、丁寧に挨拶しながらも、堂々と自分の正体を告げた。幽世に住まう鬼ならば、人の世では気配すら消しているのだろう。だが鬼であるなら、あやかしを嫌う父は対面すら拒否するだろうに、なぜ客人としてもてなしているのだろうか。

「椿、喜びなさい。この方はおまえを迎えに来た。おまえを娶りたいそうだ」
「私を妻に……? ですが私は天宮家の花嫁としてのお役目を……」
「安心しなさい。羅漢様はおまえの身体の事情をすべて理解されている。その上で椿を花嫁として迎えたいとおっしゃっておられるのだ。羅漢様は妻に先立たれ、子どもたちの母となれる女性を探していたそうだ。おまえなら良き母になれるだろう」

 つまりは、椿に鬼の継母になれということだ。てっきり奉公に出されると思っていた椿は、すぐには現実を受け止められなかった。

「で、では私に幽世へ嫁げとおっしゃるのですか? お父様」
「そうだ。それに何の不満がある。羅漢様は椿を嫁としてもらう代わりに、我が家をあやかしから守る結界を施してくれるそうだ。長男の丈太郎の嫁も決まったから、生まれる子をあやかしから守ってやらねばいけないからな。これで今後生まれる天宮家の花嫁をあやかしに奪われずにすむ。ああ、おまえの支度金もいただいただぞ。たっぷりとな」

 源太郎の機嫌がすこぶる良い理由を、椿はようやく理解した。花嫁の支度金と称された資金を羅漢は十分に用意してくれたようだ。

「椿さん、突然の婚姻の申し込み、誠に申し訳ございません。わたしにも事情がありまして、できるだけ早くあなたを妻にしたかったのです。もちろんお嫌でしたら、無理なお願いはいたしません」
「羅漢様、椿には父であるわたしからよーく言い聞かせておきますので、どうぞ娘を嫁にもらってやってください。これは我が家の隠された事情なのですが、天宮家の花嫁になれない出来損ないの娘は、あやかしにわざと攫わせることも過去にあったと聞いておりますので、そのような面倒な振る舞いをせずにすみますし」

 天宮家の娘として生まれても、中には病などにより天宮家の花嫁としての役目を果たせない女もいたのだろう。椿のように。だがまさかわざとあやかしに攫わせているとは思わなかった。あやかし除けの結界が完全ではなかったのも、そういった隠された事情があったからなのだ。

(ああ、お父様は私をこの家から追い出したいだけなのだわ。そこに羅漢様がいらして、支度金までいただいたから……)

 椿を奉公に出すより、資金をたっぷり頂戴したうえで嫁入りさせたほうが、はるかに得だと源太郎は判断したのだ。椿が幽世への嫁入りは嫌だと言ったら、父の逆鱗に触れるだけだ。椿に断ることは許されない。

「かしこまりました。椿は羅漢様の元へ嫁ぎます。羅漢様、ふつつかものではございますが、どうぞよろしくお願いいたします」

 椿は再び、深々と頭を下げる。突然の婚姻ではあったが、椿をぜひ妻にしたいと言ってくれるなら、その求めに応じよう。良き鬼の継母になれるかは自信がないが、できるだけ優しく接してあげたいと思う。

「ありがとう、椿さん。こちらこそよろしくお願いします」

 羅漢もまた丁重に頭を下げてくれた。鬼ではあるが、礼儀正しい御方のようだ。

「それでは後日に椿さんをお迎えに……」
「羅漢様、後日と言わず、どうぞ本日、椿をお連れください。すでに準備は整っておりますので」

 驚くことに、源太郎は椿をすぐに連れて行けと言っているのだ。これには羅漢も戸惑ったようで、困惑した表情を見せている。

「ですが女性には花嫁としての準備がありますでしょう」
「この子にそんなものは必要ございませんよ。役立たずの娘ですし。もうじき次女の牡丹の祝言がありますし、その前に長女の椿を嫁入りさせたいのです。ああ、椿。おまえは病で死んだことにしておくからな。そうすれば心置きなく幽世へ嫁げるだろう? 牡丹も安心するというものだ」

 椿の実の父とは思えない、あまりに身勝手な事情をつらつらと話す源太郎。羅漢は眉をひそめているが、上機嫌な源太郎は気づいていない様子だ。
 涙がにじむ目元を羅漢に見られないよう、椿は咄嗟にうつむいた。父にとって自分はとっくにいらない娘になっていたことは知っていたが、まるで捨て子をよそへやるかのような口ぶりだ。涙が畳の上にこぼれおちそうになったとき、羅漢の形の良い手が椿の顔面に差し出された。驚いた椿が顔を上げると、羅漢が優しく微笑んでいた。鬼である羅漢のほうが、人の心の機微を理解しているように思える。

「椿さん、あなたさえ良かったら、これから私と共に幽世へまいりませんか? あなたを必ず守り、生涯大切にすると約束しますので」

 血のようだと思った羅漢の赤い瞳が、宝石のようにまばゆく煌めいている。椿の頬に流れた涙を、そっと指で拭ってくれた。

「羅漢様、本当に私でよろしいのですか? ご覧のとおり、私は子どもの姿をしております。大人の女性に成長できないのです」
「あやかしに見た目は関係ありません。どのような姿にも化けられる者もおりますし。だからこそ我々は心を大切にしているのです。わたしから見たあなたは清らかで美しい。椿さん、どうかそのままでいてください」

 羅漢は今のままの椿でいいと言ってくれた。成長しない自分の体をずっと恥じていたのに、羅漢だけは椿を一人の女性として認めてくれているのだ。

──ああ、私、この方の妻になりたい。羅漢様の二度目の花嫁であってもかまわない……

 椿は羅漢の手に、自らの小さな手をそっと乗せた。ひやりとした手が、椿には心地良く感じられる。

「ではまいりましょう、椿さん。我が花嫁よ」
「はい、羅漢様」

 羅漢に支えられて立ち上がると、小さな体の椿を羅漢はふわりと抱き上げた。初めての経験に目を丸くした椿だったが、すでに羅漢を信頼している椿は、その身をそっと夫となる男へ身を寄せた。

「では椿さんは確かに羅漢の花嫁としていただいていきます」
「はい、はい。どうぞご自由に。椿、達者でな」
「お父様こそお元気で。御体を大切になさってください」

 人の世では椿は死んだことにされるのなら、実家に里帰りも許されないということだ。父と、そして天宮家とは永遠の別れとなる。

(さようなら、お父様、お母様。牡丹に丈太郎お兄様。そして天宮神社。これまでありがとうございました)

 人の世と突然の別れであったが、椿にはもう迷いはない。この身ひとつで幽世へと嫁入りするのだ。
 天女の末裔である椿は、数奇な運命に導かれ、鬼の羅漢の二度目の妻となる──。