お腹が減って、目が覚めた。
 それは私にとって初めてのことだった。
 不思議な感覚だった。痛さの一歩手前、違和感。減っているはずなのに、ずっしりと重たいような感じ。
 お宮の中で育ったから、今までお腹が空くほど動いたことがなかった。
 昨日は、たくさんのことがあった。だから、お腹が空いた。

 そういえば、四年前はどうだっただろう。
 四年前も外に出た。ずいぶんと歩いた。森の中で村の人に捕まり、連れ戻された。
 その時に、お腹は空いただろうか。空いた記憶がない。
 たぶん、お腹のことなど気にしていなかった。
 お姉ちゃんと離れるのが怖くて、村の人達の顔が怖くて、泣いていた。お腹が減ったのも忘れて、ただただずっと泣いていた。
「…………」
 横になったまま、私は少しぼーっとした。

「お、なんだ、起きたか」
 タケミの声は背の方からした。寝ている内に背を向けていたらしい。
 起き上がり、そちらを見る。

 タケミは、黒い洋服を着ていた。

 黒い艶のある上着とズボン。上着の中は、昨日の着物と似たような赤と黄色の配色のシャツ。足元も黒いブーツ。
「……そのかっこうは?」
「俺のうつし世での普段着だ、イカすだろう」
 ふふんとタケミが胸を張る。
「……ごめんなさい、よくわからない」
「うん、まあ、そうか」
 タケミは苦笑いでうなずいた。
「……持っていたんですか、それ?」
「社に置いてたやつだ。金もちょっと入ってた」
 ポケットを叩いて、タケミはそう言った。
 ちゃりんと金属のぶつかる音がした。
「とりあえず、お前はこれを着ろ」
 タケミがひょいと服を投げてきた。
 広げてみると、だぼっとした灰色のトレーナーと、同じく裾の長いジーンズ。
「……これは?」
「俺の部屋着だ。お前には大きすぎるだろうが、襦袢でうろつかせるわけにもいかないからな。ひとまずそれを着て服を買いに行こう」
「はあ」
 部屋着。
 なんとも卑近な言葉である。
 いや、私自身にはなじみのない言葉なのだが、姉がよく着ていた。
 姉はお宮に、朝は制服でご飯を運びに来て、夜は部屋着でご飯を運びに来ていた。
 トレーナーも、ジーンズもその時に教えてもらった言葉だ。
「……タケミの着ているその黒い服はなんというの?」
「これはレザー、革だな。毛のついていない革。ライダースジャケットってやつだ。知らないか?」
「お姉ちゃんはそういうの着てなかったから……」
「ああ、これはどっちかというと男向けだ。別に女が着たって決まるもんは決まるが、女子高生が着るにはちょっといかついだろうな」
「そうなの」
「まあ、そのジーンズだって、元は労働着だぞ。気付けば一般的になってたけど」
 知らなかった。この世界には私の知らないことしかない気がしてくる。
 果たして覚えきれるのだろうか。すでにたくさんのことで、頭の中はいっぱいなのに。
「あっち向いてるから、着替えな」
 そう言ってタケミがこちらに背を向けた。

 私は襦袢も脱ぎ捨てて、トレーナーとジーンズをジタバタしながらなんとか着た。
「あ、あの……」
「おう」
「腰から……落ちる……」
「なるほど」
 ジーンズは大きすぎた。腰から滑り落ちてしまう。
「ベルトねえや、帯で良いか」
 そう言ってタケミは後ろ手にぽいと紐のような帯を投げてきた。
「どうも……」
 帯をなんとかジーンズのベルトをさすところに通した。
 硬いジーンズの感触が、新鮮だった。これが普通の服というやつなのだろうか。いや、ずり落ちるのは普通だとは思えない。人のお下がりは普通だろうか。
「終わりました」
「うん」
 タケミが振り返る。
 私の姿を見て、タケミはまた苦笑いをした。
「似合わんな」
「…………」
 反論が思いつかなかったので、私はただ困って黙った。
「早く似合う服を買いに行かないとな」
「…………」
 続けて告げられた言葉に、私はさらに黙った。
 なぜだか頬が熱かった。

 社の外に出るのに、タケミが草履を貸してくれた。履いたままだった足袋のまま草履を履いた。
 澄み切った朝の空気。
 思わず深呼吸で吸い込む。
 すがすがしい気持ち。
「こう朝早いと、ここらで空いてるのはコンビニとファストフード店くらいか……」
 タケミが顔をしかめてそう言った。
「まあ、服代を残してふたり分……うーん、どうにかなるか……?」
 ポケットから小銭を取り出し、うんうん唸っている。
「……タケミはどこからそのお金を……?」
「忘れ去られた自分の社の賽銭箱あさったり、昔手に入れた珍しいもん売ったり、あと日雇いのバイトやったり」
「地道……」
「そういう能力の神なら黙ってても金銀財宝が集まってくるんだけどな、俺はそういうのとはとことん無縁だ」
「そっか……」
「最近じゃ、ちょっとした仕事するのにもスマホだの、身分証明書だの必要になったからなあ……。世知辛いぜ」
「……そうまでして、こちらにいたいの?」
 今、とどまらせているのは私のわがままだ。
 けれども話を聞いていると、タケミがお金を稼いでいたのは元からのようだ。
「ああ、だってこちらは楽しいじゃないか」
「たのしい……?」
 わからない。知らない。
 私は、楽しいことなんてやったことがない。
「……これから楽しいぞ、きっと」
 どこか優しく微笑みながらそう言って、タケミが私の体を抱き上げた。
「飛ぶぞ」
 タケミは大地を蹴って、空へと舞い上がった。

 遠ざかる大地を眼下に眺めながら、私は思う。
 タケミが楽しいと思うのは、タケミが空を飛べるからなのではないだろうか、と。
 だとしたら、私はタケミと同じように、楽しいだなんて思えないのではないか、と。