「一昔前なら托鉢の僧でござい、でなんとかなったんだけどなあ」
「か、神様が、僧侶のまねごとを?」
「したよ」
 タケミは屈託のない笑顔を見せた。
「神の唱える念仏だ。まあ、ありがたいだろう」
 そういうものなのだろうか。わからない。
「宿は社でいいな、どうせ日本中にある」
 そう言ってタケミは得意げに胸を張った。
 日本中。私が知らないだけで、どうもタケミは有名な神様らしい。
「でも食事はどうにかしないとな。あとは服か」
 服と言われて、自分の格好を見る。
 神の血にまみれた白無垢。
 うん、さすがにこれで出歩くのはよくない。それはわかる。
「ああ、うん、それは処分してしまおうか。そこまで汚れてしまえば、清めたって売れやしない」
 タケミが私の視線に気付いて、そう言った。

 タケミの手を借りて、重たい花嫁衣装を脱ぐ。
 血で汚れた衣装を脱いでいくと、襦袢一枚になってしまった。
 さすがに肌寒い。
「茜、とりあえずこれを」
 タケミが毛皮をこちらに渡してきた。
「寒くないのですか、タケミ、は」
「問題ない」
 タケミが首を横に振る。私はありがたく毛皮を羽織った。
「……あたたかい」
「そうか、よかった」
「何の毛ですか?」
「雷獣」
「らいじゅう……?」
「老いて死んだ眷属の毛皮だ。死して尚おそばにおいてくださいませと、殊勝なことを言い遺すから、しかたなく着てやっている」
 ぶっきらぼうながらも、その眷属への思いの感じられる言葉に、私はこの毛皮を自分が着ていていいものか少し思い悩む。
「…………」

 それにしても、タケミの口から出てくるのは、この世のこととは思えない言葉ばかりだ。
 いや、そもそもこの世、すなわちうつし世のことではなく、かくり世のことなのかもしれない。
「……タケミはうつし世とかくり世どちらに普段はいるのですか?」
「昔はうつし世にいた……というより境目がなかった」
 タケミの、この神の言う昔とはどのくらい昔なのだろう。
 疑問がまた湧く。
「人と神は交わり、共に暮らしていた。けれども次第に人は神を祀り上げ、神は人に祀られて、共に暮らせぬようになった」
 そちらの方が、私の知っている『神』のあり方には近い。
「人が祀れば祀るほど、神と人との間に距離が出来、うつし世に神の居場所はなくなった。神はかくり世に移った」
「かくり世も、元からあった?」
「あった。元は貴く大いなる神が住んでいらっしゃった。その神は寛大であったので、有象無象の神も分け隔てなく迎え入れた」
 タケミは淡々と語る。
「神々のほとんどがかくり世に移り住んだ頃、俺もまたかくり世にいた。滅多に神はうつし世へといかなくなったが、遊びに行くような酔狂な神も幾人かいた。俺は……」
 タケミは遠い記憶をたどるように中空を見た。
「俺も、うん、折を見てうつし世へ遊びに行った。行く度、いろいろなことがあった。けれども、そうだな行く度、なのだ。もう俺の居場所はかくり世だ。うつし世はあくまで行く先になった」
 タケミはその答えに語りながらたどり着いたようだった。
「俺が今、生きている場所はかくり世だ」
「そうですか」
 そうであるならば、理解が及ばないのも仕方ない。
 そもそも、こちらの世界のことだって、私はろくに知りはしないのだから。
「でしたら、早く帰りたいですよね」
 それなのに、この神は私の願いを聞いてこちらにとどまってくれている。
 申し訳ない気持ちになる。
「ん?」
 タケミは首をかしげ、こちらの様子を見、うなずいた。
「ああ……なに、帰りたくなったら、勝手に帰るさ、お前を置いて。別に義理などないのだから」
 そんな悪ぶった言い方をされても、そうなのですかとはうなずけない。
 気を遣って言っているのが手に取るようにわかってしまう。
「……ありがとうございます」
 私はただそう言った。
 タケミはちょっと困った顔で笑った。

 話し込んでいる内に、気付けば社に差し込む陽の光はずいぶんと弱まり、そして赤くなっていた。
「……夕焼け」
 それは知っている。お宮の格子窓から見上げていた。
 今も、社の隙間から覗き見ている。
 タケミがさっと立ち上がり、私の手を無言で引いた。

 手を引いてくれる。あの日のお姉ちゃんのように、この人も私を外へと連れ出してくれる。

 私は素直に立ち上がる。
 タケミが社の入り口まで歩を進め、扉を再び開け放った。

 やわらかになった光の中で、世界は赤く染まっていた。
 空も、大地の木々も、赤い。
 どこまでも、広がっている。
 見渡す限りの、赤色。

 ただ息を呑んだ。言葉は出なかった。
 私もこの赤色の中に溶け込んでいる。

「あかねさすなんとやらだな」
 しみじみとタケミがそう言った。

 そうだ。夕焼けをあかね色と呼んだのだ。
 かつてのあの日、あの人がそう呼んだ。
『ならばお前は茜で良いだろう』
 そう私は名付けられた。
 けれどもそう呼んでくれる人はあれ以来いなくって、だから私は名前がなかった。
「……あなたは」
 私と、タケミは、あの日――。

「さて、やっぱり冷えるな、秋の夕暮れは」
 タケミがそう言って、さっさと社の中に戻ろうとする。
 仕方なく、追いかける。
 追いかけながら、私は過去を必死で思い出そうとする。
 何かを忘れている。
 そう感じる度に懐かしくも、どこか切ない気持ちになる。
 タケミに出会ってからずっと何かを思い出しそうで、思い出せないでいる。
 もどかしい。

 尋ねたら、答えはあるだろうか。
 そうも思うけれど、結局私は何も聞けずに、社の扉は再び閉められた。
 そしてやがて外は暗闇へと色を変え、夜が来た。
「おやすみ、茜」
 そう言うとタケミがごろりと社の床に転がった。
 私もそれに倣って、そこに寝転んだ。

 まぶたはとてつもなく重く、私は瞬く間に眠りについた。