「そうと決まれば、だ」
タケミが私を軽々と抱き上げた。
「わ……」
ずしりと白無垢の重みが私の体にかかる。
タケミはものともしていない。
「行くぞ」
タケミはそう言うと跳ねた。
上に向かって足だけで跳び上がる。
お堂の天井、タケミが飛び込んできたときに空いた穴めがけて跳び、外に出た。
ふわりと私の体も浮いた。
高い。
まるで空でも飛んでるように、地面が遠ざかる。
見下ろしたお堂は、もはや穴だらけで形を成していなかった。
人が、近付いていた村の人たちがこちらを見上げる。
「神を見るか。覚悟が要るぞ」
タケミが低い声でそう言った瞬間、またしても光が弾けた。
雷。
私達の周りを覆うように弾けた光は、あちらとこちらを遮り、見えなくなった。
もう、見えない。
何も見えない。
そしてタケミは空を蹴った。
浮遊する体。
飛翔する体。
タケミに身を任せ、私も空を飛んでいる。
頬に当たる冷たい風が心地よい。
風の音が耳のすぐ横を通り抜けていく。
村が遠く離れていく。
地上には木々が生い茂っている。
気付けば雲はどこかへと消え、空は晴れ渡っていた。
外だ。
これまで思い描いていた逃走とはまるで違っていたけれど、それでも私はとうとうあの場所から逃げ出した。
しばらく空を駆け、やがて森の中にぽつんとひとつ建つ建物の前にタケミは降り立った。
「とりあえず、ここが今日の寝床だ」
「もう?」
空はまだ明るい。
暗くなるどころか、夕焼けにも早い。
「ここは俺のねぐらのひとつだ。他のとこは行くのに遠い。夜通しになる」
「ねぐら……?」
「かつて俺を祀っていた社だ」
「かつて?」
「ここはすでに廃れた。新しい信仰が重視されたり、そもそも住民がいなくなったり、まあ事情は色々ある」
タケミはそう言って、建物――社の戸を勝手に開けた。
中はしんと静まりかえっていたが、清浄な気が漂っている。
「ここがなんだったのか、覚えている人間はもういないが、ここを清めてくれる人間はまだいる。地元に住む人間ではない。遠くに越したんだが、今でも年に一度、帰ってきては、掃除をしてくれる。酔狂なやつだよな」
「そうですね……」
社の中は、本当に何もなかった。
かつてタケミが祀られていたというころには、何かご神体にあたるものがあっただろうに、それすらない。
その代わり、社の真ん中には焦げ付いた跡があった。
「神体はそこにあったが、見ての通り焼けた」
「焼けた」
「戦争ってやつだ。ありゃひどかった」
タケミは顔をしかめた。
「戦争……」
聞いたことはあるが、具体的なことは知らない。
私は何かを知ることができるような育ち方をしていない。
「前の戦争じゃ、ここだけじゃなくあちこち焼けたよ。再建してくれたところもあったがな。ここは神体は焼けたが、雨風をしのげるだけの建物は残ったから、補修もされた。でも、俺を祀っていたことは、そもそも戦争のずっと前から忘れられてた」
しみじみとタケミは言った。
そして表情を変え、こちらをじっと見た。
「茜、腹は空いているか?」
茜、名前、私の名前。
「いえ」
空いていない。もともと私はあまり食事を取らない。
「そうか」
タケミはうなずき、板の間にあぐらをかいた。
私はタケミの対面にそっと正座をした。
「別に楽にして良いぞ」
「これが楽です」
「ならいい」
タケミは腕を組んだ。
「ひとまず当面の方針を決めよう。姉の居場所を見つけるのに、何か手がかりはないのか」
「えっと……姉は、街の学校へ……」
町の学校へやったのだと父は言った。それが本当なら、手がかりがあるとしたらまずは学校だ。
「街と言ってもなあ」
タケミは困った顔をした。
「街なんて、いっぱいあるだろう」
「…………」
そんなことを言われても、やっぱり私は知らないのだ。
村と街。ざっくりとそういう共同体がふたつある。
村は私の住んでいた場所で、街は遠い。
しかし街には村にないものがあって、必要にかられて村の人は街に行く。街の人は村には来ない。
私の知っている外とはそういう世界だ。
「……まあ、とりあえず明日、近くの学校に寄ろうか。姉はいくつだ」
「私の四つ上、今は二十歳。いなくなったのは十六のとき」
「じゃあ、高校か」
高校。姉は高校の制服というものを着ていた。けれども私が覚えているということは、それは街に行く前のことだ。街に行く前の高校だ。
「街の高校の前に、もういっこ他の高校に行っていたと思う」
「ああ、そっちは廃校になってるな」
タケミがそう言った。
「そうなの?」
「あの村から一番近い高校は二年前に廃校になった。近所の村落から若者がほとんどいなくなったからだな」
「どうして、タケミ様はそのようなことを知っているの?」
「呼び捨てでいい」
タケミはさらりと言って、続けた。
「お願い事が聞こえるんだ。『うちの高校をなくさないでください』ってずいぶん昔に誰かが俺に頼んでた。俺にそんな力はなかったが」
「ないの?」
「人の営みにそうそう干渉できない。特に俺が持つのはもっと原始的な力だ。雷とか、そういうもんだ」
「ああ……」
たしかに何度も光らせていた。
「まあ、雷と学問を司るような多芸な新参者もいるけどなあ」
「雷と学問……?」
「ああ、お前には通じないか。たいていの人間はこれを聞いたら笑うもんだが」
タケミは苦笑いをした。
「……なんだか人とよく会話をするような口ぶりなのですね」
「するよ。人に交わり生きていた自体はもうずいぶんと昔の話だけれど。それでも今でも人の声は聞いている、聞こえている。必要だと思ったら返事だってする。だから今のうつし世のことも、少しはわかった気でいる」
「そうなのですか」
少なくとも、私よりは知っているだろう。
「だから、そう、俺たちはまず」
タケミは苦笑いを深めた。
「路銀について考えないと」
「路銀」
馴染みのない言葉を私はただ繰り返した。
タケミが私を軽々と抱き上げた。
「わ……」
ずしりと白無垢の重みが私の体にかかる。
タケミはものともしていない。
「行くぞ」
タケミはそう言うと跳ねた。
上に向かって足だけで跳び上がる。
お堂の天井、タケミが飛び込んできたときに空いた穴めがけて跳び、外に出た。
ふわりと私の体も浮いた。
高い。
まるで空でも飛んでるように、地面が遠ざかる。
見下ろしたお堂は、もはや穴だらけで形を成していなかった。
人が、近付いていた村の人たちがこちらを見上げる。
「神を見るか。覚悟が要るぞ」
タケミが低い声でそう言った瞬間、またしても光が弾けた。
雷。
私達の周りを覆うように弾けた光は、あちらとこちらを遮り、見えなくなった。
もう、見えない。
何も見えない。
そしてタケミは空を蹴った。
浮遊する体。
飛翔する体。
タケミに身を任せ、私も空を飛んでいる。
頬に当たる冷たい風が心地よい。
風の音が耳のすぐ横を通り抜けていく。
村が遠く離れていく。
地上には木々が生い茂っている。
気付けば雲はどこかへと消え、空は晴れ渡っていた。
外だ。
これまで思い描いていた逃走とはまるで違っていたけれど、それでも私はとうとうあの場所から逃げ出した。
しばらく空を駆け、やがて森の中にぽつんとひとつ建つ建物の前にタケミは降り立った。
「とりあえず、ここが今日の寝床だ」
「もう?」
空はまだ明るい。
暗くなるどころか、夕焼けにも早い。
「ここは俺のねぐらのひとつだ。他のとこは行くのに遠い。夜通しになる」
「ねぐら……?」
「かつて俺を祀っていた社だ」
「かつて?」
「ここはすでに廃れた。新しい信仰が重視されたり、そもそも住民がいなくなったり、まあ事情は色々ある」
タケミはそう言って、建物――社の戸を勝手に開けた。
中はしんと静まりかえっていたが、清浄な気が漂っている。
「ここがなんだったのか、覚えている人間はもういないが、ここを清めてくれる人間はまだいる。地元に住む人間ではない。遠くに越したんだが、今でも年に一度、帰ってきては、掃除をしてくれる。酔狂なやつだよな」
「そうですね……」
社の中は、本当に何もなかった。
かつてタケミが祀られていたというころには、何かご神体にあたるものがあっただろうに、それすらない。
その代わり、社の真ん中には焦げ付いた跡があった。
「神体はそこにあったが、見ての通り焼けた」
「焼けた」
「戦争ってやつだ。ありゃひどかった」
タケミは顔をしかめた。
「戦争……」
聞いたことはあるが、具体的なことは知らない。
私は何かを知ることができるような育ち方をしていない。
「前の戦争じゃ、ここだけじゃなくあちこち焼けたよ。再建してくれたところもあったがな。ここは神体は焼けたが、雨風をしのげるだけの建物は残ったから、補修もされた。でも、俺を祀っていたことは、そもそも戦争のずっと前から忘れられてた」
しみじみとタケミは言った。
そして表情を変え、こちらをじっと見た。
「茜、腹は空いているか?」
茜、名前、私の名前。
「いえ」
空いていない。もともと私はあまり食事を取らない。
「そうか」
タケミはうなずき、板の間にあぐらをかいた。
私はタケミの対面にそっと正座をした。
「別に楽にして良いぞ」
「これが楽です」
「ならいい」
タケミは腕を組んだ。
「ひとまず当面の方針を決めよう。姉の居場所を見つけるのに、何か手がかりはないのか」
「えっと……姉は、街の学校へ……」
町の学校へやったのだと父は言った。それが本当なら、手がかりがあるとしたらまずは学校だ。
「街と言ってもなあ」
タケミは困った顔をした。
「街なんて、いっぱいあるだろう」
「…………」
そんなことを言われても、やっぱり私は知らないのだ。
村と街。ざっくりとそういう共同体がふたつある。
村は私の住んでいた場所で、街は遠い。
しかし街には村にないものがあって、必要にかられて村の人は街に行く。街の人は村には来ない。
私の知っている外とはそういう世界だ。
「……まあ、とりあえず明日、近くの学校に寄ろうか。姉はいくつだ」
「私の四つ上、今は二十歳。いなくなったのは十六のとき」
「じゃあ、高校か」
高校。姉は高校の制服というものを着ていた。けれども私が覚えているということは、それは街に行く前のことだ。街に行く前の高校だ。
「街の高校の前に、もういっこ他の高校に行っていたと思う」
「ああ、そっちは廃校になってるな」
タケミがそう言った。
「そうなの?」
「あの村から一番近い高校は二年前に廃校になった。近所の村落から若者がほとんどいなくなったからだな」
「どうして、タケミ様はそのようなことを知っているの?」
「呼び捨てでいい」
タケミはさらりと言って、続けた。
「お願い事が聞こえるんだ。『うちの高校をなくさないでください』ってずいぶん昔に誰かが俺に頼んでた。俺にそんな力はなかったが」
「ないの?」
「人の営みにそうそう干渉できない。特に俺が持つのはもっと原始的な力だ。雷とか、そういうもんだ」
「ああ……」
たしかに何度も光らせていた。
「まあ、雷と学問を司るような多芸な新参者もいるけどなあ」
「雷と学問……?」
「ああ、お前には通じないか。たいていの人間はこれを聞いたら笑うもんだが」
タケミは苦笑いをした。
「……なんだか人とよく会話をするような口ぶりなのですね」
「するよ。人に交わり生きていた自体はもうずいぶんと昔の話だけれど。それでも今でも人の声は聞いている、聞こえている。必要だと思ったら返事だってする。だから今のうつし世のことも、少しはわかった気でいる」
「そうなのですか」
少なくとも、私よりは知っているだろう。
「だから、そう、俺たちはまず」
タケミは苦笑いを深めた。
「路銀について考えないと」
「路銀」
馴染みのない言葉を私はただ繰り返した。