私の目の前に飛び降りてきたタケミは、こちらに背を向けていた。
 赤く燃える炎のような髪が目に飛び込んでくる。
 赤と黄色を基調とした派手な着物を着崩し、その上に毛皮を羽織っている。
 橙色の帯に刀を差して、仁王立ち。足元は下駄だ。
 そして彼はお堂の天井を仰ぎ見た。

「出てくるがいい、腐った老いぼれ」

 なんとも口が悪い。

「ガキめが!」

 神は安い挑発に乗った。
 上から、なにか降ってくる。

 タケミの前の床に、黒い塊が落ちる。
 お堂が、揺れた。大きく揺れた。

「きゃっ……」

 私は体勢を崩す。
 座った姿勢から、前のめりに倒れ、床に手をつく。

「おっと」

 タケミがちらりとこちらを振り向く。
 黄色く光る目が、見えた。

「悪いな、少し待て」

 タケミはそう言って、右手を頭上にかざした。

除災招福(じょさいしょうふく)(いかずち)!」

 雷鳴が、再び轟いた。
 今度はお堂の中、タケミのすぐ近くで、光った。
 そしてお堂の中が照らされた。

 タケミの向こう側にいる神の姿があらわになる。

「うっ……」
 私は思わず、口を覆う。

 それは巨大な醜い獣だった。

 獣の頭は、タケミと同じくらいの高さにあった。
 四つ足でお堂に立ち、爪は鋭く、お堂の床に突き刺さっている。
 黒く、薄汚れ、もつれた長い毛が逆立ち、蠢いている。
 剥き出しの牙は大きく、口からはよだれが卑しくしたたり落ちていた。
 毛の奥に目があった。光を受けて反射しているが、その奥は混沌とした暗闇である。

「……あれが、神?」
 もっと、なにか、(おぞ)ましいものに見える。
 あれを、あんなものを信じ、仰いでいたのか、私の村の人達は。
「神は神だ。残念ながら」
 タケミがふんと鼻を鳴らした。
「一緒にされたくはないがな」
 そう言って、タケミが獣へと一歩を踏み出した。

 獣が濁った瞳でタケミを睨みつけ、吠えた。
 その吠え声はそのまま黒い竜巻を起こした。
 まっすぐタケミに向かっていく。

「あ、危な……」
 私がつぶやくより早くタケミが刀を抜いた。

 刀が竜巻を切り裂く。
 黒い渦はまっぷたつに分かれ、あらぬ方向へ飛び散り、お堂を壊した。

 そして、タケミはそのまま前へと駆けた。

 タケミが刀を振りかぶる。
 獣が一歩後ずさる。
 逃げきれない。
 やぶれかぶれ、獣が前足をタケミへ伸ばす。
 大きな爪がタケミの顔面へと迫る。
 しかしタケミは、爪をあっさりと避けた。

 そしてタケミの刀は、獣の脳天を割り砕いた。

「ひっ……」

 噴き出す血。
 獣の断末魔がお堂いっぱいに響く。
 耳を塞ぐ。
 お堂が大きく揺れる。

 やがて、すべてがやんだ。

 獣は力なくその巨体を横たえた。

 あっという間の出来事だった。

 悪夢のような一瞬だった。

「おわった……?」
「ああ」
 刀を仕舞ったタケミが、目の前までやって来ていた。
「白無垢が台無しだな」
 そう言って彼は苦笑いをした。
 言われて気付く。
 獣の血はこちらにまで飛び散っていた。
 白無垢は真っ赤に染まっていた。
「……いえ、こんなもの、どうでも」
 どうせ、食われるためだけの着物だ。
 獣の血で赤く染まるか、私の血で赤く染まるかの違いでしかない。
「そうか、ならよかった。俺としてもそちらの色のほうが好みだな」
「はあ……」
 赤と黄色の着物を着ているのだ。赤色が好みなのは言われずともわかるが、血の赤色であると思うといささか趣味が悪く感じてしまう。
「えっと……あの、そう、このたびは助けていただき、ありがとうございました」
 私は手を床につき、(ぬか)ずくように頭を下げた。
「まあ、気にするな。ただの通りすがりの気まぐれだ。顔を上げてくれ」
「……はい。あの、これから、どうなるのでしょうか、神が死んでしまったら、村は……」
 認めたくはないが、あの神が村に恩恵をもたらしていたのは事実のはずだ。以前の花嫁を捧げた五十年前もしっかり豊作となったと聞いている。
「まあ、村人手ずから殺したのなら、祟られることもあるだろうが、しかし通りすがりに切られただけじゃ、どうにもならん。供養塔でも建ててやって、それで終わりだ」
「終わり……」
 なんとも、あっけない。
「そんなに、気になるか? 俺はどうでもよいと思うぞ。自分を見殺しにした村のことなど」
「でも……」
 じゃあ、この先、私はどう生きていけばよいのだろう。

 神の花嫁になる、それだけのために生きてきた。
 その神亡き今、これから私は何のために生きればいいのだろう。
 何もないのに。
 名前すらない、私なのに。
 もう、たったひとりのお姉ちゃんだっていないのに。

「…………」

 何も言えなくなってしまった私に、タケミがしゃがみ込んで視線を合わせた。
「ちょっと失礼」
「え……」
 タケミは私の左腕を取り、袖を少しまくった。
 そこには痣がある。神の花嫁に浮かぶ痣。
 まだ、残っていた。神は死んだのに。
「……ああ、やっぱりこれか」
 タケミが顔をしかめた。
「これは厄介だぞ」
「え……」
「これは稀人(まれびと)の証だ。この印を持つ人間は、神に力を与える」
「神……それは、あの獣に限らず、ということですか? あなたや、他の神にも?」
「そうだ。あの獣の神は老いていたが、この印を持つ人間を食らうことで、神としての力を回復していた。だから獣の神に生贄を捧げると、この村に豊穣がもたらされた」
「……生贄」
 当然のようにタケミは生贄と言った。
「生贄だ。ああ、なんだ花嫁とでも呼ばれていたか?」
「……はい」
「神を惹きつける(かぐわ)しき香りの人間……。まあ、ある意味では花だな。虫を惹きつけ、花粉を運ばせるための花のようなものだがな」
「神を惹きつける……? あなたのことも?」
 私の口からつい出た疑問に、タケミは一瞬動きを止めた。
 時が止まってしまったかのように、呼吸すら止まっている。
「……あ、あの」
 何かまずいことでも言っただろうか。いや、言った。
 私に惹かれますか? なんて、うぬぼれもいいところではないか。
「……いや、俺は、違う」
 どこかバツが悪そうにタケミはそう言った。
 不機嫌そうにすら見える。
 その態度に自分のうぬぼれが、とてつもなく恥ずかしくなる。
「しかし、まあ、そうか。俺が引き取ればいいのか」
 タケミは己を取り戻し、うんうんとうなずいた。
「お前、名前は?」
「……姓は立花、名前は、ありません。そういう風に育ちました」
「そうか。……よし、ないなら(あかね)にしよう」
「あかね?」
「うん。お前の名前は今日から茜だ」
 なんだろう。ずいぶんとしっくりきた。
 何故だかとても懐かしい。
 茜。
 私は、その名前を、昔――。
「茜、俺とともに来い。俺の花嫁として、かくり世に迎え入れる」
「花嫁」
 それは今日まで私を縛り続けていた言葉。
「大丈夫、俺はお前を取って食いやしない。そんな弱っちい神じゃない」
「それは、そうなのだろうと思いますが……」
 不思議と私は目の前のタケミを恐れていない。
 かといっていきなりのことを受け入れられるわけもない。
「そうでもしなければ、お前はその稀人の力を、あの獣と似たような神どもに狙われ続ける。それよりは俺の妻の方がいくらかマシだと思うがな」
「……か、考える時間は?」
「俺の方にはいくらでもある。お前はどうかな」
 タケミがちらりとお堂の外を見た。
 お堂はすっかり穴だらけで外の光が差し込んできていた。
 その光はいささか弱い。外が曇っている。
 そして、外からは声が聞こえた。人の声だ。

「何があった」
「雷か?」
「お堂に落ちたのか?」
「神様はどうなった?」
「見てくる」
「おい、待て、お堂の中に入って良いのか?」
「神の怒りを買ったら……」
「まず神主を呼ぼう」

 村の人達の声。
 神を心配するばかりで、私のことなどもう忘れたような人達の声。

「俺はどちらでもいいぞ。生贄……花嫁のお前を連れて行くとなったら、あいつらはひとまず抵抗するだろう。その時はあいつらを蹴散らしてもいいし、お前があいつらのもとへ戻りたいというのなら、それでも別によい」
「……戻りたくない」
「だろうな」
「……かくり世ってどういうところなのですか?」
「神の世界だ。神それぞれが自分の領域を持っていて、ほとんど互いに干渉しない。物静かで、退屈で、平和な場所だ」
「わ、私、そこに行ったら、帰ってこられますか? こちらに」
「……それは難しい」
 タケミは顔をしかめた。
「力弱い神ですら行き来は楽ではない。あの獣の神も弱ったところをかくり世から追われ、うつし世、こちらに来たきり、帰れなくなった類いだろう。ましてや人間は貧弱だ。簡単に行き来はできない」
「……私、こちらで、まだやらなくちゃいけないことが、ひとつだけあるの」
「なんだ?」
「……お姉ちゃんに、また会いたい」
 タケミは黙った。
「…………」
 そうしている間にも外の声は大きくなっていく。近づいている。
「あの……」
「わかった」
 タケミは、うなずいた。
「かくり世に赴く前に、探してやろうじゃないか、お前の姉を」
 そう言ったタケミの顔は、何故かどこか寂しそうな顔をしていた。