「これ使いな」と店長さんが言って渡してくれた髪留めで髪を結い上げて、それからスニーカーまでもらって、私の服装は完成した。
「次はちゃんと営業時間内に来るんだね」
そう吐き捨てるように言いながら、店長さんはタケミにちょっと大きな風呂敷包みを持たせていた。
「あの、それ……」
「あたしの朝食の残り」
ぶっきらぼうにそう言って、店長さんはいよいよ私達を店の外に放り出した。
「良い匂いがする」
包み越しに匂いを嗅いで、タケミがそう言った。
私も鼻を動かしたけれど、匂いはわからなかった。
「さて……まだ昼前か……」
タケミが歩きながら、考え込む。
「うーん、ここでやれること……もうないよなあ。それこそバイトくらいか」
ぶつぶつ呟きながら進むタケミの後に続く。
続こうとして、かくんと足が予期せぬ方向へ曲がった。
「わっ」
躓いたように、へたりこんでしまった。
「ん? 茜!」
振り返ったタケミが私の状態を確認して、慌ててこちらへやってくる。
「だ、大丈夫……」
立ち上がろうとするけれど、足に力が入らない。
「……あれ」
どうして?
「疲労だな」
タケミがすぐにそう言った。
「疲労……そっか……」
今までずっとお宮にこもっていたんだ。
朝から歩いたり、階段を上ったり、お店の中をうろうろしたり、そんなの疲れるに決まっている。
「……ごめんなさい」
「謝るのは俺の方だ」
タケミの顔が暗い。
「考えなしだった。振り回しすぎた」
「そんなことない。全部、私のためにやってくれたことでしょう?」
学校に行ったのはお姉ちゃんを探すためで、古着屋に行ったのは私の服を買うためだ。
タケミは全部、私のために連れて行ってくれた。
「楽しかったし、嬉しかったの。こんな気持ちは四年ぶり」
お姉ちゃんといた時ぶりだ。
「……茜」
「だから、なんだかもう会えた気さえするの、お姉ちゃんに」
「まだだ」
私の言葉を遮るように、性急に被されたその声はどこか硬かった。
「まだだ。こんなところで満足しちゃ駄目だ」
「う、うん」
タケミの物言いに気圧されて、うなずくことしかできない。
「……絶対、見つけるから」
タケミはやっぱり寂しそうな顔をしている。タケミはそんな顔をしていると、自分で気付いているのだろうか。
「ひとまず、社に戻ろう」
タケミが私を抱き上げる。
今までで一番タケミの腕が私の体に食い込んでいる気がする。
私が疲れているのだ。だから体が重たいんだ。そう気付く。
「ねえ、タケミ……。どうして……」
寂しそうなの?
お姉ちゃんに会いたいと言ったのは私だけれども、タケミもやけに前のめりな気がする。
どうしてそんなに頑張ってくれるの?
ただ優しいから?
それだけにとどまらない強い感情をタケミから感じる。でも、それがなんなのか、私にはわからない。
だから何も口に出来なかった。
出来ないまま、タケミには私の言葉が届かなかったかのように、無言で地面を蹴った。
また、空を駆けて、私達は朝いた社へ戻った。
社の中に入ると、私はそのまま床に寝転がってしまった。
起き上がっていられなかった。
疲れているという言葉の意味を強く実感する。
もうぴくりとも動きたくなかった。
「寝れるなら、寝た方が良い」
私に毛皮をかけてくれながら、タケミはそう言った。
「はい……」
「寝ている間、少し野暮用を済ませる。社に結界を張っておくから、絶対に一人では外に出るなよ」
「はい……」
言われるまでもなく、出られる気がしない。
「うん」
まぶたが重い。
タケミの声が優しい。
「タケミ……」
「どうした?」
「本当に、ありがとう。今日は楽しかった」
「……まだまだこれからだ」
タケミがそう言った。
「楽しいことなんて、これから先、いっぱいあるんだ。あるから」
何故か言い聞かせるようにタケミはそう言った。
「うん、わかってる。楽しみ」
そう返すと、ほっとしたようにタケミの表情が和らいだ。
もしかしてタケミは自分に言い聞かせていたのではないかと気付いたときには、もう私は眠りについていた。
「すまない」
謝らないでください。
「力になれなくて、すまない」
あなたのせいじゃないのに。
「こんなにも俺を必要としてくれているのに」
泣かないで。
「俺は君に何もしてやれない」
神様も泣くんだと、私はあの日、初めて知った。
「待っていてくれ」
待っています。いつまでも。
神様あなたが会いに来てくれるその日を。
お姉ちゃんが会いに来てくれるその日を。
「……夕方」
すっかり寝込んでいたらしく、目を覚ますと社の外は赤く染まっていた。
あかねさす、とタケミは言っていた。
聞いたことがあるような、ないような。
「……タケミ」
きっと、私達は昔、会ったことがあるんだ。
それはもう確信に変わっていた。
どうして覚えていないんだろう。
私、忘れちゃったんだろう。
タケミが寂しそうな顔をするのも、私に親切にしてくれるのも、茜と名付けてくれたのも、全部そこに答えがあるはずなのに。
言われたとおり、私は四年待ったのに。
「四年……」
四年前、お姉ちゃんがいなくなった。
四年、私は待った。
何か、思い出せそう。
「ただいま」
「わっ……お、おかえりなさい」
音もなくタケミが社の中から声を掛けてきた。
「あ、あれ? 扉、開けた?」
「そのまま入った」
「そ、そのまま?」
「俺は物理的に存在しないことも出来るんだ。神だからな」
「えっと……?」
「幽霊みたいにすり抜けられる、って感じだ」
「…………」
それができるなら、今日あった苦労のいくつかはしなくていい苦労だったはずだ。
でも、私がいたから、仕方なかったのか。
「……苦労ばかり、かけていますね」
「嫁取りなんて、そんなものだろう」
タケミはきょとんとそう言った。
「嫁取り……」
「労せず手に入るものなんて、本来はないんだ。それもこんなとびきりの花嫁を迎え入れるのなら、いくつもの山を越えて、多くの敵を倒して、初めてふさわしい」
「とびきりの花嫁……。それは私が『稀人』だから?」
「違う。言っただろう。俺は違うって。神は稀人に惹かれるが、俺は違う」
「違う……」
何が違うのだろう。
「俺はそんなこと関係なしに、ただ茜が愛おしいだけだよ」
「…………」
あっさりと告げられた直接的な愛の言葉に、私は言葉を失う。
びっくりしすぎて、感情が追いつかない。
ただタケミの顔をじっと見る。
その目はとても優しかった。慈しむようにこちらを見ている。揺るがない。
あんまりにも温かい目に、ようやく私の心はその言葉の意味を理解する。
理解して、顔が真っ赤になったのが、わかった。
「い、いとおしい……わ、わたしが……?」
ダメだ。ちゃんと言葉にならない。
「な、なんで……?」
つたない言葉しか出てこない。
「好きだから、好きだ。好きな気持ちになんでと答えられる理由なんてない」
「好き……?」
ダメだ。わからない。こんな言葉も、気持ちも、私の知っていることを遙かに越えている。
心臓の音がどくんどくんとうるさい。
体が心臓そのものになったみたいに震えている。
いっそ、心臓の音にかき消されて、何も聞こえなくなれば良いのに、そうすれば少しは落ち着くだろうに、それは許されない。
「まあ、いつかわかってくれれば、それでいい」
タケミがそう言った。
「茜も誰かを好きになればわかるさ」
「誰かを」
「それが俺だったら、嬉しいけれど、誰でもいい」
「だ、誰でも?」
「茜が幸せなら、それでいい」
「…………」
そんなこと言われたって、私にタケミ以上の誰かが現れるなんて気がしない。
しないのに、どうしてそんなことを言うんだろう。
幸せなんて、私、想像もつかないのに。
黙り込んでしまった私に、タケミは微笑みかけた。
「よし、飯にしようぜ」
そう言って、店長さんがくれた風呂敷をどんと置いた。
「はい……」
店長さんのお弁当は、朝食の残りというにはずいぶんとたくさんのものが詰まっていた。
「……優しいね、店長さん」
「うん、口は悪いけど、俺が昔、行き倒れていたときも拾ってくれたしな」
「行き倒れ!?」
「三十年くらい前かな。ひさしぶりにうつし世に来たら、法律だのなんだのが変わってて、にっちもさっちもいかなくなって、あの店の前で転がってたら、口におにぎり詰め込まれた」
「長い付き合い、なんですね」
三十年前。それじゃあ、私が生まれるよりも前だ。
「いや、久しぶりに行ったせいで、あのバカの息子か何かかい? って言われた」
「ああ……」
タケミは、何十才、何百才、下手したら千才だって越えているかもしれないのだ。
見た目がほとんど変わっていなかったのだろう。異様に若いというより、子供だと思った方が自然な年月が経っていたのだろう。
「しばらくしたら、また行けなくなるんだろうな。で、二、三十年後くらいにまた行くよ」
「孫ですって言って?」
「そうそう」
タケミは笑った。
「……寂しくならない?」
「うん?」
私にはタケミのあり方が寂しく思えた。
自分を自分だと覚えていてもらえない。
さらに数十年後には、人間は死んでしまうだろう。
それは、なんだか寂しい。
「慣れた」
その素っ気ないタケミの返答は、寂しいときがあると言っているようなものだった。
「……そっか」
これ以上、何かを聞くのは、タケミを傷つけてしまいそうで、私は黙った。
食事を終える頃には、社の外は真っ暗になっていた。
私達はそれでも外に出て、空を見上げた。
星が綺麗だった。
私がお宮で星を見上げるとき、いつもそこには格子があった。
格子に遮られた限定的な星空。
今目の前にあるのは、違う。
どこまでも続く夜空と、そこにまたたく星々。
いくらでも見ていられる気がした。
「明日からは、茜の体調を見つつ、東京へ向かう」
「足りますか? お金」
足りないというようなことを言っていたはずだ。
「茜が寝ている間に色々売り払ってきた。ふたりで東京へ向かうくらいの金額は用意できた」
「そう、ですか……」
それがいくらぐらいで、何を売り払ったのか。
私にはわからない。
でも、きっと大きなものだ。
「……本当にありがとうございます」
「いいんだ」
タケミが首を横に振った。
「約束したから」
「……はい」
ああ、きっと、その約束は昨日今日のものではない。
それに感づきながら、私はまた夜空を見上げる。
今はいい。このままでいい。
私は待つ。
自分が思い出せるのを、あるいはタケミが話してくれるのを。
それが私を愛しいと言ってくれた神様へ、私がただひとつ取れるせめてもの優しさだった。
星空をただ眺めながら、明日からまた始まる旅に、私は思いをはせた。
きっとそれは知らないことだらけだ。
それでも、タケミがいてくれるのなら、なんだって乗り越えられる気がした。
「次はちゃんと営業時間内に来るんだね」
そう吐き捨てるように言いながら、店長さんはタケミにちょっと大きな風呂敷包みを持たせていた。
「あの、それ……」
「あたしの朝食の残り」
ぶっきらぼうにそう言って、店長さんはいよいよ私達を店の外に放り出した。
「良い匂いがする」
包み越しに匂いを嗅いで、タケミがそう言った。
私も鼻を動かしたけれど、匂いはわからなかった。
「さて……まだ昼前か……」
タケミが歩きながら、考え込む。
「うーん、ここでやれること……もうないよなあ。それこそバイトくらいか」
ぶつぶつ呟きながら進むタケミの後に続く。
続こうとして、かくんと足が予期せぬ方向へ曲がった。
「わっ」
躓いたように、へたりこんでしまった。
「ん? 茜!」
振り返ったタケミが私の状態を確認して、慌ててこちらへやってくる。
「だ、大丈夫……」
立ち上がろうとするけれど、足に力が入らない。
「……あれ」
どうして?
「疲労だな」
タケミがすぐにそう言った。
「疲労……そっか……」
今までずっとお宮にこもっていたんだ。
朝から歩いたり、階段を上ったり、お店の中をうろうろしたり、そんなの疲れるに決まっている。
「……ごめんなさい」
「謝るのは俺の方だ」
タケミの顔が暗い。
「考えなしだった。振り回しすぎた」
「そんなことない。全部、私のためにやってくれたことでしょう?」
学校に行ったのはお姉ちゃんを探すためで、古着屋に行ったのは私の服を買うためだ。
タケミは全部、私のために連れて行ってくれた。
「楽しかったし、嬉しかったの。こんな気持ちは四年ぶり」
お姉ちゃんといた時ぶりだ。
「……茜」
「だから、なんだかもう会えた気さえするの、お姉ちゃんに」
「まだだ」
私の言葉を遮るように、性急に被されたその声はどこか硬かった。
「まだだ。こんなところで満足しちゃ駄目だ」
「う、うん」
タケミの物言いに気圧されて、うなずくことしかできない。
「……絶対、見つけるから」
タケミはやっぱり寂しそうな顔をしている。タケミはそんな顔をしていると、自分で気付いているのだろうか。
「ひとまず、社に戻ろう」
タケミが私を抱き上げる。
今までで一番タケミの腕が私の体に食い込んでいる気がする。
私が疲れているのだ。だから体が重たいんだ。そう気付く。
「ねえ、タケミ……。どうして……」
寂しそうなの?
お姉ちゃんに会いたいと言ったのは私だけれども、タケミもやけに前のめりな気がする。
どうしてそんなに頑張ってくれるの?
ただ優しいから?
それだけにとどまらない強い感情をタケミから感じる。でも、それがなんなのか、私にはわからない。
だから何も口に出来なかった。
出来ないまま、タケミには私の言葉が届かなかったかのように、無言で地面を蹴った。
また、空を駆けて、私達は朝いた社へ戻った。
社の中に入ると、私はそのまま床に寝転がってしまった。
起き上がっていられなかった。
疲れているという言葉の意味を強く実感する。
もうぴくりとも動きたくなかった。
「寝れるなら、寝た方が良い」
私に毛皮をかけてくれながら、タケミはそう言った。
「はい……」
「寝ている間、少し野暮用を済ませる。社に結界を張っておくから、絶対に一人では外に出るなよ」
「はい……」
言われるまでもなく、出られる気がしない。
「うん」
まぶたが重い。
タケミの声が優しい。
「タケミ……」
「どうした?」
「本当に、ありがとう。今日は楽しかった」
「……まだまだこれからだ」
タケミがそう言った。
「楽しいことなんて、これから先、いっぱいあるんだ。あるから」
何故か言い聞かせるようにタケミはそう言った。
「うん、わかってる。楽しみ」
そう返すと、ほっとしたようにタケミの表情が和らいだ。
もしかしてタケミは自分に言い聞かせていたのではないかと気付いたときには、もう私は眠りについていた。
「すまない」
謝らないでください。
「力になれなくて、すまない」
あなたのせいじゃないのに。
「こんなにも俺を必要としてくれているのに」
泣かないで。
「俺は君に何もしてやれない」
神様も泣くんだと、私はあの日、初めて知った。
「待っていてくれ」
待っています。いつまでも。
神様あなたが会いに来てくれるその日を。
お姉ちゃんが会いに来てくれるその日を。
「……夕方」
すっかり寝込んでいたらしく、目を覚ますと社の外は赤く染まっていた。
あかねさす、とタケミは言っていた。
聞いたことがあるような、ないような。
「……タケミ」
きっと、私達は昔、会ったことがあるんだ。
それはもう確信に変わっていた。
どうして覚えていないんだろう。
私、忘れちゃったんだろう。
タケミが寂しそうな顔をするのも、私に親切にしてくれるのも、茜と名付けてくれたのも、全部そこに答えがあるはずなのに。
言われたとおり、私は四年待ったのに。
「四年……」
四年前、お姉ちゃんがいなくなった。
四年、私は待った。
何か、思い出せそう。
「ただいま」
「わっ……お、おかえりなさい」
音もなくタケミが社の中から声を掛けてきた。
「あ、あれ? 扉、開けた?」
「そのまま入った」
「そ、そのまま?」
「俺は物理的に存在しないことも出来るんだ。神だからな」
「えっと……?」
「幽霊みたいにすり抜けられる、って感じだ」
「…………」
それができるなら、今日あった苦労のいくつかはしなくていい苦労だったはずだ。
でも、私がいたから、仕方なかったのか。
「……苦労ばかり、かけていますね」
「嫁取りなんて、そんなものだろう」
タケミはきょとんとそう言った。
「嫁取り……」
「労せず手に入るものなんて、本来はないんだ。それもこんなとびきりの花嫁を迎え入れるのなら、いくつもの山を越えて、多くの敵を倒して、初めてふさわしい」
「とびきりの花嫁……。それは私が『稀人』だから?」
「違う。言っただろう。俺は違うって。神は稀人に惹かれるが、俺は違う」
「違う……」
何が違うのだろう。
「俺はそんなこと関係なしに、ただ茜が愛おしいだけだよ」
「…………」
あっさりと告げられた直接的な愛の言葉に、私は言葉を失う。
びっくりしすぎて、感情が追いつかない。
ただタケミの顔をじっと見る。
その目はとても優しかった。慈しむようにこちらを見ている。揺るがない。
あんまりにも温かい目に、ようやく私の心はその言葉の意味を理解する。
理解して、顔が真っ赤になったのが、わかった。
「い、いとおしい……わ、わたしが……?」
ダメだ。ちゃんと言葉にならない。
「な、なんで……?」
つたない言葉しか出てこない。
「好きだから、好きだ。好きな気持ちになんでと答えられる理由なんてない」
「好き……?」
ダメだ。わからない。こんな言葉も、気持ちも、私の知っていることを遙かに越えている。
心臓の音がどくんどくんとうるさい。
体が心臓そのものになったみたいに震えている。
いっそ、心臓の音にかき消されて、何も聞こえなくなれば良いのに、そうすれば少しは落ち着くだろうに、それは許されない。
「まあ、いつかわかってくれれば、それでいい」
タケミがそう言った。
「茜も誰かを好きになればわかるさ」
「誰かを」
「それが俺だったら、嬉しいけれど、誰でもいい」
「だ、誰でも?」
「茜が幸せなら、それでいい」
「…………」
そんなこと言われたって、私にタケミ以上の誰かが現れるなんて気がしない。
しないのに、どうしてそんなことを言うんだろう。
幸せなんて、私、想像もつかないのに。
黙り込んでしまった私に、タケミは微笑みかけた。
「よし、飯にしようぜ」
そう言って、店長さんがくれた風呂敷をどんと置いた。
「はい……」
店長さんのお弁当は、朝食の残りというにはずいぶんとたくさんのものが詰まっていた。
「……優しいね、店長さん」
「うん、口は悪いけど、俺が昔、行き倒れていたときも拾ってくれたしな」
「行き倒れ!?」
「三十年くらい前かな。ひさしぶりにうつし世に来たら、法律だのなんだのが変わってて、にっちもさっちもいかなくなって、あの店の前で転がってたら、口におにぎり詰め込まれた」
「長い付き合い、なんですね」
三十年前。それじゃあ、私が生まれるよりも前だ。
「いや、久しぶりに行ったせいで、あのバカの息子か何かかい? って言われた」
「ああ……」
タケミは、何十才、何百才、下手したら千才だって越えているかもしれないのだ。
見た目がほとんど変わっていなかったのだろう。異様に若いというより、子供だと思った方が自然な年月が経っていたのだろう。
「しばらくしたら、また行けなくなるんだろうな。で、二、三十年後くらいにまた行くよ」
「孫ですって言って?」
「そうそう」
タケミは笑った。
「……寂しくならない?」
「うん?」
私にはタケミのあり方が寂しく思えた。
自分を自分だと覚えていてもらえない。
さらに数十年後には、人間は死んでしまうだろう。
それは、なんだか寂しい。
「慣れた」
その素っ気ないタケミの返答は、寂しいときがあると言っているようなものだった。
「……そっか」
これ以上、何かを聞くのは、タケミを傷つけてしまいそうで、私は黙った。
食事を終える頃には、社の外は真っ暗になっていた。
私達はそれでも外に出て、空を見上げた。
星が綺麗だった。
私がお宮で星を見上げるとき、いつもそこには格子があった。
格子に遮られた限定的な星空。
今目の前にあるのは、違う。
どこまでも続く夜空と、そこにまたたく星々。
いくらでも見ていられる気がした。
「明日からは、茜の体調を見つつ、東京へ向かう」
「足りますか? お金」
足りないというようなことを言っていたはずだ。
「茜が寝ている間に色々売り払ってきた。ふたりで東京へ向かうくらいの金額は用意できた」
「そう、ですか……」
それがいくらぐらいで、何を売り払ったのか。
私にはわからない。
でも、きっと大きなものだ。
「……本当にありがとうございます」
「いいんだ」
タケミが首を横に振った。
「約束したから」
「……はい」
ああ、きっと、その約束は昨日今日のものではない。
それに感づきながら、私はまた夜空を見上げる。
今はいい。このままでいい。
私は待つ。
自分が思い出せるのを、あるいはタケミが話してくれるのを。
それが私を愛しいと言ってくれた神様へ、私がただひとつ取れるせめてもの優しさだった。
星空をただ眺めながら、明日からまた始まる旅に、私は思いをはせた。
きっとそれは知らないことだらけだ。
それでも、タケミがいてくれるのなら、なんだって乗り越えられる気がした。