外から祭り囃子が聞こえる。
つられて木の格子窓を見上げてみても、隙間から空が見えるばかりだった。
今年もお祭りがくる。
私が十六歳になって、初めてのお祭りの日。そして私が死ぬ日がもうすぐやってくる。
この村のお祭りでは、花嫁に選ばれた娘を神様に捧げる。
以前行われたのは50年前だそうだ。
その時も私の家から花嫁が出た。
代々花嫁を輩出してきた地域の名家、それが立花家だ。
私には名前がない。
生まれたときから花嫁になることが決まっていたから、最初から出生届は出されず、お宮の中で育った。
お祭りの本番は来週だ。
来週私は久しぶりに外に出る。外に出るのは四年ぶりだ。
外に出て、神様に捧げられ、そしてこの世からいなくなる。
たったそれだけの十六年間。
私はひとつため息をついた。
広いお宮の中空にそれは消えていった。
お祭りの日はあっという間にやって来た。
格子窓から見える外は少し曇っていた。
昼前だというのに、いささか暗い。
雨が降り出すかもしれない。
雨。雨に打たれたことなど思えば一度もない。
最後に雨に降られるのも悪くはない。
村の女衆がやって来て、私を着替えさせた。
着慣れた緋袴の巫女装束を脱ぎ捨てて、私は白無垢を着させられた。
まっしろな着物はずいぶんと重たかった。
屋根付きの輿に乗せられて、私はお宮の外に出た。
外は賑わっていた。祭り囃子は絶え間なく聞こえてくる。
誰もが笑い、さんざめいている。
ふと思い出したのは四年前のお祭りの日だった。
私が自分の足で外に出た日だ。
あの日に聞こえた村の人達のしゃべり声。
「今年も凶作で敵いやしない」
「立花の長女が花嫁であれば、よかったのに」
「そうであれば神様が豊穣を授けてくださるのに」
「なあに、あと四年の辛抱だ」
「四年も経てば、次女が花嫁として神に捧げられる」
「あと四年、それまでどうにか凌ぐしかない」
「それにしてもあの長女はとんでもないことをしてくれた」
「まあ花嫁が無事であったからいいものの」
「立花さんが子供たちに甘すぎるからあのようなことになる」
立花の長女。私の姉。母が死んでから、私の世話係だった姉。
四つ年上の姉は四年前、私をお宮から連れ出した。
私の手を引き、そのまま逃がそうとしてくれた。
けれどもすぐ村の人達に見つかって、私はここに連れ戻された。
姉はその日からお宮に姿を見せなくなった。
姉の代わりに遠縁の女性がお宮に来るようになった。姉と違って、彼女が私と話をすることはなかった。
姉がいなくなって、私は話し相手を失った。
しばらくして訪ねてきた父が言った。
「あの子は街の学校にやった。もう帰ってこない」
父の言うとおり、姉はそれから一度もお宮に来なかった。
今日が最後の機会だ。姉に再会できるかもしれない最後の機会。これを過ぎればもう私はこの世のものではなくなってしまう。
けれども、姉は帰ってくるだろうか。
私に会いに来てくれるだろうか。
そもそも、本当に姉は生きているのだろうか。
街にやったというのは父の方便で、本当は、もう。
ぞっと背筋が凍り付いた。
考えを振り払うように頭を振る。
うつむいて手首を見る。
左手首の内側、血管の上、細長い五つの花びらが赤く刻まれている。
生まれついての痣。
これが神の花嫁の印。
私が生まれてきた意味。
「……おねえちゃん」
輿の外に聞こえないくらい小さな声で姉を呼ぶ。
もちろんどこからも返事はない。
お宮から移された先は、お宮と代わり映えのない形をしたお堂だった。
中の空気はよどんでいた。
50年もの間、閉めきられていた建物だ。
埃とカビの匂いがする。
こんなところに、神がいるのだろうか。清浄とはほど遠い場所だ。
お堂の中央に輿を据えると、担ぎ手たちはそそくさと退散した。
輿の中から這い出て、板の床に正座をする。
何か、いた。
奥に何かがいる気配があった。
ゴクリと生唾を飲み込んだ。
神の花嫁が実際にどうなるのか、知るものはいない。
花嫁として神の世界に迎え入れられるというものもいれば、食われておしまいだというものもいる。
どちらにせよわかっているのは、神の花嫁になったあと、帰ってきたものは誰もいないということだけだ。
私ももう帰れない。
それはもう人として死ぬのとおんなじだ。
私はうつむいた。すると目から涙が一筋こぼれ落ちた。
「よく来た、我が花嫁」
低い声がした。
ねばつくような、まとわりつくような怖気の走る声。
声はお堂全体から聞こえてくるようだった。
「面を上げて、その麗しい顔を見せるがよい」
どうして命じられなければいけないのだろう。
この顔は私のものなのに。
どうして自分を消し去ろうとしてくる相手に、見せてやらなければいけないのだろう。
「何を照れている」
声には含み笑いが混じっていた。
照れている? 冗談じゃない。
歯を食いしばり、怒りのままに顔を上げた。
「ああ……!」
高揚した歓喜の声とともに、お堂が揺れた。
気付く。声はお堂からしている。
お堂そのものが神だ。
私は今、もう神の胃の中にいる。
恐怖で息が詰まる。
けれどももうどうすることもできない。
ここに入ってしまった時点で、私はもう逃げられない。
手を引いて逃げてくれる人も、もういない。
「美しい。美しい。白い顔、黒い眼、恐怖に引き攣れた口元……! ああ、なんて美味しそうだ!」
神の歓喜に吐き気がする。
「50年だ。50年待ったのだ。ああ、空腹で仕方ない。まずは手足を一本ずつだ。一本を一週間。そうしたら、一月は楽しめよう! 最後は喉笛を噛み千切り、真っ赤に染まった白い衣ごと丸呑みしてやろう! ああ、なんて甘美な!」
そんな悍ましい算段に恐怖より怒りが勝る。
こんなやつに、私は殺される。
こんなものに対して、何十年、何百年、人を捧げて、殺して、私を閉じ込めて、平然としてきたんだ、あの村の人たちは。
「……ゆるさない」
そう呟いてみても、対抗策などあるわけもなく、何かがぬるりと近づいてくるのを、私はただ待つことしかできなかった。
じゅるりとよだれをすするような音がした。
べちゃりと私の膝の上に大粒の雫が落ちた。
相手の大きさがうかがい知れた。
ああ、厭だ。
濡れるなら、せめて雨がよかった。
けれども今日、雨は結局降らなかった。
雨も見ずに私は死ぬのだ。
そう思ったとき。
外が突然ぱっと光り輝いた。
その光は一瞬で消え失せた。けれども目の奥に強烈に灼きつくような光だった。
「……雷?」
雷だろうか。ああも光り輝くのは。
それならお宮の中から数度、見たことはあった。
「ぐう……うああ……」
神が突然、苦しみの声を上げた。
「くそっ……くそっ……! あのガキ……、よくも!」
神は何かへの怒りに猛っていた。
お堂が揺れている。
「のんびりしている暇はないようだ。50年ぶりだというのに口惜しいが、さっさと終わらせる……!」
何の話をしているのか。
わからないが、自分に危難が迫っているのはわかる。
わかったところで、やはり何ができるというのだろう。
立ち上がって逃げる?
でも服が重たいし、足が萎えている。
何年も出歩いていないのだ。
四年前だって、私の足が遅くて姉の足を引っ張ったのだ。
それを思い出すと涙が出そうになる。
そうやって、迷っている内に、お堂の中の空気が一段と重くなった。
近づいてくる。神が。
「いやだ……助けて……お姉ちゃん……」
「お姉ちゃんとやらじゃなくて、すまないな」
知らない声がした。
どこかぶっきらぼうな男の人の声。
声のした方を見上げた。
そう、声は上から聞こえてきた。
そこには、穴が空いていた。
薄暗いお堂にかすかな光が差し込んでいる。
そしてその光を背に受け、誰かが空に浮いていた。
「誰……?」
「我が名は建御、火の神タケミ。己が母を焼き殺した火の神の裔なり」
この人は何を言っているのだろう。
わからない。
けれども何故だろう。どこか安心する。
「古き悪神よ、貴様に死をくれてやろう」
彼は神へとそう言って、空からお堂へ飛び降りた。
つられて木の格子窓を見上げてみても、隙間から空が見えるばかりだった。
今年もお祭りがくる。
私が十六歳になって、初めてのお祭りの日。そして私が死ぬ日がもうすぐやってくる。
この村のお祭りでは、花嫁に選ばれた娘を神様に捧げる。
以前行われたのは50年前だそうだ。
その時も私の家から花嫁が出た。
代々花嫁を輩出してきた地域の名家、それが立花家だ。
私には名前がない。
生まれたときから花嫁になることが決まっていたから、最初から出生届は出されず、お宮の中で育った。
お祭りの本番は来週だ。
来週私は久しぶりに外に出る。外に出るのは四年ぶりだ。
外に出て、神様に捧げられ、そしてこの世からいなくなる。
たったそれだけの十六年間。
私はひとつため息をついた。
広いお宮の中空にそれは消えていった。
お祭りの日はあっという間にやって来た。
格子窓から見える外は少し曇っていた。
昼前だというのに、いささか暗い。
雨が降り出すかもしれない。
雨。雨に打たれたことなど思えば一度もない。
最後に雨に降られるのも悪くはない。
村の女衆がやって来て、私を着替えさせた。
着慣れた緋袴の巫女装束を脱ぎ捨てて、私は白無垢を着させられた。
まっしろな着物はずいぶんと重たかった。
屋根付きの輿に乗せられて、私はお宮の外に出た。
外は賑わっていた。祭り囃子は絶え間なく聞こえてくる。
誰もが笑い、さんざめいている。
ふと思い出したのは四年前のお祭りの日だった。
私が自分の足で外に出た日だ。
あの日に聞こえた村の人達のしゃべり声。
「今年も凶作で敵いやしない」
「立花の長女が花嫁であれば、よかったのに」
「そうであれば神様が豊穣を授けてくださるのに」
「なあに、あと四年の辛抱だ」
「四年も経てば、次女が花嫁として神に捧げられる」
「あと四年、それまでどうにか凌ぐしかない」
「それにしてもあの長女はとんでもないことをしてくれた」
「まあ花嫁が無事であったからいいものの」
「立花さんが子供たちに甘すぎるからあのようなことになる」
立花の長女。私の姉。母が死んでから、私の世話係だった姉。
四つ年上の姉は四年前、私をお宮から連れ出した。
私の手を引き、そのまま逃がそうとしてくれた。
けれどもすぐ村の人達に見つかって、私はここに連れ戻された。
姉はその日からお宮に姿を見せなくなった。
姉の代わりに遠縁の女性がお宮に来るようになった。姉と違って、彼女が私と話をすることはなかった。
姉がいなくなって、私は話し相手を失った。
しばらくして訪ねてきた父が言った。
「あの子は街の学校にやった。もう帰ってこない」
父の言うとおり、姉はそれから一度もお宮に来なかった。
今日が最後の機会だ。姉に再会できるかもしれない最後の機会。これを過ぎればもう私はこの世のものではなくなってしまう。
けれども、姉は帰ってくるだろうか。
私に会いに来てくれるだろうか。
そもそも、本当に姉は生きているのだろうか。
街にやったというのは父の方便で、本当は、もう。
ぞっと背筋が凍り付いた。
考えを振り払うように頭を振る。
うつむいて手首を見る。
左手首の内側、血管の上、細長い五つの花びらが赤く刻まれている。
生まれついての痣。
これが神の花嫁の印。
私が生まれてきた意味。
「……おねえちゃん」
輿の外に聞こえないくらい小さな声で姉を呼ぶ。
もちろんどこからも返事はない。
お宮から移された先は、お宮と代わり映えのない形をしたお堂だった。
中の空気はよどんでいた。
50年もの間、閉めきられていた建物だ。
埃とカビの匂いがする。
こんなところに、神がいるのだろうか。清浄とはほど遠い場所だ。
お堂の中央に輿を据えると、担ぎ手たちはそそくさと退散した。
輿の中から這い出て、板の床に正座をする。
何か、いた。
奥に何かがいる気配があった。
ゴクリと生唾を飲み込んだ。
神の花嫁が実際にどうなるのか、知るものはいない。
花嫁として神の世界に迎え入れられるというものもいれば、食われておしまいだというものもいる。
どちらにせよわかっているのは、神の花嫁になったあと、帰ってきたものは誰もいないということだけだ。
私ももう帰れない。
それはもう人として死ぬのとおんなじだ。
私はうつむいた。すると目から涙が一筋こぼれ落ちた。
「よく来た、我が花嫁」
低い声がした。
ねばつくような、まとわりつくような怖気の走る声。
声はお堂全体から聞こえてくるようだった。
「面を上げて、その麗しい顔を見せるがよい」
どうして命じられなければいけないのだろう。
この顔は私のものなのに。
どうして自分を消し去ろうとしてくる相手に、見せてやらなければいけないのだろう。
「何を照れている」
声には含み笑いが混じっていた。
照れている? 冗談じゃない。
歯を食いしばり、怒りのままに顔を上げた。
「ああ……!」
高揚した歓喜の声とともに、お堂が揺れた。
気付く。声はお堂からしている。
お堂そのものが神だ。
私は今、もう神の胃の中にいる。
恐怖で息が詰まる。
けれどももうどうすることもできない。
ここに入ってしまった時点で、私はもう逃げられない。
手を引いて逃げてくれる人も、もういない。
「美しい。美しい。白い顔、黒い眼、恐怖に引き攣れた口元……! ああ、なんて美味しそうだ!」
神の歓喜に吐き気がする。
「50年だ。50年待ったのだ。ああ、空腹で仕方ない。まずは手足を一本ずつだ。一本を一週間。そうしたら、一月は楽しめよう! 最後は喉笛を噛み千切り、真っ赤に染まった白い衣ごと丸呑みしてやろう! ああ、なんて甘美な!」
そんな悍ましい算段に恐怖より怒りが勝る。
こんなやつに、私は殺される。
こんなものに対して、何十年、何百年、人を捧げて、殺して、私を閉じ込めて、平然としてきたんだ、あの村の人たちは。
「……ゆるさない」
そう呟いてみても、対抗策などあるわけもなく、何かがぬるりと近づいてくるのを、私はただ待つことしかできなかった。
じゅるりとよだれをすするような音がした。
べちゃりと私の膝の上に大粒の雫が落ちた。
相手の大きさがうかがい知れた。
ああ、厭だ。
濡れるなら、せめて雨がよかった。
けれども今日、雨は結局降らなかった。
雨も見ずに私は死ぬのだ。
そう思ったとき。
外が突然ぱっと光り輝いた。
その光は一瞬で消え失せた。けれども目の奥に強烈に灼きつくような光だった。
「……雷?」
雷だろうか。ああも光り輝くのは。
それならお宮の中から数度、見たことはあった。
「ぐう……うああ……」
神が突然、苦しみの声を上げた。
「くそっ……くそっ……! あのガキ……、よくも!」
神は何かへの怒りに猛っていた。
お堂が揺れている。
「のんびりしている暇はないようだ。50年ぶりだというのに口惜しいが、さっさと終わらせる……!」
何の話をしているのか。
わからないが、自分に危難が迫っているのはわかる。
わかったところで、やはり何ができるというのだろう。
立ち上がって逃げる?
でも服が重たいし、足が萎えている。
何年も出歩いていないのだ。
四年前だって、私の足が遅くて姉の足を引っ張ったのだ。
それを思い出すと涙が出そうになる。
そうやって、迷っている内に、お堂の中の空気が一段と重くなった。
近づいてくる。神が。
「いやだ……助けて……お姉ちゃん……」
「お姉ちゃんとやらじゃなくて、すまないな」
知らない声がした。
どこかぶっきらぼうな男の人の声。
声のした方を見上げた。
そう、声は上から聞こえてきた。
そこには、穴が空いていた。
薄暗いお堂にかすかな光が差し込んでいる。
そしてその光を背に受け、誰かが空に浮いていた。
「誰……?」
「我が名は建御、火の神タケミ。己が母を焼き殺した火の神の裔なり」
この人は何を言っているのだろう。
わからない。
けれども何故だろう。どこか安心する。
「古き悪神よ、貴様に死をくれてやろう」
彼は神へとそう言って、空からお堂へ飛び降りた。