優牙の転校初日はおおむね問題なく過ぎていった。白狼への質問攻めは止まらなかったが、どれも旧家が深く関係していると言えば、彼らはその先へ踏み込むことを畏れ「いや、やっぱりいい」と言葉を濁す。

「その方が身のためだぜ……狼に喰われたくなければ、な」

 白狼をはじめ、集落に暮らす人間は知っている。秘境と呼ばれる蒼谷岳を訪れ行方不明になった人間の多くが、狼の牙にかかって命を落としていることを。
 厄神憑と呼ばれる彼らは人間の血肉を口にしていなければ、生存が危ぶまれる儚さを併せ持つケモノだ。
 けれど、蒼谷の土地では神の御子として、狼は人間よりも上位の存在として君臨しつづけている。たとえ人間を害するものだと世間で罵られようが、神の化身とされる狼は法律で裁かれない。
 ゆえに警察は動かない。土地の神々と関わりつづける蒼谷旧家が是と言わない限り。

「そのように脅すものでもないだろうに」
「むやみやたらと聖域に足を踏み込まれないよう牽制しているだけだ。お前だって、御遣いが無駄な殺生を行うのはイヤだろう?」
「だからこれ以上人彼らが人間を殺さぬよう降りてきたのだが……」
「って、物騒な会話を堂々としないでくれません? ただでさえあなたがた、生徒たちから浮いているんですから」
「瞳先生。いま俺たちはディベートの最中なんですよ、口を挟まないでください」
「あのねぇ、シローくん。放課後の図書館で『無駄な殺生』とか『人間を殺す』などと話しているのを耳にしたらふつう、止めないといけないと思うのです、先生として」
「ぬ? シロ、この女人は?」
「図書館長の各務原(かがみはら)瞳先生ですよ」

 円卓で向き合って座っていた白狼に紹介され、瞳は名前の通りおおきな瞳で優牙を見つめ、「あなたが旧家の……」と黙り込む。
 優牙は真正面から瞳に見つめられ、困ったように白狼にこぼす。

「そなた、名をヒトミというのか」

 白狼よりも若干低いテノールが、瞳の耳底へストン、と落ちる。
 その瞬間、瞳が黙り込む。その変化はほんの僅かで、優牙には理解できなかったが、白狼は気づいていた。ふだんの彼女とは異なる、能面のようにまっさらな硬い表情。素顔を無理矢理隠して警戒する、不器用な表情に。

「――あなたは」
「無論、神様だが?」

 あ。
 人間と関わりあうことを長い時間放棄していた彼が、人間の常識で目上のひとに対する礼儀を払えるほど器用ではないことを、白狼は知っていたはずだ。
 けれど、現段階では手遅れだった。

「何度言えばわかるのだ! 我は蒼谷の白狼大神。蒼谷に蔓延る悪しき厄神を葬るがため人間としてかの地に舞い降りてきたのだ」

 威厳のちっとも備わっていない未熟な少年の器に入ったままで、信じていない人間に畳みかけても信じてもらえるわけがない。
 案の定瞳は顔を真っ赤にして、優牙をキッと睨みつけている。そして、はぁと深呼吸した後。

「わかった、わかりましたからっ、図書館から出てってください!」
「お騒がせしました!」

 瞳に怒鳴りつけられ、きょとんとした表情の優牙の手を掴み、白狼は逃げるように図書館を後にする。