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「三十年前のことはあいにくだが俺にはわからない。ただ、八綾のなかに裏切り者がいたのは確かだ」

 現代の旧家録からは排除されている八綾がひとつ、蒼の沖磯(レプンシララ)。蒼谷の狼神と混同されることを避けるため、旧家は蒼とは呼ばず、あえて()()、と呼んでいた。
 三十年前の春のおわり。ちょうど桜が散りはじめた頃。鳥居卯月とともに蒼谷の北にある冠理海(かんむりかい)へと消えた沖磯家の末裔――沖磯黒狼(くろう)

「それが彼女と接触していたと?」
「たぶんな」

 彼は海の藻屑になったとされるが、冥神の気まぐれのせいで、いまも蒼谷の地に現れることがあるらしい。
 神々が求めたうさぎを道連れにした引け目か、旧家の人間には近づかないらしく、白狼自身も()()()()がいるという噂だけは耳にしつつも、実際に遭遇することはなかった。
 その姿は海の碧を彷彿させる双眸と、かつては黒かったものの、死後色を失ったと思われる白銀の雪原を彷彿させる髪……瞳が言っていた外見にぴたりと一致する。
 そもそも旧家に属していながら人間や神々に翻弄される哀れなうさぎを想い、叶わぬ恋に溺れた裏切り者の存在など、記録にはない。浄化のちからを暴発させ、千年近く眠っていた優牙が知らないのも当然である。
 白狼のはなしを受けて何も知らなかった優牙は拗ねるようにぷいと顔を背ける。

「……緋に焦がれるのは蒼の宿命か」
「さぁね」

 蒼の沖磯家は、かつて死後の国である冥界の穴、冥穴(めいけつ)の門番として集落の民の魂を導いてきた一族だ。最後のひとりが海に消えたことで彼らが管理していた門は閉鎖されたが、彼ならば門を開いてひとひとりを連れていくことなど容易いだろう。
 彼が瞳を冥界へ誘う可能性を考えると、放っておくわけにはいかない。
 白狼は軽く頭を振って、はなしをつづける。

「彼の一族は海の狼神と通じていた。もしかしたら……」

 あれは無害な鬼なんかじゃなくて、寿命を迎えた()()()()()()なのでは?
 何かを思い出しそうになって、白狼は頭を抱え込む。

「――シロ!」