「なぜ、それを」

 焦りを露わにした彼を見て、瞳はなんだか昨日と立場が逆になっているなあと漠然と思う。だからといって追求の手を緩めるつもりは毛頭もない。

「甘く見られたものね。調べものなら誰にも負けない自信があるわたしよ! わからないことがあるならそれに関する書籍から知識を借りればいいだけ。昨日はあなたのせいで眠れなかったから、関連するものを片っ端から図書館で調べなおしたわ。蒼谷にまつわる神謡とそれに関連した伝承、事件に至るまで新聞記事や週刊誌も拡げて思う存分!」

 だから目の前にいる青年が何者なのかも検討がついている。けれど、人外である彼の名を呼ぶことは、また一歩自分が神々と距離を縮めることに繋がってしまう。だから瞳はまだ、怖くて彼の名を呼べないでいる。

 ――シローくんだったら、躊躇わずに彼の名を呼ぶ?

 ひとつの音に複数の意味を持たせる真名、ふたつ名などと呼ばれる隠された名称は土地神に与えられた守護のちからのすべての源とされている。現代でその信仰は薄れているとはいえ、土地神の恩恵がある集落で暮らすひとびとは未だに自分たちが持つ名前のちからを漠然と信じているところがある。
 それゆえ、瞳は彼から自分のことを緋兎美と呼ばれたのだと理解する。もしかしたら亡き祖父もこの法則に基づいて自分を名付けたのかもしれない。けれどその効力は、自覚しない限り意味をなさない秘されたもの。いまではおとぎ話のようなもの。
 だから彼は瞳を名で縛ることができなかったのだ。緋兎美と呼ばれてもそれが自分のもうひとつの名であると、知らずにいたのだから。
 海を彷彿させる碧い双眸をジッと見据え、瞳は言い放つ。

「先に言っておくわ。わたしはね、黙って狩られるうさぎじゃないの。おあいにくさま」

 睨みつけられ、男はニヤリと笑う。その笑みは昨日見せた嫌みっぽいものではない、爽快さをにじませたもの。

「こりゃあいい! さすがオレが愛した卯月の生まれ変わりだ。賢いようで、何よりだぜ」

 そう言って、彼は瞳の前へ跪く。

「その賢さに免じて教えてやるよ。知りたいこと、オレが知っていることすべて」

 忠誠を誓う騎士のように態度を改め、彼はしずかに口をひらく。瞳は怪訝そうに彼を見上げ、ぽつりと応える。

「……なんのつもり?」
「緋に焦がれた蒼の人間の戯言さ。おとなしく話を聞け……卯月が遺した情報をな」