「まさかオレがわからないのか? 兎姫さん」
「何を……」

 莫迦げている。そう一蹴すれば良いのだろう。けれど、瞳はそのヒトコトに躓いてしまった。

「至高神の情けで人間になったうさぎふぜいが、オレと対等な口を利くとは、ずいぶんなものだ」
「なっ」
「それにしても。転生を繰り返して数年もしないうちにふたたび目の前に現れるとはね……」

 瞳が知らないことを当然のようにぽんぽんと言霊に乗せて、青年はニヤリと笑う。

「真名が緋色の美しい兎か」

 違う、自分はそんな名前ではない、れっきとした瞳という名前を持つ人間だと、そう言い返そうとして、我に却る。
 瞳と名付けたのは母方の祖父だという。瞳に何度も本を読んでくれた優しい祖父。彼――緋の鳥居家最後のひとり――が、娘が産み落とした玉のような赤ん坊を見て決めたのだと。おおきな美しい瞳を持っているから『瞳』にしたんだ。そう聞いた。
 けれど、母はそのときのことを忌まわしそうに思い返す。おじいさまははじめ、あなたをあの狼神伝説に基づいて『兎』と名付けようとしたのだ、と。卯月が海に消えたのはその名前のせいだと両親が反対したから、祖父も諦めたのだ、と。
 なぜいままで忘れていたのだろう。うさぎという単語が、生まれた頃から自分についてまわっていたことを。
 ドクッ、ドクッと心臓が厭な音を立てる。瞳が凍りつくのを見て、面白そうに青年が目を細める。

「期日は桜が散るまで……またしても狩りの時間がはじまるようだぞ。お望みならば、オレがつかまえてやるぞ? 緋の鳥居(トゥペンニ)の、哀れな兎姫よ」

 物騒に呟いた彼の姿は、気づけば透けてしまったかのように、見えなくなっていた。

「……うそ」

 まるで、悪い夢でも見ていたかのように。