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「――うさぎ、うさぎ」

 狼神さまが愛した特別なうさぎ。かつては美しい毛並みのしろうさぎ。人間の罠にかかってもがき苦しんでいたうさぎは人間の姿をした狼神に救われ、彼が神であることを知らずに恋に堕ちる。
 そこまでなら、瞳の記憶にも新しい。地域史に記される蒼谷の狼神伝説はだいたい同じように書き記されているからだ。
 けれどそこから先がぜんぜん違う。
 この本ではうさぎが至高神に願って人間になっているが、一般的にはうさぎは人間にならない。うさぎはうさぎの姿のまま、自分が助けた人間が狼神であることを知らずに恩返しに行くのだ。そして狼神は本性を見せ、おまえを食べてしまうかもしれないとうさぎを拒む。けれどうさぎはそれでもいいと傍にいることを選び、種族を越えて結ばれる。
 子ども向けのお話だとここで「めでたしめでたし」になる。また、地域史の場合、うさぎの方が狼神よりもはるかに早い寿命を迎え、旅立ってしまい、それを嘆き悲しんだ狼神が海に隠ってしまったというものもある。

「九つの家、旧家。八つの綾を束ねた雪の白峰、水の身神、緑の深森、紫の石動」

 瞳は知らず知らずのうちに、声に出して読んでいたらしい。

「黄の月離野、橙の神酒(みき)、桜の花幡(はなはた)

 非現実的な単語をぽつり、ぽつりと言霊に落としていくにつれて、古くからカイムの地に伝わる神謡(ユーカラ)のように聞こえてきた。
 けれどその流れるような詠唱はすぐに途切れ、瞳はハッと我に却る。