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 かつてこの地には狼の姿をした神がいた。
 彼は自分が統治する土地を回る際、人間の姿を借り、人間と共に生活をしていた。
 あるとき彼は美しい純白の毛並みのうさぎと出逢う。人間が仕掛けた罠にかかり、真紅の血を流して苦しんでいる姿を見て、思わず助けてしまったのだ。
 彼に助けられたうさぎはなんとかして彼に恩返しをしたいとかの国の至高神に願い、このことを他の神々に隠すことを約束に、八綾家のひとつである緋の鳥居家の娘にしてもらう。そして彼の本性が狼で、至高神が隠すよう約束した神の一柱であることを知らないまま、うさぎは彼に恋をした。
 狼神もまた、自分を慕う少女を憎からず思っていた。その淡い感情は、時間を経ることに深く色濃くなっていく。
 やがて互いを愛し合うふたりだったが、彼は自分が狼神であることを隠していたし、彼女も自分がかつて彼に救われたうさぎであることを隠していた。
 互いに秘密を抱いたまま、危うくも幸せな時間が過ぎ、あくる冬……原因不明の疫病が流行する。
 多くの民が命を失ったことで、八綾家は土地神である狼神が人間の少女にうつつを抜かし守護を怠ったからだと結論づけ、少女を神の前から隠してしまった。
 愛する少女を奪われた狼神は狼の本性を出現させ、彼女を探して集落中を駈けた。だが、人間から狼の姿に戻った神に残った感情は本能のみ。愛する少女を奪われた人間への憎悪と彼女への執着だけが、神を動かした。
 そのときに生まれた憎悪が眷属の狼たちにも乗り移り、やがてそれが厄神憑の賀陽狼と呼ばれるようになる。
 狼神は、土地神へ捧げられる生贄が目の前にいると本能的に察知し、目の前の少女へ牙を向ける。
 だが、少女に名を呼ばれたことで狼神は忘れていた感情を取り戻し、彼が愛した少女に牙を向けた事実に絶望した。狼神が愕然としている間に、人間が少女を殺めてしまった。

「彼女がいなければ家族は死ななかった!」

 そう叫んで。
 少女の死体は緋色の血に染まったちいさなうさぎの姿に変わっていた。それを見て真実を悟った狼神は悲嘆に暮れ、浄化のちからを暴発させた後、人間の前から姿を消した。
 その後、疫病は姿を消し、蒼谷の地に安寧が訪れるも、代償として白峰の地には人間を喰らう厄神憑の狼が残ったのである。
 以来、蒼谷の狼神は人間から隠れるように山深い森のなかで長いときを生きているとも、永い眠りについたともいわれている。
 狼神に愛され、人間によって生贄として命を散らした一羽のうさぎは八綾家の「緋の」娘でもあったため、後に「あかうさぎ」と神聖視され、蒼谷の神謡(ユーカラ)に組み込まれ、現在へと伝承されている。