人生の中で幸せだった時期を1つあげろと言われれば、きっと私は迷いなくきみといた期間を挙げるだろう。勿論そんな突拍子もない質問が飛んでくることはこの先もないのだろうけれど、自分自身に問いかけるとき、私はそう答えてしまうのだとおもう。





「ねえ松宮さん、人生でいちばん幸せだった時っていつ?」

 ザワザワと話し声や電話の音が煩い中、隣りから突拍子もなく飛んできた言葉に耳を疑った。
 人生で聞かれることのない質問だと思っていたからだ。

「……いきなり何?」
「いーや、なんとなく」
「なんとなくでその質問?」
「聞いて欲しそうな顔してるじゃないですか」
「どこらへんが?」
「さあ、わかんないけど」

 定時はあと30分後のオフィス。隣の席に座っているのはひとつ年下の男の子だ。ルックスはいいけれど仕事は可もなく不可もなく。出世をするタイプとは思えないし、第一年下との恋愛は私の中で論外だ。
 ……なんて、恋愛対象として人を評価できる立場でもない。条件付きでしか抱けない恋愛感情に、なんの意味があるのだろう。

「あ、松宮さん、もしかして今僕のこと恋愛対象外って認定してません?」
「はあ?」
「顔に書いてありますよ」
「なんなの?」
「わかるんですよね、勘が鋭いんです、結構当たりますよ、僕の勘」

 占いしましょうか、と馬鹿にしたように笑うので無視しておく。そういえばこの男──笹原くんは、入社してきた時から少し苦手だった。彼は時々、なんでも見透かしたような顔をする。





「松宮さん、今日こそは一緒に飲んでくださいよ」

 そんな誘い文句を受けて早3日。『人生でいちばん幸せだった時期はいつだったか』という質問をされてから、なぜか笹原くんに仕事終わりの密会を迫られている。
 正直面倒くさいので毎度断っていたのだけれど、3日目となると断るのも心苦しくなるものだ。渋々了承して、駅近の少しお洒落な居酒屋で乾杯を交わした。お酒は強くない。下手に男と2人で飲むことも殆どしたことがない。もしかしたら流れで一夜、という可能性だってこの歳になればきっとあるだろう。前の私ならそう言う人間を軽蔑していたはずだ。けれど今この瞬間、それを拒む理由はどこにもないのだ。

「それで、松宮さん、僕の質問覚えてますか」

 2杯目のコークハイを口につけたところだ。まだお通しとポテトサラダしか食べていないのに、話題はほとんどメインに差し掛かる。

「この間の?」
「はい」
「そんなこと聞いてどうするの」
「さあ、どうするかは、聞いてからのお楽しみですよ」

 なんだそれ、弱みに漬け込もうというわけか。

「……最近私が指輪してないのを知っていて言ってるなら、相当タチが悪いね」
「ああ、やっぱり、ね」

 運ばれてきたローストビーフとチキンの盛り合わせに箸を伸ばしてお酒をすすめる。濃い味付けも、タバコの匂いも、アルコールで何かを飛ばす行為も、興味のない男と食卓を囲むことも、何もかもが好みじゃない。そんなものは私の人生に必要ないと思っていた。

「最近別れたんだよ、5年付き合って、結婚の約束もしてた」
「そっか、それはつらいね」
「他人事みたいに言うね」
「他人事ですよ」
「まあ、それはそうか」

 そうだ、私が世紀の大失恋をしたところで、毎日隣に座って同じ仕事をこなしているこの男にとっては、すべてが他人事なのだ。

「どんな人ですか?」
「元彼?」
「はい」
「……優しい人だったよ」

 大学生の時に出会った。2つ上の先輩。高校生から恋愛偏差値の上がらない私にとって、年上の男、というだけで何もかもが魅力的だった。
 多少の我儘は可愛いものだと頭を撫でてくれた。ことあるごとに気持ちを伝えてくれて、かわいい、や、好き、という言葉を毎日もらっていた。自分は世界で一番幸せものだと錯覚させられるくらい、大事に、大切にされていたと思う。
 辛さも悲しさも痛みも楽しさも喜びも幸せも全部分け合ってくれた人だ。誰よりも優しさをくれた人だ。
 幸せだったと思う。人生で一番、と聞かれたら、真っ先に名前が出るくらい、私はきっと幸せだった。

「……なんで別れたんですか?」
「価値観の違い、かな」
「お互い好きなのに?」
「好きでもうまくいかないことがあるの」
「大人っすね」
「大人になってしまったんだね」

 中高生の頃、きらきらした恋愛をしていた。
 目が合うだけで胸が高鳴って、顔や条件なんていうのは二の次だ、波長があって、その人自身に惹かれて、誰かを好きになった。純粋で無垢だからこそ生まれる感情たち。
 けれどもいつしかわたしたちは大人になる。
 年齢や結婚や世間体に縛られて、体の重なりを知って、恋愛のテクニックを学んだ。誰かを傷つけることより自分優先、一瞬の快楽のために誰かを裏切る、そんな話を身近で聞くようになった。馬鹿馬鹿しいけれど、それが現実で、わたしたちがおとなになるということだった。
 ばかばかしい、だらしない男女関係も、寂しさありきの恋愛も、ひとりでは満たせない承認欲求も、人間を黒く塗りつぶしていくだけだ。

「松宮さん、知ってますか」
「なにを、」
「松宮さんに憧れてる人、結構いるんすよ」
「へえ、知らなかった」
「知ってるのに気づかないふりしてるのに、よく言いますね」
「そんなことないよ」

 簡単に好意を持ってくれる誰かを好きになれたら、どれほど楽なのだろうかと思う。簡単に体や心を許せるタフさがあれば、もっと世界は違うように見えていたのかもしれない、とも。

「でも、そこがいいんです、そこが魅力なんでしょうね、松宮さん」
「なにそれ」
「松宮さん、松宮さんは、絶対幸せになれる人です、そういうふうに、ちゃんとこの世界は出来てるんですよ」
「……占い?」
「勘です、でも、当たりますよ」

 『本当はずっと、きみのようになりたかった』
 彼が最後に言った言葉を記憶の中で指先でなぞる。ばかだね、きみはずっと、私に憧れていると言っていたね、そういうところが好きだったよ、そいうところに惹かれていたんだよ、ばかだね、後悔しなよ、だけど絶対幸せになってね。

「見透かすね、笹原くん」
「そーです、わかります?」
「私に気がある?」
「まあ、チャンスだとは思ってますよ、ずっと狙ってたんで」
「それは気づかなかった」
「彼氏のことしか見てなかったじゃないですか」
「それはそうだよ」
「やっと僕のターンですね」
「それはどうだか、年下だし」
「条件から外れた方が、案外のめり込んじゃうものですよ」
「じゃあ今後に期待することにする」
「もちろん、任せてください、確実にしとめますよ、覚悟しといてくださいね」

 人生の中で幸せだった時期を1つあげろと言われれば、きっと私は迷いなくきみといた期間を挙げるだろう。
 けれどずっとそうだとは思わないで欲しい。
 きっともっと幸せになれる。
 世界はきっと、そういうふうにできているんだよ。誰かの言葉を借りてね。



【星は巡らず灘らかに死す】fin.