ミーン、ミーン...
夏らしい、と言われればそんなセミの声くらいだ。こんなところまでよく聴こえてくるものだ。夏だというのに太陽の光どころか暑ささえ感じやしない。
クーラーのよくきいた狭い教室。私達は誰ひとりとして、汗ひとつかいていない。
セミの声と、ガリガリと音を立てるシャープペンシル、それからペラペラと無駄に参考書をめくる音。
1番後ろの席に座っている私は、机に向かって真剣になっているクラスメイト達の後ろ姿を見ながら頬杖をつく。
何が夏だ。何が夏休みだ。
高校三年生、つまり受験生の私達に、夏休みなんてものはない。しかもここはこの辺では名高い有名な進学校である。
そんな学校─────いや、監禁施設とでも言うべきか─────に毎日強制的に来させられ、当たり前のように席に着き、当たり前のようにノートを開く。
窓から見える青空は、どこだか作り物のような色をしている。
教室にいるのはざっと38人ほど。
夏休みといいながら、この学校は毎日が登校日だ。自主学習とかなんだとか理由をつけて、半ば強制的に勉強させられているのだ。朝の9時から夕方6時まで、一日中みんなが机に向かっている。
よくもまあこんな夏真っ盛りの晴日に楽しんでこんなところにくるものだ。私もだけど。
クラスの人数は40人。2人はいつも欠席。
干渉するのも面倒臭いから私は何も知らないけれど、好き好んでこんな学校に入学したのだから、来ていないのには何か理由があるんだろう。
来ないのには理由がある。だけもきっと、ここに来ている人たちにも理由がある。
将来の夢だったり親孝行だったり。
理由は様々だけど、みんなそれなりの有名大学を目指して机に向かっている。教師達は進学率を上げて学校のレベルを上げることが1番の目的なわけで、こんなに真面目な生徒達をもってさぞかし鼻が高いことだろう。
そんな中、ただ1人私だけが、ただなんとなくでこの席に座っているのだ。
もうそろそろ勉強には飽きた。
第一、私には夢というものがない。
医者になりたいだとか弁護士になりたいだとか、そんな高い目標をかかげて勉強に励んでいる周りの人たちを素直に尊敬しているけど、馬鹿らしいとも思っている。
だって高校生活は、これで最後なのだ。
元々あまり勉強しなくても成績の良かった私はすんなりこの高校に合格した。高校での成績はよくもなく悪くもなく普通だったけどそれくらいがちょうどいいと思っていたし、何か理由があってこの場所を選んだわけじゃない。意思も夢も目標もない。
だからこそ、こんな生活、もううんざりだ。
私にはやりたいことがない。
夢もない。希望もない。
なんとなく担任に言われた大学を第一志望にして、模試の結果を見て、勉強して、勉強して、勉強して、なにしてんだ、私。
この学校では有名大学に行くことが私達の使命。ただそれだけだ。
そして私はまたノートに視線をおくる。いつも、こうやって不満を頭の中で繰り広げて、どうしようもなくなって、結局みんなと同じように勉強する。
私の人生ってきっとこれからもこんな感じなんだろう。いつどこで使うのか疑問しか浮かばない数学の公式を頭に叩き込みながら問題を解くように、疑問を、不安をねじこんで、こーやって生きていくんだろう。
またセミの声と、シャープペンシルが走る音と、参考書をめくる音が聞こえてくる。
繰り返し、繰り返し、私達はこの日常を駆け抜けている。
ガタッ。誰かが席を立つ音がした。誰も気にしやしないけれど。机と椅子が床に擦れてギイ、とまた音を立てる。
音を立てないように気を使いながらノートを持って教室から出て行った彼女は、きっと先生に質問にでも行ったんだろう。真面目を絵に描いたような子。私はああなれない。
するとそれに便乗するかのようにまた誰かが席を立った。また1人、また1人。
少しだけ静かだった教室に亀裂が入る。緊張感が解けたような、そんな空気。
コソコソとしゃべり声も聞こえてきた。みんな集中力が切れたらしい。まあ、そうは言ってもそんなのはすぐにおさまること。いつも大抵3分もしないうちにまたみんな黙々と机に向かいだすのだ。
「なあ、今日の空、作り物みたいだよな」
前の席の相沢が、突然振り返ってそう笑った。わたしは突然の会話な驚きつつ、ああ、と窓の外を見る。
相沢って真っ直ぐな奴で、常にみんなに笑顔を振りまいていて、分け隔てなく、裏表がない。頭も良ければ友達も多く、別に顔が整っているわけじゃないけどそれなりにモテている。私は席が前後になった時から相沢と良くしゃべるようになって、なかなかいい関係を築けていると思っている。
「それ、私もさっき思ってた」
相沢に笑い返すと、いつもの笑顔でコソリと言う。
「なあ、ちょっと外行かね? 実は今日、ハルキが来てんだよね」
私は、それなりに真面目な相沢が「外行かね」なんて言ったことにちょっと驚く。それはつまり「抜け出そう」ってことなわけで。相沢ももしかして私みたいに息が詰まってんのかな。
「ハルキに会いに行くだけなら抜けても怒られないって。な?」
私は別に先生に怒られるくらいのスリルがあって全然いいと思うんだけど、真面目でいい奴の相沢はそこを気にするらしい。相沢らしいよね。
ハルキに会いに行きたいなんて珍しいけれど。
ハルキってのはこのクラスの変わり者だ。夏期講習に来ていない2人のうちの1人。確かに夏休みに入ってから一回も姿を見ていない。
今日は来てるんだ。でもだとしたら、教室に来ないで何をやってるんだろう。
私は人見知りなんてしないタイプだから、何度か話したことはあるし、みんなにハルキって呼ばれてるから私もそう呼んでいる。けど、実際のところハルキについて私は何も知らない。
ただ髪の毛が元々茶髪で背が高いから良くも悪くも目立つってことくらい。
というか、相沢とハルキってそんなに仲よかったっけ?
疑問が浮かべど、こんな息の詰まる場所にいるよりは相沢とハルキに会いに行きたいと思って席を立つ。
またギイィと、椅子と床が擦れる音がした。
教室から一歩踏み出る時、なんだかちょっと優越感を感じた。退屈な毎日から抜け出せたような感覚。
こんな静かな校舎内すぐにわかってしまうから、私と相沢は無言で廊下を歩く。相沢の後ろについて、あまり音を立てないように足元に神経を尖らせる。なんだかちょっとスリルがあって楽しいかもしれない。少なくともあんなところで机に向かっているよりはずっと。
相沢はどこに行くのかな。と思うや否や、階段を降りて、いつのまにか下駄箱まで来てしまった。相沢は躊躇なく靴に履き替えている。私も急いでローファーを履いて相沢を追う。
生徒玄関を出た瞬間、むわりと暑い空気が全身を覆って、照りつける太陽の光の眩しさに目がくらんだ。
こんな昼間、外に出たのはいつぶりか。
相沢が少し歩いてやっと私の方に振り返った。
「ここまでくればもう喋っても大丈夫だよな」
大きな木が何本も植えられた校庭の一角で立ち止まる。
うちの校舎は広い。とにかく無駄に広い。特に校庭がとても広くて、理科部や環境部なかんかが育てているであろうヒマワリ畑は、この学校にもこんな憩いの場所があったのかというほど輝いて見える。
「それで、ハルキはどこにいるの?」
「いや、それがこの木の下で待ち合わせてたんだけど」
相沢の言葉を遮るように、カシャッ、とどこからかカメラ音がした。
私も相沢も音の方へと振り返る。
そこには、ヒマワリ畑を背景に、なんだかとても高そうな黒くて大きいカメラをかまえたハルキの姿があった。
「ハルキなにしてんの?」
私はハルキが持っているカメラをじっと見ながらそうたずねる。
いや、なんとなく、わかってはいるんだけど。
学校に来ていないハルキ。構えた本格的なカメラ。
「何って、写真撮ってんだけど。」
相沢とは違って無愛想なハルキは、顔色1つ変えずにまたシャッターを切る。
カシャッ。
そのカメラは私の方に向けられていて、ハルキのカメラをかまえた姿は、なんだか様になっていた。
状況がよくわからない私は、私をここに連れてきた相沢に向かってたずねる。
「ちょっと相沢、なに、どーゆことなの?」
「いや、見て分かる通り、ハルキカメラマンになるんだよ」
わたしは少し予想していたものの、やけにすんなりと相沢がそう言ったことと、あまりに現実味がない話なだけに、ただただぽかんとすることしかできない。
カメラマンって。
ここは名高い進学校だよ。
進学が当たり前。有名大学にはいってなんぼ。そのためにこうやって、みんな馬鹿みたいに、毎日毎日勉強してるんじゃないか。
「……ハルキ、本気なの?」
私は再び相沢にたずねる。そんな私達を気にも止めず、またシャッターを切るハルキ。
「そーらしいよ。だからヒイラギをここへ連れてきたんだし」
「え、それってどーいう……」
ちなみに言っておくとヒイラギは私の苗字。相沢は珍しく真面目な顔をして、ハルキに声をかける。
「なあハルキ、そろそろちゃんと喋れよ。俺そろそろ戻りたいし」
ハルキは構えていたカメラを下ろす。首から吊るすタイプのそれは、普段のハルキとは似ても似つかない。
「ちょっと相沢、どーゆーことなの。説明してよ」
単にハルキに会いに来たんじゃなかったの? ていうか、「俺そろそろ戻りたい」って、私を連れてきておいてなんて勝手な奴。
ハルキが私達に近づいてきて、相沢はそんなハルキを早くしろ、と急かす。ハルキは嫌そうな顔をしながら相沢を見る。
少しの沈黙の後、相沢がしびれを切らしたように話し出した。
「もー、俺が言えばいいんだろ! だからさ、ハルキが柊のこと被写体として撮りたいんだって。俺はその手伝いとしてここに連れてきたってこと。柊も受験勉強忙しいと思うけどさ、ハルキ本気で写真やりたいみたいだから、1日だけ付き合ってやってくんない? こいつの写真にさ」
珍しく相沢がイライラしながらそう言って、私は久しぶりに汗をどっとかいた。
被写体って。なんで私。
ハルキの方を見ると、相変わらず無表情で「そゆこと」と一言言った。
相沢は満足したように、「じゃ、俺勉強するから」と言って去っていく。
なにが楽しくてそんなにあの空間へ戻りたいのか私にはわからないけど、もしかしたら相沢は私があの空間を嫌っているのを知っていて、ハルキは私をあの空間から逃がしてくれる救世主なのかもしれない、なんて思ってしまった。
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「ハルキ、本気で写真で生きていくつもりなの」
相沢がいなくなった後、ハルキは何も言わずにまたシャッターを切り出した。いろんな角度、いろんな方面から、私なのか風景なのか、カメラの行く先を見つめている。
ハルキは少しの間をおいて、それでもシャッターを切るのを止めずに話し出した。
「俺はこんな狭苦しい空間を抜け出したいと思っただけ。生きていく理由なんてこれから先いつでも見つけられるだろ。ただ俺は今写真が撮りたい、それだけだよ。
写真は色んなものを映してくれるよ。柊のその溜まりに溜まった不満とやらもね」
─────溜まりに溜まった不満。
言い当てられてビックリする。ハルキは相変わらず無表情だ。
でもそれ以前に、こんなにキッパリと自分の意見を言えて、好きなことをしているハルキのことが、驚くと同時に純粋にすごいと思った。
「じゃあ今のハルキの生きていく理由が写真ってことなの」
「まあそうなんじゃない? でもこんな時期だし、俺だって何も考えてないわけじゃないよ。今度出すコンテストで大賞をとる。そしたら誰にも馬鹿にされないで、恥ずかしくもない。だから柊を被写体に選んだんだ」
ハルキはまっすぐ私を見ていた。
私はそんなハルキが眩しくて、思わず目を背けた。そんな私を、すかさずハルキは写真におさめる。面食らう。
「なんでわたしなの」
「さっきから質問ばっかりだな」
「撮られてあげてるんだから、教えてよ」
ハルキはちょっと笑った。なんだ、ちゃんと笑えるじゃないか。今日一回もその笑顔を見ていなかったから、笑うことすら忘れてしまったのかと思ったよ。笑ってたほうが、全然いいよ。なんてハルキには言わないけど。
「なあもうちょっと動いて欲しいんだけど」
「全然質問の答えになってない! ていうかまだ被写体になるなんて言ってな……」
私の言葉にシャッター音がかぶる。私の話なんて、全然聞いていやしないじゃないか。
腹が立った私は、ハルキから逃げるように走り出す。
ハルキは、「ちょ、まてって、おい」と言いながら追いかけてくる。
ああ、なんて暑いんだろう。ジリジリと焼きつける太陽はなんて眩しいんだろう。こんなに汗をかいて走ったのはいつぶりだろう。
久しぶりに走ったからなのか、すぐに呼吸が苦しくなって足を止めた。
はあはあ、と息を吐く。生きてるって感じがする。
「おま……いきなり走んなよ、」
追いかけてきたハルキも、息を切らしながら立ち止まった。
向き合って、なんだかおかしくて、気づいたら笑ってしまっていた。
「写真撮られるのって案外恥ずかしいんだけど」
「何事も経験だろ」
「何その上手くまとめた感」
また笑う。ハルキも笑ってる。
ハルキは写真を撮りながら、私と話をしてくれた。
私はハルキに色んな話をした。
あの先生がうざいだとか、この教科が苦手だとか、模試の判定が悪くて担任に愚痴愚痴言われただとか、出てくるのは受験生らしい話題ばかりだと自分で気づく。
いや、それもそうか。
だって私、この夏、受験生やってるんだから。
ハルキは時々笑ったり、つっこんだり、真剣に答えてくれたり、なんだかんだ楽しそうにしてくれていた。
私はただただしゃべったり、立ったり座ったり、歩いたり走ったり、そんなことしかしてないのに、ハルキはそんな私をカメラに収めていた。
セーラー服が風になびく。
長く伸ばした私の黒髪も襟と同じ様に風にとられる。
「ねえハルキ、どうして私を撮ろうと思ったの?」
散々しゃべって写真を撮られた後、私は再び、ハルキに問いかけた。
「柊って、不安定だからかな」
絶対に真剣には答えてくれないと思ったのに、ハルキは至って真面目にそう言った。
「不安定?」
「ああ。ただなんとなく生きてるって感じがする。柊見てると心が揺れる」
ハルキは無表情だからわかりにくいけど、すごく真剣に話しているっていうことだけはわかる。
ハルキは私のことが透けて見えるのだろうか。どうして、そんな風にわかるのか。
「心が揺れるって...?」
制服が汚れているのももう気にしてはいられなかった。私達は土の上に座って、向き合う。低くなった太陽が私達の影を作っていた。
「いつか壊れてしまいそうで、こわくなる。柊は多分、自分で思っているよりも弱くて脆いんじゃないかって」
ハルキはそう言って、わたしの方をじっと見つめていた。
「弱くてもろい……私が?」
私はハルキの方を向けなくなって影をじっと見つめる。ハルキはもう、シャッターを切らなかった。
「うちの学校は誰もが認める進学校だよ。有名大学に行って当たり前。誰もそれを疑わない。でも時たま俺みたいな奴だっているだろう。写真じゃなくたって、音楽だったり美術だったり、勉強とは違う方面に進む奴だっている」
「それは、そうだね、みんながみんな進学するわけじゃやい」
「うん、でもさ、周りはそれを良くは思わないだろ。だってこの世界じゃ、きちんとした職について、真面目に家庭を築いている奴が1番上手くいってる成功者だって誰もが信じているんだから。でも柊、お前は違う。今日、相沢が俺がカメラマンになりたいって話をした時、柊は驚いていたけど、目はとても輝いてたよ。そして、俺のことを一度も馬鹿にしなかった。前から思ってた。柊は多分こっち側の人間なんじゃないかって。あんな風に学校に縛られて当たり前の様に進学していくことが本当に俺たちの道なのかって、そう思わないか」
淡々と話すハルキの言葉は、全身に突き刺さるようだった。痛くて痛くて、私は泣いてしまいそうだった。
何度も考えた。
大人達はいつも言う。
ここがとても大きな人生の岐路だと。自分の人生を決める大事な時期だと。
やりたいことを見つけなさい。なりたい職業を見つけなさい。
何度言われたって、誰かに言われて見つかるのならとっくの昔に見つけてるよ。私の人生、これからどうしたいって、そんなのわかんないよ。だって、今は普通に楽しくて、私は普通の女子高生で、夢があるほど前向きな性格でもなくて。
「ハルキは私のこと買い被りすぎだよ。私、ない。なにも、ないんだよ。ハルキみたいなカメラマンになりたいなんていう夢があるわけじゃないの。みんなみたいに行きたい大学があるわけでもない。ただなんとなく勉強して、なんとなく進学して、いつもなんとなく生きてる。だってそれが当たり前でしょう。あんな縛られた空間が嫌いで嫌いで、息が詰まりそうなんて言う割に、私だってここでやってかなきゃいけないってわかってるんだよ。もう覚悟してるの。でもどうしたって、私こうしていかなきゃいけないんだよ」
涙が出た。
なにを言っているんだろう。
ぐちゃぐちゃで、こんなんじゃ半分だって伝わりやしない。でもとまらなくて、涙、とまらなくて、そうだ私、多分不安だったんだよ。
自分だけ置いていかれそうでこわかったんだ。
周りのみんなが夢に、目標にむかって突き進んでいる中、ひとり立ち止まって。暗闇にポツリと立っているような、ずっとそんな気分だった。それを私は、ただただ不満に変えていただけだったんだ。
「やっと本音言ったな」
ハルキの手が、私の頭を優しく撫でた。
よしよし、と泣きじゃくる私をあやすように。
「まだなにも遅くないだろ。なんでもやれるよ、俺たちは。ただ、逃げなければ、だ。俺はさっき、お前はこっち側の人間だって言ったけど、そうじゃなかったな。柊は逃げないで、今の道を真っ直ぐ歩んで行くんだろう。俺はそんな柊の背中で、シャッターを切りたい」
私はあの空間で、逃げずに戦えるだろうか。
あの空間に、意味を見出すことが出来るだろうか。
「ハルキ、ありがとう……」
ハルキは笑って、「最後に一枚撮らせて」と言ってシャッターを切った。
涙でぐちゃぐちゃになったこんな顔、なんで撮るんだよ馬鹿野郎。でも何故だか、またハルキに写真を撮ってもらいたいって、そう思った。