蒼黒(そうこく)に様変わりした、凍てつく夜更けの庭園。雪が降り出していた。薄氷が張り出した池が、水辺に棒立ちしているアマリを飲み込むように広がっている。
「何をしている」
 重圧を抑えた、覚えのある静かな低音の問いが、背後からした。一瞬びくついた後、力なくアマリは振り向く。初めて会った夜と同じ出で立ちの荊祟が、少し離れた場所にいた。軽く息を切らし、首巻きがずれて顔がさらけ出されている事以外……
 今にも霞み消えてしまいそうな彼女の姿は、幽世(かくりよ)に逝く魂のように見えた。白い手に儚く浮かぶ、更に真白い花が、()()に映る。
「その花は、何だ」
 待雪草(スノードロップ)。花能は、種類と術者の意図によっては、恐ろしい裏能(うらぢから)を発動させる異能だ。待雪草――『あなたの死を望む』。自分の姿を思い浮かべ、この花を自身に吸収させるつもりだった。
「死、なせてください……貴方が殺せないなら、自分で…… 私が勝手にした事にしたら、ご迷惑はかけないでしょう……⁉」
 どんな異能を持つ尊巫女にも最大の禁忌であり、自身にも多大な反動が返る術。『生ける命を故意に殺す事』――それをアマリは行おうとしていた。
「帰る場所もない。贄にもなれない。殺してももらえない。生きていたら人族と争いになるかもしれない…… どうしたら、良いのですか……⁉」
 掌に純白に輝く花を浮かべながら、そんな事を訴えてくる彼女の姿は、痛々しい位苛烈で、『清廉』だった。何とも言えない衝撃が、荊祟の全身を駆け抜ける。
「お、前……」
「もう……疲れました。つかれたんです……つかれ、た……」
 嗚呼(ああ)、そうか。自分は疲れていたのだ――と、アマリは気づく。力無き渾身の叫びに、荊祟は絶句した。そして、この尊巫女の異能がどんなものなのかを(さと)る。花能の存在も効力も知らないが、彼女がこの方法で自害するつもりなのは明らかだった。

「そんな力があるなら、何故、我らに襲撃しなかった? 何故、奴らに復讐しない⁉」
「……あの界にいるのは、()()()()だけではないからです。(あそこ)に不幸があると困る方も、力無き方も……沢山おられる……」
「その哀れな奴らも、尊巫女に何もかも押し付け、都合よく……慰めにしてきたのだろう? お前には恨む、憎むという類いの念は無いのか」
 理解できないと言った思慮が、彼の言葉には滲んでいた。アマリは、そんな厄神の問いに自嘲気味に嘲笑(わら)う。その()は虚無だった。
「そのような情は……とっくに()てました。それに……『憎む』というのは、私にとっては重すぎる、苦しい(もの)になってしまったんです……」
 依頼者と対峙する中、憎しみや怨恨という負の激情に呑まれ、我を失っている者を時々、目の当たりにした。それらが自らを蝕んでいる現状に気づかず、むしろ憎き相手を呪い生きる事を望む者もいた。
 彼ら自身を泥沼に追い込んでいるような怨恨に()され、()てられて続けていたアマリは、少しでもそんな念を抱く事が恐ろしかったのだ。
 尊巫女として聖人君子でという考えもあったが、それ以上に、底無しの闇を抱くことで精神(こころ)が壊れてしまう事が、怖かった。その位途方もない邪が、既に自身の内に巣食っている事と気づいていたから――

 アマリの言葉に圧倒され、荊祟は息を呑む。この尊巫女が背負い、抱えていたものは……
「お前の命はどうなる? お前だって人族だろうが」
「以前、貴方は言いました。『どんなに疎まれても自分は神族だから、無意味な殺生はしない』と」
 自嘲的に発した信条を彼女が覚えていた事に、荊祟は少しばかりたじろぐ。
「私も同じです。どんなに滑稽でも、利用されているだけだとしても、私は『尊巫女』なんです。そうして生まれて、そうやって生きて来ました。その(すべ)しか、知らないのです……」
 厄神の鋭く真摯な眼差しを受けながら、アマリは(しか)りと言い放った。
「それに『私の死』は、()()()ではありません。元々望まれていた事ですし、誰も困らないで済みます。それは、貴方が一番ご存知でしょう?」
「‼ 勘違いするな。お前が死んだところで人族の世も、この界も、何も変わらん‼」
 一転、醒めたように、荊祟は黄金(こがね)の眼光を放ち、激昂した。
「お前がどんな力を持っていようと、それが無くなれば、奴等は何年もかけて、再び代わりになり得るものを血眼で探す。そして同じように利用し、使い()てる。それが繰り返されるだけの事」
 脳天を砕かれ、意識が飛ばされた気がした。激しい眩暈(めまい)と吐き気がこみ上げ、アマリは口元を片手で覆う。
「偽りではない。そういう生き物だ。俺は、何度も……幾度も見てきた。無駄死ににしかならんぞ……‼」
 今までずっと視界に映っていた、何もかもが――見えない。
「……なら、私は……どうしたら、よいのですか……」
 掠れ声で嘆くように呟く。彼の語る事は全ては理解できなかったが、『絶望』とはどんなものなのか、改めて実感した。……底無しの沼だ。終わり、が無い。

「取り敢えず……勝手に死ぬのは、俺が許さん」
「それが真実なら尚更……そんな、酷な虚しい界で……生きたく、ありません……」
「生きたらいい」
 不可解と言いたげな眼差しを向けるアマリに、(まじな)いか、もしくは力を注ぐように厄界の長は説き、()えた。
「憎めないのなら……せめて――怒れ。泣いて叫びながら、生きろ‼ その位の権利は、お前にだってある‼」
「……ある、のです、か? 私、にも……」
 声が震えた。何が正しいのか不明瞭で、混沌とした頭と心。痛みを伴う刺々しい彼の言葉のどこかに、温もりを感じる。
「ある。こうして生きているのだからな。此処(ここ)でやれば良い。手助けする。人族の誇りとやらは知らんが」
「です、が……」
「『お前の死』に意味があるのか無いのかは、俺が決める。――いや、今決めた」
 眼に痛みを感じ、アマリの視界が揺らぐ。熱い水の膜が浮かぶと同時に、掌の純白の花に霞みがかかっていく。
「たとえ意味があったとしても、お前が存在する事で、それ以上の意味が生まれる。その位は、見透(みとお)せる」
「お、さ……様……」
「死ぬのはいつでも出来る。どうせならその前に、お前という命が燃え、活きた痕を、界の何処(どこか)に刻みつけろ‼」
 刹那、アマリは(むせ)ぶように、生まれて初めて声をあげ涙し――泣いた。みっともない……と俯いたが直ぐ様、天を見上げた。
 忌まわしいと()われる妖厄神の言葉は、救いの声にも、邪へ(いざな)(あやかし)の囁きにも聞こえる。至極、苦味ある叱咤激励だが、『亜麻璃(アマリ)』という命を救い、息を吹き返させた、柔く巻き付く(いばら)でもあった。
 掌から白き花は離れ、薄れゆく。消滅する間際、ひらり、と舞い、淡く煌めきながら彼女の胸元に還っていった。本来の花能――『希望』『慰め』と共に。

 ()しくも、あの新月の夜と真逆、満月の出来事――