ふと、覚えのある強い視線を感じた。少し離れた松の陰から、二つの紅珊瑚が見え隠れている。アマリが片腕を差し出すと、その――黎玄は羽ばたき、側の石積みの置物に留まった。
「……あの夜は、貴方が長様に知らせてくれたのよね? ――レイゲン。どんな字を書くのかしら」
 黎玄はずっと直立不動のままだ。妖厄神への不可思議が拭えないまま、彼の判断を待つしかない日々が、アマリを再び追い詰め始めていた。


 翌夕刻前。『本日、長様がいらっしゃいます』とカグヤから聞いていたアマリは、以前とは違った意味で身構え、荊祟と再び対面していた。今度こそ処遇について決まるかもしれない不安、そして彼と話せる機会への淡い期待という、矛盾した思いが交差する。
「だいぶ、この屋敷に慣れたようだな。庭園はどうだった」
 やはり筒抜け……とアマリは目を伏せた。
「お前の処遇についてだが…… 未だ家臣と揉めている。亡き者にしても生かしても、人族が何か仕掛けて来るかもしれんからな」
 返答に困り、唇を結ぶ。自分に決定権は、無い……
「――お前の異能は、何だ」
 顔を上げた。彼の表情は変わらない。いつかは問われると予測していたが、突然、核心部を突かれ、息が詰まる。
「わざわざ此処に送り込む。我らに加担するはずも無い。何かの先攻術ではと、それなりに推測したのだがな……」
 絶対に言ってはいけない、とアマリは更に気を引き締めた。だが、さすがに拷問され吐かされるかもしれない…… 口内が渇き、額に冷や汗が滲む。眼前の厄神は、顎に掌をあて探るように観察している。この危機をどうやり過ごすべきか判らずいたが、ずっと聞きたかった疑問……違和感を漏らした。
「……貴方様こそ、何故、人族の地を荒らすのですか……?」
「災厄でも起こさねば、人族共は次第に図に乗るだろう? 自分達が世で最も高尚で、選ばれた生物だと(おご)り、界の富を好き勝手に使い始める」
 自問を()らされた事はかわし、荊祟は言い放つ。
「戒めるには、自然の厳しさや見えぬ存在の脅威を見せつけるしかなかろう? それでも時が経てば忘却し、再び似たような事を始め出すが」
 彼の主張は理解出来なくはなかったが、尊巫女として見てきた現実が、アマリにもある。
「……その為に、罪無き方の命が苦しみ、奪われても良いとは……思えません」
「……そうだな。出来るなら、そんな者達は殺したくない。だが」
 腰元の刀の(つば)をチン、と鳴らし、(さや)に左手をかけたと思った瞬間、俊敏な手さばきで、荊祟はアマリの首筋に鋭利な切っ先を当てた。鈍く光る危険な殺気、鋼の冷たさが、彼女の柔い素肌に主張する。
「もし、お前が今、俺に殺されなければ…… 例えば、大火を起こすと言ったら、お前の同族はどう出るかな」
 首筋に感じる感触と同じく、痛切な問いが、アマリの言葉と息を止めた。何と答えるのが正しいのか、様々な思慮が脳内を駆け廻る。

「私の、命と引き換えにされるでしょうし、犠牲と思ってはならないと、考えます」
「そうだな。奴らはそう言うだろう。だが、お前はそれで良いのか」
 今までの信条、無難な答えをそのまま口にする尊巫女に、厄神は更に詰める。
「……それが、私の務めですから」
「そんな模範解答は愚行だ。甘過ぎる」
 渾身の決意を、ばっさり切り捨てる彼にアマリは唖然とした。
「まず、そんな卑劣な事を言って来る奴は、大抵、約束など反古(ほご)にする。当初の目的……厄介なお前を人族公認で殺した後、本当に大災を起こすか、起こさずとも更に何か詰めるか……だろう」
「……‼ 貴方も、そうされるのですか」
「今、聞いているのは俺の出方ではない。お前がどうするかだ。己の意思は無いのか」
 返す言葉がなかった。『その通りだ』という気が起こり、感服したのだ。ずっと見ない振りをしていた自身の在り方を否定する真理。そんな刃を真正面から突き付けられ、固まってしまった。
「何故、そんなに自己を軽んじる? 役目? 義務? 解らんではないが、無意味にしかならない犠牲は不毛だろう。大体、人族というのは自分本位な割に、浅はかで他力本願な者が多すぎる」
「‼」
「お前もだ。もっと自身を守れ。知恵をつけ、考えろ。でないと、あらゆる者に喰い尽くされ、用済みになれば()てられるだけだぞ」
 反論したかった。が、出来ない。事実、そうしてこの地に来たのだ。だが、ずっと行き場のなかった憤り、哀しみの火種が、少しずつ怒りに変換され、アマリの胸中で煮え始めた。どこに対するかも解らないまま。
「……貴方は、本当に……全て、が解るのですか?」
 重く掠れた声が、荒れた桃色の唇からこぼれる。彼の腰元の刀が目に入ったが、気にならなかった。
「私が御役目を放棄したら、多くの方が()る場を失うのです。混乱が起こり、治安も崩れます」
「だが、わざわざ俺のような者に、死ぬとわかっていて……だろう?」
「そうなる原因を生み出すのは、災厄、疫病、戦ではないですか。誰だって脅威なる存在は恐ろしいですし、命惜しいもの。そもそも、その一つを起こすのは、貴方様なのでしょう⁉」
 怒りを買い、拷問されるかもしれない覚悟で、アマリは言い放った。ずっと無表情だった荊祟の眉間が潜み、口角がひきつる。
「……確かに、俺だ。だが、人族の所業が良いとは思えん。お前の存在が、その証ではないのか」
 不意を突かれ、厄神を凝視する。琥珀の眼は、どこか哀しみを帯びていた。尊巫女に対する、彼個人の考えが垣間見え、心の一番深い所に隠していたものに、一瞬だけ触れられた気がした。
 しかし、それを許し、(さら)すのは危険だと、再び隠す。

「今日、話したかったのはそれだけだ。検討し、また知らせに来る」
 微動だにしないアマリを一瞥(いちべつ)し、荊祟は去っていった。彼の姿が消えた後、そっ、とカグヤが近づく。
「……カグヤさん、すみません。暫く、一人にして頂けますか?」
「了解しました。隣室にいますので、何かありましたらお申し付け下さい」


 すっかり茫然自失状態になっていた。彼の事どころか、自身の事すら解らなくなってしまったのだ。独り、座り込んでいた時――
「失礼致します。尊巫女様。少々よろしいですかな? カグヤには了解を得ております」
 襖の向こうから、落ち着きある(しわが)れた声が聞こえた。少し警戒したが、隣の部屋に護衛がいる状況なので了承の返事をする。入って来た年長者の男は、荊祟の側近だと名乗った。
「先程、長様が参られたでしょう? あの方は長として尊巫女に手をかけられない。我々が亡き者にしても、贄を出したにも(かかわ)らず、変化のない状況に人族が怒り、戦になるやもしれませぬ」
 その可能性がある事に、アマリは気づく。心臓が縮まり、血の気が引いた。
「ですが、どうしたら……」
「貴女様が、どうにかご自身で……でございます」

――……

「長様‼ お取り込み中、申し訳ございません‼」
 ようやく奥座敷で家臣といる荊祟を見つけたカグヤは、血相を変えて飛び込み、頭を下げた。
「なんだお主、くノ一か? 無礼であるぞ」
「良い。申せ」
 彼女の珍しくただならぬ様子に、荊祟は緊急性を察し、許可する。
「アマリ様がおられないのです‼ 離れにも、どこにも……!」
 側近が去った暫し後、『吐き気がする』と言うアマリと共に、カグヤは外にある(かわや)を訪れた。少し離れて待機していたが彼女は戻って来ない。嫌な予感がして中を覗いたら……もぬけの殻だった。
「脱走……まさか、今度こそ長様に奇襲を企てるつもりでは⁉」
 激昂した従者達に、荊祟はすっ、と手を差し出し、制した。
「いいえ。あの方には逃げ場も頼れる者もございません。武器も攻術もお持ちで無いようです」
「まさか、あの女。しかし、どこに……」
「心当たりはございます」
 最悪の事態を想定した荊祟に、カグヤは確信的に頷いた。