どのくらいの時が過ぎたろうか。アマリは朦朧としていた。中から外の様子はわからない。駕籠を運ぶ従者達も、神界への行き方は途中までしか知らず、別の者が引き継ぐという。
「尊巫女様。お待たせ致しました」
 さすがに微睡(まどろ)み始めた頃。促す声が聞こえた。開かれた扉から覗くように、アマリは身体を押し出す。
 ぼやけた視界に映ったのは、河辺だった。鬱蒼とした竹林が背景にあるが、対岸はよく見えない雄大な河。粉雪が舞う宵闇の中、水音だけが静かに響いている。
「八百万の河でございます。人族と神族の世界を隔て、また唯一の繋ぎ……聖域です」
 従者の一人が、重々しい口振りで説明する。その名と存在はアマリも知っていたが、実際に目にするのは初めてだ。
「我々はここまでです。後は、あの者達がご同行致します」
 続けて告げられた言葉に不安になった時、少し離れた所から異なる声が飛んできた。
「尊巫女様。お初に御目にかかります」
 岸辺に藁作りの傘を深く被り、舟番の格好をした男二人がいた。すぐ傍には木舟が停まっている。
「……貴殿(あなた)方は?」
「厄界の長様の(めい)により、お迎えに参りました」
「我々は、この河の番人。ここから神界まで、貴女様をお運びするのが役目でございます」
 その佇まいは明らかに人族では無かった。辺りに(うな)るように低く鳴り響く、琵琶(びわ)の音のような声。不気味な気配を本能的に感知し、アマリは少し怖れた。
「では、我々は此れにて。失礼致します」
 丁寧に頭を下げ、別れを告げた従者二人は、駕籠を軽々と担ぎ上げ、来た道を戻って行く。()()を下ろした安堵で一杯なのだろうか……と、少し自嘲的な思いで見送る。
「「どうぞお乗り下さいませ」」
 声を鳴り揃え、異界の者達が促した。

 ゆらり、ゆらりと不規則に揺らぎながら、闇夜に染まる河をひたすら進む。軽い酔いと冷えが(こた)え出した頃、アマリは懐から布に包まれた陶器の小瓶を取り出し、手にした。贄となる際になるべく苦しまないよう、と母から渡された強力な催眠剤だ。
 虚ろに凝視した後、密やかに栓を開け、一気に飲み干した。
「もうじきです。到着次第、長様が参られますよ」
 番人の声が遠退く。苦味があると注意されていたが、凍てついた舌は、何も感じなかった。

 夜空の藍が朧気始めた頃。舟場のような入り江に到着した。柳らしき木々と、鉄紺色の石で造られた扇状の渡り橋が、少し先の前方に見える。
「あの橋を渡った先が、我々の地――厄界になります」
 特に変わった場所を通った様子はなかったが、いつの間にか神界の入口を抜けていたようだ。
「私達が到着した事……どうやってお分かりに?」
「長様が従えておられる、伝達役の(たか)を呼び寄せます。到着した旨を知らせる印を届けさせるのですよ。奴もあの方も突風の(ごと)く飛んで来られますから、あっという間です」
 舟を停め、下りる準備を始めながら番人の一人が説明する。ようやく……と、疲労困憊状態のアマリは思った。

 ――刹那。背後にぞわり、とした至極不気味な気配を感じた。何事かと振り向く間際、両手首を掴まれ、羽交い締めにされる。
「な、にを……⁉」
 彼女を捕らえたのは、先程まで同行していた番人の一人だった。
「貴女様こそ、先程密かに飲まれていたのは何でございますかねぇ?」
 どくん、とアマリの心臓は縮んだ。見られていない隙に飲んだが、ばれていたのかと冷や汗が吹き出す。
「臭いから毒の類いでは無いとお見受けしますが…… 感心できませんなぁ」
「わ、私は……」
「隠さなくともよろしいですよ。人族が(はかりごと)を企み、貴女を差し出した事はお見通しでございます。――あの方も」
 さあっ、と血の気が引く。こちらの策略は、とうに見透かされている。贄にすらされない尊巫女の末路がどうなるのか知らない。拷問されて機密を全て吐かされた後、殺されるのだろうか。伴侶にも贄にもされず、ただ折檻(せっかん)されて終わるなど……いくら何でも惨めすぎる。
 麻痺していた心が動き、焦ったアマリは逃げようとした。だが、例の薬が効いてきた身体は力が入らず、ふらつきを感じ始めている。
「やはり、催眠剤でございますか。健気でなんともお痛わしい事で」
「……‼ お止め下さ……」
「ご心配なさらずとも、命はお助けしますよ。少しばかり御身体で楽しませて頂けたら」
「左様。我々に悪影響が起こり得るかもと、あの方も仰いましたしねぇ」
 嘲笑する能面が、恐ろしい思案を放つ。手首を掴んでいた方の番人が、アマリを強引に舟底に横倒した。飢えた獣の眼だ。本能が危険を知らせている。