どのくらいの時が過ぎたろうか。アマリは朦朧としていた。俗世の気を少しでも身体から失せさせる為という命で、社の地下水しか口にしていないのだ。
中から外の様子はわからない。道順も教えられていない。駕籠を運ぶ従者達も、神界への行き方は途中までしか知らず、そこからは別の者が引き継ぐという手筈だという。
ふと、懐から布に包まれた陶器の小瓶を手にする。いざ贄となる際、なるべく苦しまないようにと、母から渡された物だ。神界に着いたら飲むよう言われた強力な催眠剤で、暫し後、意識を失うらしい。
そんな曰く付きの代物を手にしても、既に麻痺していた心は、何も感じない。ただ、一つだけ、祈るよう願った。
――もう、一刻も早く、終わらせてしまいたい……
瓶を握りしめ、逃避する。せめて、正気を保ったまま逝きたかった。
「尊巫女様。お待たせ致しました」
さすがに微睡み始めた頃。促す声が聞こえた。開かれた扉から覗くように、アマリは身体を押し出す。
ぼやけた視界に映ったのは、河辺だった。鬱蒼とした竹林が背景にあるが、対岸はよく見えない程の雄大な河。目の前を流れ行く水の音が、未だ粉雪が舞う宵闇の中、静かに響いていた。
「八百万の河でございます。人族と神族の世界を隔て、また唯一繋ぐ……聖域です」
従者の一人が、重々しい口振りで説明する。その名と存在は、尊巫女としての知識の一つとしてアマリも知っていたが、実際に目にするのは初めてだ。
「我々は此処まででございます。後は、あの者達がご同行致します」
続けて告げられた言葉に不安になった時、少し離れたところから、彼らとは異なる声が降ってきた。
「尊巫女様。お初に御目にかかります」
声のした方――岸辺に二つの人影があった。藁作りの傘を深く被り、舟番の格好をした男達が、先端に純白の紙垂を幾つも吊り下げた独特の仕様の櫂を、それぞれ手にして立っていた。すぐ傍に木製の舟が停まっている。
「……貴殿方は?」
「厄界の長様の命により、お迎えに参りました」
「我々は、この八百万の河の番人。ここから神界に行くまで、貴女様を無事にお運びするのが役目でございます」
その佇まいは明らかに人族では無いものだった。辺りに唸るように低く鳴り響く、琵琶の音のような声。纏う空気も異様で、不気味な気が交えているのが本能的に察知出来た。顔形は人族と変わらないようだが、よく見ると彼らの両耳は笹の葉のように尖っており、犬歯が突飛抜け出ている。
ふと、彼らが手にしている櫂の先端と同じ仕様の紙垂が付いた、注連縄のような物が舟全体を護るかのように巻かれているのに気づく。この場で唯一、アマリがよく見慣れた仕様だ。
「――結界、ですか?」
少し意外に思い、おののきながら問いかける。此処は人族の住む土地の一部……邪や妖に脅かされないはずの場だ。
しかも、彼らは厄界の者。厄払いの神具でもある、大幣を彷彿させる仕様の櫂を携えている状況にも戸惑っていた。
「左様でございます。ここは人族と神界の境目。護りが曖昧になり、道中、貴女様を狙った物怪や妖共が襲って来ないとも限りませぬ故」
これから向かう見知らぬ異界の、自身の常識など全く通用しない兆しに、怖れを感じる。
「では、我々は此れにて。失礼致します」
丁寧に頭を下げ、別れの挨拶を告げた従者二人は、駕籠を軽々と担ぎ上げ、颯爽とした足取りで、来た道を戻って行く。重荷を下ろした安堵で一杯なのだろうか……と、少し自嘲的な思いで、アマリは見送る。
「「どうぞお乗り下さいませ」」
彼らの姿が見えなくなった頃、声を鳴り揃え、異界の者達が促した。
ゆらり、ゆらりと不規則に揺らぎながら、闇夜に染まる河をひたすら進む。軽い酔いと冷え込みが堪え、気を紛らわしたくなったアマリは、近くにいた番人の一人に尋ねた。
「……貴殿方は、妖厄神様をご存知なのですか?」
「これは珍しい。あの方をそのように呼ばれる人族は、貴女様位ですぞ」
振り向かないまま、彼は愉快そうな笑い声を上げた。
「何故ですか? 禍神といえ……神様なのでしょう?」
「その通り。が、大抵は『厄神』『妖厄神』と呼び捨てる。むしろ、我々が何故かと問いたいものだ」
少し皮肉るような口振りで返す番人に、言葉が詰まった。今から会いに行く者は、あくまで神族の長なのだという、欠片程になっていた尊巫女の誇りの表れだと、自覚したのだ。
「もうじきです。到着次第、長様が参られます」
うつむき、無言になった彼女を一瞥し、淡々と彼は告げる。懐にしまっていたあの小瓶を取り出し、アマリは密やかに栓を開けた。軽く一息ついた後、一気に飲み干す。苦味があると注意されていたが、凍てた舌は、何も感じなかった。
夜空の藍が朧気始めた頃。舟場のような入り江に到着した。柳らしき木々と、鉄紺色の石で造られた扇状の渡り橋が、少し先の前方に見える。
「あの橋を渡った先が、我々の地――厄界になります」
「あちらに長様が参られます。暫しお待ちを」
河はまだ先に続いているが、どうやら彼らの終着点らしい。特に変わった場所を通った様子はなかったが、いつの間にか神界への入口を通り抜けていたようだ。
「私達が到着した事……どうやってお分かりに?」
「長様が従えておられる、伝達役の鷹を呼び寄せます。到着した旨を知らせる印を届けさせるのですよ。なあに、奴もあの方も突風の如く飛んで来られますから、あっという間です」
舟を停め、下りる準備を始めながら番人の一人が説明する。ようやく……と、疲労困憊状態のアマリは思った。
――瞬間。背後にぞわり、とした至極不気味な気配を感じた。何事かと振り向く刹那、両手首を掴まれ、羽交い締めにされる。
「な、にを……⁉」
彼女を捕らえたのは、先程まで同行していた番人の一人だった。
「貴女様こそ、先程密かに飲まれていたのは何でございますかねぇ?」
どくん、とアマリの心臓は縮んだ。自分の方を見ていない隙に急いで飲んだが、ばれていたのかと冷や汗が吹き出す。
「臭いから毒の類いでは無いとお見受けしますが…… 感心できませんなぁ」
「わ、私は……」
「隠さなくともよろしいですよ。人族が良からぬ謀を企み、貴女を差し出した事は、既にお見通しでございます。――あの方も」
さあっ、と血の気が引く。こちらの策略は、とうに見透かされている。贄にすらされない尊巫女の末路がどうなるのか知らない。拷問されて機密を全て吐かされた後、殺されるのだろうか。
伴侶にも贄にもされず、ただ無意味に折檻されて終わるなど……いくら何でも惨めで――酷すぎる。
中から外の様子はわからない。道順も教えられていない。駕籠を運ぶ従者達も、神界への行き方は途中までしか知らず、そこからは別の者が引き継ぐという手筈だという。
ふと、懐から布に包まれた陶器の小瓶を手にする。いざ贄となる際、なるべく苦しまないようにと、母から渡された物だ。神界に着いたら飲むよう言われた強力な催眠剤で、暫し後、意識を失うらしい。
そんな曰く付きの代物を手にしても、既に麻痺していた心は、何も感じない。ただ、一つだけ、祈るよう願った。
――もう、一刻も早く、終わらせてしまいたい……
瓶を握りしめ、逃避する。せめて、正気を保ったまま逝きたかった。
「尊巫女様。お待たせ致しました」
さすがに微睡み始めた頃。促す声が聞こえた。開かれた扉から覗くように、アマリは身体を押し出す。
ぼやけた視界に映ったのは、河辺だった。鬱蒼とした竹林が背景にあるが、対岸はよく見えない程の雄大な河。目の前を流れ行く水の音が、未だ粉雪が舞う宵闇の中、静かに響いていた。
「八百万の河でございます。人族と神族の世界を隔て、また唯一繋ぐ……聖域です」
従者の一人が、重々しい口振りで説明する。その名と存在は、尊巫女としての知識の一つとしてアマリも知っていたが、実際に目にするのは初めてだ。
「我々は此処まででございます。後は、あの者達がご同行致します」
続けて告げられた言葉に不安になった時、少し離れたところから、彼らとは異なる声が降ってきた。
「尊巫女様。お初に御目にかかります」
声のした方――岸辺に二つの人影があった。藁作りの傘を深く被り、舟番の格好をした男達が、先端に純白の紙垂を幾つも吊り下げた独特の仕様の櫂を、それぞれ手にして立っていた。すぐ傍に木製の舟が停まっている。
「……貴殿方は?」
「厄界の長様の命により、お迎えに参りました」
「我々は、この八百万の河の番人。ここから神界に行くまで、貴女様を無事にお運びするのが役目でございます」
その佇まいは明らかに人族では無いものだった。辺りに唸るように低く鳴り響く、琵琶の音のような声。纏う空気も異様で、不気味な気が交えているのが本能的に察知出来た。顔形は人族と変わらないようだが、よく見ると彼らの両耳は笹の葉のように尖っており、犬歯が突飛抜け出ている。
ふと、彼らが手にしている櫂の先端と同じ仕様の紙垂が付いた、注連縄のような物が舟全体を護るかのように巻かれているのに気づく。この場で唯一、アマリがよく見慣れた仕様だ。
「――結界、ですか?」
少し意外に思い、おののきながら問いかける。此処は人族の住む土地の一部……邪や妖に脅かされないはずの場だ。
しかも、彼らは厄界の者。厄払いの神具でもある、大幣を彷彿させる仕様の櫂を携えている状況にも戸惑っていた。
「左様でございます。ここは人族と神界の境目。護りが曖昧になり、道中、貴女様を狙った物怪や妖共が襲って来ないとも限りませぬ故」
これから向かう見知らぬ異界の、自身の常識など全く通用しない兆しに、怖れを感じる。
「では、我々は此れにて。失礼致します」
丁寧に頭を下げ、別れの挨拶を告げた従者二人は、駕籠を軽々と担ぎ上げ、颯爽とした足取りで、来た道を戻って行く。重荷を下ろした安堵で一杯なのだろうか……と、少し自嘲的な思いで、アマリは見送る。
「「どうぞお乗り下さいませ」」
彼らの姿が見えなくなった頃、声を鳴り揃え、異界の者達が促した。
ゆらり、ゆらりと不規則に揺らぎながら、闇夜に染まる河をひたすら進む。軽い酔いと冷え込みが堪え、気を紛らわしたくなったアマリは、近くにいた番人の一人に尋ねた。
「……貴殿方は、妖厄神様をご存知なのですか?」
「これは珍しい。あの方をそのように呼ばれる人族は、貴女様位ですぞ」
振り向かないまま、彼は愉快そうな笑い声を上げた。
「何故ですか? 禍神といえ……神様なのでしょう?」
「その通り。が、大抵は『厄神』『妖厄神』と呼び捨てる。むしろ、我々が何故かと問いたいものだ」
少し皮肉るような口振りで返す番人に、言葉が詰まった。今から会いに行く者は、あくまで神族の長なのだという、欠片程になっていた尊巫女の誇りの表れだと、自覚したのだ。
「もうじきです。到着次第、長様が参られます」
うつむき、無言になった彼女を一瞥し、淡々と彼は告げる。懐にしまっていたあの小瓶を取り出し、アマリは密やかに栓を開けた。軽く一息ついた後、一気に飲み干す。苦味があると注意されていたが、凍てた舌は、何も感じなかった。
夜空の藍が朧気始めた頃。舟場のような入り江に到着した。柳らしき木々と、鉄紺色の石で造られた扇状の渡り橋が、少し先の前方に見える。
「あの橋を渡った先が、我々の地――厄界になります」
「あちらに長様が参られます。暫しお待ちを」
河はまだ先に続いているが、どうやら彼らの終着点らしい。特に変わった場所を通った様子はなかったが、いつの間にか神界への入口を通り抜けていたようだ。
「私達が到着した事……どうやってお分かりに?」
「長様が従えておられる、伝達役の鷹を呼び寄せます。到着した旨を知らせる印を届けさせるのですよ。なあに、奴もあの方も突風の如く飛んで来られますから、あっという間です」
舟を停め、下りる準備を始めながら番人の一人が説明する。ようやく……と、疲労困憊状態のアマリは思った。
――瞬間。背後にぞわり、とした至極不気味な気配を感じた。何事かと振り向く刹那、両手首を掴まれ、羽交い締めにされる。
「な、にを……⁉」
彼女を捕らえたのは、先程まで同行していた番人の一人だった。
「貴女様こそ、先程密かに飲まれていたのは何でございますかねぇ?」
どくん、とアマリの心臓は縮んだ。自分の方を見ていない隙に急いで飲んだが、ばれていたのかと冷や汗が吹き出す。
「臭いから毒の類いでは無いとお見受けしますが…… 感心できませんなぁ」
「わ、私は……」
「隠さなくともよろしいですよ。人族が良からぬ謀を企み、貴女を差し出した事は、既にお見通しでございます。――あの方も」
さあっ、と血の気が引く。こちらの策略は、とうに見透かされている。贄にすらされない尊巫女の末路がどうなるのか知らない。拷問されて機密を全て吐かされた後、殺されるのだろうか。
伴侶にも贄にもされず、ただ無意味に折檻されて終わるなど……いくら何でも惨めで――酷すぎる。