厄咲く箱庭〜祟神と贄の花巫女【短編版】

 これは古の現世(うつしよ)に存在した別世のお(はなし)
 八百万(やおよろず)の神々を(まつ)(やしろ)の一族に生まれ、特異な能持つ人族の女は『尊巫女(みことみこ)』と呼ばれ、十八になると神界にゆく因習があった。
 神族と人族の混血である、その地を()べる(おさ)に認められれば、子孫繁栄の為の伴侶。否な場合は贄となり、その一族に喰われ力を吸収されるという、至極、酷な契約だった。
 生物……特に人は、何かしらの不幸に遭う事、災厄に襲われる事を恐れている。それは、命ある者の本質だろう。どこの世でも、それは――変わらない。


 曇天(どんてん)の空から落ちた冷たい華。一人の巫女装束の少女が、嬉しそうに手を伸ばす。
 楚々とした素朴な顔立ちだが、陽光が当たると京紫(きょうし)に透ける、濡羽(ぬれば)色のゆるやかな長い髪に、淡い瑠璃色の()という、()誰時(たれどき)を思わせる、印象的な風貌だ。
「アマリ様? お客様でございます」
「申し訳ございません。今、参ります」
 背筋を伸ばし、少女は凛とした面持ちの尊巫女に変わる。境内に戻った彼女には、重要な『仕事』があった。
 彼女――アマリは、社を司る一族の生まれだが、尊巫女でも極めて(まれ)な能を持っていた。

「奥様。本日はいかがなさいました?」
 白檀(びゃくだん)の香が漂う、(ひのき)を基に造られた畳屋。自分より年長者の客と対峙し、正座する。温もりと安寧(あんねい)ある空間の中、しっとりとした澄んだ声で語り、雅やかな微笑を浮かべた。
 彼女の面談式の『(ほどこ)し』は、ある理由で頻繁に行えない為、付加価値で高額になっている。今日の依頼者も、都の重職に就く男の奥方だ。政略婚だったが運良く良縁で、仲睦まじい夫婦だったらしい。
 しかし、長年が経つにつれ熱も情も次第に冷め、衝突が増え思い悩み、体調を崩したのだという。
「……お嫌いになられたのでございますか?」
 固くなっていた夫人は、静かに首を振った。
「お見受けしたところ、ご主人様の嫌な面ばかり気に障るのでは」
「アマリ様。(わたくし)に非があるとでも仰るのですか?」
 少し荒立てた素振りで問う夫人に、アマリは穏やかな態度を崩さず、続ける。
「いいえ。誰しも精神(こころ)が疲弊すると、良くない方に目がゆくものです」
 夫人の(こめ)かみが微動した様子を確認し、アマリは白魚のような右手を掲げた。眼を閉じて精神統一し、祈りを捧げると、仄かな虹色の光と共に一輪の花が現れた。
 素朴な淡い瑠璃(るり)色の――亜麻(あま)の花だ。
花能(はなぢから)は『あなたの親切に感謝します』でございます。手に取り、ご主人様からして頂いた嬉しかった事を思い出し、今のお気持ちをお話下さい」
 花を手にした夫人は、泣き出しそうな面持ちになった。夫の事を好いているからこそ、仲違いをしては苦しむのだろうとアマリは感じた。彼女を(なだ)め、癒していくように、夫人の掌の中で亜麻の花は朧気に瞬き、溶けてゆく。
 アマリが召喚した花は、花言葉が具現化する力――『花能』に変わり、依頼人の心に深く、授かる。

「アマリ様……‼ 有難うございました」
 両手を合わせながら首部(こうべ)を垂れ、夫人は何度も礼を言った。彼女の帰路を見送った後、絹地の座布団に、アマリは足を崩した。僅かな汗が額に滲んでいる。
「大丈夫ですか」
「いつもの事です。少し疲れただけですよ」
 彼女の異能は、自身の生気を利用し、変換することで発揮される。故に、施しを受ける者は限られている。その事は侍女も承知だった。複雑そうに微笑み、労るように言う。
「亜麻の花、美しゅうございました。今の季節に見られるのも、アマリ様のおかげでございます。お名の由来でもございますね。瞳のお色に合わせて『亜麻璃』……素敵です」
「ありがとう」
 微笑を浮かべ、会釈する。いつか両親にその事を聞いた時は嬉しかった。だが……
 茶を()れると告げ、侍女はその場を離れた。一人になったアマリは、呟く。
「……『殿方との婚姻』って、どんな感じなの……?」

 依頼者の悩みを実際に経験した事は無い。相手の情を感知し、それに合わせた力を授けるという異能ありきなのだ。この社以外の世界を、彼女は知らない。知らないまま、間もなく人生の終わりを迎える。
「一刻程後、次のお客様がいらっしゃいますので、ご一服下さいませ」
 毎日耳にする侍女の同じ言葉。そんな状況でも、今まで通り繰り返される。何事も無いかのように。
 尊巫女の中でも稀な異能を持って生まれた、亜麻璃(アマリ)の一生は十八になったばかりの冬までと……先日、決まった。
「アマリ。お前の()()()が決まりました」
 数日前の夜更け。アマリの暮らす離れに、両親が揃って訪ねて来た。
「どちらの神様の元へでしょうか?」
 幼少期は神々や一族の昔話を乳母から、物心ついてからは自身の責務と宿命を師範から説かれている。
 異能が強くなった頃、『施し』を行う離れの一室に、独り置かれた。それから十年程、侍女が世話に来るだけの日々に変わった。情が希薄な家だったが、そんな扱いをされたのはアマリだけだ。
妖厄神(ようやくじん)です」
「⁉」
 様付けしない神に対する称では無い呼び方。皆、似た概念で彼を捉えている。世間知らずのアマリでも、とんでもない状況だと判る。伴侶になる道は絶たれるという、酷な未来を意味していたからだ。
「お前にしか果たせないのだ。頼む」
「解って頂戴。貴女の宿命なの」
 愕然とする娘に、形式的に父は語り、母は必死の形相で乞いた。
「……ですが、何故……?」

 妖厄神――『禍神(まががみ)』で、他の神と異なる類にいた。人族の地にあらゆる不運、災厄を誘発させる力を持つ。その度に多くの人族や生物が滅する為、当然忌み嫌われ、死神並みに恐れられていた。その非情な所業に尻込みし、どこの社も尊巫女を出さなかったのだ。

「贄となり、鎮めて頂戴。この為に力を鍛えてきたのです」
 自分の異能は、そんな脅威的な力に対抗できるとは思えない。
「そんな……私には無理です……!」
「ずっと皆様の治癒に使って来ましたが、貴女の本来の力は生命萌芽(ほうが)……再生なのです。逆風となり相殺され、あの一族を弱らせる事ができるでしょう」
 意識が、遠退く。始めから死ぬ宿命だったなら、独りでいたくなかった。寂しさや恐怖に助けを呼んでも『騒がしい』と叱られ、稽古(けいこ)の厳しさに弱音を吐くと、母に罵倒された。そんな中、一つ一つ諦め続け、全て()てたのだ。
輿(こし)入れは、次の新月の夜になります。支度は進めますから、貴女は今まで通り務めるように。――アマリ」
 駄々っ子を宥めるように念を込めた母の口調が、アマリの心を(えぐ)る。いつも通り従った様子の娘を見やり、父母は出て行った。

 アマリは『甘利』とも書く。利益を甘んじるという意味だ。彼女が産まれた時、祈祷師(きとうし)が予言したらしい。
『この(わらべ)は極めて稀な能を宿している。有り余る富をもたらすか、手に余る災いをもたらすかは、貴殿方次第でございましょう』
 両親や親戚は喜ぶ一方、畏怖(いふ)を覚えたという。そこで娘を上手く飼い慣らし、利用する事にした。
 真実をアマリが知ったのは数年前。屋敷の下女の噂話で、裏名の由来と共に偶然聞いた時だ。それまでの違和感が一気にほどけた。そのまま引き落とされ、信じてきた人、教え……全てが崩れ、落ちた瞬間――


 ふらり、とアマリは離れの庭に出た。庭の生け垣には山茶花(サザンカ)が咲いている。宵闇の中、紅と白に咲く、雅で艶やかな姿が好きだった。

 ――せめて、一度だけでも……薄紅が観たかったわ

 山茶花には桃のような薄紅色もある。植えてもらえないかと庭師に申し出てみたが、巫女装束に使われる紅と白だけ植えるよう頼まれているからと断られた。
 どんなに乞われても絶対に叶えてはいけない『施し』を、幾つか厳しく命じられた事がある。『死者の生還』『心を操る』等だ。どれも倫理に反し、アマリへの負荷も多大だからと聞いた。
 薄紅色の山茶花の花能は……『永遠の愛』。アマリの異能では叶えられない。

 ――そう。かなわない、のよね。何もかも
 ――『愛』が、何かもわからないまま、死ぬのだから……

 闇夜に浮き出る紅白の花の前で、()れ切っていた瑠璃の()を、独り(にじ)ませた。


 翌日。参拝者を始め、屋敷に仕えるあらゆる者に礼を言われた。ある者からは泣かれ、(うやうや)しく頭を下げられながら……今まで通りの日々が、感傷に浸る間も無いまま過ぎてゆく。
 この数年、疫病の蔓延、火災、飢饉、治安の悪化等の様々な災厄が、人族を襲っている。恐怖と絶望に陥った人々が、救いを求めるのは無理もなかった。自分の命や人生の事など、疑問を持つ事自体が赦されない。これが自分の存在意義だと、自身に唱えてきた。

 輿入れ当日。この役目を任されてきた侍女達によって、事が進んでいく。仕上げの白無垢を(まと)い、淡い瑠璃の瞳が白一色に一層映えた姿になると、姿見(すがたみ)に全身を映された。そんな自分をアマリは虚ろに眺める。

 ――……私、死ぬのよね? これから……

 迎えた申の刻。粉雪が宵闇を舞っていた。そんな凍てついた中でも、周辺の住民が、輿入れする尊巫女を一目見ようと、屋敷の正門付近に集まっている。彼女の行き先、これは『花嫁の死』によって終わる儀式だと、皆知っていた。
 一人用の駕篭(かご)(たずさ)えた、社に仕える従者二人が外で待っていた。侍女に付き添われた白無垢姿のアマリが門から現れると、中に入るよう、従者が恭しく促す。
 花嫁を乗せた駕篭は、やがて闇に消え入った。
 どのくらいの時が過ぎたろうか。アマリは朦朧としていた。中から外の様子はわからない。駕籠を運ぶ従者達も、神界への行き方は途中までしか知らず、別の者が引き継ぐという。
「尊巫女様。お待たせ致しました」
 さすがに微睡(まどろ)み始めた頃。促す声が聞こえた。開かれた扉から覗くように、アマリは身体を押し出す。
 ぼやけた視界に映ったのは、河辺だった。鬱蒼とした竹林が背景にあるが、対岸はよく見えない雄大な河。粉雪が舞う宵闇の中、水音だけが静かに響いている。
「八百万の河でございます。人族と神族の世界を隔て、また唯一の繋ぎ……聖域です」
 従者の一人が、重々しい口振りで説明する。その名と存在はアマリも知っていたが、実際に目にするのは初めてだ。
「我々はここまでです。後は、あの者達がご同行致します」
 続けて告げられた言葉に不安になった時、少し離れた所から異なる声が飛んできた。
「尊巫女様。お初に御目にかかります」
 岸辺に藁作りの傘を深く被り、舟番の格好をした男二人がいた。すぐ傍には木舟が停まっている。
「……貴殿(あなた)方は?」
「厄界の長様の(めい)により、お迎えに参りました」
「我々は、この河の番人。ここから神界まで、貴女様をお運びするのが役目でございます」
 その佇まいは明らかに人族では無かった。辺りに(うな)るように低く鳴り響く、琵琶(びわ)の音のような声。不気味な気配を本能的に感知し、アマリは少し怖れた。
「では、我々は此れにて。失礼致します」
 丁寧に頭を下げ、別れを告げた従者二人は、駕籠を軽々と担ぎ上げ、来た道を戻って行く。()()を下ろした安堵で一杯なのだろうか……と、少し自嘲的な思いで見送る。
「「どうぞお乗り下さいませ」」
 声を鳴り揃え、異界の者達が促した。

 ゆらり、ゆらりと不規則に揺らぎながら、闇夜に染まる河をひたすら進む。軽い酔いと冷えが(こた)え出した頃、アマリは懐から布に包まれた陶器の小瓶を取り出し、手にした。贄となる際になるべく苦しまないよう、と母から渡された強力な催眠剤だ。
 虚ろに凝視した後、密やかに栓を開け、一気に飲み干した。
「もうじきです。到着次第、長様が参られますよ」
 番人の声が遠退く。苦味があると注意されていたが、凍てついた舌は、何も感じなかった。

 夜空の藍が朧気始めた頃。舟場のような入り江に到着した。柳らしき木々と、鉄紺色の石で造られた扇状の渡り橋が、少し先の前方に見える。
「あの橋を渡った先が、我々の地――厄界になります」
 特に変わった場所を通った様子はなかったが、いつの間にか神界の入口を抜けていたようだ。
「私達が到着した事……どうやってお分かりに?」
「長様が従えておられる、伝達役の(たか)を呼び寄せます。到着した旨を知らせる印を届けさせるのですよ。奴もあの方も突風の(ごと)く飛んで来られますから、あっという間です」
 舟を停め、下りる準備を始めながら番人の一人が説明する。ようやく……と、疲労困憊状態のアマリは思った。

 ――刹那。背後にぞわり、とした至極不気味な気配を感じた。何事かと振り向く間際、両手首を掴まれ、羽交い締めにされる。
「な、にを……⁉」
 彼女を捕らえたのは、先程まで同行していた番人の一人だった。
「貴女様こそ、先程密かに飲まれていたのは何でございますかねぇ?」
 どくん、とアマリの心臓は縮んだ。見られていない隙に飲んだが、ばれていたのかと冷や汗が吹き出す。
「臭いから毒の類いでは無いとお見受けしますが…… 感心できませんなぁ」
「わ、私は……」
「隠さなくともよろしいですよ。人族が(はかりごと)を企み、貴女を差し出した事はお見通しでございます。――あの方も」
 さあっ、と血の気が引く。こちらの策略は、とうに見透かされている。贄にすらされない尊巫女の末路がどうなるのか知らない。拷問されて機密を全て吐かされた後、殺されるのだろうか。伴侶にも贄にもされず、ただ折檻(せっかん)されて終わるなど……いくら何でも惨めすぎる。
 麻痺していた心が動き、焦ったアマリは逃げようとした。だが、例の薬が効いてきた身体は力が入らず、ふらつきを感じ始めている。
「やはり、催眠剤でございますか。健気でなんともお痛わしい事で」
「……‼ お止め下さ……」
「ご心配なさらずとも、命はお助けしますよ。少しばかり御身体で楽しませて頂けたら」
「左様。我々に悪影響が起こり得るかもと、あの方も仰いましたしねぇ」
 嘲笑する能面が、恐ろしい思案を放つ。手首を掴んでいた方の番人が、アマリを強引に舟底に横倒した。飢えた獣の眼だ。本能が危険を知らせている。
 こんな目にまで遭うのは御免だと、アマリは渇いた口を開く。
「間もなく……妖厄神()が、いらっしゃるのでしょう? このような勝手な事が、赦される訳……」
 震える声で絞り出した切り札だったが、能面から下卑(げひ)た笑みに変わったもう一人の番人が、更に詰める事実を告げる。
「雪の為、到着は明日になると伝えております。貴女も尊巫女の務めなど忘れ、楽しみましょうや……」
 視界に映る闇が更に濃くなり、虚無に(おちい)った。

 『自棄』という思いが、疲労と薬で麻痺した脳裏に、再び(よぎ)った――刹那。
 ヒュ――シュンッ――‼ かまいたちのような鋭利な音が、その場を切り裂くように、駆けた。
「早い仕事だったな。ご苦労」
 抑揚の無い、冷淡な音で発された声が、明け出した空から降ってきた。途端、番人達がみるみる青ざめる。
 重い殺気が辺り一面に放たれている。眼前の番人の首元に当てられた、鋭く光る刃先が、アマリにも向かっている。
 だが、今の彼女には救いの天啓、天明のように聞こえ、映った。

「けっ、荊祟(ケイスイ)、様……⁉」
 もう一人の番人が、幻でも見たように叫ぶ。荊祟と呼ばれた青年らしき男は、今度は刃先を額に移動させ、追い立てるようにアマリから離れさせた。
 ようやく開けたアマリの視界に、日本刀らしき物を、へたり込む番人の額に突き付けている黒い人影が映った。
 明らんできた暁の逆光でよく見えないが、濃灰の硬質な長めの前髪は非対称(アシンメトリー)に分けられ、短い方と襟足は後方に逆立てられている。
 漆黒の羽織に藍鼠(あいねず)色の長着物の下は、(しのび)装束の漆黒の履き物と草履。細身の腰には革紐がきつく巻かれ、刀の鞘と小ぶりの巾着袋、数珠玉(じゅずだま)を下げている。
 人族の界だと、野武士か忍と判別する出で立ちだが、耳はやはり笹のように尖っていた。顔下半分を黒地の布で隠しているが、髪の隙間から見え隠れする、黄金(こがね)色に光る切れ長の眼を、印象的に魅せている。
 やはり人族とは違う異界の者なのだと、安堵から再びふらつき始めた頭で、アマリは思った。

「……長様、何故こんな、早く……?」
 別人のように狼狽え、刀を向けられた番人が、情けない声色で問う。
黎玄(れいげん)を飛ばし、様子を伺わせていた。念のためだったが、我ながら賢明だったな」
 抑揚のない物言いだったが、声色は重く、激しい怒りが滲んでいるのがアマリにもわかった。威厳という冴えた圧を感じさせるのは、彼が一族の長だからだろうか。
 ギャア、と鳴き声を上げ、朱色の眼光を放つ鷹が、焦茶の翼を羽ばたかせ、厚く布が巻かれた彼の腕に止まる。「よくやった」と荊祟は呟き、懐に下げた袋から木の実を左手で取り出し、指の空いた漆黒の手袋越しに渡す。鷹とさして変わらない、鋭く伸びた爪が指先に光っていた。

「この女を喰うなりすると、我ら一族の力が失墜するやも知れぬ。その事はお前達も知っているはず」
 黄金の鋭利な眼差しで、顔面蒼白の番人二人を交互に睨み付けた。一人には刀を突き付けたまま、じりじり、と詰める。
「長に逆らってまで、珍しい女が欲しかったのか? ……反逆か?」
「とんでもございませぬ!! 我々はそのような謀反(むほん)(くわだ)てたのではございません!」
 赦しを乞おうと、刀を向けられた番人が慌てふためきながら弁解する。
「左様でございます! 折角の厄界にいない種……()()をしても良いのではと伺いました」
「いかにも。要は契りを交わさなければ良いのですから…… 何なら荊祟様が楽しまれた後でも構いません」
 ざわり、と周囲に烈な殺気が満ち、荊祟の眉が吊り上がった。
「もう()い。粛清(しゅくせい)する」
 チャキ、と(つば)を整える音が鳴ると同時に、へたり込んでいる方の番人の首元に刃を強く押し付けた。彼の汗ばんだ皮膚から、今度は一筋の赤い滴が流れる。
「戻って仕置きを受けるか、この場で俺に斬られるか、とっとと選ぶが良い。どうする」
 残酷で容赦のない最終警告に、今では哀れに見える位に縮み込んだ番人が、涙声で答えた。
「――仕置きの程を……」
「……この女の処分は、俺が決める。早まった事はするな」
 気が鎮まったらしい彼は、ゆらり、と刀を下げて鞘に収めた。

「……あ、ありがとう、ござい……ました」
 一度も自分を見ない彼に対し、反射的にアマリは礼を発していた。ようやく、荊祟は彼女の方を向いたが、冷ややかな眼差しで凝視している。
 次第にアマリの視界は揺らぎ、うつ伏せに倒れ込む。抵抗する力はもう無かった。今更、自分を贄として一族に渡す事はないだろう……と薄らぐ思考に過る。視界は蓋され……意識は彼方へ消えた。
 ――……

 朧気な意識が覚醒していく。頭は鉛のように重い。身体は柔らかな布団に包まれ、白無垢は襦袢(じゅばん)らしき寝間着に変わっていた。髪もほどかれている。
 どうやら冥土ではなく、まだ生きている事にアマリは戸惑う。

 強烈な視線を感じ、反射的に眼球を動かす。朱の瞳と目が合いおののいた。あの夜、妖厄神の青年が連れ、黎玄と呼んでいた鷹がいたのだ。半分が障子で閉じられた、円形の窓の縁に留まっていたが、やがて翼を羽ばたかせ、外へ飛び立った。
 あれから何日経ったのか、此処はどこなのか不安に駆られる。八畳程の畳部屋という事位しか判らない。
「失礼致します」
 暫し後、凛とした声が、(ふすま)の向こうから聞こえた。
「お身体の具合はいかがですか?」
 入って来たのは、菖蒲(ショウブ)色の忍装束の若い女性だった。艶やかな黒髪を後ろに団子に束ね、琥珀(こはく)色の猫目に笹形に尖った耳をしている。小鍋や急須を乗せた盆を手に佇んでいた。
「貴女は……? ここは、どこですか……?」
「厄界の長……荊祟様の御屋敷の離れでございます。私は警護などを担っている者。貴女様が目覚められたと伺い、お食事と薬をお持ちしました」
 颯爽と傍に寄って正座し、くノ一のような女性は礼儀正しく頭を下げる。
「長様より、貴女様の看病と身の回りの世話、護衛を申し付けられました。今後は私がなるべく同行させて頂きます。どうぞよろしくお願い致します」
「せ、世話? 護衛⁉」
 予想外の単語の連続に耳を疑い、困惑する。
「この界には……貴女様を良く思わぬ者もおります故……ご容赦を」
「そ、そうでしょう……⁉ 妖……長様は、私を生かしておかれるのですか……?」
 錯乱したアマリは、まくし立てた。覚醒し切っていない頭が追いつかない。
「……殺される、と思っていらしたのですか?」
 静かに頷く尊巫女に女性は初めて表情を崩し、眼を見開いた。
「あの方がお決めになられた事ですので……ご自分でお尋ね下さい。貴女様のお身体が回復次第、お会いされるそうです」
 何故、自分と今更対面するのか、アマリには解らない。
「私は隣室に住まいます。御用がありましたらお呼び下さい。……多少の異変は察知できますが」
 つまり、何か仕掛けても判るという事だ。おそらく、このくノ一の仕事は、妖厄神への()()も兼ねてなのだろう。

 膳を布団の側まで運び、改めて正座した女性は、小鍋の中の湯気立つ物を椀によそい始める。
「玉子粥です。長様も召し上がっておられる、人族の身体に合わせた物です。毒などの類いは入っておりませんのでご心配なく」
「……わかりました」

 ――確かに、今更改めて……なんて無意味よね

 ()()()、彼は、確実に自分を殺せたはずなのだから。
「あの……」
「何か?」
「お名前を、伺ってもよろしいですか?」
 作業の手を止め、女性は驚いたように眼を見開き、戸惑いが混じる声色で問い返す。
「何故でしょう?」
「お世話になるのですから、知っておかなくては……と思って。その、貴女のご迷惑にならなければ、ですが」
 彼女があの厄神に叱られるのなら知らなくてもいい。だが、尊敬の意を抱き始めたのだ。
 アマリの返答に女性は微かに和らぎを見せた。
「――カグヤと申します」
「まぁ、綺麗な名……お似合いだわ」
「私共からしたら貴女様の方が、異星からいらしたようなものですよ」

 ――違うわ……

 自虐的に哀しく思った。自分は歓迎されていない。
「あ、申し訳ありません。私は……アマリと申します」
「アマリ様。了解致しました」
 薬膳茶を差し出され、アマリは反射的に口を付ける。今度は、しっかりと苦味を感じた。


 同刻。屋敷の主人である荊祟、側近数名が、奥座敷の一室で神妙に話し合っていた。勿論、議題はアマリの件だ。この百年程、尊巫女の輿入れが皆無だった彼らにとって、彼女が献上されるという知らせは、それこそ天変地異並みの大事件だったのだ。
「くノ一の報告ですと、随分な心身の疲労で未だ衰弱しているようです。何も看病などしなくとも」
「そうですよ。そのうち死にます。厄介払いになり、結構ではないですか」
 行灯の灯りに照らされた素顔の主人に、家臣達はそんな非情な行いを促す。荊祟は深いため息を吐いた。
「どんなに忌み嫌われようが、汚れ腐ろうが、我らは神族の者。神々に仕える女……増して尊巫女。見殺しにする訳にはいかないだろう」
「長様…… まさか、情を(いだ)かれたなんて事はあ……」
 側近の言葉は途切れた。切り裂くような黄金(こがね)の眼光が向けられ、ヒッ、と喉奥が引きつる音が鳴る。
「全く……本当に面倒な事になったものだ。相も変わらず、人族共はいらぬ事ばかりする」
 心底うんざりしたように、一族の長は、鋭利な眉を思い切りしかめた。


 厄界……この離れに住んでから、一週間程が過ぎた。カグヤの看病の甲斐あり、具合は良くなってきたが、布団でぼんやりする毎日だった。
 始めの数日は、体の怠さに耐えるだけだったが、回復してきた今は落ち着かなくなっている。『無理の無い程度に過ごして下さい』とカグヤに言われたが、どうしたら良いかわからない。自害させない為か、布団とちゃぶ台、衣装箪笥(だんす)以外、何もなかった。
 今までは『施し』か勉学、稽古の時間だったが、ここには仕事を促す者も、依頼者もいない。唄は目立つだろう。
 窓から見えた池囲いの庭園に出てみようか……と少し思ったが、カグヤは別任務で数時間不在と聞いている。勝手に出て良いのかわからない。帰る場所も頼れる者も無い今、逃げ出す事も不可能……
 途方に暮れるアマリだったが、これは長である荊祟の罠だった。あえて彼女を一人にし、どう動くか試したのだ。

 そんな事はつゆ知らずの当人は、狼狽えるしか出来ずにいる。だが、明らむ部屋で刻々過ぎる独りの時が、今までの事を(よみがえ)らせてきた。良からぬ考え、情が奥底から湧き始めてしまう。痛みの治まった脳が、(わめ)き出した。忌まわしい(ささや)きが、耳元で鳴る。
『――何故、まだ生きている? お前はもう用無しだろう。息する理由があるのか? お前を真に案ずる者などいない』
 眼を閉じ、振り切ろうと深呼吸を繰り返す。孤独感、憤り、悲しみ…… そんな情が吹き出してしまいそうになった時、今まで行っていた鎮静法だった。
 だが、深みにはまり、奈落の底へ堕ちていく……

 ――……怖い。怖い。気を紛らわさないとおかしくなりそう……何でもいい。何か……!

 布団を出て手足を動かし、習慣で身に染み着いた動作を始めた。しなやかに、両腕を宙に舞わす。稽古で習った舞だ。
 おぼつかない足取りは、手順を間違えた。師範の叱咤が飛んでくると、反射的に動きを止め、思わず身を縮めた。が、何も聞こえない。

 静まり返る室内の中、どく、どく、という鈍い心音だけが聞こえる。戸惑いと怯えに加えてやってくる、奇妙な安堵感。
 そんな様子を、あの円い窓から、朱の眼の鷹がまた見ていた。
 翌日の夕刻。『長様が夕刻に御会いに来られるので部屋でお待ち下さい』と、今朝言われたアマリは狼狽えていた。非情な厄神と聞いていたが、何故か生かされているという不気味な現状……
 (ふすま)越しのカグヤの声掛けにもびくつく。急いで客人用の羽織を着込み、素顔のまま正座した。
「は、はい」
 返答と同時に襖が開き、慌てて頭を下げる。見覚えのある漆黒の履き物が、忍びやかな足取りで入って来た。
「顔は上げてよい」
 あの夜より落ち着きある口調で促す青年の声。その魅惑的な低音に惹かれるようにアマリは顔を上げ、息を呑んだ。
 素顔を晒している彼の()は、澄んだ琥珀色だった。あの夜は稲妻のような眼光を放っていたが、同じ藍鼠色の長着物に鋭利な眉、笹形の耳、非対称に分けられた濃灰の髪が、同一人物だと判別させた。
 黒地の首巻きで隠れていた肌は小麦色。すっ、と通った鼻筋、きつく結ばれた薄めの唇。腰元には日本刀。荒く野性的な気を纏うが、顔立ちや眼差しは涼やかという魅力を兼ねている。
 そんな妖厄神――荊祟の出で立ちに、アマリは状況を忘れ、見入ってしまった。
「回復したらしいな」
「は、はい…… お陰様でこの通り……」
 少し離れた場に胡座をかき、彼は声を掛ける。我に返ったアマリは、少し目を伏せ、なるべく丁寧に応えた。
「だな。この状況で踊る位、余裕綽々(しゃくしゃく)のようだ」
 容赦なく皮肉を投げる厄神。黎玄の存在には後に気づいたので、昨日の行いも知られているだろうとは思っていたが、決まり悪い。
「も、申し訳ありません。いつもなら仕事か稽古の刻だったので……どう過ごしたら良いか……」
()()、か」
 しまった、とアマリは迂闊(うかつ)さを呪った。この厄神は企てをどこまで感づいているのだろう。
「いえ、大した事では……」
「よい。どうせ、今回の件に関するのだろう」
 ふん、と彼は軽く鼻を鳴らす。図星の状況に最適な返答が判らず、アマリは俯く。元々、上手く誤魔化すという所業は苦手な性分だが、どんな小手先も彼には通じない、殺伐した気が漂っている。

「あの…… (おさ)様」
 妖厄神とも、『ケイスイ』とも、さすがに口にしづらく、アマリは無難な呼び方をした。
「何だ」
「あの夜、助けて頂きありがとうございました」
 改めて、両手を前に頭を下げた。荊祟は胡散臭げに猜疑(さいぎ)の眼差しを向ける。
「その後も看病して、生かして下さり……驚きました」
「お前の為ではない。奴らの所業を見逃すと、界の秩序が乱れる。故に処罰したまで」
「お察ししております。ですが、身を守れたのは事実でございますから」
 あくまで義務で不本意な行いなのは理解していたが、それだけは礼を言いたかった。
「めでたい頭だな。お前が厄介な存在なのも事実だ」
 ばっさり辛辣に返し、珍妙な生物を見るように、荊祟はアマリを凝視する。
「承知しております」
「……お前は、民に崇められる『尊巫女』なのだな。どこまでも」
 皮肉めいた口調で呟き、口角を歪める。
「お前を襲った奴らから聞いた。あの尊巫女は、俺を『妖厄神()』と呼んでいたと。わざわざ此処に送り込む位だ。相当、狡猾か酔狂な女を寄越したのだろうと考えていたが……」
 一呼吸した後、言い放つ。
「『清廉な尊巫女』として、髪から爪先に至るまで培養された人族の女、だな」
 内心、情けなく思っていた自身の在り方を見抜かれ、言い当てられてしまった。惨めな思いがアマリの胸を締め付け、いたたまれなくなる。この相手に遠慮は要らぬとふんだのか、煽って試しているのか……
 一転、少し腹立たしくなり、ずっと問いたかった事を吐き出す。
「あ、貴方こそ……変わった神様でいらっしゃいます。喰う事も、殺す事もなさらない。私の存在などお邪魔でしょう?」
 一寸の沈黙が流れた後、ぽつり、と荊祟は呟く。
「どんなに忌まれようが疎まれようが、神族の長だ。無意味な殺生はしない」
 彼の答えに驚き、アマリは彼の琥珀の瞳を凝視した。嘘偽りを()く眼差しではない。彼は無差別に人族の地や命を脅かす厄神……禍神(まががみ)ではなかったのか。
「厄界の者に悪影響が出るやも知れぬし、亡き者にしても人族共への後始末が面倒だ」
 彼女の心中を見抜いたように、ふ、と自虐的な笑みをこぼす。その瞬間、琥珀の瞳に微かな陰りが入ったのが、アマリには見えた。

「とりあえず、もう暫く屋敷に身を置け。お前の処遇については、もっと家臣と話し合う必要がある」
 またアマリは意外に思った。この長は、重要事項を独断で決めない。少なくとも、彼は暴君では無いという事実に、想像していた()()()の像が薄れ、崩れていく。
 再び唖然とした面持ちで彼を凝視したアマリを、また不審そうに眺めた後、荊祟は改まった厳格な口振りで告げた。
「カグヤ同伴なら、今後は屋敷内をうろついて良い。(ただ)し、妙な真似はするな」

 その命令を最後に、荊祟は部屋を出て行った。あの夜は、もっと非情で義務的、主らしい冴えた威厳を纏っていたが、さっきの彼は少し違う者のようにも感じる。妖厄神についてますます解らなくなり、アマリは混乱した。


 夕餉(ゆうげ)時。膳の皿が空になった頃、恐る恐る、アマリは切り出した。
「……カグヤさん。出過ぎた問いである事を承知で、お尋ねしたいのですが」
「はい」
「――あの方は、人族の地に何を、なさったのでしょう……?」
 予期せぬ問いに驚いたのか、あの厄神と同じ琥珀の瞳をカグヤは見開く。
「それは、あまりお知りにならない方が良いかと。きっと貴女様にとっては、気分の良い話ではありません」
 神妙な声色で返すくノ一の言葉に、アマリは息を詰める。ある程度の予想はしていた。家族や従者から見聞きしてきた、人族を襲った数々の災厄――火災、飢饉、空き巣、殺し等の治安の悪化。どこまでが彼の仕業なのか知らない。
 ずっと社から出ていなかったアマリに、外の状況はわからなかった。しかし、願掛けの為にわざわざ遠方から訪れる、悲痛な面持ちの民の姿は、数え切れない程見てきた。
 だが、少なくとも人族を不幸にして楽しむ邪神ではないように見えたのだ。彼にとっても不本意な行いではないのか。あの夜、自分を助けたように。
 先程感じ取った、自身の何かと共鳴している……そんな未知の衝動が、アマリの内で主張している。
「……ありがとうございます。すみません……こんな事」
 気まずい空気が流れたが、改まるように願い出る。
「あの、早速ですが…… 明日、少しご一緒願えますか?」


 翌昼過ぎ。アマリはカグヤと共に、窓から見えた池囲いの庭園を訪れた。
 離れから少し歩いた先にある、対岸は木々が埋めている場所。外敵を避ける為か、囚人の脱走を防ぐ為か、規模の大きな池だ。だからか、一つも花が咲いていない事に、アマリは驚いた。
 花能の事だけは知られていないようなので安堵していたが、あの厄神には馴染みが無いのかもしれない。石造りを基調にした庭園は、静寂で厳かだが、哀しげで殺風景に見えた。
「私は少し離れた場所にいます」
「あ、ありがとうございます」
 気を利かせてくれたのか、カグヤは一人にしてくれた。
 ふと、覚えのある強い視線を感じた。少し離れた松の陰から、二つの紅珊瑚が見え隠れている。アマリが片腕を差し出すと、その――黎玄は羽ばたき、側の石積みの置物に留まった。
「……あの夜は、貴方が長様に知らせてくれたのよね? ――レイゲン。どんな字を書くのかしら」
 黎玄はずっと直立不動のままだ。妖厄神への不可思議が拭えないまま、彼の判断を待つしかない日々が、アマリを再び追い詰め始めていた。


 翌夕刻前。『本日、長様がいらっしゃいます』とカグヤから聞いていたアマリは、以前とは違った意味で身構え、荊祟と再び対面していた。今度こそ処遇について決まるかもしれない不安、そして彼と話せる機会への淡い期待という、矛盾した思いが交差する。
「だいぶ、この屋敷に慣れたようだな。庭園はどうだった」
 やはり筒抜け……とアマリは目を伏せた。
「お前の処遇についてだが…… 未だ家臣と揉めている。亡き者にしても生かしても、人族が何か仕掛けて来るかもしれんからな」
 返答に困り、唇を結ぶ。自分に決定権は、無い……
「――お前の異能は、何だ」
 顔を上げた。彼の表情は変わらない。いつかは問われると予測していたが、突然、核心部を突かれ、息が詰まる。
「わざわざ此処に送り込む。我らに加担するはずも無い。何かの先攻術ではと、それなりに推測したのだがな……」
 絶対に言ってはいけない、とアマリは更に気を引き締めた。だが、さすがに拷問され吐かされるかもしれない…… 口内が渇き、額に冷や汗が滲む。眼前の厄神は、顎に掌をあて探るように観察している。この危機をどうやり過ごすべきか判らずいたが、ずっと聞きたかった疑問……違和感を漏らした。
「……貴方様こそ、何故、人族の地を荒らすのですか……?」
「災厄でも起こさねば、人族共は次第に図に乗るだろう? 自分達が世で最も高尚で、選ばれた生物だと(おご)り、界の富を好き勝手に使い始める」
 自問を()らされた事はかわし、荊祟は言い放つ。
「戒めるには、自然の厳しさや見えぬ存在の脅威を見せつけるしかなかろう? それでも時が経てば忘却し、再び似たような事を始め出すが」
 彼の主張は理解出来なくはなかったが、尊巫女として見てきた現実が、アマリにもある。
「……その為に、罪無き方の命が苦しみ、奪われても良いとは……思えません」
「……そうだな。出来るなら、そんな者達は殺したくない。だが」
 腰元の刀の(つば)をチン、と鳴らし、(さや)に左手をかけたと思った瞬間、俊敏な手さばきで、荊祟はアマリの首筋に鋭利な切っ先を当てた。鈍く光る危険な殺気、鋼の冷たさが、彼女の柔い素肌に主張する。
「もし、お前が今、俺に殺されなければ…… 例えば、大火を起こすと言ったら、お前の同族はどう出るかな」
 首筋に感じる感触と同じく、痛切な問いが、アマリの言葉と息を止めた。何と答えるのが正しいのか、様々な思慮が脳内を駆け廻る。

「私の、命と引き換えにされるでしょうし、犠牲と思ってはならないと、考えます」
「そうだな。奴らはそう言うだろう。だが、お前はそれで良いのか」
 今までの信条、無難な答えをそのまま口にする尊巫女に、厄神は更に詰める。
「……それが、私の務めですから」
「そんな模範解答は愚行だ。甘過ぎる」
 渾身の決意を、ばっさり切り捨てる彼にアマリは唖然とした。
「まず、そんな卑劣な事を言って来る奴は、大抵、約束など反古(ほご)にする。当初の目的……厄介なお前を人族公認で殺した後、本当に大災を起こすか、起こさずとも更に何か詰めるか……だろう」
「……‼ 貴方も、そうされるのですか」
「今、聞いているのは俺の出方ではない。お前がどうするかだ。己の意思は無いのか」
 返す言葉がなかった。『その通りだ』という気が起こり、感服したのだ。ずっと見ない振りをしていた自身の在り方を否定する真理。そんな刃を真正面から突き付けられ、固まってしまった。
「何故、そんなに自己を軽んじる? 役目? 義務? 解らんではないが、無意味にしかならない犠牲は不毛だろう。大体、人族というのは自分本位な割に、浅はかで他力本願な者が多すぎる」
「‼」
「お前もだ。もっと自身を守れ。知恵をつけ、考えろ。でないと、あらゆる者に喰い尽くされ、用済みになれば()てられるだけだぞ」
 反論したかった。が、出来ない。事実、そうしてこの地に来たのだ。だが、ずっと行き場のなかった憤り、哀しみの火種が、少しずつ怒りに変換され、アマリの胸中で煮え始めた。どこに対するかも解らないまま。
「……貴方は、本当に……全て、が解るのですか?」
 重く掠れた声が、荒れた桃色の唇からこぼれる。彼の腰元の刀が目に入ったが、気にならなかった。
「私が御役目を放棄したら、多くの方が()る場を失うのです。混乱が起こり、治安も崩れます」
「だが、わざわざ俺のような者に、死ぬとわかっていて……だろう?」
「そうなる原因を生み出すのは、災厄、疫病、戦ではないですか。誰だって脅威なる存在は恐ろしいですし、命惜しいもの。そもそも、その一つを起こすのは、貴方様なのでしょう⁉」
 怒りを買い、拷問されるかもしれない覚悟で、アマリは言い放った。ずっと無表情だった荊祟の眉間が潜み、口角がひきつる。
「……確かに、俺だ。だが、人族の所業が良いとは思えん。お前の存在が、その証ではないのか」
 不意を突かれ、厄神を凝視する。琥珀の眼は、どこか哀しみを帯びていた。尊巫女に対する、彼個人の考えが垣間見え、心の一番深い所に隠していたものに、一瞬だけ触れられた気がした。
 しかし、それを許し、(さら)すのは危険だと、再び隠す。

「今日、話したかったのはそれだけだ。検討し、また知らせに来る」
 微動だにしないアマリを一瞥(いちべつ)し、荊祟は去っていった。彼の姿が消えた後、そっ、とカグヤが近づく。
「……カグヤさん、すみません。暫く、一人にして頂けますか?」
「了解しました。隣室にいますので、何かありましたらお申し付け下さい」


 すっかり茫然自失状態になっていた。彼の事どころか、自身の事すら解らなくなってしまったのだ。独り、座り込んでいた時――
「失礼致します。尊巫女様。少々よろしいですかな? カグヤには了解を得ております」
 襖の向こうから、落ち着きある(しわが)れた声が聞こえた。少し警戒したが、隣の部屋に護衛がいる状況なので了承の返事をする。入って来た年長者の男は、荊祟の側近だと名乗った。
「先程、長様が参られたでしょう? あの方は長として尊巫女に手をかけられない。我々が亡き者にしても、贄を出したにも(かかわ)らず、変化のない状況に人族が怒り、戦になるやもしれませぬ」
 その可能性がある事に、アマリは気づく。心臓が縮まり、血の気が引いた。
「ですが、どうしたら……」
「貴女様が、どうにかご自身で……でございます」

――……

「長様‼ お取り込み中、申し訳ございません‼」
 ようやく奥座敷で家臣といる荊祟を見つけたカグヤは、血相を変えて飛び込み、頭を下げた。
「なんだお主、くノ一か? 無礼であるぞ」
「良い。申せ」
 彼女の珍しくただならぬ様子に、荊祟は緊急性を察し、許可する。
「アマリ様がおられないのです‼ 離れにも、どこにも……!」
 側近が去った暫し後、『吐き気がする』と言うアマリと共に、カグヤは外にある(かわや)を訪れた。少し離れて待機していたが彼女は戻って来ない。嫌な予感がして中を覗いたら……もぬけの殻だった。
「脱走……まさか、今度こそ長様に奇襲を企てるつもりでは⁉」
 激昂した従者達に、荊祟はすっ、と手を差し出し、制した。
「いいえ。あの方には逃げ場も頼れる者もございません。武器も攻術もお持ちで無いようです」
「まさか、あの女。しかし、どこに……」
「心当たりはございます」
 最悪の事態を想定した荊祟に、カグヤは確信的に頷いた。
 蒼黒(そうこく)に様変わりした、凍てつく夜更けの庭園。雪が降り出していた。薄氷が張り出した池が、水辺に棒立ちしているアマリを飲み込むように広がっている。
「何をしている」
 重圧を抑えた、覚えのある静かな低音の問いが、背後からした。一瞬びくついた後、力なくアマリは振り向く。初めて会った夜と同じ出で立ちの荊祟が、少し離れた場所にいた。軽く息を切らし、首巻きがずれて顔がさらけ出されている事以外……
 今にも霞み消えてしまいそうな彼女の姿は、幽世(かくりよ)に逝く魂のように見えた。白い手に儚く浮かぶ、更に真白い花が、()()に映る。
「その花は、何だ」
 待雪草(スノードロップ)。花能は、種類と術者の意図によっては、恐ろしい裏能(うらぢから)を発動させる異能だ。待雪草――『あなたの死を望む』。自分の姿を思い浮かべ、この花を自身に吸収させるつもりだった。
「死、なせてください……貴方が殺せないなら、自分で…… 私が勝手にした事にしたら、ご迷惑はかけないでしょう……⁉」
 どんな異能を持つ尊巫女にも最大の禁忌であり、自身にも多大な反動が返る術。『生ける命を故意に殺す事』――それをアマリは行おうとしていた。
「帰る場所もない。贄にもなれない。殺してももらえない。生きていたら人族と争いになるかもしれない…… どうしたら、良いのですか……⁉」
 掌に純白に輝く花を浮かべながら、そんな事を訴えてくる彼女の姿は、痛々しい位苛烈で、『清廉』だった。何とも言えない衝撃が、荊祟の全身を駆け抜ける。
「お、前……」
「もう……疲れました。つかれたんです……つかれ、た……」
 嗚呼(ああ)、そうか。自分は疲れていたのだ――と、アマリは気づく。力無き渾身の叫びに、荊祟は絶句した。そして、この尊巫女の異能がどんなものなのかを(さと)る。花能の存在も効力も知らないが、彼女がこの方法で自害するつもりなのは明らかだった。

「そんな力があるなら、何故、我らに襲撃しなかった? 何故、奴らに復讐しない⁉」
「……あの界にいるのは、()()()()だけではないからです。(あそこ)に不幸があると困る方も、力無き方も……沢山おられる……」
「その哀れな奴らも、尊巫女に何もかも押し付け、都合よく……慰めにしてきたのだろう? お前には恨む、憎むという類いの念は無いのか」
 理解できないと言った思慮が、彼の言葉には滲んでいた。アマリは、そんな厄神の問いに自嘲気味に嘲笑(わら)う。その()は虚無だった。
「そのような情は……とっくに()てました。それに……『憎む』というのは、私にとっては重すぎる、苦しい(もの)になってしまったんです……」
 依頼者と対峙する中、憎しみや怨恨という負の激情に呑まれ、我を失っている者を時々、目の当たりにした。それらが自らを蝕んでいる現状に気づかず、むしろ憎き相手を呪い生きる事を望む者もいた。
 彼ら自身を泥沼に追い込んでいるような怨恨に()され、()てられて続けていたアマリは、少しでもそんな念を抱く事が恐ろしかったのだ。
 尊巫女として聖人君子でという考えもあったが、それ以上に、底無しの闇を抱くことで精神(こころ)が壊れてしまう事が、怖かった。その位途方もない邪が、既に自身の内に巣食っている事と気づいていたから――

 アマリの言葉に圧倒され、荊祟は息を呑む。この尊巫女が背負い、抱えていたものは……
「お前の命はどうなる? お前だって人族だろうが」
「以前、貴方は言いました。『どんなに疎まれても自分は神族だから、無意味な殺生はしない』と」
 自嘲的に発した信条を彼女が覚えていた事に、荊祟は少しばかりたじろぐ。
「私も同じです。どんなに滑稽でも、利用されているだけだとしても、私は『尊巫女』なんです。そうして生まれて、そうやって生きて来ました。その(すべ)しか、知らないのです……」
 厄神の鋭く真摯な眼差しを受けながら、アマリは(しか)りと言い放った。
「それに『私の死』は、()()()ではありません。元々望まれていた事ですし、誰も困らないで済みます。それは、貴方が一番ご存知でしょう?」
「‼ 勘違いするな。お前が死んだところで人族の世も、この界も、何も変わらん‼」
 一転、醒めたように、荊祟は黄金(こがね)の眼光を放ち、激昂した。
「お前がどんな力を持っていようと、それが無くなれば、奴等は何年もかけて、再び代わりになり得るものを血眼で探す。そして同じように利用し、使い()てる。それが繰り返されるだけの事」
 脳天を砕かれ、意識が飛ばされた気がした。激しい眩暈(めまい)と吐き気がこみ上げ、アマリは口元を片手で覆う。
「偽りではない。そういう生き物だ。俺は、何度も……幾度も見てきた。無駄死ににしかならんぞ……‼」
 今までずっと視界に映っていた、何もかもが――見えない。
「……なら、私は……どうしたら、よいのですか……」
 掠れ声で嘆くように呟く。彼の語る事は全ては理解できなかったが、『絶望』とはどんなものなのか、改めて実感した。……底無しの沼だ。終わり、が無い。

「取り敢えず……勝手に死ぬのは、俺が許さん」
「それが真実なら尚更……そんな、酷な虚しい界で……生きたく、ありません……」
「生きたらいい」
 不可解と言いたげな眼差しを向けるアマリに、(まじな)いか、もしくは力を注ぐように厄界の長は説き、()えた。
「憎めないのなら……せめて――怒れ。泣いて叫びながら、生きろ‼ その位の権利は、お前にだってある‼」
「……ある、のです、か? 私、にも……」
 声が震えた。何が正しいのか不明瞭で、混沌とした頭と心。痛みを伴う刺々しい彼の言葉のどこかに、温もりを感じる。
「ある。こうして生きているのだからな。此処(ここ)でやれば良い。手助けする。人族の誇りとやらは知らんが」
「です、が……」
「『お前の死』に意味があるのか無いのかは、俺が決める。――いや、今決めた」
 眼に痛みを感じ、アマリの視界が揺らぐ。熱い水の膜が浮かぶと同時に、掌の純白の花に霞みがかかっていく。
「たとえ意味があったとしても、お前が存在する事で、それ以上の意味が生まれる。その位は、見透(みとお)せる」
「お、さ……様……」
「死ぬのはいつでも出来る。どうせならその前に、お前という命が燃え、活きた痕を、界の何処(どこか)に刻みつけろ‼」
 刹那、アマリは(むせ)ぶように、生まれて初めて声をあげ涙し――泣いた。みっともない……と俯いたが直ぐ様、天を見上げた。
 忌まわしいと()われる妖厄神の言葉は、救いの声にも、邪へ(いざな)(あやかし)の囁きにも聞こえる。至極、苦味ある叱咤激励だが、『亜麻璃(アマリ)』という命を救い、息を吹き返させた、柔く巻き付く(いばら)でもあった。
 掌から白き花は離れ、薄れゆく。消滅する間際、ひらり、と舞い、淡く煌めきながら彼女の胸元に還っていった。本来の花能――『希望』『慰め』と共に。

 ()しくも、あの新月の夜と真逆、満月の出来事――