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 葉桜は、夢を見ていた。
 それは僅か三日前の出来事。自身の人生を大きく変えた、伴侶との出会いであった。

「……ん、ここは」

 額に当たる微かな温もりを感じて、葉桜はゆっくりと目を開ける。
 視界の端から、眩しい陽光が溢れてきた。しかしそれは途中で止まり、今度は一際に濃い影を葉桜の顔に落とした。

「お、起きたのか?」

 影の主は微かに頬を赤らめ、恥ずかしそうに視線を彷徨わせる。けれど、どこか物足りないようで、再びその薄い唇を葉桜の額に寄せた。

「もう、紅葉様は。なんだか、恥ずかしいです」
「このくらいは我慢してほしいな。夜通しの見張りのご褒美なんだから」
「ふふっ、わかりました。本当にいつも、ありがとうございます」

 葉桜は開けた瞳をもう一度閉じた。間もなく触れた温もりに、胸の内が熱くなっていく。

「……っと。これ以上は眠れなくなりそうだからな。終了だ」
「そ、そうですか」
「なんで君が物足りなさそうにしているんだ」
「も、もう。知らないです!」

 葉桜は熱くなった顔を見られないよう勢いよく起きると、そそくさと麻の天幕住居から外に出た。まだ白み始めたばかりの空が頭上に広がっており、涼やかな風が頬を撫でた。

「葉桜、本当にいいのか?」

 気分転換も兼ねて葉桜が伸びをしていると、不意に紅葉が声をかけてきた。先ほどとは違い、その声色は少し沈んでいる。
 だからこそ、葉桜は努めて明るく笑いかけた。

「もう、またそのお話ですか」
「しかし、どうしてもこの旅は野宿が多くなる。五畿内中央まではまだまだあるからな。本家の古狸の画策で連れ立っていた部下たちはいないし、ここにいるのは俺の妖だけだ。何も放浪に近い旅をする男の伴侶になる必要はないと思うが」

 三日前。紫鶴宮の屋敷から脱出した後、追いついてきた紅葉の妖とともに五畿内中央まで旅をすることとなった。路銀を持っていた部下や守護兵は紅葉を陥れようとしていた嵩天宮家の一味らしく、屋敷での騒動を皮切りに散り散りとなった。あとに残ったのは紅葉が使役している妖のみで、手元に僅かに残っていた路銀を切り崩しながら道中を行くという、凡そ天下の嵩天宮一族としては考えられない随分と貧しい旅となっていた。
 当初、紅葉は西國に暮らす信頼のできる知己(ちき)に葉桜を預けるつもりでいた。紅葉が単身で畿内にある自領にまで戻り、態勢を整えてから葉桜を迎えに来る算段を立てていた。
 しかし、葉桜はその提案を良しとしなかった。そればかりか、紅葉の伴侶としてどこまでも付いて行くと言い切ったのである。これには、何匹もの妖を操り、真人と激論を繰り広げ、数十に及ぶ牢人や炎狼から葉桜を守り切った紅葉でさえ狼狽えた。

「紅葉様。何度も申し上げますが、私は紅葉様の言葉通り、私らしく生きると心に誓ったのです。そして今の私が私らしくいられるのは紅葉様の隣にいる時です。ぬくぬくと座して待つことはしたくありません。酸いも甘いも噛み分け、共有してこその夫婦ではありませんか。それに、私は戦うことはできませんが、両親から叩き込まれた貧しい中で生きる知恵がございます。必ず、この旅路ではお役に立ちます」
「いや、確かにそれはこの三日間で嫌というほど身に沁みていることではあるが……。ただ何というか、男の意地には甲斐性というものがあって」
「大丈夫です。私にとっての紅葉様は、日乃本國内で随一頼もしい方です!」

 朝陽に負けない笑顔を浮かべて、葉桜は紅葉を天幕の外へと引っ張り出した。光溢れる朝焼けの中で、二人は向かい合う。

「ガハハハッ! こりゃあ、主も一本取られたな!」
「流石は主が認められた奥方ですね」
「……まさしく」

 そこへ、どこからともなく三つの声が響いてきたかと思えば、見上げるほどの巨体が天幕住居の後ろに座り、ふたつの影がその隣に腰を落ち着けた。

「お前ら……いつから見ていた?」
「そりゃあ、主のことだからな。最初からだ」
「私も当然最初からです」
「……同じく」

 妖たちの言葉に、紅葉はげんなりとため息をつく。それを見て葉桜は堪え切れず笑い、また紅葉も吹き出した。

「はあ、やれやれ。まだまだ道中は長いからな。紫鶴宮家からの追手はもちろん、五畿内中央に近づいたら本家からの刺客なんかにも警戒しなければならない。油断はするなよ」
「はい!」

 深刻な内容とは裏腹に、葉桜の表情は明るかった。その笑顔を見ていると、紅葉の胸にも込み上げてくるものがあった。

 ――紅葉様は、貴方のように、自分のことばかり考えている御方では、断じてありませんっ!

 葉桜が真人に啖呵を切った言葉。紫鶴宮の次期当主にあそこまで凄むことのできる女性はそうはいない。
 紅葉もまた、葉桜の言葉に救われていた。邪気に染まることのない野良の妖を家族として引き入れ、今も引き連れている紅葉を、葉桜は異端の目で見なかった。
 かつて、邪気に敏感で妖を引き寄せる庶子の紅葉を、一族の者は忌み嫌った。面と向かって言わないまでも紅葉は敬遠され、まともに相手をしてくれる者は殆どいなかった。
 自分と似た境遇を葉桜の姿に感じ取った紅葉は、どうしても葉桜をそのままにしておくことはできなかった。お節介と言われようとも、何としても救い出したかった。
 そしていざ救い出してみれば、今度は紅葉自身が救われているときた。好き勝手書いてある書物で妖の恐ろしさを植え付けられているはずだが、葉桜は自分の目で見た妖の姿を信じていた。

「前々から思ってましたけど、牛鬼さんってこれ以上大きくなったりするのですか?」
「ん? いや、さすがに打ち止めってところだなあ」
「これ以上大きくなってもらっては困ります。隠れる場所を見つけるのは大変なんですからね」
「その役目……俺たち……だから」
「ガハハハッ! 違いねえ!」

 妖と談笑している葉桜の横顔を、紅葉は見つめた。その眼差しには、これまで一度として持ったことのない愛情の色があった。

「おーい、葉桜」
「はい? なんでしょうか?」

 牛鬼の角を撫でている葉桜を呼ぶと、彼女は小走りに駆け寄ってきた。紅葉は堪らずに、そのまま葉桜を抱き締めた。

「え、ええっ! ど、どうしたのですか、紅葉様」
「なんでもない。黙って俺に抱きすくめられてくれ」

 葉桜と紅葉は、己の高鳴る心音を、相手の温もりを、一身に感じ取っていた。
 決して離れない。離れたくない。離したくない。

 どこまでも広がる朝焼けの空の下。
 犠牲巫女と放蕩若君の逃避行物語は、まだ始まったばかりである。