しとしと雨が続く、夏を前にした季節。
濡れて歩くのは梅雨を知らずでも、傘を忘れたせいでもない。
いつもより勢いがあるだろう川の流れを眺めながら、雨を受けた草の上で膝を抱える。
遠目にはわからないだろう。誰もいない河川敷。
物静かにゆったりと降る雨のように、涙を流す。
流れる雫は雨なのか、涙なのか。伝うままに拭うことなく、ぼんやりと遠くを眺めて。
(雨で、よかった)
決して誰にも見られたくない、ひとり感傷的な姿。
その姿を見られていただなんて、この時は知る由もなかった。
*
「……葉山ひいろ」
よくある親の転勤時期からずれた、季節はずれで常識はずれな高三での転校。担任に促されて出てきたひいろの素っ気ない自己紹介は、その一言だけだった。
「ええっと、葉山君、それだけ?」
「……」
照れや緊張を一切感じさせず、新しいクラスメイトと目を合わせようともしないひいろの目線はずっと床に落ちていた。
高校最後の年、ただでさえ進路に忙しくなる一年だ。
すでにできあがったグループに溶け込むつもりがなければ、わざわざ残り少ない期間で交友関係を築いていくつもりもない。
ただ卒業に向けて静かに過ごすことができればいいと考えているひいろは、それ以上のことは言わなかった。
微妙な空気を察したらしい担任がすみやかに窓際の空いた席を指示し、ひいろは集まる視線すべてに無関心を貫いて席についた。
(第一印象がこれなら、誰も寄ってこねぇだろ)
窓の外に意識を投げて、今後を平穏に一人で過ごすための十分なアピールができたと安堵していた。
――しかし。
「ねぇ、サンカヨウって知ってる?」
突然声をかけられたのは、ホームルーム終了のベルが鳴ってすぐのことだった。
驚くひいろに、わざわざ離れた席からやってきた活発そうな男子はニコッと人懐こい笑顔を見せた。
「俺、颯。ひいろって呼んでいい?」
は? なんだこいつ。
ひいろの警戒心ははっきりと顔に出ていたが、颯は気にした様子もなく笑顔を崩さない。
名前で呼んでいい? の答えも待たずに、最初の質問に戻った。
「でさ、サンカヨウ。知ってる?」
「……」
答えるべきか、無視するべきか。
ひいろが迷っているうちに再びベルが鳴り、颯は「またね」と席に戻っていった。
(変なやつ……)
ひとクラスにだいたい一人は必ず変わったやつがいるものだが、初手から目をつけられたのは面倒臭い。
席の戻り際に「お前すげぇな」「よく声かけたな」と称賛されているところを見ると、クラスで浮いた存在じゃないことだけはわかるが。
(リーダー的なお調子者か。度胸試しか)
遊ばれたのかもしれないと思うと、気分が悪い。
今度また話しかけられた時には無視一択だなと再び窓の外に意識を投げたひいろは、ぐずついた雨空に浸った。
けれど、その変なやつは、それ以降も足繁くひいろの席へとやってきた。
「おはよ。サンカヨウって知ってるか?」
「ひいろ、サンカヨウ知ってる?」
「また明日。サンカヨウ、知ってたら教えてな」
ことあるごとに颯はサンカヨウサンカヨウ。日に何度も問いかけられるわけじゃないが、必ず一回は挨拶のごとく尋ねられる。
他愛のない雑談も振ってくるのに、呪文のようなそれはだんだんと奇怪なものに思えてきた。
(おかげで、覚えちまった……)
サンカヨウ。
颯に尋ねられるたびにうろ覚えだった単語は、ひいろの頭にしっかりと残ってしまった。
ここまで約一週間、転校はじめの緊張の続く一週間は、ひいろにとって「サンカヨウ」という呪文を唱えられ続けた疲れる日々だった。
(いっそ、それだけでも答えたらもう近づいてこねぇかな)
平日最後の金曜日は、まだ颯に尋ねられていない。
くるなら帰り際だろと密かに待ち伏せていると、スクールバッグを肩にかけた颯が案の定ひいろに近づいた。
「ひいろ。サンカヨウって知ってる?」
「……知らない」
ぼそりと答えたひいろに、颯は満面の笑みを見せた。
「そっか。サンカヨウ、綺麗なんだぜ」
「じゃあな」と言い残して、颯は待たせていた友人の元へと向かった。
残されたひいろは、そんな颯の後ろ姿をぽかんと見送る。
「……は? それだけ?」
あんなにしつこく聞いてきたのに、それだけ? そっか、って。
あまりにもあっさりと引かれ、謎は残ったままでモヤモヤする。
遊びで近づいていたなら、ひいろが答えたことでミッション終了ということなのか。ならばつまり、来週からは絡まれることなく平穏に過ごせるということだろうか。
「釈然としねぇ」
ひいろにとっては望んでいたことのはずなのに、モヤモヤが大きくて腑に落ちない。
(なんだよ、サンカヨウって。なんだよ、綺麗って。なんなんだよ、あいつは)
クラスメイトが雨の中を傘で彩りながら下校していく中で、教室に残されたひいろはスマホにやけくそに文字を打ち込んだ。
*
続く雨は晴れ間を見せず、ちょっとの小休止ですら雲を厚くさせている。
濃い灰は太陽の居場所をわかりにくくしているが、週末ももうとっくに夕暮れ時だ。川縁に佇むひいろは、また傘を持たずにずぶ濡れになっていた。
(サンカヨウ……)
わからないものはすぐに検索して調べることができる、便利な時代だ。
スマホでサンカヨウを知ったひいろは、颯が綺麗だと言った意味を理解した。
(雨に濡れると透明になる、白い花)
それが、サンカヨウ。写真で見たものは、確かに綺麗だった。
(……で、それが何)
山地で見られる多年草らしく、知っている人は知っている程度の花。
それをなぜしつこくひいろに「知っているか」と尋ねた颯の意図は、スマホは教えてくれなかった。
感傷に浸るべく家を出てきたのに、サンカヨウ、もとい颯が気持ちの邪魔をする。
(本当に、なんなんだ。あいつは)
謎がひとつ解けたのに、また新たな謎が出てきたことにぐるぐると思考が持っていかれる。
眉間に皺を寄せて流れる川を睨んでいたひいろは、ふと雨粒が止んだことに気づいた。
「あれ。今日は泣いてなかった」
聞き覚えのある声に驚いて振り返る。
タオルを持った颯が、ひいろに傘を差し掛けていた。
「えっ。な、なに」
「はい、拭いて」
「ぶわっ、なんだよ!?」
タオルを頭から被せられ、片手でがしがしと髪を拭かれる。ひいろが抵抗してタオルから顔を出すと、颯はニカッと笑んだ。
「ねぇひいろ。サンカヨウ、知ってる?」
また、その問いかけ。
(遊びなのか?)
ひいろは警戒しつつ、被せられたタオルを握りしめて上背のある颯を睨みながら答える。
「……花」
「! やっと俺に興味持ってくれた」
颯の顔は、花開いたようになって。
なぜそんなに嬉しそうなのか、ひいろは訝しみながらも颯の言葉に引っかかって言い返す。
「あんなにしつこく言われて興味もなにもないだろ……」
「でもさ、気にならないと調べないだろ? サンカヨウ、綺麗な花だよな」
颯からは悪意を感じない。
素直に返ってくる言葉に、ひいろは思わず尋ねた。
「その花がなんなの」
「俺さ、家がそこなんだよね」
そこ、と颯が指をさす。
ひいろが目で追うと、遊歩道を挟んだすぐそこの家だった。……いやな予感がした。
「最初にひいろが雨に濡れてるの見た時、綺麗だなって思ったんだよ」
「最初って」
「先週末だね」
それは転校前の、あの日のこと。
雨に打たれて泣いていたひいろの姿を、颯は家から見ていたということだ。ひいろの頬がカッと熱くなった。
「み、見てんじゃねぇよ!」
「ごめんごめん、悪気はなくて。でもまさかの転校生でさ、近くで見てもやっぱり綺麗だなって思ったんだ」
見られていて、泣いていたことまで気づかれていた恥ずかしさ。それを上回る、どストレートなひいろへの印象が言葉を詰まらせる。
颯は爽やかに告げてくるが、ひいろは頬を真っ赤にしてその羞恥に耐えていた。被せられたタオルの存在がありがたい。
「お、お前、目おかしいんじゃねぇのっ……」
「目はいいよ。俺、視力良いから」
だから、ひいろが泣いているのもわかったということらしいが。
そういうことじゃないと、ひいろの熱は上がり続ける。
「仲良くなりたいなって思ってさ。でもひいろ、人見知りっていうか、なんか寄せ付けない感じ出してたから」
「と、友達なんかいらねぇよ」
「はは。でもね、俺はなりたいんだ」
いつもニコニコとしてる颯のまっすぐな瞳が、ひいろに向けられる。
「ひいろをはじめて見た時、綺麗だと思った。サンカヨウみたいだなって、あんな綺麗な人がいるんだってどきどきしたんだ」
「は……恥ずかしくねぇの……」
こんなの、まるで告白みたいだ。
ひいろは耐えられずタオルで口元を隠して、まっすぐすぎる瞳から目をそらした。
「ひいろ、いつもは喋ってくれないからさ。言える時に言っとかないと」
「……俺は友達はいらない」
「俺はひいろと友達になりたい」
頑なな颯の主張に、もうとっくに「遊ばれてるかも」なんて考えは吹っ飛んでいた。
ひいろの胸がうるさいほどに高鳴っている。
「毎日話しかけるよ。無視されたって逃げられたって、諦めないから」
「しつこいやつは嫌いだ……」
「嫌われるのは困るなぁ。でも、意識してもらえるひとつの手でもあるよね」
さらりと言われ、傘を押し付けられた。
「そういう時は、引き際が肝心」
楽しげな颯は傘から出ると、呼び止めるひいろに一度だけ振り返った。
「タオルと傘、持ってって。風邪ひかないようにね」
そのまま、すぐそこの自宅へ走っていってしまった。
*
(あいつは強引だ)
週明けの朝は早めに登校したひいろは、まだクラスに誰もいないうちに自分の席に座った。
いつもより雨粒が窓を叩いて騒がしく、今日の雨雲は本気を出しているらしい。そろそろ梅雨明けだとニュースが言っていたので、最後の一仕事なのかもしれない。
まばらに登校してくるクラスメイトを横目でちらちらと確認しながら、ひいろは雨空を見ていた。
(……あいつは傘、持ってんだよな)
ひいろが返すことを考えてか、押し付けられたのは律儀にも持ち運びがしやすい折りたたみ傘だった。折りたたみということは普段使いのものだと考えられるが、颯がいつもどんな傘を使っていたかなどひいろは知らなかった。
まぁ予備の傘くらいあるだろうと思いながら、そういえばと思考は移り変わる。
(母さんが、嬉しそうだったな)
朝、家を出る時。
洗ってほしいと頼んであったタオルを受け取ると、安心したような表情をされた。「ちゃんとお礼をしてね」と言われ、ひいろは頷いたが。
(クラスメイトって言ったんだけどな……)
颯に渡されたものがスポーツタオルだったせいか、すっかり友人が貸してくれたものだと思い込んでいるらしい。
ひいろは違うと否定したかったが、あまりに母親が穏やかに微笑むのだからそれを口に出すことはできず。
(心配、かけてるよなぁ)
ひいろは心苦しくなった。
休みのたびに傘をささず、わざわざずぶ濡れになりにいくことの理由を聞かれない。
この時期にいきなり、転校したいと願い出たことも。その理由が周囲との軋轢に悩み、ひいろが耐えられなくなったからだということも。
――ひいろが同性愛者だということが、学校でバレてしまったからだということも。
(母さんは、どこまで知ってるかわかんないけど……)
ひいろは幼い頃からずっと男の子が好きだった。初恋は男の子。女の子は気の合う友達が多かった。
ひいろにとってそれが普通で、主張の少ない大人しい子だったこともあり、何も知らない大人たちは微笑ましく見てくれていた。
成長していっても内気なひいろは好意を表に出せず、人知れず男の子に恋をし続けた。
(普通じゃ、なかったんだよな)
性の授業が始まると、途端にひいろの普通は覆された。
同性に恋はしない。男の子は女の子を、女の子は男の子を好きになる。
ひいろにとっての普通がみんなにとっての異常だと知り、ものすごく戸惑って傷ついた。同時に、普通じゃない自分が恥ずかしくなった。
今まで誰にも打ち明けなくてよかったと思った。友達は誰も、ひいろが異常だとは知らない。
このままずっと隠して、男の子を好きにならないようにすればいい。
まだ思春期にも入らない幼いひいろはそう決心して、大きな秘密を抱え込んだ。
(でも、それが難しいんだ……)
体が成長するにつれ内面も成長し、ひいろの純粋な恋心はやっぱり同性に向いていた。
それがいけないことだとわかっている。いや、本当はいけないことじゃない。同性愛が悪いことだなんて、それを揶揄するのは差別だと、授業で教えられた。いけないと決めつけたのは、ひいろ自身だ。だって周りはみんな違うから、自分だけが違うのはおかしなことだ。
表に出すつもりも、相手に打ち明けるつもりもなかった。ただ、相手に迷惑になってしまうだけだから。
それでも向く恋心は、ふとした瞬間にひいろの気を奪ってしまう。目で追って、話しかけられたら緊張してしまうのは自然なこと。
そして、ひいろと共に成長している思春期で敏感な周囲にそれがバレるのも、きっと自然なことだった。
(あの時、すげぇ引いた目してたな……)
なんとなく、周りの距離感が変わった気がした。それが確信に変わって、ひいろが気づいた頃には浮いていた。
ひそひそとされて、明確に悪意を持ってからかってくるやつもいて。
(だから友達はいらねぇんだ)
また、バレたら怖いから。
居場所がなくなって、ひいろの存在が宙ぶらりんにってしまうから。
想いを寄せていた相手の拒絶を含んだ視線が、一番つらかったから。
(……知ったら、あいつだって)
勢いを緩め始めた雨雲に、ひいろは深く息を吸う。こみ上げた涙を引かせるために。
気づけばホームルーム間近になっていて、ひときわ賑やかな声がようやく教室に入ってきた。ひいろの意識が意図せずそちらに向く。
今日は雨がすごいと友人と話しながら席まで歩いて、その声は止まった。
そっと、ひいろが目を向ける。
颯の席には、借りた折りたたみ傘とタオルを置いてあった。颯がタオルを手に取って、小さなメモ用紙がひらりと落ちる。
メモを読んだ颯はひいろの視線に気づいて、声を出さない大きな口パクで。
(あ、り、が、と、う……?)
なんで逆にお礼? メモ用紙に書いたことをそのまま読んだのか?
不思議に思いながら、ひいろは用は済んだとばかりにまた窓の外に視線を戻す。朝から元気な颯につられたのか、涙はすっかり引っ込んでいた。
遠い空の雨雲の合間に、梅雨明けの陽が射した。
*
「ひーいーろっ。また空見てんの?」
それから颯は、これまで以上にひいろの元にやってくるようになった。
学校祭を目前に控えたクラス内作業。
今年は自由時間を増やすんだと張り切ったクラスメイトが、隣のクラスも巻き込んで巨大迷路を作成している。
個人作業を黙々と終えたひいろの視界に、晴れ空に負けない颯の笑顔が入り込んだ。
「サボってたら怒られるよ」
「……サボってない」
「作業進んだ?」
「見ての通り」
「連絡先教えて」
「教えねぇ」
無視したところで一人でしゃべっている颯に、だんだんと無視することも馬鹿らしくひいろもぽつぽつと返すようになった。「サンカヨウ」の次は「連絡先」を今は唱えられている。
「あはは。じゃあ、学祭は一緒にまわろ?」
そうして、あっさりと引いて。しつこいのに引の手際がいいものだから、怒ることもできない。
「サボる」と答えたひいろは、ベルが鳴ったと同時にお弁当の袋を持って教室を出ようとした。
「ひいろ、今日はここで食べないの?」
「お前がいるから」
「えー、いいじゃん。一緒に食べようよ」
「一人がいい。てか友達待ってんぞ、戻れよ」
遠巻きに、颯が今まで一緒にお昼を過ごしていたらしい友人が集まって見ている。
そこから向けられる視線にひいろは居心地の悪さを感じていたが、颯は気にした様子もなく友人に声を張った。
「俺、ひいろと食べるー」
「いや、あっちいけよ」
「やだ。天気いいから外行こうぜ」
先に教室を出ようとしていたひいろは、なぜか颯に引っ張られて外へと行く羽目になった。
「ひいろってさ、髪染めてる?」
いつも生徒で賑わう中庭は、学祭が近いせいでこの日は人がまばらだった。みんな準備に勤しむために外に出てこないのだろう。
空いていたベンチに強引に並ばされたひいろが渋々お弁当を食べていると、中庭を気持ちのいい風が吹き抜けていく。
早々に自分の分は平らげた颯は、弾んだ様子でひいろを眺めていた。
「太陽の下だとすっげぇ茶色だね」
「地毛」
「綺麗な髪だなー」
颯がいきなり髪に触れ、ひいろはぎょっとした。
「なっ、んだよ」
「さらさらだな〜と思って。さらさらだね」
「触んなっ」
頬に近い手を叩き落とすと、颯はいたずらに笑った。
(こいつ、なんで俺にこんなに構うんだよ)
変なやつ。というのは、ひいろの印象だが。
見ている限り友人は多く、クラスのほぼ中心にいるような存在なのに。
なぜここまでひいろに執着するのかわからなかった。
(本当に毎日話しかけてくるし)
周りがどう思って見てようとお構いなしで、颯はひいろの元に来る。
むしろ開き直っているから、周りも呆れ気味で「はいはい頑張ってー」という感じだ。「迷惑ならはっきり言っていいから」と、話したことのないクラスメイトがひいろに声をかけたくらいで。
(はっきり言っても聞かねぇんだけど)
誰か引き取ってくれ、というひいろの不器用な無言の訴えは、毎度誰にも伝わらず終わっていた。
お弁当を食べ終えて、やけに静かになった颯の真剣な視線に気づく。
「……今度はなんだよ」
「髪がこんだけ綺麗なら、目の色も綺麗な茶色なんじゃないかと思って」
「うぜぇ。見んな」
「みーせーてーっ」
お弁当を片付けながら片手で颯をあしらう。
あしらわれるのさえ楽しそうな颯は、大きな犬のようにひいろにじゃれついた。
そんな二人の前に、見知らぬ男子生徒が立ち止まる。
「――葉山ひいろ?」
名前を呼ばれ、ひいろは男子生徒を見上げた。
「お前、葉山ひいろ?」
「……そうだけど」
ひいろは硬い声で答えた。見覚えのない顔だった。
「お前」と指されたことに高圧さを感じ、合わせた目は自然と鋭くなる。「へぇ、本当にいた」と男子生徒は勝手に驚いた。
「俺、お前のこと知ってるぜ。いとこがお前と同じクラスだったから」
「どういう……」
一瞬わからず、けれどすぐに理解した。
男子生徒が颯を横目に見て、にやにやと嫌な笑みを浮かべたから。
「そいつ、新しい男?」
その言葉に、ひいろの心臓がばくばくと大きく動き出した。
「……教室戻るぞ」
冷静を装いたいひいろの顔色は、きっと青ざめているだろう。
颯には見せないようにベンチを立ったひいろは、にやける男子生徒に阻まれる。
「おいおい、無視すんなよ」
「どけよ」
敵意むき出しでひいろは睨み上げたが、男子生徒の視線は一切怯むことなく颯に移った。
ひいろの体中に嫌な汗が噴き出した。それだけはやめてくれと、颯との間に入るが簡単に押し退けられてしまう。
「なぁ友達君、知ってる? こいつのこと」
「やめろ! こいつは関係ない!」
「転校した理由、教えてもらった?」
「やめろって言ってんだろ!」
「みんなにバレた、恥ずかしい理由をさ」
「やめろ……っ!」
ひいろの精一杯は、体格差のせいでまったく通用しない。
むしろ首に腕を回され簡単に捕まってしまい、颯と向かい合わせにされてしまって。
「こいつ、ゲイなんだよ」
あっさりと、バラされてしまって。
どれだけ抵抗しても腕は解かれず、ただからかって遊びたいだけの悪意にすべてを壊される。
(前と同じだ。結局、同じなんだ。俺が、他人と違うから……)
颯の顔を見るのが怖い。またあの、拒絶の目を向けられていたら。
恐怖と諦めでひいろが顔を伏せていると、颯の手が男子生徒の腕にかけられた。
「――で?」
颯の力が強かったのか、男子生徒があっさり離したのか。
気づけばひいろは颯の背中に庇われていた。
「それで?」
「あ?」
「それがお前とか、お前のいとこになんか迷惑かけたのか?」
「いや、だって、同性愛者だぞ」
「それが?」
「は?」
「だから、それがお前にどんな迷惑かけたんだって聞いてんだよ」
颯の声が、これまで聞いたことがないほどに怒っている。
「勝手だろ。誰が誰を好きでも、それが同性だろうと」
ひいろに向けるいつもの優しさがなく、言葉が遣いが乱暴で。
「外野がごちゃごちゃ口出すことじゃねぇんだよ」
すごく、怒っている。怒ってくれている。
それが嬉しくて、信じそうになる。
信じたくなってしまう。
「ははっ……なんだよ、本当にそいつの男なのかよ」
「だったら?」
でも、だめだ。
同じになったらだめだと、ひいろは颯の肩を掴んだ。
「やめろ。もう、余計なこと言うな」
「余計なことって」
「いいんだ、言わせておけば」
「ひいろ!」
声を荒げる颯の背中を押して、男子生徒から離れる。颯に言い返されて興醒めしたのか、今度は邪魔されなかった。
ひいろはある程度の距離をとったところで振り返り、釘を刺すべく声を大きくする。
「こいつは、俺とは違う!」
そんなひいろに、颯は不満を隠さず空を睨みつけていた。
*
学校祭の準備は滞りなく進み、迎えた当日は少しあやしい曇り空。
出席だけとって早々に学校を出たひいろは、梅雨以来は近寄らなかった河川敷に足を運ぶ。
雨じゃなければあんなに穏やかなのかと川を眺めて、遊歩道脇の草原に入ってすぐに見知った姿を見つけてしまった。
「何してんだよ……」
「ひいろのこと、待ってた」
来るのが遅い、とでも言いたげに颯がひいろを見ている。
予想外のことに、ひいろは戸惑って後ずさった。
「学祭だぞ? お前さっき、学校にいただろ?」
「ひいろもね」
そんなひいろの腕をしっかりと捕まえて、颯は川縁の方へと引っ張っていく。
「サボるって言ってたでしょ」
颯の声が、ぎこちない。
(めちゃくちゃ怒ってる……)
同性愛者だとバラされてからも、颯はいつも通りだった。
自分と違えば悪気がなくても誰かしらに話したくなるものだが、颯はそれをしない。『違う』という認識がないようだった。
あの男子生徒に言い放ったのが真実だというように、ひいろの他人とは違う部分を当たり前だと認めてくれている。
けれど、だからといって颯が寄ってくることを受け入れるのは難しかった。だから、あれから颯を避けていた。
(だって、こいつまで誤解されたらどうすんだ)
颯には申し訳ないが、それはひいろなりの優しさでもあった。
もし颯がひいろと同じ目にあったら。ひいろにとっては事実だったけれど、颯は同性愛者じゃないのだから。
誤解されて遠ざけられて、残りの学生生活が耐え難いものになって、好きな異性に軽蔑されてしまったら。優しい颯がそんな目にあうなど、ひいろは耐えられなかった。
……とはいえ。
(謝ったほうがいい、よな)
それはそれとして、颯の優しさや誠実さを踏みにじってしまっていることには変わりない。
ひいろが掴まれた腕をぐっと引くと、颯は立ち止まった。
「避けて、悪かった」
「……うん」
「でも、お前を巻き込みたくない」
「……」
返事をくれない颯は、少しの間を置いて言葉を選んだ。
「あいつが言ってたことは、本当なの?」
……言いたくない。知られたくない。あいつの嘘だと言いたい。
ひいろの中に捨てがたい逃げ道ができて、うっかり喉から偽りが出てしまいそうになった。
でも。
「……本当」
颯を、騙したくなかった。
「そっか」
振り返った颯は、いつも通りに微笑んだ。
柔らかな口調に、もう怒りを感じない。
「あのね、ひいろ。俺が言ったことも本当だからね」
「……え?」
「ひいろが誰を好きだろうと自由だよ。周りがとやかく言うことじゃない」
面と向かって改めて言われて、苦しくなる。胸が痛くて、認められたことが苦しくて。
泣きそうなほどに嬉しいのに、まだ全部を信じられないことが、苦しい。
「気持ち悪く、ないのか?」
後悔するかもしれないのに。
巻き込みたくないからこれからも避けるのに、こんなことを聞いてどうするんだ。
「俺、もしかしたら、お前に惚れちまうかもしれないんだぞ……」
それでも颯なら、もしかしたらと、淡く期待してしまう。
気にしないから友達になろうと、言ってくれる気がして。
「……えっ?」
びっくりした颯の丸くなった瞳に、ひいろはハッとした。
「悪い何でもない、忘れて……」
「それは、えっ、俺も対象なの?」
後悔するひいろに、対して颯の頬はどんどん熱を持った。
困るでなく、戸惑った颯の身振りがそわそわと忙しない。
「わ、うわぁ。マジか。ごめん、ちょっと、びっくりして」
(どういう反応なんだ……?)
困惑や引かれる予想ばかりしていたひいろも、颯のその様子に戸惑った。
ひとしきりそわそわとし終えた颯は咳払いをして、挙動を落ち着ける。
「えっと。ひいろがもし俺を、ってなったら、それはすごく嬉しいことだと思う」
「……は?」
「人に好かれるっていうのは、すごいことだから。俺は嬉しい」
真面目に、颯らしく誠実な答え。
けれどひいろは、否定されなかった安心よりも心配が勝ってしまった。
「ちょっと待て。お前わかってる? 好きって、友達同士の延長じゃないんだぞ」
「……っていうと?」
やっぱりわかってなくて、首を傾げた颯にため息をついた。
言って教えなきゃいけないのかと恥ずかしさで逃げ出したくなったが、ここで逃げてもまた捕まるだけだとひいろは腹を括る。せめてもと、颯から思いきり目をそらした。
「て、手繋いだり、抱きしめあったり」
「うん」
「キスとか、し、舌だって入れたり」
「うん」
「それ以上、の、ことも……」
「うん」
「普通の恋人同士がするように、それをしたいと思うんだ……」
ひいろの頬は茹だったように赤い。
軽蔑されにいくための告白など、なんの罰ゲームだと虚しくなる。
「俺が好きになったら、そういう対象になるってことなんだぞ」
さすがに颯も引いただろう。
明け透けなそんな事情を知れば、純粋に嬉しいなんて言っていられないはずだ。
雨が降る直前の湿った空気が流れて、静寂。
何も言わない颯をひいろが静かに窺うと、ひいろと同じかそれよりも頬を染め上げた颯と目が合った。
「……あ、ごめん。むしろ、していいのかって、思っちゃって」
その返しにひいろの理解が追いつかないうちに、颯が一歩近づいた。
「していいの?」
「は?」
「キス」
「は?」「え?」とひいろが戸惑うすきに、颯がどんどん近づいてくる。
腕はしっかり掴まれていて、逃げようにも力が強くて。
「いやっ、待って……」
「待たない。キス、していい?」
なけなしの抵抗は、颯をびくともさせられなくて。
「い、嫌じゃねぇの? 男同士だぞ」
「嫌なんて思わないよ」
「お前、俺のこと好きなの?」
「……たぶん」
(たぶんってなんだよ!?)
それでも止まらない颯に、近づいてくる唇に、ひいろはとうとう我慢できなくなって大きく叫んだ。
「……――!! だ、だめだ!」
力で敵わないなら、実力行使を。
颯のおでこをめがけて、ひいろは頭突きした。
「俺っ……はじめて、だから……!」
颯は衝撃でうずくまった。
解放されたひいろは即座に距離をとり、恥ずかしさなど二の次で戸惑いをぶつける。
「どうすりゃいいのかわかんねぇよ!!」
言い捨てて、ひいろは逃げ出した。
*
何がどうしてこうなったのだろう。
違う意味で颯を避け、すぐに夏休みに入ったのは運がよかった。連絡先を教えていなかったのも正解だった。
悩み戸惑い過ごした夏休みは、ひと月という長い期間でなんとかひいろの気持ちを落ち着けてくれた。
「ひいろ! 待ってた!!」
が、そんな落ち着きは颯を前にしてあっさりと崩されてしまう。
「うわ、寄るな!」
「ひいろー!」
夏休み明けの始業式。
校門前で待ち伏せていた颯が、周囲の目をまったく気にせず感動の再会を果たそうとする。
テンション高く抱きついてくる颯に、ひいろはひとり緊張して声を荒げた。
「くっつくな、暑苦しい!」
「会いたかったー」
「人前はやめろ!」
「人前じゃなかったらいいんだ?」
「うっ」
詰まったひいろを、颯は嬉しげに見つめる。
「やっと会えた」
「お前、なんなの? 前より図々しくねぇ……?」
「だって、ひいろがやたら俺を遠ざける理由がわかったから」
「わかったなら放っといてくれよ」
「やだ。俺、ひいろ好きだもん」
「お前、たぶんって言ってただろ……」
ひいろは気持ちを落ち着けるために過ごした夏休みを、颯は気持ちの整理に使ったということだろうか。
驚くひいろに、颯は抱きつくのをやめて「うーん」と宙を見た。
「恋愛感情かどうかって考えると、まだはっきりしなくて。でも、ひいろを好きなことに変わりはないよ」
「……お前の好きはよくわかんねぇ」
「友達に向けるものと同じって、今は考えてもらえたら」
「それにしちゃあ、しつこいんだよな……」
「はは、ごめんね。俺、好きになったら何にでも一直線なんだ」
悪びれなく謝る颯は、声を顰めて「でもね」と続ける。
「ひいろは特別。なんでだろうな、気になって仕方ないんだ」
「俺は珍しい花じゃねぇぞ」
「サンカヨウね」
すんなりと伝わる意図に、颯がふと納得して頷いた。
「そっか。綺麗だから、ずっと見ていたいのか」
「花じゃねぇっつの」
「綺麗だから、こんなに気になるんだ」
「だったら、お前の好きは恋愛感情じゃねぇだろ」
綺麗なものに人の心は動かされる。物であったり、絵であったり、花であったり。
その対象が異性であることもあるが、それがすべて恋愛の対象になるわけではない。観賞して楽しむだけという人も、たくさんいる。
ひいろの否定に、けれど颯は意地悪く肩を組んできた。
「でも、キスしたいとも思うよ?」
至近距離の告白に、ひいろの顔から火が吹く。
「と、友達ってさっき言ったばっかりだろ!」
「そうなんだよ。矛盾してる。やっぱ恋かな?」
「知るか!」
「キスしたらはっきりすると思うんだけど」
「そんな理由でしねぇよ!」
颯を突き放して、ひいろは今さらになって周囲を見渡した。
「ていうかお前、こんなとこまたあいつにでも見られたら……!」
「あいつ?」
考える颯に、ひいろは目で訴える。学祭前の、ひいろと颯がこうなってしまった原因を。
颯は「あぁ」と思い出したが、興味なさげに声のトーンが落ちた。
「いいよ別に。俺は言いたいこと言ったもん」
「よくねぇんだよ」
「それより、ひいろは? あいつに言いたいことないの?」
「……ない」
というのは、嘘だけれど。バカにされて新しい生活を壊されそうになって、やり返してやりたい気持ちがないわけではない。でも、怖くて言えないというのも、ひいろの本音だった。
そんな心の声を見透かしてか、颯はニッと勝気に笑ってみせた。
「あるなら、行こ」
そのままぐいぐいと押され、ひいろと同じ学年の、別のクラスへ。友人と談笑していた例の男子生徒の前に連れていかれて、ひいろは固まった。
「は? なに」
怖くて、声が出ない。
ほんの少し注目を集めただけで、手に汗を握ってしまう。
「なんだよ、なんか言いたいことでもあんのかよ。同性愛者クン」
嘲笑を含んだ物言いに、挫けそうになる。
目線が泳いで無意識に体が後ろに下がると、颯がひいろの背中を支えた。
「ひいろ。俺がいる」
たったそれだけで、力強い。
ごくりと唾を飲みこんで、ひいろは大きく吐き出した。
「……――俺の勝手だろ! 俺が誰を好きになろうと、お前には関係ない! 笑われる筋合いもない!」
「はっ、ゲイが開き直ってんじゃ」
「見下して、バカにしてんじゃねぇよ! 俺は恥ずかしいことなんてしていない!」
言い切って、息が切れる。手が震える。
頭に優しく手のひらが置かれて、ひいろの目の前に、颯の背中が広がった。
「よく言った。ひいろは、堂々としてればいいんだよ」
苛立つ男子生徒を目の前に、颯はひいろ以上の大声を出した。
「みなさーん! ここに彼女のいない僻みまみれなかわいそうな男の子がいます! 男同士の俺たちの仲にも嫉妬するくらいですー! 誰か、もらってやってくださーい!」
「は!? テ、テメェ!!」
掴みかかってくる男子生徒をかわすと、颯はひいろを引っ張って走り出した。
「ははっ! 逃げるぞ、ひいろ!」
「うわ、ちょっ……!」
注目の的になった男子生徒は追うに追ってこれず、クラスメイトから向けられる冷たい視線に耐えていた。きっと、普段から粗暴だったのだろう。
ひいろにとっての脅威はどんどん遠ざかり、小さくなっていく。目の前にある颯の背中が頼もしくて、あんなにも恐れていたものがちっぽけだったと思えるほど。
空き教室に走り込んで、上がる息で二人で床に座り込んだ。
「やっちゃったー。叱られるかな」
「いいよ、俺だけ叱られるから」
「そんなわけにはいかないよ。ひいろに言わせたの、俺だもん」
汲み取って背中を押してくれた颯は、あくまで自分の勝手だとひいろに責任を問わない。それどころか、言いたいことを言ったひいろよりも清々しく感じているように見えて。
寄り添ってくれることに、嬉しさを隠せない。
「……すっきりした。ありがとう、颯」
素直に口に出すと、颯は目を見開いてぽかんとした。
「え、なに。なにその顔」
「……ひいろが、はじめて名前呼んでくれたから」
ぽかんとしたまま、颯の丸い瞳に涙が浮かんでくる。
「え!?」
「俺、泣く……」
「おい嘘だろ!? な、泣くなよっ」
涙が一粒落ちて、頬を伝っていく。とめどなく溢れていく。
困惑したひいろの肩に颯が頭を落として、静かに鼻をすすった。伝わる熱が、ひいろを熱くする。
「泣くなよ……」
遠慮がちに颯の頭を抱えると、颯もひいろの背中に腕を回した。
*
颯の後押しありの大立ち回りから、ひいろはずいぶんとクラスで過ごしやすくなった。
クラスメイトに同性愛者だということが周知されたわけではない。バレてほしくないことはバレずに、それでも颯が認めてくれた通りに開き直った。そうしたら、ひいろの心は重石が外れたように軽くなった。
そのおかげで、ひいろは息がしやすくなったのだ。
颯ほどに話しかけてくるやつはいないけれど、タイミングが合えば話をする程度の友人もできた。全部、颯のおかげだった。
「ひーいーろっ」
「颯。くっつくなって言ってんだ」
「もうだいぶ涼しくなったよ。暑苦しくないでしょ」
「そういうことじゃねぇんだよ……」
颯がひいろに絡むのが当たり前で、ひっついているのも当たり前。そんな光景を、颯の友人が「はいはいオメデト」と軽く受け流して見ているのが当たり前。
ひいろにとってありえなかったことを、颯はあっさりと周りを巻き込んで変えていく。
「颯がひっつきすぎて入り込む隙がないって、女子が嘆いてたぞ」
「女子にひいろは渡さない!」
「お前のその愛はなんなんだよ」
「やっと実ったんだ、邪魔すんな」
「葉山、鬱陶しいやつに目つけられたな」
そう思うなら連れてってくれ、と相変わらず無言で訴えて、それだけは誰にも伝わらず。颯だけが察して「俺は離れないよ」と喜ぶばかりの日々で。
季節は夏を終え、甘い花の香りが漂う秋のさなか。
お互いに進路を教え合っていないひいろと颯は、放課後の図書室でそれぞれに自主学習に取り組んでいた。
「――ひいろ、雨降ってる」
日ごとに陽が落ちるのは早くなっていたが、やけに空が暗いのは雨雲のせいだったらしい。静かに降り始めたらしい雨は、颯が気づいた時にはそこそこの降りになっていた。
「傘持ってる?」
「持ってねぇな」
「俺も。すぐ止むかなぁ」
見上げた空は、どこまでも暗い。
これから今以上に降るのか、それとも収まっていくのか、見当もつかなかった。
「濡れて帰る?」
「この季節に濡れる勇気はねぇよ……」
「ひいろも、そう思うんだ」
ふふ、と隠して笑う颯は、いつかのひいろを思い出しているのだろう。
ひいろはノートを丸めて颯の頭をバシッと叩いた。
「ひどい」
「笑ってんじゃねぇよ」
「笑ってないよ」
「笑ってんだろ」
こんなやりとりは、いつもなら友人が「いちゃつくな」とたしなめにきて終わる。それが今はない。
まばらに人がいたはずの図書室は、気づけばひいろと颯の二人きりになっていた。
「……みんな、帰ったんだ」
確認して、颯がひいろに椅子を寄せた。
「な、なんだよ」
「ん? いや、誰もいないなーと思って」
「だからって寄ってくんな」
「いつもくっついてるじゃん」
「お前が勝手にだろ」
「うん、俺が勝手に」
素直に頷いた颯は、いつもより静かだった。
「……ひいろ、まだだめ?」
「なにが」
「キス」
包み隠さず言われ、ひいろはのけぞった。
「な、いきなりなんだよ……!」
「いきなりじゃない。ずっと思ってた」
「そんなこと……っ」
「したいって、前にも言った」
「でもお前、俺のこと好きかはわかんねぇって……!」
「すればわかるって、それも言ったよね?」
「そ、れは……」
以前のように、逃げる隙が見つからない。
ひいろの手を颯が握り込んで、真剣な眼差しが向けられていて。染まった頬に、ひいろもつられる。心臓が早くて、痛くて、うるさい。
「していい?」
「う、……」
近づく颯の瞼が伏せられ、そっと唇が触れる。柔らかくて、あたたかくて、くらくらとする感触。甘くとろけるように。
唇を離した颯と至近距離で目が合って、……笑われた。
「ふっ」
「な、なに」
「ひいろ、うって言うから。嫌なのかと」
「そういうわけじゃ……」
「嫌だった?」
「……い、嫌じゃねぇよ……」
それどころか、むしろ――。
残る感触に恥ずかしさが戻ったひいろは、颯から目をそらした。
「お前こそ、どうなんだよ」
「うん。俺も、よくわかった」
途端に、颯がうつむいて胸を鷲掴んだ。
息を大きく吐き出して、確かめるように。
「ここがぎゅーってする。痛くて、苦しくて、でも嬉しい」
顔を上げると、颯はまっすぐに言葉にした。
「俺、ひいろのことが好きだ」
恋愛感情として、と付け加えて。
驚くひいろの頬に、はにかんで手を添える。
「もう一回していい?」
「う」
「また言った」
笑いながら、颯がまた触れる。
「ひいろも、早く俺のこと好きになって」
「お前、今のでそれはずるい……」
おでことおでこがくっつく距離で、颯はひいろを捕まえたまま。
「ひいろが素直になるの、待ってる」
三度目は、少し、長い触れ合いだった。
*
「進路、どうするの?」
急に気温を下げた秋は、あっという間に冬を連れてくる。
クラスの受験生モードが本格的になり、自主学習の時間が増え始めた頃。ぽつりと尋ねてきたのは、颯だった。
「俺は進学」
「近場?」
「実家から通う」
ひいろにとっては変わり映えがない進学。それでも颯に伝えられなかったのは、颯の進路希望がどこかわからなかったから。
聞いてきた颯は、参考書を片手に「そう」と一言。
「お前は?」
ひいろが聞き返して、颯は目を上げずに答える。
「俺も進学。一人暮らし」
その会話以降、受験に真面目に取り組もうということで颯はむやみに近づいてこなくなった。
自主学習はそれぞれの席で、休み時間には少し会話があるけれど。
颯からの接触がなくなると、途端にひいろの日常は静かに寂しくなっていった。
(進学、一人暮らしって)
それが、どのくらいの距離感なのか。
聞きたくて聞けないもどかしさが募るひいろは、実は受験どころじゃない。
(あいつはあいつなりに、決めてたんだな)
ひいろが転校してくる以前から、進路は決まっていたはずだ。ひいろにしたって決めていたのだから。
寂しさや悲しさが大きくなっているのは、友人として、それ以上の存在として、颯と近づきすぎたからだ。
(颯に、ちゃんと言わなきゃな……)
ひいろの、素直な気持ちを。
颯が向けてくれた想いに対する感謝と、ひいろが恋することを当たり前だと導いてくれたお礼を。
諦めていた真っ暗な人生に、改めて色をつけてくれた颯はひいろにとってかけがえのない存在で、何よりも大切な存在で。
好きだと、言葉でちゃんと伝えたい。
(離れることになっても)
後悔のないように、前を向いていけるように。
雪の降り始めた空を見上げたひいろは、そんな決意をしていた。
そして残りの短い時間は、あっという間に流れていく。
「卒業おめでとう、ひいろ」
「……お前も」
迎えた卒業式。
受験モードから解放されたクラスメイトがおおいに盛り上がり、別れに涙を流した。最後の集まりだからと話が長引いたのは、予想通りのこと。
ひいろよりも友人の多い颯がようやく解放されたのは、生徒がほとんど下校して学校内が静かになった頃だった。
中庭のベンチで颯を待っていたひいろは、隣に颯を座らせた。
「ごめんね、待たせて。ほっぺが真っ赤だ」
「別に、大丈夫」
ひいろの頬を包む颯の手が温い。
触れた感触とあたたかさに、久しぶりだと心地よさを感じながら、ひいろは颯の手にメモを握らせた。
「なに?」
「……連絡先」
「えっ? 連絡先?」
「……ん」
唐突なひいろに、颯は一瞬虚を突かれて止まった。
メモを開いて確認して、ふふっと笑い出す。
「ひいろ、不器用すぎない?」
「うるせぇ」
「これも嬉しいけど、俺はひいろの言葉で聞きたいよ」
「う……」
「ほら、頑張って」
頬をまた挟まれて、まっすぐに向き合わされる。
優しく微笑む颯の鼻も寒さで赤くなっていて、ひいろも、もっと赤くなる。
「……俺のこと、受け入れてくれて、嬉しかった」
「うん」
「認めてくれて、誰を好きになってもいいんだって言ってくれて、嬉しかった」
「うん」
「俺を好きだって言ってくれて、そばにいてくれて、嬉しかった」
「うん」
声が震える。
上がる熱は恥ずかしさなのか、涙のせいなのか。歪んでいく視界で、颯はずっと穏やかだ。
「はやて……」
「うん」
「俺、お前のこと……」
「うん」
「す、好きになっちゃったんだ……」
声が、震えて消える。
言い切ったひいろを、颯がぎゅっと抱きしめた。「うん、うん」と噛み締めて、颯の息も震える。
「俺も好きだよ、ひいろ」
「好き、はやて。ごめん、好き」
「謝ることなんてないよ。すげぇ嬉しい」
「はやて、……」
堰を越えたひいろの涙と想いは、止まらない。
腕が解かれて、見つめ合って。
冷たい唇同士が触れると、またたく間に熱くなる。
颯の瞳にも涙がにじんでいて、その目が嬉しそうに細められた。
「ふふ。しょっぱい」
それがどちらのものなのか、もう一度重ねて、二人で笑い合った。
「ねぇひいろ。俺、一人暮らしするからさ、遊びに来てよ」
「俺が行ける距離なら」
「近いよ。電車ですぐ」
「……お前、一人暮らしって」
「ただ実家を出るだけだよ」
あっけらかんと話す颯に、ひいろの眉が険しく寄せられる。どんな想いで気持ちを伝えたのかと、葛藤が表情にありありと出てしまって。
「えっ……もしかして、離れる気でこれくれたの!?」
颯にバレて、また笑われる。
ぎゅーっと力強く抱き寄せられるのは、いつも通りのじゃれ合いのようで。
「離れないよ、俺」
けれど、いつも通りとは違う。
「好きだよ、ひいろ」
手を繋いで、肩を並べて。
二人で歩いていくのは、雨に暮れない道。
「俺も、颯が好き」
まっすぐに手を引いてくれる、あたたかな陽の射す未来を。