外は春の訪れを感じさせない、それこそ冬の入口みたいな肌に沁みる冷たさだった。冷蔵庫の中に似ている。それはなんだか初めて付き合った彼氏とコンビニへ行った夜と似ていて、ふわりと急に思い出してしまう。十八歳だった。私はとっくに進路が決まっていて、彼は受験本番で、励まし合っていつの間にか結ばれていたあの頃。別れは結構早くて、翌年五月には自然消滅していた。
「あれ以来、本気で人を好きになるってことがよく分かんなくなったんだよなぁ」
まだ子供みたいな年齢で全力の恋をしていた気になっていたけれど、それからの人生も長くて、だんだん新しい恋が焼き回しの日常になっていき──
「最終的には都合いい女になっちまったと」
デデンカが私の片手にある酒をチラ見しながら無情に締めくくる。
「別に男いなくても生きられるくせに、なんで男作るんだ?」
「さぁ?」
私は適当に返事した。なんでって、考えたことがない。結婚に憧れがあるわけでもないのに、他人が結婚したら「私も早く結婚したーい」って言うのと同じで、きっと全体的に軽く考えている。
「こういうのって理屈じゃないじゃん。彼氏いたら楽しいよ。生活にハリが出る」
そう言いながら私はふと笑いを止めた。
なるほど。私はこのだらしない自分を後ろめたく思っているのかもしれない。
「なんだっけなぁ……彼氏から言われたんだけど、お前といると俺がダメになるんだとさ」
「ふうん」
「でも私は彼がいないとダメになるのさ」
「相容れねぇな」
それな。デデンカの的確な相づちは愉快になれる。
「これも理屈じゃないのよね。まぁ、そのうち彼氏とっかえひっかえも飽きるっしょ。親も別に結婚急かしてるわけじゃないし。お姉ちゃんが子供作りすぎてそっちで手一杯だし」
腕を伸ばしながら言うと、デデンカは横で指を広げて何かを数えていた。しかし首をひねると、私を見て訊く。
「今何人目だよ」
「甥っ子三人、姪っ子四人。やば、もうすぐ野球チーム作れる」
「少子化の救世主だな……」
途方に暮れた目で言うデデンカ。子供が苦手なくせに姉が出産したらそのたびにささやかなお祝いの品をくれるので、今回も何か考えているに違いない。普段は女子からも世界からも離脱している彼女だが、こういうところだけは律儀というか義理堅いというか。
静かな住宅街に入る。深夜二時。車も通らない黒一色の世界。今夜は月が細いので、雲や光がないどっぷりと濃いリッチブラックだった。
「ところで、なんでそんなにうちのお姉ちゃんを慕ってるの?」
気になって訊いてみると、デデンカは「ふむ」ともったいぶって唸った。口を開く。
「〝デデンカ〟を生み出した人だから」
「ん?そのあだ名って私がつけたよね?『姫華って名前がかわいすぎて自分に似合わない~』ってびーびー泣いてたじゃん」
「覚えがないな。しかし、小一のさーちゃんが『殿下』なんて言葉を知るわけがないし、さーちゃんもそう言ってたが」
デデンカの記憶力の方がはるかに上だから、私は「ふうん、そうなんだ」とすぐに納得した。
確かに……言われてみると……殿下からの派生だってのは覚えてるけど……。
まぁいいか。お姉ちゃんもきっと覚えてないし。
ちなみに私のあだ名である「さーちゃん」は幼馴染界隈では通った名であるが、なぜ「さーちゃん」かというと「みさおちゃん」から「みさーちゃん」さらに「さーちゃん」と略されていったからである。この変遷に私は謎の感慨深さを味わった。
マツキタまでの道は当時の通学路とは違い、新鮮な足取りで行けた。昔は公園だった場所が大きなマンションになっている程度には変化に乏しい町である。マンションの向こう側に年季の入った小さな商店があり、一本道を挟んだ向こうに小学校がある。夜の学校はひんやりとしていて、大人な私たちを歓迎するような空気ではなかった。
シャッターの閉まった商店の軒先にさらされたまんまのガチャポンが二台ちょこんと佇む。
「おぉ、不用心なことだねぇ」
言葉とは裏腹に私の声は弾む。横でデデンカが財布を出す。
「さーちゃん、百円玉何枚ある?」
「まさかあんた、ここまできて百円持ってないの!?」
思わず大声で言うも、すぐに口を塞ぐ。あっぶね。深夜なの忘れてた。
「いや、あるにはある。でも見てみ、これ」
デデンカはすっと指を伸ばし、ガチャポンの金額を示す。一回三百円。
「たっか!」
今のガチャポン、本当に高い。私はゲンナリとため息をついて言った。
「あー、やだやだ。税金払ってるのにあんまりじゃない?」
「あぁ、本当にそのとおり……納税するたびにムカつくぜ」
「世知辛い世の中だよな……」
私は酒の缶を脇で固定し、ショルダーバッグから財布を出した。普段ほとんどキャッシュレスだから所持金が不安になる。ひぃ、ふぅ、みぃ……うん。ワンチャンス分しかない!
「えぇー、このしま江さん、超かわいくない?見て御覧なさいよあなた、ふっくらとしたこのご尊顔を。やだ、欲しすぎる」
ガチャポンの内容を示す写真を見る。ガサガサでぼやけたプラスチック容器に貼り付けられた紙にはしま江さんをはじめとする他のキャラクターがいくつかあった。サラリーマン風のパンダ、ぱん田さん。ギャルなシマウマのしま宇ちゃん。謎のパンクロック、バクの爆。でもやっぱりかわいいのは、丸メガネをかけたおばちゃん風シマエナガなのだ。
「しくったな、私もワンチャンスなんだよなぁ……あ、ちょい待ち。千円替えてくる」
そう言って俄然やる気なデデンカは、マンションに常設されている自動販売機まで向かった。私はこのワンチャンスに賭けるしかなく、三百円を握って願いを込める。しま江、しま江、しま江~~~ッ!いざ!尋常に勝負!
三百円を投入し、一息入れるとガチャを回す。三回ひねれば、ガコンと丸いプラスチック容器に入った商品が出てきた。
しま江か……?そう思ったが、スーツが見えたので開けるまでもない。
「──さーちゃんッ」
「なんだよ、デデンカ……私は今それどころじゃな」
「ネギ……ッ、がッ、いたッ」
小声すぎて何言ってる分からない。しかしデデンカの必死な形相は実に小学生以来ぶりに見るので愉快になる。
「何よ、ネギ?」
「ネギマ!」
「ネギマじゃなくてネギシだろ……」
と言いかけて時を止める。そんな私を引っ張るデデンカ。仕方ない。ついていくとしよう。
「で、なんでネギシがいるって分かるの。つーか、よく分かったね、あんた」
こんな夜更けの暗がりで当時の爽やかイケメンをよくもまぁ一発で分かるものだ。私はもう顔がうろ覚えだよ。
呆れながら移動し、なぜか自動販売機の影に隠れる。
「んで、何よ」
「あれ」
デデンカがそっと指さす方向から、男と女が連れ添って歩いてくる。異様に仲睦まじく、女の方は酔ってるのかトロ甘い声で笑っていた。
「あれ、まさかカトウユウリか?」
目を細めて訊くもすぐに「シッ」と口を塞がれる。だんだん二人の人相や会話が鮮明になる頃、私はデデンカが忍ぶ理由が分かった。
かつての爽やかイケメンはその面影をひっそり残していたが、横の女はカトウユウリの面影が一切ない、いやむしろまったくの別人と言えた。カトウユウリは中学まで一緒だったのですっぴん(ビフォー)メイク後(アフター)の姿がなんとなく分かる。そもそもカトウユウリは丸顔だったから、あの面長のワンレン女は別人だ。整形してない限り。
「タイトさん、奥さん大丈夫?」
「え?うん、大丈夫だよ。もう寝てるし。今日は泊まりだって言ってあるから」
そんな会話を私たちが潜む自動販売機の前で行い、この大きなマンションに入っていった。私は唖然としながらこっそりデデンカに耳打ちした。
「これ、どっちの家だと思う?」
「もちろん、女の家だろ」
即答のデデンカ。まぁそうだよな……今の会話に偽りがなければ。いや偽りだらけじゃん。
二人はイチャイチャしながらエントランスへ入り、エレベーターに乗っていった。
「うーん……マジかよ。かつての推しが既婚でさらに浮気クズ野郎に成長してるとは……」
私は頭を抱えた。この世にはクズしかいないのか、と嘆きたくなるほどあっちこっちで浮気が頻発している。カトウユウリには同情したいが、まぁこっちは昔の罪状があるからな……デデンカを「ブス」と言って何度も泣かせたぶりっ子ブスである。推しの変貌に複雑な気分はあれど、ざまぁとは思う。
一方、デデンカはどうもショックが強いようだった。
「くっそ……なんだろ、なんかフラれた気分」
「なんであんたが一番ショック受けてんの……」
「いや、私のネイサンはあんなじゃないから……」
なるほど。自分の周囲にいたやつをモデルにし、美化させて小説を書いているもんだから、今の衝撃シーンに解釈違いを起こして処理できないんだな。
「もう私らには、しま江しかいない」
デデンカはふらりと歩き、マツキタへ戻っていく。
「残念なお知らせだけど私はすでに賭けに負けた」
意気込むデデンカには申し訳ないが、私はさっそく開けたパン田を見せた。デデンカの表情がしなびていく。
「なんで先にやっちゃうんだよ、お前はよぉ……」
ぶつくさ文句を言いながらもガチャにコインを入れ、回すデデンカ。バコッと音を鳴らし、出てきたのは──パン田だった。
「かぶってんじゃん!」
私は頭を抱えた。トレードもできないとは。
「いや待て、両替したんでしょ?だったらまだ望みはある」
希望を託すように言うもデデンカは肩を落とし、両替していない千円札を見せてきた。
「見ろ、柴三郎だった」
「それが?」
「自販機、まだ新札使えねぇんだわ」
なんてオチだ。
デデンカのしょぼんとした目がパン田に落ちる。私も自分のパン田を見る。容器に閉じ込められ、丸まった背中のパン田はなんだか今の私たちの気持ちをそのまま代弁するかのようだった。
それがやけに笑えてしまい、私はずっと肩を震わせる。デデンカもしかめた顔をだんだん緩ませ「萎えた萎えた」と笑う。
帰路は行きより、ほんのりとにぎやかだった。