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翌朝、目が覚めると、窓の外では風が森を揺らしていた。
昨日とは打って変わってどんよりとした灰色の雲に覆われている。
リビングへ下りると、エプロン姿の未森が朝食を用意していた。
アンジュの姿は見えない。
「ごめんなさいね。朝はいつも遅いのよ」
「いえ、昨日たくさんお話しさせていただきましたから」
オレンジ色に縁取られたお皿の上には、トーストとポテトサラダ、ふわふわのスクランブルエッグ、その隣にはソーセージとカリカリに焼いたベーコンが並び、搾りたてのオレンジジュースが添えられている。
アンジュのイラストで見た朝食の風景だ。
向かい合ってテーブルにつく。
「いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
ホイップされたバターがトーストの上を滑っていく。
仕事のない日の朝もふだんはこんなふうにのんびりと朝食を楽しむことはなかった。
「いつもこういった朝食を召し上がってるんですか」
「まあ、お客様に出すから、ついでに自分の分も作ってるだけね」
残された時間を慈しむように、二人は朝食を静かに味わっていた。
朝食後に美季は二階のギャラリールームでアンジュの作品を眺めた。
どの絵も同じ価格が提示されている。
クレジットカードで決済して、美季は一枚購入した。
給料の手取りの半額近いが、払えない金額ではないし、額装と送料込みの値段としてはむしろ安いと思うくらいだった。
もちろん、イラストそのものの魅力に惹かれたからで、余裕があれば何枚でも買いたかった。
今までも好きだったけど、ますます沼にはまっていきそうな予感がする。
――貯金しなくちゃ。
チェックアウトを済ませ外に出ると、駐車場の車の横に昨日の黒猫がいた。
美季はしゃがんで手を差し伸べた。
こわがることなく撫でさせてくれる。
「お見送りに来てくれたの?」
――ナーオ。
「ありがとう。また来るからね」
まるで言葉が分かっているかのようにくるりと背中を向け、尻尾の先を振って去っていく。
「賢いですね」
「アンジュには懐かないんですよ」と、未森がクスクス笑う。
「え、そうなんですか」
「『シャーッ!』って牙を剥き出しにして威嚇するから、アンジュもムキになって『ガオ』って虎の真似するの」
「ああ、それじゃあ、嫌われちゃいますよね」
アンジュが寝ているであろうペンションの三階を見上げながら美季は車に乗り込んだ。
四輪駆動のSUVがゆっくりと動き出す。
空を見上げて美季がつぶやいた。
「昨日写真を撮っておいて良かったです」
「たまたまいい日に当たって何よりでしたね」
森の小道を下って国道に出る。
駅まではあっという間に感じられた。
未森が人気のない駅前通りにある狭い間口のお店を指した。
「あれがアンジュのお気に入りのラーメン屋さん」
「ああ、昨日冗談で言ってたところですか」
「うちにお客さんが来ないときに食べに来るんだけど、定休日と重なっちゃうとアンジュががっかりするのよ。子供みたいでしょ」
「そういうときは他のお店に行くんですか?」
「ううん、うちで二人ですんごく手抜きの御飯食べるの。余り物の在庫一掃」
――未森が作るのなら、きっとそれだっておいしいんだろう。
そう思ったときにはもう駐車場に着いていた。
車を降りて、改札口の脇まで来て向かい合う。
「お世話になりました」と、バッグを抱えながら背中が見えるほど美季が頭を下げた。
「またお越しください。いつでもお待ちしております」
「アンジュさんにもよろしくお伝えください」
「はい。サイン入りで絵も送りますから」
「楽しみにしてます」
上り電車到着のアナウンスが流れる。
美季は未森に手を振って改札を通り、ホームへ去っていった。
――あら?
重く垂れ込めた空からぽつりと雨が降ってきた。
手をかざして、短い秋が駆け抜けていくような冷たい雨をよけながら車に駆け込んだ未森はゆっくりと発進させて平日昼の駅前通りを戻っていく。
雨に打たれたミルクポットや乳牛のオブジェを見上げる観光客の姿はどこにもなかった。