マンションのエントランスを出ると、むわっと蒸した風に包まれる。真新しい住宅が立ち並ぶ路地には歩行者の姿はなく、住宅から漏れる灯りだけが人の気配を示していた。

 隣には片岡さんがいる。お互い言葉を交わすことなく、駅までの道のりを歩いていた。

 結局、キスはされなかった。あれは俺の勘違いだったのか? そうだとしたら、めちゃくちゃ恥ずかしい。さっきのは、どう考えてもキス待ちの顔だった。

 耳元に触れた吐息を思い出すと、カアァと顔が熱くなる。腰を砕くような低い声まで思い出すと、おかしな気分になった。耳元で囁かれただけで興奮してしまうなんて、俺は変態なのかもしれない。脳内でのたうち回っていると、不意に片岡さんから尋ねられた。

「流星、手繋いでもいい?」

 思いがけない問いかけに、ビクンと肩を跳ね上がらせる。片岡さんの表情を伺うも、前方を向いたままで目を合わせてはくれなかった。

「嫌なら断ってくれてもいいんだけど……」

 予防線を引くように付け足される。誰かと手を繋ぐなんて小学校以来だから身構えてしまう。だけど、決して嫌ではなかった。

「どうぞ」

 俯いたまま、横に手を伸ばす。すると、安堵したように息をつく音が聞こえた。

「商店街に出る頃には離すから」

 そう約束されると、包み込まれるように手を握られた。互いの指を絡ませる恋人繋ぎではなく、握手をするような繋ぎ方だ。それでも触れ合った場所から伝わる温もりが心地よくて、胸の奥をくすぐられた。手のひらは少し湿っている。どちらの汗なのかは、よく分からなかった。

「気持ち悪くない?」

 一瞬目が合ったものの、すぐに逸らされてしまう。そこでようやく気付いた。

 片岡さんは、きっと不安なんだ。本当に受け入れてもらえるのか分からないから、臆病になっているのだろう。そんな不安は、今すぐ晴らしてあげたい。

「全然」

 嬉しさを滲ませながら微笑んで見せる。嫌ではないと証明するように、片岡さんの手をぎゅっと握り返した。安心してもらえただろうか? 表情を伺っていると、片岡さんは恥ずかしそうに頬を緩めた。

 しばらくはお互いの体温を確かめるように手を繋いでいたが、そんな時間も長くは続かない。もうすぐ駅前の商店街に出てしまう。人目の付くところでは、手を離さないといけない。名残惜しさを感じていると、繋がれていた手に力が籠もった。

「ねえ、流星。もう一度、ちゃんと言わせて」
「はい」

 顔を上げると、視線が絡み合う。次の瞬間、蕩けるような笑顔を向けられた。

「好きだよ」

 ああ、どうしよう。熱に浮かされて、どんどん甘く溶けていく。原型を留めずドロドロになってしまいそうだ。カップの底で溶けきってしまったとしても、片岡さんは全部飲み干してくれるだろうか?

「嬉しいです」

 辺りが暗くて良かった。きっと今の俺は、どうしようもなく腑抜けた表情をしているに違いない。

 もういっそ、片岡さんも溶けてしまえばいい。小さなカップで二つの味が溶け出して、混ざり合ってしまったら……なんて考えている俺は、やっぱり変態なんだと思う。

 商店街に出ると、繋いだ手を離される。名残惜しさ感じながらも、いつもと同じ距離感で歩いた。すると片岡さんから爽やかな笑顔を向けられる。

「流星、次のバイト代が入ったら、どっか遊びに行こっか」

 思いがけないお誘いに舞い上がる。片岡さんと遊びに行く。もちろんOKだ!

「行きます! 行きたいです!」

 食い気味に返事をすると、片岡さんは吹き出すように笑った。

「どっか行きたいところある?」
「うーん、そうですねぇ……。未来科学館とか?」
「おぉ、意外なところがきたね」
「もっと普通のところが良かったですか? 映画とかカラオケとか」
「いや、いいよ。流星の行きたいところに行こう」

 片岡さんは、心底楽しそうに笑う。その笑顔を見ただけで、バイト代の支給日が待ち遠しくなった。片岡さんと出掛けるためにも、頑張ってバイトをしよう。

「よっしゃ! 頑張るぞぉ!」
「うぉっ!? 急にどうした!?」

 突然叫び出したせいで、片岡さんからギョッと見つめられる。いかん、いかん。勝手に盛り上がってしまった。落ち着かせるためにも深呼吸をしていると、またしても片岡さんに笑われた。

「やっぱり、流星って面白い」

 そんな風に言ってくれるのは、片岡さんくらいだ。学校では怖がられてばかりだけど、片岡さんには受け入れてもらっている。居場所があることが、こんなにも幸せなことだとは思わなかった。

 まだ始まったばかりのぎこちない関係だけど、この先も片岡さんと笑い合いたいと心の底から願っていた。