*
「あはは、いきなりごめんねー?」
我に返った雪が、緊張感なく頭をかきながら笑顔で謝罪している。そしてなぜか二つの椅子を用意して、塁と向かい合い座っている状況。
発端は塁の横顔を見た雪が、急に興奮しながら褒め称えてきたこと。
「とりあえず話そうか」と雪に言われて、塁も大人しく椅子に腰を下ろしたわけなのだが。一体これはなんの時間なんだ?という気分が拭えなかった。
「びっくりしたよねー? 僕、たまにビビッときたものにすぐ飛びつく性分みたいで……」
「言ってる意味が、よくわかんねーんですけど」
返事をする塁もまだまだ動揺していた。
とりあえず目の前の先輩は、ビビッときたものに飛びつくらしいと脳内に叩き込むので精一杯。
塁の抱いている疑問を察した雪が、包み隠さずに話しはじめた。
「僕、横顔フェチなんだ」
「……横……フェ?」
雪は頬を微かに赤らめて、手元をもじもじと動かしながら恥じらっている。ただ塁には馴染みのない言葉で、まだよくわからなかった。
「想像でデッサンしたりするんだけど、なかなかうまく描けなくて」
「……はあ、で?」
「理想の横顔を求めて早六年……」
しみじみと自分の歴史を振り返りながら語る雪は、涙が滲んでいるような滲んでいないような。
逆算すると中学一年から横顔フェチらしい。そんな事実が明かされて、塁がなんとも言えない表情をする。
何の話を聞かされているのだろうと、心が無になりかけたその時。雪は座っていた椅子を後ろに倒すくらいに勢いよく立ち上がって、塁の顔を両手で掴んだ。
「たった今! 理想の横顔を見つけたんだよ!」
言いながら、掴んでいた塁の顔をグギッと横向きにする。その乱暴すぎる行動に、塁は危うく首筋を痛めるところだった。
「いきなり何すん――!!」
キレかかった塁の言葉を遮り、雪が独自の横顔分析をひとつひとつ声に出していく。
「額から眉間にかけての真っ直ぐな線! 富士山のように高く美しい鼻筋と尖った鼻頭! 上下のバランスが絶妙の口唇!」
雪の息が頬にかかりそうで、今すぐ突き飛ばしてやりたくなる。そんな塁が躊躇してしまう理由は、あまりに雪が横顔を褒めてくるせい。恥ずかしすぎて、塁の体がいうことをきかなくなってしまった。
全校生徒から恐れられている塁がガチガチに固まっているとも知らず、雪の癖のある分析は続けられる。
「このシャープな顎ライン! からの骨張ったフェイスラインも完璧すぎ! 立派な胸鎖乳突筋に男性的な喉仏も最高!」
優等生で優しい雰囲気からかけ離れた、多弁で興奮気味の雪が目をギンギンにしている。
美術的観点であることはわかっていても、ここまで言われるとむず痒くて逃げ出したい。
そう思っていた塁に、ついに雪が本心を口にした。
「塁くんの横顔を描かせてほしい!」
横を向かされたままの塁の耳に、雪の願いがダイレクトに入ってくる。
何言ってんだこいつ。相手は先輩だけど、それが塁の脳裏に浮かんだ最初の言葉だった。
ただ誰かにこんなに求められたことがなくて、胸の奥で感じたことのない衝撃を受ける。
昼寝をしたくてやってきた美術室で、こんな展開になるなんて誰が予想できただろう。
複雑な感情を抱きながら、塁は顔を掴まれている雪の手を払った。
そして吊り上がった目をさらに鋭く細めて、見下ろしてくる雪に冷たく接する。
「……それ、俺に何かメリットあんの?」
美術室内にピリッとした空気が流れた。
別に断固拒否しているわけではないけれど、初めて会った先輩の言うことをホイホイ受け入れる理由もない。
その返答によっては、すぐにここを立ち去ろう。塁がそう思いながら雪を睨む。
すると自身の顎に手を添えて、雪は天井を見ながら考えはじめた。
「たしかに、描かせてもらうだけじゃ僕の欲望が満たされるだけだよね〜」
「欲望っていうな」
背筋をゾワゾワさせて塁が指摘するも、雪は無邪気な笑顔で反論してきた。
「これは紛れもない僕の欲望だよ! 塁くんの美しい横顔を心の底から描きたいって思ってるんだから」
「あーあーやめろ、俺の横顔を美しいとか言うなっ」
ついに耐え切れなくなって、塁はバレない程度に頬を赤ながら両耳を耳を塞ぐ。
恥ずかしげもなく、さらっと言ってしまう雪が本当に理解できない。
だけど自分の気持ちを包み隠さず他人に言えてしまうところは、ほんの少しだけ羨ましいと思った。
変な異名だけが一人歩きしていても、塁は否定できないまま今日までを過ごしてきたから。
すると、雪はふと真面目な表情で丁寧に問いかけた。
「じゃあ塁くんは、僕に何かしてほしいことある?」
塁の眉がぴくりと反応する。出会ったばかりの雪に何かしてほしいことなんて、すぐに出てくるはずがない。
信用も信頼もしていない他人に、叶えてもらいたい願いなんて。
しかし雪からは、どうしても塁の横顔を描きたいという意志がひしひしと伝わってくる。
「僕は塁くんの横顔を描きたい。塁くんは……?」
今度は少し大人びた微笑みで、雪が優しく問いかけてきた。
塁の回答を聞き出したくて、綺麗な黒目が塁を捉えて逃がさない。
「……だったら、俺にまとわりつく変な異名をなんとかできんの?」
そこまで言うならやってみろという投げやりな態度で、塁も条件を提示した。ただし絶対にできないような条件。
塁の異名は、入学当時から広まっていたもの。
かれこれ一年半もその異名に付き合わされている塁は、今更それを覆すなんて無理だと決めつけていた。
「知ってんだろ? 俺が陰で何言われてるか」
「うん……でも僕はそういうの信じてないけど」
「そんなのどっちでもいい。できんの?」
塁は威圧的な視線で雪を怯ませ、諦めさせる作戦をとってみた。
変な異名も、本当は真実なのではと疑ってしまうような目つき。雪を“討ち取る”気で睨んでみる。
そんな類を前に、雪は怯むどころか楽しみが倍増したような顔をした。そして一方的に塁の手を取ってぶんぶんと振った。
「わかった! 交渉成立だ! 引き受けてくれてありがとう!」
笑顔の雪は上機嫌のまま、自分が倒してしまった椅子をイーゼル前に設置する。
そこに腰掛けて、自前のデッサン用の鉛筆を鞄から取り出した。
早速探し求めていた横顔を描こうと構えるので、塁は慌てて待ったをかける。
「は? まだ結果が出てないのに描かせるかっ」
「え〜口約束じゃダメってこと?」
「描かせた後に逃げられるかもしれねーだろ」
「もう疑り深いな塁くんは。わかったよ」
ため息を漏らして、雪が目の前の画用紙に書いたのは、絵ではなく文字。
塁がそれを覗き込むと、見出しとなる箇所に大きな文字で“契約書”と書かれていた。
さらにその内容も、綺麗な字で箇条書きされている。
一、丹野雪は、三崎塁の変な異名のイメージを払拭します。
二、三崎塁は、丹野雪に横顔を描かせることを許可します。
「お、おう……お手並み拝見だな」
「僕、約束は守るタイプだから。見ててよね」
ささっとクリップを外して、画用紙でできた契約書を塁に渡した。
そうして満足げな笑みを浮かべる雪に、塁は返す言葉が見つからない。
どこからそんな自信が溢れているのか見当もつかず、未だ疑いの目をかける。
けれど、そうまでして雪が自分の横顔に価値を見出しているという事実が、塁の抵抗力を無にしていった。
「……十六時から三者面談なんだよ。それまでだからな!」
渡された契約書をくるくると丸めて、塁は再度椅子に座り直した。
その行動をオッケーと捉えた雪が、両手をあげて喜びを表現する。
「やった! ありがとう塁くん!」
(あーもうなんなんだよこの先輩……)
今までに接したことのないタイプと絡み方に、調子を狂わされっぱなしの塁が髪をくしゃっと掴む。
ただ、雪の喜ぶ姿を見るのは不思議と悪い気はしない。
だから尚更厄介だと、塁は思っていた。