結局、会社を出たのは七時を過ぎてからだった。
不備を指摘した社員たちからは「すみません」のひと言があったりなかったりした。せめて謝れ、と内心でこぼしながら、表面上は笑顔をつくって、なんとか処理を終えてきた。
いつもよりも空いている電車に乗って、最寄りの駅につくのは七時四十五分。どうにも疲れ果てていて、肩にかけた鞄が重たく感じた。
ご飯、買わないと。
スーパーに向かうと、店内はハロウィンの装飾がされていてにぎやかだった。
そうだよね、十月だからそんな時期だよね。
学生時代ならまだしも、社会人になってから季節のイベントはほとんど無視するようになってしまった。ハロウィンだからってお菓子の送り合いをするような会社じゃないし、そのあとくるクリスマスも、一緒に過ごす恋人は残念ながらいない。
ちょっと寂しい。
オレンジと黒のひときわ華やかな一角は、ハロウィン期間限定菓子を並べたコーナーらしかったけど、そこに立ち寄る気分でもなくて、お惣菜のコーナーに直行する。
半額シールの貼られたお惣菜は、なんだかもう見慣れてしまったものばかりだった。コロッケ、焼き鳥、からあげ……、端から端までを見渡して、ふう、とため息をつく。これといって心惹かれるものがない。
もういっそ、家にあるもので済ませてしまおうか。ご飯と卵はあるはずだから、チャーハンくらいなら、ぱぱっとつくれるはずだ。あ、納豆もあったっけ。納豆チャーハンなら、栄養あるものを食べた感が得られそう。
よし、それでいこう。
スーパーのカゴには缶チューハイを四本だけ入れて、レジに通した。
夜道をアパートに向けて歩きながら、野上係長と佐川くんはいまごろ家族でご飯を食べているのかなあ、なんて考える。わたしのおかげで守られた、ふたつの家族の団らん。うんうん、いいことをした。そう自分に言い聞かせながら、やっぱりちょっと視線は地面を這ってしまった。
アパートにたどり着いたのは八時半を回ったころだ。ああ、疲れた。
玄関をくぐった瞬間、持っていた鞄の重さが急に増した気がして、どすんと床におろした。きゅうくつなパンプスを脱ぎ捨てると足のつま先が痛む。このパンプス、ちょっと小さいんだよなあ。
はああ、と天井を見上げる。真っ白な天井。
そんなことしていたって、なんの意味もないんだけど。
「ただいまー」
へろへろとした足どりでリビングに向かうと、篠さんはダイニングテーブル横の「くろさんと戯れスペース」で、クッションにもたれていた。もうお風呂も済ませたみたいで、パジャマ姿の優雅な夜タイムに入っている。片手でくろさんののど元をくすぐりながら、こっちを向いた。
「おかえりー。遅かったね。やっぱ残業?」
心配する様子も、待っていた様子もない。予想どおりかつ、当然の態度だった。
わたしも鞄を放り投げると、篠さんのとなりのクッションに倒れ込む。くつろいでいたくろさんが飛びのくのが、視界のはしに見えた。ごめん。
「どうしたのミキ」
「なんか疲れたー」
篠さんは一瞬驚いた顔になったけど、すぐ苦笑を浮かべる。
「なにそれ。パワハラでもされた?」
「いやいや、そういうのは全然。だけど妙に疲れてしまったのです」
「さようですか」
ぐでんとうつ伏せになるわたしの背中に、地味な重みが加わった。あたたかいそれは、くろさんらしい。わたしの背中で丸まっているみたいだ。さっき驚かせてしまったことに対する罰のつもりか。いまのわたしには猫一匹の重さですら、けっこうなダメージになるから、勘弁願いたい。うう、とうめくと、篠さんが「疲れすぎでしょ」とまた笑ってきた。
はあ、どうしよう。
背中は重いけど、くろさんをどかすのは申し訳ない気がする。というかもう動きたくない。でも手を洗わないと。ごはんつくらなきゃだし。あと水筒洗って。お風呂入って。洗濯して。
やることが、どんどんどん、とさらにわたしの背中にのしかかる。
「だめだー、面倒くさい」
結局わたしは、やらなきゃいけないことの数だけ、もっとクッションにのめり込む結果になった。これ以上一歩も動きたくない。電池切れだ。
なあ、とくろさんが鳴いている。うん、いいよ、わたしはくろさんのカーペットでございます。目を閉じてじっとしていると、となりで篠さんが立ち上がった。
「グラタンでいいなら、食べる?」
そんなことを言われた。
「……え?」
聞き間違いかと思って、わたしは顔を上げる。見上げた篠さんは、呆れたように肩をすくめた。
「今日と明日食べようと思って二食分つくったんだけど。まあ、仕方ないから、ミキにゆずってあげるわ」
「え。……え? いいの?」
まじまじと篠さんを見つめてしまった。だってわたしたちは、自分のことは自分でやる、がルールなのに。呆然としているわたしを置いて、篠さんはキッチンに向かう。
「今日だけ特別ね。あ、でも、明日のわたしの夜ご飯はミキがつくってよ」
不備を指摘した社員たちからは「すみません」のひと言があったりなかったりした。せめて謝れ、と内心でこぼしながら、表面上は笑顔をつくって、なんとか処理を終えてきた。
いつもよりも空いている電車に乗って、最寄りの駅につくのは七時四十五分。どうにも疲れ果てていて、肩にかけた鞄が重たく感じた。
ご飯、買わないと。
スーパーに向かうと、店内はハロウィンの装飾がされていてにぎやかだった。
そうだよね、十月だからそんな時期だよね。
学生時代ならまだしも、社会人になってから季節のイベントはほとんど無視するようになってしまった。ハロウィンだからってお菓子の送り合いをするような会社じゃないし、そのあとくるクリスマスも、一緒に過ごす恋人は残念ながらいない。
ちょっと寂しい。
オレンジと黒のひときわ華やかな一角は、ハロウィン期間限定菓子を並べたコーナーらしかったけど、そこに立ち寄る気分でもなくて、お惣菜のコーナーに直行する。
半額シールの貼られたお惣菜は、なんだかもう見慣れてしまったものばかりだった。コロッケ、焼き鳥、からあげ……、端から端までを見渡して、ふう、とため息をつく。これといって心惹かれるものがない。
もういっそ、家にあるもので済ませてしまおうか。ご飯と卵はあるはずだから、チャーハンくらいなら、ぱぱっとつくれるはずだ。あ、納豆もあったっけ。納豆チャーハンなら、栄養あるものを食べた感が得られそう。
よし、それでいこう。
スーパーのカゴには缶チューハイを四本だけ入れて、レジに通した。
夜道をアパートに向けて歩きながら、野上係長と佐川くんはいまごろ家族でご飯を食べているのかなあ、なんて考える。わたしのおかげで守られた、ふたつの家族の団らん。うんうん、いいことをした。そう自分に言い聞かせながら、やっぱりちょっと視線は地面を這ってしまった。
アパートにたどり着いたのは八時半を回ったころだ。ああ、疲れた。
玄関をくぐった瞬間、持っていた鞄の重さが急に増した気がして、どすんと床におろした。きゅうくつなパンプスを脱ぎ捨てると足のつま先が痛む。このパンプス、ちょっと小さいんだよなあ。
はああ、と天井を見上げる。真っ白な天井。
そんなことしていたって、なんの意味もないんだけど。
「ただいまー」
へろへろとした足どりでリビングに向かうと、篠さんはダイニングテーブル横の「くろさんと戯れスペース」で、クッションにもたれていた。もうお風呂も済ませたみたいで、パジャマ姿の優雅な夜タイムに入っている。片手でくろさんののど元をくすぐりながら、こっちを向いた。
「おかえりー。遅かったね。やっぱ残業?」
心配する様子も、待っていた様子もない。予想どおりかつ、当然の態度だった。
わたしも鞄を放り投げると、篠さんのとなりのクッションに倒れ込む。くつろいでいたくろさんが飛びのくのが、視界のはしに見えた。ごめん。
「どうしたのミキ」
「なんか疲れたー」
篠さんは一瞬驚いた顔になったけど、すぐ苦笑を浮かべる。
「なにそれ。パワハラでもされた?」
「いやいや、そういうのは全然。だけど妙に疲れてしまったのです」
「さようですか」
ぐでんとうつ伏せになるわたしの背中に、地味な重みが加わった。あたたかいそれは、くろさんらしい。わたしの背中で丸まっているみたいだ。さっき驚かせてしまったことに対する罰のつもりか。いまのわたしには猫一匹の重さですら、けっこうなダメージになるから、勘弁願いたい。うう、とうめくと、篠さんが「疲れすぎでしょ」とまた笑ってきた。
はあ、どうしよう。
背中は重いけど、くろさんをどかすのは申し訳ない気がする。というかもう動きたくない。でも手を洗わないと。ごはんつくらなきゃだし。あと水筒洗って。お風呂入って。洗濯して。
やることが、どんどんどん、とさらにわたしの背中にのしかかる。
「だめだー、面倒くさい」
結局わたしは、やらなきゃいけないことの数だけ、もっとクッションにのめり込む結果になった。これ以上一歩も動きたくない。電池切れだ。
なあ、とくろさんが鳴いている。うん、いいよ、わたしはくろさんのカーペットでございます。目を閉じてじっとしていると、となりで篠さんが立ち上がった。
「グラタンでいいなら、食べる?」
そんなことを言われた。
「……え?」
聞き間違いかと思って、わたしは顔を上げる。見上げた篠さんは、呆れたように肩をすくめた。
「今日と明日食べようと思って二食分つくったんだけど。まあ、仕方ないから、ミキにゆずってあげるわ」
「え。……え? いいの?」
まじまじと篠さんを見つめてしまった。だってわたしたちは、自分のことは自分でやる、がルールなのに。呆然としているわたしを置いて、篠さんはキッチンに向かう。
「今日だけ特別ね。あ、でも、明日のわたしの夜ご飯はミキがつくってよ」