ホワイトデイのお返し作りを、保健室でやったらどうかと提案してくれたのは、佐々木くんだった。
バレンタインデイのあの放課後。私のためを思って「チョコレートを引き取る」といった佐々木くんの申し出は、ありがたく、けれど断らせてもらった。本来彼女たちものであったはずものは、ちゃんと彼女たちに渡したいと思ったから。
そしたら、保健室のレンジを使うのはどうかと提案された。また一人きりで作るとなると心が折れそうだったから、監視がいれば最後までできるのではと、望みを抱いた。
あれからいろいろあったから、そんな約束をしていたこと自体忘れていた。そしたら昨日、いつかのように舞台を掃除していたら、佐々木くんが『明日どうする?』と聞いてきて、思い出したのだ。
「失礼、します」
『どうぞ、どうぞ』
保健室の先生に事前に話をつけてくれたのは佐々木くんだった。「私にも作ったものくれたらいいから」と、快諾してくれた。本来、放課後は保健室自体閉まっているのだとというのを、この時初めて知った。
「でも、いつも放課後空いてたよね」
そう聞けば、『あの人がいるから』と教えてくれた。
そしてその「あの人」は。
「今日は、いないの?」
ラベンダーの香りがする室内に入ると、いつも私が来るときにはある人の気配が、パーテーションの向こうにないことに気づいた。材料を並べるために、テーブルクロスを引いてくれていた佐々木くんが頷いて、唇が『さぼり』と動いた。
「そうなんだ」
道具や材料は教師津に置いていたら目立つから、先生に断って登校した時に保健室に置かせてもらっていた。引いてもらってテーブルクロスに、家から持ってきた道具と、冷蔵庫にしまっていた材料も含めて並べる。
『というのは建前で、先に帰った』
ポケットからスマホを出して、佐々木くんが真相を教えてくれた。
『お菓子作りするって言ったら、気が散るだろうからって』
「……甘いもの、好きだったりする?」
『お菓子屋の息子らしく、甘いものには目がないよ』
そしたら、あの人の分も作ろう。一応材料は多めに持っている。
作るのはフォンダンショコラ。彼女たちが作ってくれたものとかぶらない、かつレンジでできる簡単なものを探していたら、フォンダンショコラのレシピがヒットした。
『じゃあ、やりますか?』
「やり、ましょう」
佐々木はレシピを読み上げてくれるアシスタントだ。
第一関門は、アソートボックスからチョコをレンジで溶かすこと。ボックスの封を開けないと始まらないのに、体がこわばってしまう。
『河野さん』
名前を呼ばれて、呼吸が浅くなっていることに気づいた。
『大丈夫。河野さんがチョコレートを使うことを、誰も咎めたりしないよ』
「誰も……」
『そう、誰も』
粉々にされたチョコクッキーが脳裏に浮かぶ。風がさらっていくあの芳醇な香りは、いつだって忘れたことがない。忘れることさえ、許してくれなかった。この季節が巡ってくるたびに、自分の犯した罪を再認識させられてきた。
また、もらわれなかったら、どうしよう。そんな考えが手を止めてしまう。
でも、私も代わりたいと願っている。
佐々木くんが、その一歩を踏み出したように。
蓋を止めてあるテープを少しずつはがしていく。四角い箱の角を、一つずつ開放していって、テープがはがれる。
大きく息を吸って、止めて、蓋を開いた。
買ったときに「かわいい」と思ったままの形で、チョコレートは並んでいた。そうだ私、「かわいい」と思えていた。
ふうっと息を吐いて呼吸すると、チョコレートの香りが漂ってくる。
少し、きつい。鼻から抜けていく、甘い香りにめまいがする。
でも、大丈夫。
今の私なら、触れられる。
一粒一粒、耐熱ボウルの中に入れていく。体温で溶けて、指につくのが気持ち悪いと一瞬思ってしまう。
でも、大丈夫だ。そう言い聞かせて、レシピの分量入れ終わったら、ラップをかけた。電子レンジに入庫して、ボタンを押す。オレンジ色のライトに照らされながら、耐熱ボウルはくるくると回り始めた。
『できたじゃん』
レンジの扉に、私の顔と、佐々木くんの顔が映っていた。
「でき、ちゃった……」
佐々木くんが拍手をするので、私もつられて手を合わせる。
なんだ。私にも、できるじゃん。
溶かされたチョコは、さらににおいを強めて、思わず顔をしかめてしまうけれど、以前までの不快感は薄れていた。
それからホットケーキミックスと混ぜ合わせて、次に牛乳とサラダ油を加えてさらに混ぜる。カップの中に生地を入れたら、残しておいたアソートボックスのチョコを一粒ずつ生地の中央に入れて、レンジで加熱する。
「かんたん、だったかも」
二人でレンジを中で生地が膨らんでいくのを見守りながら、そんな感想を持った自分に驚いていた。扉に映る佐々木くんは、笑っていた。
出来上がりを知らせる音がなって、扉を開けるとふっくらとチョコレート生地が山をつくっていた。
佐々木くんに試食をお願いすると、一口食べては大げさに口を手で押さえて「おいしい」とリアクションを取ってくれた。
「それなら、よかった」
『そういえばなんだけど、もらったチョコレートのお菓子はどうしたの?』
佐々木くんが、咀嚼しながら聞いてきた。食べながら話せるのは、佐々木くんの特権だ。
「一応全部食べたよ。味わって食べることは、できなかったけど」
中学生の時には、誰とも適当な距離で親しくなることもできなかったから、チョコレートはもらえないものと考えて、友チョコ交換が行われる日には仮病を使って休んでいた。休んだ私にも友チョコをくれる奇特な人はいて、そういう時は受け取ったりしたけれど、頑張って食べてみても、吐いてしまった。
この前もそれまでと例外なく、鼻をつまんでて呼吸せず口の中に放りこみ、飲み込めるほどに咀嚼したら、水でおなかの中に流し込んだ。そんな作業を繰り返し、吐き気は催したものの、実際に吐いたりはしなかった。
そこから少しずつ、変わっていたのかもしれない。
『味見、する?』
「まだちょっと、遠慮しておく。佐々木くんが大丈夫っていうなら、いいかなって」
『ちゃんとおいしいよ。大丈夫』
「ありがとう」
出来上がったものは粗熱を取った後、ラッピングを施した。
保健室の先生と、「あの人」の分と、そして、四人に。
『明日、どうやって渡すの?』
汚れた道具は家に帰ってから洗おうと、そのまま片づけて、保健室の中からチョコレートのにおいが取れるまで、換気扇と窓開けていた。窓から見える空はすっかり暗く、少しだけ星も見える。
「まだちょっと、悩んでる」
自分の心の内を、お返しを渡すと同時に打ち明けるかどうか。
この学年が終わるまで、あと一週間ほど。新学期が始まれば、彼女たちとはクラスが分かれるかもしれない。それに期待するわけではないけれど、それを知ってからでも、自分の気もちを伝えても、遅くはないのではと考えていた。
だから「バレンタインデイのお返しだ」と、登校時にさらっと渡すか。
あるいは、「話がある」と放課後に呼び出して、渡すか。
『ずっと、気になってたんだ、河野さんのこと』
「え?」
『いつも、暗い顔して、机の中のスマホ、見てるな、と思って』
そんなに露骨に顔に出ていたのかと、今更ながらに知って冷や汗をかく。青ざめた私に、佐々木くんは訂正した。
『いや、大抵の人はそんなこと思っていないだろうけど。あけすけに言うと、正直『死にそう』って思ってた。兄貴や、あの人と、同じような顔してたから』
死にそう。オブラートに包まずはっきりと口にされて、怯む。
思い返してみて、憂鬱だったことは何ともあるけれど、死にたいと願ったことは、なかったように思う。もっともそれは私の「意識の範囲」の話で、潜在的にはどうだったわからない。
「少なくとも、今の私は、望んでいないよ」
口に出してみると、さらに確信に変わる。
今は、もっと自分にも、相手にも、向き合いたいという気持ちが大きい。
『そんな顔、してる』
佐々木くんにつられて、口角が上がる。
『だからさ、河野さんがどんな選択をしたとしても、僕は応援してるよ』
まだ慣れない佐々木くんの「声」が、そっと寄り添ってくれる。
「ありがとう」
私はラッピングしたフォンダンショコラに、願いをかけた。
**
『カスミにちょっと話あるんだけど、放課後時間つくって』
サナから個人的なメッセージが来たのは、帰宅してからのことだった。こちらの予定を尋ねるようなものではなく、それが決定事項のような書き方だった。
『どうしたの?』
そうやって返信したけど、『直接話がしたいから』と特に内容は教えてくれなかった。
当然眠れるはずもなく、明け方になってようやく少し寝れた。
朝ごはんもそこそこに登校すれば、嫌な予感は的中した。
お返しは朝に返そうと、帰宅しながら考えていた。それなのに、いつもは「おはよう」と声をかけると、同じように返ってくるものが、「ああ」とそっけなかった。私を一瞥するだけで、四人の視線はスマホに奪われてしまう。
早くも昨日の決意が崩れそうになった。
選択権は私にあるかと思っていたが、そうではなかったらしい。
休み時間になっても、サエリ達は四人で固まって話をするのに、私がその輪に加わると、散ってしまう。お昼休みになっても、私はモモエからも、ナナミからも、サナからも話しかけられることはなく、私は一人でトイレにこもって弁当を平らげた。
隣の席の佐々木くんはなんとなく察したようで、時折目が合った。
『大丈夫?』
訴えてくる視線に、くじけそうになりながらもなんとか自分を保って、言い聞かせるように「大丈夫」だと答えた。私が立てていた予定が、少し早まっただけに過ぎない。
ふっと息を吐いて、気持ちを切り替え、午後の授業には集中した。
あのときみたいに体育館裏に呼び出される、なんてことはなかったけど、集合場所の連絡がきたのは五人のトークルームだった。
『駅前のカフェで』
良く五人で女子会をしていた場所だった。サナ達は帰りのホームルームが終わると、四人で連れ立って下校していき、私は一人で追いかけた。
四人が談笑しながら歩いていくのを、少し後ろで聞いていた。お店に着いたら、さも五人で来店したかのように「カスミは何にするの」と注文を促されて、慌てて注文した。おかげで噛んでしまい、四人はくすりと嘲笑した。こんな扱いを受けるのは、初めてだった。
いつもは窓際の席に座るのに、今日は奥のテーブル席だった。
四人は詰めてソファー席に座り、私だけが椅子に腰かけていた。注文したドリンクが届くまで無言だったことは、今まで一度もなかった。目の前の四人はまるで私なんていないように、スマホの画面に注視していた。
きっと、私を除いたトークルームで会話しているに違いない。
落ち着かなくて、私テーブルの下で手を握ったり、さすったりして気を紛らわしていた。
注文したドリンクが運ばれ、みんなが一口ずつ飲む中で、私は自分のアイスティーのグラスを眺めていた。ぼんやり水滴を数えてしまうくらいに、沈黙が続いていた。
「心当たり、あるよね?」
口を開いたのは、サエリだった。
顔を上げて彼女たちの顔を見ることはできなかった。うつむいたまま、それまでと同じように「ごめん」と謝罪してしまう。
「なんで謝るの?」
とっさに口をついて出た言葉ではあるけれど、強気に問い詰められて息をのむ。うまいいいわけが思いつかずに、閉口してしまう。
答えられない私に、モモエが大きなため息をついた。
「何が理由かわからないのに、謝るのはどうかと思うよ」
また沈黙が流れて、しばらくすると、サエリが切り出した。
「小学校のとき、男巡って友情崩壊させたってマジ?」
四人の視線は冷ややかで、まるでナイフで突き刺すような鋭さを持っていた。
「今回は、私たちが好きな人かぶらなくて良かったけどさ」
「友達やってたら、今後そうなってたかもしれないって思うと、ゾッとするよね」
「早いうちに気づけて良かったよ」
「頼りにされていると思って調子に乗ってて、自分のやってることの重大さに気づけてなかったわけでしょ?」
ウケるんですけどぉ、と嘲笑する彼女たちに、何も言い返すことができない。
だって彼女たちの言う通りだった。頼られていることにいい気になって、自分の行動は正しいと信じて疑っていなかった。結局は三人を傷つけ、そのことをトラウマにしている私は傲慢なのかもしれない。
だから、もっと、もっと、自分の気持ちは隠さなければいけないと思った。誰にも悟らせないほどに、押し殺す必要があると思った。みんなに気に入ってもらえるように、みんなの望む「私」に慣れるように。「道」を、踏み外さないように。
そうやって信頼を得ることができれば、それまでの努力が私の味方になってくれるはず。そう信じて疑わなかった。
でも、どうやっても過去を変えることができないことを、忘れていた。
世間は案外狭いらしい。
誰からそんな話を聞いたかなんて、聞く気も起きなかったのに。
「ま、これ教えてくれたの、佐々木なんですけど」
耳を疑った。
「……佐々木、くん?」
予想外の名前に困惑する。彼女たちに私の動揺は手に取るようにわかるのだろう。その目が、口が、意地悪に歪んでいく。
「少女漫画気取りか、っての」
「白馬の王子様だと思ってたのが、実は毒リンゴ持ってきたおばあさんだったって、どんな気持ち?」
「ねえ、こんな時にちょっと頭いい発言しないで」
きゃらきゃら笑う彼女たちの声が、耳の奥で響く。耳を押さえたくても、体がこわばって、腕を動かせない。
「カスミさ、佐々木くんと付き合ってんでしょ?」
どん、と心臓が大きく動いた。頭が真っ白になって思考停止寸前で持ち直す。
わずかな沈黙でも、肯定と捉えたらしい。付き合ってない、そう口にする前に、さらに問い詰められる。
「私たちにはさんざん『ない』って言っておきながら、陰でこそこそやってんの、フツーにきもいんですけど」
「純情そうな顔して、意外とヤッてんね」
「でも結果的に裏切られてるんだからさ」
きれいなアイメイクの施された目に、捕らえられた。
「みじめだよね」
信じてた。佐々木くんはそんなこと、しないはずだって。
でも彼女たちが私の小学校時代の同級生と接触する機会はほぼゼロに等しい。ならば、誰が私の過去の話を知っているかといえば、佐々木くんしかいない。
ずっと、だまされていたのだろうか。
もしかして、私が傷つけた人の中に、彼のともだちがいたのだろうか。
あるいは、あの栄街の駅で彼を傷つけたことに対する、報復だろうか。
あの公園で話してくれた胸の内は、全部嘘だったというのか。
その名前は、私を絶望のどん底に突き落とすのに、十分だった。
視界がだんだんとぼやけて、膝の上で組んだ手に、ポタリと涙が落ちていく。
「あとさぁ」
まだ、何かあるのだろうか。そんなに私のことが嫌いなら、もう放っておいてくれないだろうか。これからは、決して出しゃばらずに、一人陰を歩いていくと約束するから。
誰かの特別になりたいなんて、望んだりしないから。
「何が許せないって、私たちにあげようとしてたチョコ、佐々木にあげたでしょ」
にわかに、一寸の光が差した。そのまま深海に沈んでいきそうだった私の意識は、その言葉で浮上する。
「……うそ」
「え?」
掌で涙をぬぐい、視界が鮮明になる。
「佐々木くんが言ったって、それ、嘘だね」
表情こそ崩さなかったものの、明らかに彼女たちの瞳に動揺が現れた。
「私たちのこと、疑うってわけ?」
「疑うっていうか、それは嘘だって、はっきりわかる」
「どうしてよ」
「だって私、佐々木くんにチョコをあげてないから」
サナが肩をこわばらせたのが分かったけれど、私は正面に座るサエリから順に彼女たちの顔を見た。
確かにあの日、佐々木くんにチョコをあげてしまおうかとも考えた。だから、教室を出る間際「くれない?」と言ってくれた彼に「もらってくれるの?」と一度はチョコレートの入った紙袋を渡した。
でも駅までの帰り道で私は考えを変えて、返してもらったのだ。彼女たちに渡す分は、やっぱり作ってみたい。佐々木くんには別のを用意する、と。それで佐々木くんは、一緒に作ることを提案してくれた。苦手なことをわかってる人が一緒にいる方がやりやすいだろう、と。
そこまでサナが見ていれば、そんな発言はなかったはずだ。
おそらく告白の後、教室で話しているのを聞かれたのだろう。迂闊だったと今更後悔する。
「なんで、佐々木とイイカンジになってること、私たちに黙ってたの?」
サナが言った。その目は怒りで真っ赤になっていた。
「私たち、トモダチなはずなのに、なんでそんなに隠し事が多いの?」
その声はほとんど叫びに近かった。店内の視線が私たちに向き、すみません、と謝る。隣に座るモモエが、サナをなだめていた。その光景を見て、きっとみんなはサナが佐々木くんに告白したことを知っているのだと、なんとなく確信した。
「サナの言う通りだよ。カスミって、一度も私たちに相談してくれたことなかったよね」
「だって私たちはさ、今までこうしてなんでも相談してきたのに」
「カスミはただ黙って、ニコニコ、適当な相槌打ってるだけでさ」
モモエが、サナが、ナナミが、矢継ぎ早に彼女たちの思いを私にぶつけてきた。
彼女たちの目は、疑惑に満ちていた。
「一度だって、私たちのこと、信用してくれたこと、ある?」
何も言えなかった。
入学してこれまでの約一年間、ずっと一緒に過ごしてきた。学校ではもちろん、授業中にもメッセージのやり取りをして、放課後は集まって、自宅に帰ってからも。四六時中スマホは自分の手の中にあった。
嫌われないことに、必死だった。
何かあればすぐグループ内なのに、他人のあしざまにいう彼女たちを見て、自分の振る舞いに気を使いすぎて、自分の本心をひた隠しにしてきた。
もっと最初から素直に伝えていれば、こんな風に私たちの仲は、こじれなかったのだろうか。
「ねえ、聞いてる?」
呼ばれてハッとなる。
「ご……」
ごめん、と言いそうになって「聞いてる」と言い直す。
「嘘だ。別のこと考えてたでしょ」
「ううん、ちゃんと考えてたの」
「何を」
「あなたたちのこと、私は信用してたか、どうか」
サエリが大きくため息を吐いた。
「考えてる時点で、信用したことないって言ってるようなものじゃない」
その通りだった。
「そういうところがムカつくんだよ。自分だけ『いい子』ぶってさ」
「ホントそれな。本心いわないのなんて、美徳じゃないよ」
ナナミの言葉には、同意する。私も、もし同じグループにこんな奴がいたら、イライラしてたかもしれない。自分の言いたいことを全部黙って、悲劇のヒロイン面をする奴なんか。
だから、変わりたかった。
「私はさ」
しゃべれなくて良かった、と笑う佐々木くんの顔が脳裏に浮かんだ。
「ある一人を除いたグループを作って、その人の悪口でもりあがるの、すごく嫌だったの」
ずっと疑問に思っていた。一緒にいればそりゃあ、それなりに不平不満は生まれるだろう。それでも、わざわざ誰かを省いたグループを作って話す理由は何なのか。それが分からなくて、いつも怖かった。だってそうじゃない話だって五人のグループではできていたのに、誰かがかけるとそれは始まるのだ。
「バッカじゃないの」
サエリが吐き捨てるように言った。
「悪口なんて、ただのコミュニケーションみたいなものでしょ」
目の前に、分岐点が現れて、私はようやく理解した。
「あんただって聖人君子じゃないんだから、先生のことだるいとか、誰のことが嫌いだとか、思うことあるでしょうよ」
それはある。誰だって愚痴をこぼしたくなることの一度や二度はあるに決まっている。私の過去語りだって、同じだと思う。吐き出したいこと、たくさんある。誰かをうっかり悪くいってしまうこともあるだろう。そうなるのはしょうがない、人間だれしもが持つ感情だから。
けれど、人をあしざまに言ってつながる輪を、私は大事したいと思えなかった。
結局私は怖かっただけだ。みんなの言う通り、いい子でいたかっただけ。彼女たちの輪の中にいれば自分の「いい子像」は保たれる。そこに安らぎを見出していた部分はある。
そんな醜い私は、もういらないのだ。
「あるよ、思うこと」
鬼の首を取ったように、彼女たちは笑みを深める。
「でも、だからって、みんなとはもう一緒にいれない」
誰かが「はあ?」と嫌悪をむき出しにする。
「あんた自分が何言ってるのかわかってんの?」
「わかってる。申し訳ないと、思う。こんな身勝手なこと」
だったら正直に言うな、ってそんな声も聞こえてくるようだ。
話し合えば分かり合えるとか、そんなうまい話なんてない。どれだけ意思疎通を図ったとしても、お互いに理解できない部分がある。それを許容できるかできないかが、今後も交流を続けていくかどうかのカギなのだろう。
けれど今の私は、その重みには耐えられないのだ。
「誰も知り合いのいない高校入学当時、声をかけてくれたことは、本当に感謝してる。ありがとう。……でも」
これだけは言っておかないといけない。
「私はもうこれ以上、あなたたちの友達ではいられない」
私たちの周りだけ、障壁で囲われたように音をなくした。
「なに、それ」
彼女たちの唇がわなわなと震えている。
蔑むような視線が突き刺さる。
「本当に、ごめん」
「で、なに? それで、佐々木と付き合うってこと?」
「違う」
そう思われても仕方がない。傍から見て、結託しているように映るのだろう。
でも佐々木くんとの関係は、付き合うとか、付き合わないとか、そういう感情とはまた別のものだった。私たちは抱えているものが全く違っていて、自分じゃない相手まで思いやる余裕なんて、持ち合わせていないから。
私の否定の言葉に、「どうだか」とみんなは不服そうだ。
無理にわかってもらわなくてもいい。この感情は、私だけのものだから。
「みんなのこと、好きだったよ」
「口だけではなんとでもいえるよね」
「だって、なんだかんだ言ってるけど、私のこと、今日までハブらなかったじゃん」
ぐっと言葉に詰まったのを見て、胸が締め付けられるようだった。
本当はたぶん、優しい人たちなのだと思う。その証拠に、私の前では私の悪口を一切言わなかったし、他の誰の目の前でも、その人の悪口は決して言わなかった。トークルームを間違えることだって、一度もなかった。
私の存在がきっと彼女たちを悪者に仕立て上げた。なんて悲劇ぶってみる。
「なにこれ」
持っていた紙袋の中から、朝渡しそびれたフォンダンショコラを取り出し、一人ひとりの目の前に、ラッピングしたフォンダンショコラを置く。今朝渡しそびれたものだ。
「バレンタインデイのお返し」
四人はそれぞれに見比べている。お互いにどうするのか様子を窺っている。
前みたいに、捨てられるかもしれない。目の前で、握りつぶされるかも。
これは、私のはただの自己満足だから、彼女たちがそうするのであればその選択を尊重しようと思う。
「これがカスミの本心ってわけ?」
どうなってもしらないぞ、言外含んだその言い方に、私は強い意志を持って頷いた。
「うん」
それで気が済むのなら。
モモエがため息をするようにつぶやいた。
「なんか、カスミって、思ってたのと、全然違った」
「……そうかな」
「佐々木と二人、変人同士でお似合いなんじゃない?」
「あんまりうれしくないな」
軽口で返すと、キッとにらまれた。
「こんな意味わからない人間、こっちから願い下げだよ」
サエリがそう言って席を立つ。それに続いてみんなもぞろぞろと、私の方なんて見向きもせずに、お店を出ていった。
テーブルの上に、私の作ったフォンダンショコラを残したまま。
たたきつぶされなかったのは、彼女たちのやさしさ。お返しができなかったのは、残念だけれど。
深呼吸を一つする。緊張を、すべて吐き出すように。フォンダンショコラを紙袋の中にしまい、氷の解け切ったアイスティーを一気に飲んで、私も店を出た。
三月も中旬。桜の木には今にも咲きそうなふっくらとした蕾がついている。真冬のように、心から冷えるような寒さはない。もう吐息だって、白くはならない。
私が立っている場所は大通りで、街灯であたりは明るいけれど、月だけはそこに輝いてすぐに見つけることができる。
きっと今の私なら、一人でも立てる。トロッコに乗って目的地に着くまでぼんやりするのではなく、広大な海を自分で船のかじを取って、どこまでも進んでいける気がした。
でもやっぱり不安になる。清々しい気持ちなのに、地面がぐらぐら揺れているように思えて心もとない。
車のヘッドライトで光の斑らができる真っ黒い歩道を一人、歩いて行く。
自動車の走行音。
すれ違う人の話し声。
建ち並ぶ店の中から聞こえる音楽。
すべてに焦燥感を駆り立てられる。
このままどこにもたどりつけなかったら、どうしよう。
また、一人ぼっちになってしまった。
そう思った時だった。
『河野さん』
夜明け前の一番暗いときに現れる導のような、「声」が聞こえた。
顔を上げると、喧噪の中に佐々木くんが立っているのを見つけた。少し慌てたような、心配するような表情。
『ごめん。やっぱ気になって、様子見に来ちゃった』
それは初めて聞く、佐々木くんの「ごめん」だった。
「なにそれ、盗み聞きってこと?」
『いや、盗み聞きってわけじゃないけど……』
自分のことは棚に上げて、佐々木くんをからかう。
今、自分が一番会いたかった人が目の前にいる喜びで、叫びだしたいほどだった。
「佐々木くん、私振られちゃった」
努めて明るい声を出して、フォンダンショコラの入った紙袋を掲げてみる。佐々木くんは何とも言えない表情をしていたけれど、それがありがたかった。
「だから、やけ食いするの手伝ってくれない?」
『いいよ。もちろんだよ』
紙袋の中から一つを取り出して、佐々木くんに渡す。私も一つ取り上げて、ラッピングを解いた。カップから外し、豪快に一口を頬張る。もうすっかり冷えてしまっているから、中のチョコレートは溶けだしてこない。咀嚼すればするほど、チョコレートの甘ったるさが口の中に残る。
止めていた呼吸を再開すると、チョコレートの匂いが肺いっぱいに入ってきた。
久しぶりに作ったチョコのスイーツは、涙が出るほどおいしかった。
**
桜の季節にはまだちょっぴり早い三月の終わり。修了式も、大掃除も終えた私たちは、来年度のクラス発表の前に席についている。このクラスで最後だからということで、入学当時の席にみんなついた。引き出しがカラカラの机の上には、教科書がたくさん入ったリュックを乗っけている人もいれば、筆箱だけが入ったスクールバッグを置いているひと、部活用のナップサックを置いている人と様々。
私も、空気だけを含んだリュックに身体を預けて、二年生では私たちを受け持たないという、担任の先生の最後の話に耳を傾けていた。
「それじゃあ、新しいクラスを発表する前に。ひとつやりたいことがあるんだけど」
連絡事項も全て終わって、先生はニコニコと何か企んでいるような笑顔を向けてきた。周りは「えーなにー?」「そういうめんどくさいこといいからー」「早くクラス教えてー」と一見愚痴っているようだが、その目は今から始まる何かに期待もしているようだった。
先生はその瞳の奥に隠れた好奇心を見抜いて、口の端をあげた。
「今からひとりずつ、これからの抱負を一言、言ってもらおうと思います」
みんなの頭の上にはてなが浮かんだのが見えたし、私も首を傾げた。
抱負、って、なんだろう。
先生は新品のように綺麗になった黒板に紙でできた横断幕を貼り付けた。それには「わたしの夢」と習字の師範の資格を持っている人らしく、丁寧な字で書かれていた。
「今からひとりずつここの教壇に立って、一言でいいから自分の夢を語ってください」
「えー、なんかそれたるくない?」
先生の言葉に突っ込む生徒に乗っかって、そこかしこから同調の声が上がる。けれど、声音からも、みんなそわそわしているのが分かって、案外まんざらでもないのだろう。
否定的な意見が教室を占める中、『はい』とある声が通っていった。
佐々木くんが、手をあげていた。
『僕が最初にやります』
みんなを見渡して、にっこりと笑顔を作ると、佐々木くんは教壇に一直線に歩いていった。これには先生もちょっと驚いていて、教壇の前にきた佐々木くんに道を譲った。
佐々木くんは教壇に立つと、スマホに文字を打ち込んだ。
『別に、夢らしい夢はないです』
期待していただきに、肩透かしを食らった気分になる。何言ってんだ、あいつ。やっぱ変な奴だな、なんて声が聞こえる。それも全部分かったうえでの行動なのだろう。『夢なんてなくたって死ぬわけじゃないし』と言い放ったので、周囲からブーイングが起こる。
『でも』と佐々木くんは続けた。
『僕にとって生きやすい明日が、また来ればいいな、と思います』
茶化すような言葉は、上がらなかった。水を打ったようにしん、と静まり返った教室で、各々何を思ったのだろう。佐々木くんは一番バッターとしてふさわしい行動を示した。
自然と拍手をしてしまった。私の拍手を皮切りに、教室内が喝采に包まれる。さすがのこれには、佐々木くんも照れくさそうに、頭をかいていた。
「誰にとっても、明日がいいものであるように、先生も願ってるよ」
新しい学年になってもがんばれよ、との担任の激励に、佐々木くんははにかんでいた。
「そしたら次は……」
担任はクラスを見渡して、佐々木くんに目を留めた。
「じゃあ、教壇に立った人が好きな人を指名していい、ってことにしよう」
『僕が決めていいんですか?』
「最後のクラス交流ってことで。いいか、みんな。こんな風に全員やってくからな」
ニコニコと腕を組む担任の言葉に、にわかに教室内に緊張が走った。そわそわ、落ち着かないけれど、胸を躍らせているような、そんな雰囲気。
何を言おうか。どう言おうか。誰に指名されるのだろうか。
(私は、何を言おう。)
考え始めたら、その思考はすぐにぶった切られた。
『じゃあ、次は河野さんで』
佐々木くんは高らかに告げた。一点、私に視線が集まる。ひそひそと周囲が言葉を交わし始める。佐々木くんは目が合うと、口角を上げた。
まだ何も考えていなかったけれど、呼ばれた手前席を立たなければいけない。
どうしよう、何を言おう。できるだけゆっくりと教団に向かうと、佐々木くんが片手をあげてきた。
「え?」
上げていない方の手には、スマホを持っていた。
『順番交代のハイタッチ』
ずいっと手を出してくる。ハイタッチなんて、したことがない。正解がわからなくて逡巡したのち、私は佐々木くんの手に、自分の手の平を当てた。パンっと軽い音が響くと佐々木くんは『交代』と自分の席に戻っていく。
ひとり、教壇の上に立つ。
教壇から教室を見渡すのは初めてだった。緊張からか、人の顔が見えなくて、ぼんやりと視界がかすんでいく。緊張がどっと押し寄せて、動悸がやまない。後戻りもできない。
今ここに私はたったひとり。打開策は、抱負を言って次の人を指名することのみ。倒れないように、教卓に両手を置いた。
口を開こうとすると、うまく言葉が出てこなくて、息だけがひゅうひゅうと出たり入ったりを繰り返す。
暫くしても話さない私を見かねた先生が「何でもいいぞ」と促すけれど、頭がうまく働かない。自分の二本足がどんなに心もとないものなのか、改めて思い知った。
それでも私は、一人で立つことを選んだのだ。指名されたとはいえ、自分の意思でここに立った。自分の存在を、肯定するために。
ふと、見定めるような視線が飛んでくる。サナや、ナナミ、モモエ、サエリ。私が自分から切り捨てた人たち。
そうだ。彼女たちに、証明しないといけない。
大きく深呼吸を一つ。
もしかしたら、ここにいるみんなも私のように、うまくいかなくて枕を濡らした夜があっただろうか。これ以上は無理だと歩みを止めそうになる朝が、あっただろうか。それぞれに思い描いている未来があるのだろうか。あるいはそれを探している、まだ道半ばだろうか。
今までは自分が悲劇のヒロインぶって他人のことなんて、考えようとも思ったことがなかった。けれど――。
佐々木くんと視線がかち合う。唇が『がんばれ』と動く。
「私は……結婚式で、友人代表挨拶を、してみたいです」
は、と。みんなの口から、素っ頓狂な声が出たように見えた。実際、隠せず漏れ出た人も何人かいた。それでいくらか緊張がほどけた。
「以上、です」
一番最初に拍手をしてくれたのは担任で、それに倣ってクラス中に拍手が響き渡った。
「友人の結婚式とか、あこがれだよな。俺もスピーチはしたことないけど、やっぱり友人の幸せそうな姿見るのはいいぞ。お前らも、結婚式には俺を呼んでくれよ」
ぜってー呼ばねーなどと軽口が飛んでくる。サナたちは、もう私のことなんて見ていなくて、机の中の小さな画面に集中しているようだった。
ほんの少しいたずら心が芽生えた。
「それじゃあ、河野は誰を指名するんだ?」
「……森口サナさん、で」
呼ばれると思っていなかったのか、サナは正気か、とでも訴えるように勢いよく顔を上げた。
「それじゃあ、森口。こっちこーい」
これ見よがしにため息をついて見せたり、などはしていなかったけれど、心底いやそうなのが手に取るように分かった。
あの話し合い依頼、彼女たちとは言葉を交わしていない。教室内で私は所属するグループをなくして、ひとりになった。私たちに何かがあったらしいことは、女子は察していたようで「大丈夫?」と心配してくれる声さえあったほど。
彼女たちは、私と何があったのか、言いふらしたりはしていないようだった。ただ、もう一緒にはいられないという拒絶を示すだけにとどめていてくれた。それにはひそかに感謝している。
サナが私の前にやってきた。佐々木くんにされたように、手を出せば、一瞬のためらいはあったものの、サナの手は私に触れて、清々しい音を立てた。
これで、最後だとでもいうように。
サナの夢は、安定した生活を送ること、だった。彼女らしいと思った。
それからひとりづつ、教壇に上がって各々の抱負、または夢を語った。
世界旅行したい。
外国語喋れるようになりたい。
研究者になりたい。
彼氏が欲しい。彼女が欲しい。
まだ夢はないけど、そのうち探せるようになりたい。
友人、付き合ってる人、気になる人、と同性を指名したり、異性を指名したり、クラス総勢四十人で、夢を語りあった。
最後の一人を終えたあとの不思議な余韻の中、私たちは全員顔を伏せるように言われて、それぞれの夢を思い起こしながら、軽くなった机の上に突っ伏した。ぎいっとパイプ椅子の軋む音と、担任の足音が教壇にこだまするのが聞こえて、止まった。
静かな教室に、マグネットを付け替える音がする。教室の外からは、賑やかな声が聞こえ始めた。他のクラスは最後のホームルームを終えたようだった。
「今夢がある人も、そうじゃない人も、何かを願うことは人生において、何かしらの原動力になると思う。だからこの先もみんな、各々『何かに向かって、進んで行く』という気持ちを忘れないでください。それじゃあ、解散! とっとと来年のクラス確認して帰れ!」
教室は先生の合図で一斉に顔を上げ、黒板前に集った。
**
「どうして、名前があったんですか、サトルさん」
ヘッドホンを装着して、パソコンに向かうサトルさんにはなしかけても、返事はない。こんな目の前で聞いているのに。
『出席日数、足りてなかったからね』
「佐々木くんは知ってたの?」
『まあ。年が明けた時点で、分かっていたし』
だから保健室を自分の部屋のように使っていたのか、と納得する。いや、そもそもずっと保健室にいたのかもしれないけれど。
あの一件があってから、保健室にはよく来るようになった。彼女たちが私たちの顛末を一から百まで話してなかったにせよ、グループに所属しないというのは、思いのほか肩身の狭い思いをした。
暁の間は、そういう人のために開かれているから、という佐々木くんの言葉に励まされ、お昼休みはたいてい保健室にいた。
『でも僕、来年も同じクラスでうれしいよ』
佐々木くんが当たり前のように言うので、私も照れずに「うれしい」と返すことができる。
来年のクラス割の結果、私と佐々木くん、サトルさんは同じクラスに名前があった。
かつての居場所だった四人とは離れ、その四人もそれぞれバラバラのクラスになっていた。あれだけ結束しているように見えた彼女たちは、来年も一緒にいるのだろうか。はたまた、別のグループに所属するようになるのだろうか。
いずれにせよ、今までだってそうしてきたように、きっとうまくやるのだろう。けれど、できるだけ傷つかない日々を過ごせるよう、願わずにはいられない。
『来年は修学旅行もあるし、楽しみなことたくさんだ』
ね、サトル、と佐々木くんが話しかけても、サトルさんはパソコンから顔を上げようとしない。
『やっぱ返事ないね』
保健室に来るようになってから、どうしたらサトルさんの気が引けるのか試行錯誤を繰り返しているのだが、私には一向に興味を示してくれない。佐々木くんは幼馴染だし、「声」を作ってもらったりしているから、私よりもサトルさんとの親密度は高い。サトルさんのそっけない態度にも、いつだって嬉しそうにする。でも、その腹の内はいつだってサトルさんを困らせたくてしょうがないようで。
『それじゃあ、必殺奥の手で』
「奥の手?」
佐々木くんは暁の間に入り、パティスリーエレのドラジェの箱を手に戻ってきた。
『河野さんも食べる?』
「うん、食べる」
佐々木くんたちの前で、私はアーモンドを克服できた人間になっている。でもドラジェと奥の手のなんの関係があるのだろう。佐々木くんが蓋を取った中には、いびつな形をした色とりどりのアーモンドがあった。
『河野さんがアーモンド苦手なの、サトルから聞いたんだ』
「え?」
佐々木くんは「声」に読み上げることはさせずに、文面だけを見せてきた。
『フードコートで、ドラジェに手を伸ばさないのをサトルが見かけてて。それで知ったんだ』
あの当時、私はサトルさんの声は知っていたけれど、姿を見たことはなかった。道理であの場にいたとしても気づかないわけだ。申し訳ないことをしたと思いつつも、それを見てどうにかしようとしてくれた心遣いに感謝の念が募る。
「ありがとうございます」
突然の感謝の言葉を不思議に思ったようで、サトルさんはようやく目線だけくれた。
「ドラジェ、今では好きなものです」
隣でニタニタと笑みを浮かべている佐々木くんの表情と併せて察したのか、サトルさんは「リョウガ」と低い声を出した。
『だって、こういうのは知っててほしいじゃん』
「知らなくていいこともあんだよ」
『僕は知っててほしかった、だから言った。ね、河野さん。知れてうれしいでしょ?』
「うれしいです」
サトルさんに向かって伝えると、私を一瞥してすぐパソコンに戻ってしまった。いつもはポーカーフェイスのサトルさんの口が、変な感じに曲がってる。『照れてんだよ』と音量を下げてた佐々木くんから教えてもらった。
『そういえば、河野さん知ってる?』
佐々木くんは箱から水色の粒を一粒摘まみ上げ、コロンと頬張った。
『ドラジェって、『幸福の種』っていう意味なんだ。だから、河野さんにも、幸福のおすそ分け』
売り物にならないいびつな形をした、宝石たち。手に入らないと思っていたものがすぐ目の前にあるのは、なんだか不思議な気持ちだ。食べないの、とでもいうように佐々木くんが首をかしげるから「もらうね」と手を伸ばす。
私は白い一粒を摘まみ上げ、幸福の味をかみしめた。
完
バレンタインデイのあの放課後。私のためを思って「チョコレートを引き取る」といった佐々木くんの申し出は、ありがたく、けれど断らせてもらった。本来彼女たちものであったはずものは、ちゃんと彼女たちに渡したいと思ったから。
そしたら、保健室のレンジを使うのはどうかと提案された。また一人きりで作るとなると心が折れそうだったから、監視がいれば最後までできるのではと、望みを抱いた。
あれからいろいろあったから、そんな約束をしていたこと自体忘れていた。そしたら昨日、いつかのように舞台を掃除していたら、佐々木くんが『明日どうする?』と聞いてきて、思い出したのだ。
「失礼、します」
『どうぞ、どうぞ』
保健室の先生に事前に話をつけてくれたのは佐々木くんだった。「私にも作ったものくれたらいいから」と、快諾してくれた。本来、放課後は保健室自体閉まっているのだとというのを、この時初めて知った。
「でも、いつも放課後空いてたよね」
そう聞けば、『あの人がいるから』と教えてくれた。
そしてその「あの人」は。
「今日は、いないの?」
ラベンダーの香りがする室内に入ると、いつも私が来るときにはある人の気配が、パーテーションの向こうにないことに気づいた。材料を並べるために、テーブルクロスを引いてくれていた佐々木くんが頷いて、唇が『さぼり』と動いた。
「そうなんだ」
道具や材料は教師津に置いていたら目立つから、先生に断って登校した時に保健室に置かせてもらっていた。引いてもらってテーブルクロスに、家から持ってきた道具と、冷蔵庫にしまっていた材料も含めて並べる。
『というのは建前で、先に帰った』
ポケットからスマホを出して、佐々木くんが真相を教えてくれた。
『お菓子作りするって言ったら、気が散るだろうからって』
「……甘いもの、好きだったりする?」
『お菓子屋の息子らしく、甘いものには目がないよ』
そしたら、あの人の分も作ろう。一応材料は多めに持っている。
作るのはフォンダンショコラ。彼女たちが作ってくれたものとかぶらない、かつレンジでできる簡単なものを探していたら、フォンダンショコラのレシピがヒットした。
『じゃあ、やりますか?』
「やり、ましょう」
佐々木はレシピを読み上げてくれるアシスタントだ。
第一関門は、アソートボックスからチョコをレンジで溶かすこと。ボックスの封を開けないと始まらないのに、体がこわばってしまう。
『河野さん』
名前を呼ばれて、呼吸が浅くなっていることに気づいた。
『大丈夫。河野さんがチョコレートを使うことを、誰も咎めたりしないよ』
「誰も……」
『そう、誰も』
粉々にされたチョコクッキーが脳裏に浮かぶ。風がさらっていくあの芳醇な香りは、いつだって忘れたことがない。忘れることさえ、許してくれなかった。この季節が巡ってくるたびに、自分の犯した罪を再認識させられてきた。
また、もらわれなかったら、どうしよう。そんな考えが手を止めてしまう。
でも、私も代わりたいと願っている。
佐々木くんが、その一歩を踏み出したように。
蓋を止めてあるテープを少しずつはがしていく。四角い箱の角を、一つずつ開放していって、テープがはがれる。
大きく息を吸って、止めて、蓋を開いた。
買ったときに「かわいい」と思ったままの形で、チョコレートは並んでいた。そうだ私、「かわいい」と思えていた。
ふうっと息を吐いて呼吸すると、チョコレートの香りが漂ってくる。
少し、きつい。鼻から抜けていく、甘い香りにめまいがする。
でも、大丈夫。
今の私なら、触れられる。
一粒一粒、耐熱ボウルの中に入れていく。体温で溶けて、指につくのが気持ち悪いと一瞬思ってしまう。
でも、大丈夫だ。そう言い聞かせて、レシピの分量入れ終わったら、ラップをかけた。電子レンジに入庫して、ボタンを押す。オレンジ色のライトに照らされながら、耐熱ボウルはくるくると回り始めた。
『できたじゃん』
レンジの扉に、私の顔と、佐々木くんの顔が映っていた。
「でき、ちゃった……」
佐々木くんが拍手をするので、私もつられて手を合わせる。
なんだ。私にも、できるじゃん。
溶かされたチョコは、さらににおいを強めて、思わず顔をしかめてしまうけれど、以前までの不快感は薄れていた。
それからホットケーキミックスと混ぜ合わせて、次に牛乳とサラダ油を加えてさらに混ぜる。カップの中に生地を入れたら、残しておいたアソートボックスのチョコを一粒ずつ生地の中央に入れて、レンジで加熱する。
「かんたん、だったかも」
二人でレンジを中で生地が膨らんでいくのを見守りながら、そんな感想を持った自分に驚いていた。扉に映る佐々木くんは、笑っていた。
出来上がりを知らせる音がなって、扉を開けるとふっくらとチョコレート生地が山をつくっていた。
佐々木くんに試食をお願いすると、一口食べては大げさに口を手で押さえて「おいしい」とリアクションを取ってくれた。
「それなら、よかった」
『そういえばなんだけど、もらったチョコレートのお菓子はどうしたの?』
佐々木くんが、咀嚼しながら聞いてきた。食べながら話せるのは、佐々木くんの特権だ。
「一応全部食べたよ。味わって食べることは、できなかったけど」
中学生の時には、誰とも適当な距離で親しくなることもできなかったから、チョコレートはもらえないものと考えて、友チョコ交換が行われる日には仮病を使って休んでいた。休んだ私にも友チョコをくれる奇特な人はいて、そういう時は受け取ったりしたけれど、頑張って食べてみても、吐いてしまった。
この前もそれまでと例外なく、鼻をつまんでて呼吸せず口の中に放りこみ、飲み込めるほどに咀嚼したら、水でおなかの中に流し込んだ。そんな作業を繰り返し、吐き気は催したものの、実際に吐いたりはしなかった。
そこから少しずつ、変わっていたのかもしれない。
『味見、する?』
「まだちょっと、遠慮しておく。佐々木くんが大丈夫っていうなら、いいかなって」
『ちゃんとおいしいよ。大丈夫』
「ありがとう」
出来上がったものは粗熱を取った後、ラッピングを施した。
保健室の先生と、「あの人」の分と、そして、四人に。
『明日、どうやって渡すの?』
汚れた道具は家に帰ってから洗おうと、そのまま片づけて、保健室の中からチョコレートのにおいが取れるまで、換気扇と窓開けていた。窓から見える空はすっかり暗く、少しだけ星も見える。
「まだちょっと、悩んでる」
自分の心の内を、お返しを渡すと同時に打ち明けるかどうか。
この学年が終わるまで、あと一週間ほど。新学期が始まれば、彼女たちとはクラスが分かれるかもしれない。それに期待するわけではないけれど、それを知ってからでも、自分の気もちを伝えても、遅くはないのではと考えていた。
だから「バレンタインデイのお返しだ」と、登校時にさらっと渡すか。
あるいは、「話がある」と放課後に呼び出して、渡すか。
『ずっと、気になってたんだ、河野さんのこと』
「え?」
『いつも、暗い顔して、机の中のスマホ、見てるな、と思って』
そんなに露骨に顔に出ていたのかと、今更ながらに知って冷や汗をかく。青ざめた私に、佐々木くんは訂正した。
『いや、大抵の人はそんなこと思っていないだろうけど。あけすけに言うと、正直『死にそう』って思ってた。兄貴や、あの人と、同じような顔してたから』
死にそう。オブラートに包まずはっきりと口にされて、怯む。
思い返してみて、憂鬱だったことは何ともあるけれど、死にたいと願ったことは、なかったように思う。もっともそれは私の「意識の範囲」の話で、潜在的にはどうだったわからない。
「少なくとも、今の私は、望んでいないよ」
口に出してみると、さらに確信に変わる。
今は、もっと自分にも、相手にも、向き合いたいという気持ちが大きい。
『そんな顔、してる』
佐々木くんにつられて、口角が上がる。
『だからさ、河野さんがどんな選択をしたとしても、僕は応援してるよ』
まだ慣れない佐々木くんの「声」が、そっと寄り添ってくれる。
「ありがとう」
私はラッピングしたフォンダンショコラに、願いをかけた。
**
『カスミにちょっと話あるんだけど、放課後時間つくって』
サナから個人的なメッセージが来たのは、帰宅してからのことだった。こちらの予定を尋ねるようなものではなく、それが決定事項のような書き方だった。
『どうしたの?』
そうやって返信したけど、『直接話がしたいから』と特に内容は教えてくれなかった。
当然眠れるはずもなく、明け方になってようやく少し寝れた。
朝ごはんもそこそこに登校すれば、嫌な予感は的中した。
お返しは朝に返そうと、帰宅しながら考えていた。それなのに、いつもは「おはよう」と声をかけると、同じように返ってくるものが、「ああ」とそっけなかった。私を一瞥するだけで、四人の視線はスマホに奪われてしまう。
早くも昨日の決意が崩れそうになった。
選択権は私にあるかと思っていたが、そうではなかったらしい。
休み時間になっても、サエリ達は四人で固まって話をするのに、私がその輪に加わると、散ってしまう。お昼休みになっても、私はモモエからも、ナナミからも、サナからも話しかけられることはなく、私は一人でトイレにこもって弁当を平らげた。
隣の席の佐々木くんはなんとなく察したようで、時折目が合った。
『大丈夫?』
訴えてくる視線に、くじけそうになりながらもなんとか自分を保って、言い聞かせるように「大丈夫」だと答えた。私が立てていた予定が、少し早まっただけに過ぎない。
ふっと息を吐いて、気持ちを切り替え、午後の授業には集中した。
あのときみたいに体育館裏に呼び出される、なんてことはなかったけど、集合場所の連絡がきたのは五人のトークルームだった。
『駅前のカフェで』
良く五人で女子会をしていた場所だった。サナ達は帰りのホームルームが終わると、四人で連れ立って下校していき、私は一人で追いかけた。
四人が談笑しながら歩いていくのを、少し後ろで聞いていた。お店に着いたら、さも五人で来店したかのように「カスミは何にするの」と注文を促されて、慌てて注文した。おかげで噛んでしまい、四人はくすりと嘲笑した。こんな扱いを受けるのは、初めてだった。
いつもは窓際の席に座るのに、今日は奥のテーブル席だった。
四人は詰めてソファー席に座り、私だけが椅子に腰かけていた。注文したドリンクが届くまで無言だったことは、今まで一度もなかった。目の前の四人はまるで私なんていないように、スマホの画面に注視していた。
きっと、私を除いたトークルームで会話しているに違いない。
落ち着かなくて、私テーブルの下で手を握ったり、さすったりして気を紛らわしていた。
注文したドリンクが運ばれ、みんなが一口ずつ飲む中で、私は自分のアイスティーのグラスを眺めていた。ぼんやり水滴を数えてしまうくらいに、沈黙が続いていた。
「心当たり、あるよね?」
口を開いたのは、サエリだった。
顔を上げて彼女たちの顔を見ることはできなかった。うつむいたまま、それまでと同じように「ごめん」と謝罪してしまう。
「なんで謝るの?」
とっさに口をついて出た言葉ではあるけれど、強気に問い詰められて息をのむ。うまいいいわけが思いつかずに、閉口してしまう。
答えられない私に、モモエが大きなため息をついた。
「何が理由かわからないのに、謝るのはどうかと思うよ」
また沈黙が流れて、しばらくすると、サエリが切り出した。
「小学校のとき、男巡って友情崩壊させたってマジ?」
四人の視線は冷ややかで、まるでナイフで突き刺すような鋭さを持っていた。
「今回は、私たちが好きな人かぶらなくて良かったけどさ」
「友達やってたら、今後そうなってたかもしれないって思うと、ゾッとするよね」
「早いうちに気づけて良かったよ」
「頼りにされていると思って調子に乗ってて、自分のやってることの重大さに気づけてなかったわけでしょ?」
ウケるんですけどぉ、と嘲笑する彼女たちに、何も言い返すことができない。
だって彼女たちの言う通りだった。頼られていることにいい気になって、自分の行動は正しいと信じて疑っていなかった。結局は三人を傷つけ、そのことをトラウマにしている私は傲慢なのかもしれない。
だから、もっと、もっと、自分の気持ちは隠さなければいけないと思った。誰にも悟らせないほどに、押し殺す必要があると思った。みんなに気に入ってもらえるように、みんなの望む「私」に慣れるように。「道」を、踏み外さないように。
そうやって信頼を得ることができれば、それまでの努力が私の味方になってくれるはず。そう信じて疑わなかった。
でも、どうやっても過去を変えることができないことを、忘れていた。
世間は案外狭いらしい。
誰からそんな話を聞いたかなんて、聞く気も起きなかったのに。
「ま、これ教えてくれたの、佐々木なんですけど」
耳を疑った。
「……佐々木、くん?」
予想外の名前に困惑する。彼女たちに私の動揺は手に取るようにわかるのだろう。その目が、口が、意地悪に歪んでいく。
「少女漫画気取りか、っての」
「白馬の王子様だと思ってたのが、実は毒リンゴ持ってきたおばあさんだったって、どんな気持ち?」
「ねえ、こんな時にちょっと頭いい発言しないで」
きゃらきゃら笑う彼女たちの声が、耳の奥で響く。耳を押さえたくても、体がこわばって、腕を動かせない。
「カスミさ、佐々木くんと付き合ってんでしょ?」
どん、と心臓が大きく動いた。頭が真っ白になって思考停止寸前で持ち直す。
わずかな沈黙でも、肯定と捉えたらしい。付き合ってない、そう口にする前に、さらに問い詰められる。
「私たちにはさんざん『ない』って言っておきながら、陰でこそこそやってんの、フツーにきもいんですけど」
「純情そうな顔して、意外とヤッてんね」
「でも結果的に裏切られてるんだからさ」
きれいなアイメイクの施された目に、捕らえられた。
「みじめだよね」
信じてた。佐々木くんはそんなこと、しないはずだって。
でも彼女たちが私の小学校時代の同級生と接触する機会はほぼゼロに等しい。ならば、誰が私の過去の話を知っているかといえば、佐々木くんしかいない。
ずっと、だまされていたのだろうか。
もしかして、私が傷つけた人の中に、彼のともだちがいたのだろうか。
あるいは、あの栄街の駅で彼を傷つけたことに対する、報復だろうか。
あの公園で話してくれた胸の内は、全部嘘だったというのか。
その名前は、私を絶望のどん底に突き落とすのに、十分だった。
視界がだんだんとぼやけて、膝の上で組んだ手に、ポタリと涙が落ちていく。
「あとさぁ」
まだ、何かあるのだろうか。そんなに私のことが嫌いなら、もう放っておいてくれないだろうか。これからは、決して出しゃばらずに、一人陰を歩いていくと約束するから。
誰かの特別になりたいなんて、望んだりしないから。
「何が許せないって、私たちにあげようとしてたチョコ、佐々木にあげたでしょ」
にわかに、一寸の光が差した。そのまま深海に沈んでいきそうだった私の意識は、その言葉で浮上する。
「……うそ」
「え?」
掌で涙をぬぐい、視界が鮮明になる。
「佐々木くんが言ったって、それ、嘘だね」
表情こそ崩さなかったものの、明らかに彼女たちの瞳に動揺が現れた。
「私たちのこと、疑うってわけ?」
「疑うっていうか、それは嘘だって、はっきりわかる」
「どうしてよ」
「だって私、佐々木くんにチョコをあげてないから」
サナが肩をこわばらせたのが分かったけれど、私は正面に座るサエリから順に彼女たちの顔を見た。
確かにあの日、佐々木くんにチョコをあげてしまおうかとも考えた。だから、教室を出る間際「くれない?」と言ってくれた彼に「もらってくれるの?」と一度はチョコレートの入った紙袋を渡した。
でも駅までの帰り道で私は考えを変えて、返してもらったのだ。彼女たちに渡す分は、やっぱり作ってみたい。佐々木くんには別のを用意する、と。それで佐々木くんは、一緒に作ることを提案してくれた。苦手なことをわかってる人が一緒にいる方がやりやすいだろう、と。
そこまでサナが見ていれば、そんな発言はなかったはずだ。
おそらく告白の後、教室で話しているのを聞かれたのだろう。迂闊だったと今更後悔する。
「なんで、佐々木とイイカンジになってること、私たちに黙ってたの?」
サナが言った。その目は怒りで真っ赤になっていた。
「私たち、トモダチなはずなのに、なんでそんなに隠し事が多いの?」
その声はほとんど叫びに近かった。店内の視線が私たちに向き、すみません、と謝る。隣に座るモモエが、サナをなだめていた。その光景を見て、きっとみんなはサナが佐々木くんに告白したことを知っているのだと、なんとなく確信した。
「サナの言う通りだよ。カスミって、一度も私たちに相談してくれたことなかったよね」
「だって私たちはさ、今までこうしてなんでも相談してきたのに」
「カスミはただ黙って、ニコニコ、適当な相槌打ってるだけでさ」
モモエが、サナが、ナナミが、矢継ぎ早に彼女たちの思いを私にぶつけてきた。
彼女たちの目は、疑惑に満ちていた。
「一度だって、私たちのこと、信用してくれたこと、ある?」
何も言えなかった。
入学してこれまでの約一年間、ずっと一緒に過ごしてきた。学校ではもちろん、授業中にもメッセージのやり取りをして、放課後は集まって、自宅に帰ってからも。四六時中スマホは自分の手の中にあった。
嫌われないことに、必死だった。
何かあればすぐグループ内なのに、他人のあしざまにいう彼女たちを見て、自分の振る舞いに気を使いすぎて、自分の本心をひた隠しにしてきた。
もっと最初から素直に伝えていれば、こんな風に私たちの仲は、こじれなかったのだろうか。
「ねえ、聞いてる?」
呼ばれてハッとなる。
「ご……」
ごめん、と言いそうになって「聞いてる」と言い直す。
「嘘だ。別のこと考えてたでしょ」
「ううん、ちゃんと考えてたの」
「何を」
「あなたたちのこと、私は信用してたか、どうか」
サエリが大きくため息を吐いた。
「考えてる時点で、信用したことないって言ってるようなものじゃない」
その通りだった。
「そういうところがムカつくんだよ。自分だけ『いい子』ぶってさ」
「ホントそれな。本心いわないのなんて、美徳じゃないよ」
ナナミの言葉には、同意する。私も、もし同じグループにこんな奴がいたら、イライラしてたかもしれない。自分の言いたいことを全部黙って、悲劇のヒロイン面をする奴なんか。
だから、変わりたかった。
「私はさ」
しゃべれなくて良かった、と笑う佐々木くんの顔が脳裏に浮かんだ。
「ある一人を除いたグループを作って、その人の悪口でもりあがるの、すごく嫌だったの」
ずっと疑問に思っていた。一緒にいればそりゃあ、それなりに不平不満は生まれるだろう。それでも、わざわざ誰かを省いたグループを作って話す理由は何なのか。それが分からなくて、いつも怖かった。だってそうじゃない話だって五人のグループではできていたのに、誰かがかけるとそれは始まるのだ。
「バッカじゃないの」
サエリが吐き捨てるように言った。
「悪口なんて、ただのコミュニケーションみたいなものでしょ」
目の前に、分岐点が現れて、私はようやく理解した。
「あんただって聖人君子じゃないんだから、先生のことだるいとか、誰のことが嫌いだとか、思うことあるでしょうよ」
それはある。誰だって愚痴をこぼしたくなることの一度や二度はあるに決まっている。私の過去語りだって、同じだと思う。吐き出したいこと、たくさんある。誰かをうっかり悪くいってしまうこともあるだろう。そうなるのはしょうがない、人間だれしもが持つ感情だから。
けれど、人をあしざまに言ってつながる輪を、私は大事したいと思えなかった。
結局私は怖かっただけだ。みんなの言う通り、いい子でいたかっただけ。彼女たちの輪の中にいれば自分の「いい子像」は保たれる。そこに安らぎを見出していた部分はある。
そんな醜い私は、もういらないのだ。
「あるよ、思うこと」
鬼の首を取ったように、彼女たちは笑みを深める。
「でも、だからって、みんなとはもう一緒にいれない」
誰かが「はあ?」と嫌悪をむき出しにする。
「あんた自分が何言ってるのかわかってんの?」
「わかってる。申し訳ないと、思う。こんな身勝手なこと」
だったら正直に言うな、ってそんな声も聞こえてくるようだ。
話し合えば分かり合えるとか、そんなうまい話なんてない。どれだけ意思疎通を図ったとしても、お互いに理解できない部分がある。それを許容できるかできないかが、今後も交流を続けていくかどうかのカギなのだろう。
けれど今の私は、その重みには耐えられないのだ。
「誰も知り合いのいない高校入学当時、声をかけてくれたことは、本当に感謝してる。ありがとう。……でも」
これだけは言っておかないといけない。
「私はもうこれ以上、あなたたちの友達ではいられない」
私たちの周りだけ、障壁で囲われたように音をなくした。
「なに、それ」
彼女たちの唇がわなわなと震えている。
蔑むような視線が突き刺さる。
「本当に、ごめん」
「で、なに? それで、佐々木と付き合うってこと?」
「違う」
そう思われても仕方がない。傍から見て、結託しているように映るのだろう。
でも佐々木くんとの関係は、付き合うとか、付き合わないとか、そういう感情とはまた別のものだった。私たちは抱えているものが全く違っていて、自分じゃない相手まで思いやる余裕なんて、持ち合わせていないから。
私の否定の言葉に、「どうだか」とみんなは不服そうだ。
無理にわかってもらわなくてもいい。この感情は、私だけのものだから。
「みんなのこと、好きだったよ」
「口だけではなんとでもいえるよね」
「だって、なんだかんだ言ってるけど、私のこと、今日までハブらなかったじゃん」
ぐっと言葉に詰まったのを見て、胸が締め付けられるようだった。
本当はたぶん、優しい人たちなのだと思う。その証拠に、私の前では私の悪口を一切言わなかったし、他の誰の目の前でも、その人の悪口は決して言わなかった。トークルームを間違えることだって、一度もなかった。
私の存在がきっと彼女たちを悪者に仕立て上げた。なんて悲劇ぶってみる。
「なにこれ」
持っていた紙袋の中から、朝渡しそびれたフォンダンショコラを取り出し、一人ひとりの目の前に、ラッピングしたフォンダンショコラを置く。今朝渡しそびれたものだ。
「バレンタインデイのお返し」
四人はそれぞれに見比べている。お互いにどうするのか様子を窺っている。
前みたいに、捨てられるかもしれない。目の前で、握りつぶされるかも。
これは、私のはただの自己満足だから、彼女たちがそうするのであればその選択を尊重しようと思う。
「これがカスミの本心ってわけ?」
どうなってもしらないぞ、言外含んだその言い方に、私は強い意志を持って頷いた。
「うん」
それで気が済むのなら。
モモエがため息をするようにつぶやいた。
「なんか、カスミって、思ってたのと、全然違った」
「……そうかな」
「佐々木と二人、変人同士でお似合いなんじゃない?」
「あんまりうれしくないな」
軽口で返すと、キッとにらまれた。
「こんな意味わからない人間、こっちから願い下げだよ」
サエリがそう言って席を立つ。それに続いてみんなもぞろぞろと、私の方なんて見向きもせずに、お店を出ていった。
テーブルの上に、私の作ったフォンダンショコラを残したまま。
たたきつぶされなかったのは、彼女たちのやさしさ。お返しができなかったのは、残念だけれど。
深呼吸を一つする。緊張を、すべて吐き出すように。フォンダンショコラを紙袋の中にしまい、氷の解け切ったアイスティーを一気に飲んで、私も店を出た。
三月も中旬。桜の木には今にも咲きそうなふっくらとした蕾がついている。真冬のように、心から冷えるような寒さはない。もう吐息だって、白くはならない。
私が立っている場所は大通りで、街灯であたりは明るいけれど、月だけはそこに輝いてすぐに見つけることができる。
きっと今の私なら、一人でも立てる。トロッコに乗って目的地に着くまでぼんやりするのではなく、広大な海を自分で船のかじを取って、どこまでも進んでいける気がした。
でもやっぱり不安になる。清々しい気持ちなのに、地面がぐらぐら揺れているように思えて心もとない。
車のヘッドライトで光の斑らができる真っ黒い歩道を一人、歩いて行く。
自動車の走行音。
すれ違う人の話し声。
建ち並ぶ店の中から聞こえる音楽。
すべてに焦燥感を駆り立てられる。
このままどこにもたどりつけなかったら、どうしよう。
また、一人ぼっちになってしまった。
そう思った時だった。
『河野さん』
夜明け前の一番暗いときに現れる導のような、「声」が聞こえた。
顔を上げると、喧噪の中に佐々木くんが立っているのを見つけた。少し慌てたような、心配するような表情。
『ごめん。やっぱ気になって、様子見に来ちゃった』
それは初めて聞く、佐々木くんの「ごめん」だった。
「なにそれ、盗み聞きってこと?」
『いや、盗み聞きってわけじゃないけど……』
自分のことは棚に上げて、佐々木くんをからかう。
今、自分が一番会いたかった人が目の前にいる喜びで、叫びだしたいほどだった。
「佐々木くん、私振られちゃった」
努めて明るい声を出して、フォンダンショコラの入った紙袋を掲げてみる。佐々木くんは何とも言えない表情をしていたけれど、それがありがたかった。
「だから、やけ食いするの手伝ってくれない?」
『いいよ。もちろんだよ』
紙袋の中から一つを取り出して、佐々木くんに渡す。私も一つ取り上げて、ラッピングを解いた。カップから外し、豪快に一口を頬張る。もうすっかり冷えてしまっているから、中のチョコレートは溶けだしてこない。咀嚼すればするほど、チョコレートの甘ったるさが口の中に残る。
止めていた呼吸を再開すると、チョコレートの匂いが肺いっぱいに入ってきた。
久しぶりに作ったチョコのスイーツは、涙が出るほどおいしかった。
**
桜の季節にはまだちょっぴり早い三月の終わり。修了式も、大掃除も終えた私たちは、来年度のクラス発表の前に席についている。このクラスで最後だからということで、入学当時の席にみんなついた。引き出しがカラカラの机の上には、教科書がたくさん入ったリュックを乗っけている人もいれば、筆箱だけが入ったスクールバッグを置いているひと、部活用のナップサックを置いている人と様々。
私も、空気だけを含んだリュックに身体を預けて、二年生では私たちを受け持たないという、担任の先生の最後の話に耳を傾けていた。
「それじゃあ、新しいクラスを発表する前に。ひとつやりたいことがあるんだけど」
連絡事項も全て終わって、先生はニコニコと何か企んでいるような笑顔を向けてきた。周りは「えーなにー?」「そういうめんどくさいこといいからー」「早くクラス教えてー」と一見愚痴っているようだが、その目は今から始まる何かに期待もしているようだった。
先生はその瞳の奥に隠れた好奇心を見抜いて、口の端をあげた。
「今からひとりずつ、これからの抱負を一言、言ってもらおうと思います」
みんなの頭の上にはてなが浮かんだのが見えたし、私も首を傾げた。
抱負、って、なんだろう。
先生は新品のように綺麗になった黒板に紙でできた横断幕を貼り付けた。それには「わたしの夢」と習字の師範の資格を持っている人らしく、丁寧な字で書かれていた。
「今からひとりずつここの教壇に立って、一言でいいから自分の夢を語ってください」
「えー、なんかそれたるくない?」
先生の言葉に突っ込む生徒に乗っかって、そこかしこから同調の声が上がる。けれど、声音からも、みんなそわそわしているのが分かって、案外まんざらでもないのだろう。
否定的な意見が教室を占める中、『はい』とある声が通っていった。
佐々木くんが、手をあげていた。
『僕が最初にやります』
みんなを見渡して、にっこりと笑顔を作ると、佐々木くんは教壇に一直線に歩いていった。これには先生もちょっと驚いていて、教壇の前にきた佐々木くんに道を譲った。
佐々木くんは教壇に立つと、スマホに文字を打ち込んだ。
『別に、夢らしい夢はないです』
期待していただきに、肩透かしを食らった気分になる。何言ってんだ、あいつ。やっぱ変な奴だな、なんて声が聞こえる。それも全部分かったうえでの行動なのだろう。『夢なんてなくたって死ぬわけじゃないし』と言い放ったので、周囲からブーイングが起こる。
『でも』と佐々木くんは続けた。
『僕にとって生きやすい明日が、また来ればいいな、と思います』
茶化すような言葉は、上がらなかった。水を打ったようにしん、と静まり返った教室で、各々何を思ったのだろう。佐々木くんは一番バッターとしてふさわしい行動を示した。
自然と拍手をしてしまった。私の拍手を皮切りに、教室内が喝采に包まれる。さすがのこれには、佐々木くんも照れくさそうに、頭をかいていた。
「誰にとっても、明日がいいものであるように、先生も願ってるよ」
新しい学年になってもがんばれよ、との担任の激励に、佐々木くんははにかんでいた。
「そしたら次は……」
担任はクラスを見渡して、佐々木くんに目を留めた。
「じゃあ、教壇に立った人が好きな人を指名していい、ってことにしよう」
『僕が決めていいんですか?』
「最後のクラス交流ってことで。いいか、みんな。こんな風に全員やってくからな」
ニコニコと腕を組む担任の言葉に、にわかに教室内に緊張が走った。そわそわ、落ち着かないけれど、胸を躍らせているような、そんな雰囲気。
何を言おうか。どう言おうか。誰に指名されるのだろうか。
(私は、何を言おう。)
考え始めたら、その思考はすぐにぶった切られた。
『じゃあ、次は河野さんで』
佐々木くんは高らかに告げた。一点、私に視線が集まる。ひそひそと周囲が言葉を交わし始める。佐々木くんは目が合うと、口角を上げた。
まだ何も考えていなかったけれど、呼ばれた手前席を立たなければいけない。
どうしよう、何を言おう。できるだけゆっくりと教団に向かうと、佐々木くんが片手をあげてきた。
「え?」
上げていない方の手には、スマホを持っていた。
『順番交代のハイタッチ』
ずいっと手を出してくる。ハイタッチなんて、したことがない。正解がわからなくて逡巡したのち、私は佐々木くんの手に、自分の手の平を当てた。パンっと軽い音が響くと佐々木くんは『交代』と自分の席に戻っていく。
ひとり、教壇の上に立つ。
教壇から教室を見渡すのは初めてだった。緊張からか、人の顔が見えなくて、ぼんやりと視界がかすんでいく。緊張がどっと押し寄せて、動悸がやまない。後戻りもできない。
今ここに私はたったひとり。打開策は、抱負を言って次の人を指名することのみ。倒れないように、教卓に両手を置いた。
口を開こうとすると、うまく言葉が出てこなくて、息だけがひゅうひゅうと出たり入ったりを繰り返す。
暫くしても話さない私を見かねた先生が「何でもいいぞ」と促すけれど、頭がうまく働かない。自分の二本足がどんなに心もとないものなのか、改めて思い知った。
それでも私は、一人で立つことを選んだのだ。指名されたとはいえ、自分の意思でここに立った。自分の存在を、肯定するために。
ふと、見定めるような視線が飛んでくる。サナや、ナナミ、モモエ、サエリ。私が自分から切り捨てた人たち。
そうだ。彼女たちに、証明しないといけない。
大きく深呼吸を一つ。
もしかしたら、ここにいるみんなも私のように、うまくいかなくて枕を濡らした夜があっただろうか。これ以上は無理だと歩みを止めそうになる朝が、あっただろうか。それぞれに思い描いている未来があるのだろうか。あるいはそれを探している、まだ道半ばだろうか。
今までは自分が悲劇のヒロインぶって他人のことなんて、考えようとも思ったことがなかった。けれど――。
佐々木くんと視線がかち合う。唇が『がんばれ』と動く。
「私は……結婚式で、友人代表挨拶を、してみたいです」
は、と。みんなの口から、素っ頓狂な声が出たように見えた。実際、隠せず漏れ出た人も何人かいた。それでいくらか緊張がほどけた。
「以上、です」
一番最初に拍手をしてくれたのは担任で、それに倣ってクラス中に拍手が響き渡った。
「友人の結婚式とか、あこがれだよな。俺もスピーチはしたことないけど、やっぱり友人の幸せそうな姿見るのはいいぞ。お前らも、結婚式には俺を呼んでくれよ」
ぜってー呼ばねーなどと軽口が飛んでくる。サナたちは、もう私のことなんて見ていなくて、机の中の小さな画面に集中しているようだった。
ほんの少しいたずら心が芽生えた。
「それじゃあ、河野は誰を指名するんだ?」
「……森口サナさん、で」
呼ばれると思っていなかったのか、サナは正気か、とでも訴えるように勢いよく顔を上げた。
「それじゃあ、森口。こっちこーい」
これ見よがしにため息をついて見せたり、などはしていなかったけれど、心底いやそうなのが手に取るように分かった。
あの話し合い依頼、彼女たちとは言葉を交わしていない。教室内で私は所属するグループをなくして、ひとりになった。私たちに何かがあったらしいことは、女子は察していたようで「大丈夫?」と心配してくれる声さえあったほど。
彼女たちは、私と何があったのか、言いふらしたりはしていないようだった。ただ、もう一緒にはいられないという拒絶を示すだけにとどめていてくれた。それにはひそかに感謝している。
サナが私の前にやってきた。佐々木くんにされたように、手を出せば、一瞬のためらいはあったものの、サナの手は私に触れて、清々しい音を立てた。
これで、最後だとでもいうように。
サナの夢は、安定した生活を送ること、だった。彼女らしいと思った。
それからひとりづつ、教壇に上がって各々の抱負、または夢を語った。
世界旅行したい。
外国語喋れるようになりたい。
研究者になりたい。
彼氏が欲しい。彼女が欲しい。
まだ夢はないけど、そのうち探せるようになりたい。
友人、付き合ってる人、気になる人、と同性を指名したり、異性を指名したり、クラス総勢四十人で、夢を語りあった。
最後の一人を終えたあとの不思議な余韻の中、私たちは全員顔を伏せるように言われて、それぞれの夢を思い起こしながら、軽くなった机の上に突っ伏した。ぎいっとパイプ椅子の軋む音と、担任の足音が教壇にこだまするのが聞こえて、止まった。
静かな教室に、マグネットを付け替える音がする。教室の外からは、賑やかな声が聞こえ始めた。他のクラスは最後のホームルームを終えたようだった。
「今夢がある人も、そうじゃない人も、何かを願うことは人生において、何かしらの原動力になると思う。だからこの先もみんな、各々『何かに向かって、進んで行く』という気持ちを忘れないでください。それじゃあ、解散! とっとと来年のクラス確認して帰れ!」
教室は先生の合図で一斉に顔を上げ、黒板前に集った。
**
「どうして、名前があったんですか、サトルさん」
ヘッドホンを装着して、パソコンに向かうサトルさんにはなしかけても、返事はない。こんな目の前で聞いているのに。
『出席日数、足りてなかったからね』
「佐々木くんは知ってたの?」
『まあ。年が明けた時点で、分かっていたし』
だから保健室を自分の部屋のように使っていたのか、と納得する。いや、そもそもずっと保健室にいたのかもしれないけれど。
あの一件があってから、保健室にはよく来るようになった。彼女たちが私たちの顛末を一から百まで話してなかったにせよ、グループに所属しないというのは、思いのほか肩身の狭い思いをした。
暁の間は、そういう人のために開かれているから、という佐々木くんの言葉に励まされ、お昼休みはたいてい保健室にいた。
『でも僕、来年も同じクラスでうれしいよ』
佐々木くんが当たり前のように言うので、私も照れずに「うれしい」と返すことができる。
来年のクラス割の結果、私と佐々木くん、サトルさんは同じクラスに名前があった。
かつての居場所だった四人とは離れ、その四人もそれぞれバラバラのクラスになっていた。あれだけ結束しているように見えた彼女たちは、来年も一緒にいるのだろうか。はたまた、別のグループに所属するようになるのだろうか。
いずれにせよ、今までだってそうしてきたように、きっとうまくやるのだろう。けれど、できるだけ傷つかない日々を過ごせるよう、願わずにはいられない。
『来年は修学旅行もあるし、楽しみなことたくさんだ』
ね、サトル、と佐々木くんが話しかけても、サトルさんはパソコンから顔を上げようとしない。
『やっぱ返事ないね』
保健室に来るようになってから、どうしたらサトルさんの気が引けるのか試行錯誤を繰り返しているのだが、私には一向に興味を示してくれない。佐々木くんは幼馴染だし、「声」を作ってもらったりしているから、私よりもサトルさんとの親密度は高い。サトルさんのそっけない態度にも、いつだって嬉しそうにする。でも、その腹の内はいつだってサトルさんを困らせたくてしょうがないようで。
『それじゃあ、必殺奥の手で』
「奥の手?」
佐々木くんは暁の間に入り、パティスリーエレのドラジェの箱を手に戻ってきた。
『河野さんも食べる?』
「うん、食べる」
佐々木くんたちの前で、私はアーモンドを克服できた人間になっている。でもドラジェと奥の手のなんの関係があるのだろう。佐々木くんが蓋を取った中には、いびつな形をした色とりどりのアーモンドがあった。
『河野さんがアーモンド苦手なの、サトルから聞いたんだ』
「え?」
佐々木くんは「声」に読み上げることはさせずに、文面だけを見せてきた。
『フードコートで、ドラジェに手を伸ばさないのをサトルが見かけてて。それで知ったんだ』
あの当時、私はサトルさんの声は知っていたけれど、姿を見たことはなかった。道理であの場にいたとしても気づかないわけだ。申し訳ないことをしたと思いつつも、それを見てどうにかしようとしてくれた心遣いに感謝の念が募る。
「ありがとうございます」
突然の感謝の言葉を不思議に思ったようで、サトルさんはようやく目線だけくれた。
「ドラジェ、今では好きなものです」
隣でニタニタと笑みを浮かべている佐々木くんの表情と併せて察したのか、サトルさんは「リョウガ」と低い声を出した。
『だって、こういうのは知っててほしいじゃん』
「知らなくていいこともあんだよ」
『僕は知っててほしかった、だから言った。ね、河野さん。知れてうれしいでしょ?』
「うれしいです」
サトルさんに向かって伝えると、私を一瞥してすぐパソコンに戻ってしまった。いつもはポーカーフェイスのサトルさんの口が、変な感じに曲がってる。『照れてんだよ』と音量を下げてた佐々木くんから教えてもらった。
『そういえば、河野さん知ってる?』
佐々木くんは箱から水色の粒を一粒摘まみ上げ、コロンと頬張った。
『ドラジェって、『幸福の種』っていう意味なんだ。だから、河野さんにも、幸福のおすそ分け』
売り物にならないいびつな形をした、宝石たち。手に入らないと思っていたものがすぐ目の前にあるのは、なんだか不思議な気持ちだ。食べないの、とでもいうように佐々木くんが首をかしげるから「もらうね」と手を伸ばす。
私は白い一粒を摘まみ上げ、幸福の味をかみしめた。
完