「カスミはさ、私たちが想像もできないような大恋愛しそうだよね」
 お昼休みのことだった。いつものメンバーで教室にてお昼ご飯を食べていたら、ナナミがそんなことを言った。彼氏のいるナナミや、片思い中のモモエの話から、最近の同級生の恋愛事情の話をしていて。
昨日サナやサエリは中学の同級生の伝手で合コンに参加してきたらしい。メンバーの質も中々よくて、思ったより気が合ったから、と近々また遊びに行く予定があるのだとか。
クリスマスの次にある恋のイベントと言えばバレンタインデイ。もう数週間後に迫ったその日に、本命チョコをあげる相手がいるというのは、ある種のステータスになるようで、両想いのチャンスをそのイベントにかけている人の話を、よく耳に挟んでいた。
 私はそんなことには「興味がない」と思われているから、二人が参加することは事前に聞いてはいたけど、誘われなかった。
だから、いきなり水を向けられて、私は内心ドキリとしながらも、平静を装った。
「そうかな?」
「だって、なんか。そんなイメージなんだよね」
「あー、わかるかも」
 ナナミの首元には、今日も彼氏のネクタイが締められている。私たちと話した後に先輩彼氏に話をしたら、あとは彼氏が手ずから教えてくれた、と聞いたのはその翌日のこと。さすが、行動が速い。
紺色に水色のストライプの入ったネクタイに触れながら会話をするナナミを、みんながちらと鋭い眼光で盗み見ているのを、私は見て見ぬふりをした。
「初めて付き合う人と、そのまま長く付き合っててほしいよね」
「あわよくば、結婚までいってほしいかも」
「初キスは付き合ってから一か月記念日、とか」
「私、カスミにはどろっどろの恋に落ちてほしい!」
 次から次へとみんなが妄想を膨らませていく。私は何となく居心地が悪くなって、どうにか話題を別の方に持っていけないかと考えていた。
「私そんなタイプに見える?」
「見える見える。ていうか半分願望?」
「ああ、でも」
 そうやってお決まりの言葉が出る。
「今のカスミは、興味ないもんね」
 私はあいまいに笑って、それ以上は何も言わなかった。
 誰が好きとか、そんな話。興味ないわけじゃない。ナナミの話も、モモエの話も、両想いの楽しさとか、片思いの甘酸っぱい苦さとか、そういう恋愛話を聞かせてもらえるのは、そういう深い間柄だということを示してくれているわけで。
「河野」
 名前を呼ばれ振り返ると、クラスメイトの男子の一人と目が合った。
「浅田が呼んでる」
「え……?」
 男子が指さす教室のドアの方に目をやると、一人の男子が私に向かって手を振ってきた。短髪に浅黒い肌。ちらりと見せた教科書は、今朝私が貸した教科書だった。
持っていたお箸を置き、席を立つ。教室の外に出ると、浅田くんという男子が教科書を私に気づいて駆け寄ってきた。
「貸してくれて、ありがとね。桜庭先生、教科書忘れると怖いから。マジで助かった」
「あ、いえ……」
 浅田くんとはこれが初めまして。今朝英語表現の教科書を忘れたと言って、同じ部活の仲間を頼りに私のクラスにやってきた。今日うちのクラスは授業自体なかったし、教科書を置きっぱなしにしているひともいなかったが、私がほかの教科書と一緒に間違って持ってきてしまったのを、たまたまサエリが見ていた。学年でも人気のグループに所属している浅田くんとサエリが同中だったこともあり、「私の友達が持ってるよ」と、流れで貸すことになったのだ。
 教科書を受け取ると、浅田くんは「それじゃあ」と私と、サエリに手を振って隣のクラスに帰っていった。自分の席に戻る際に、不自然にならないよう素早く教室を見渡した。
 佐々木くんは、窓際の席で友人たちと談笑していた。
 私の視線には、気づかない。
「教科書、返してもらったの?」
「う、ん」
 席に着くと、みんなが互いに顔を見合わせる。
「カスミには絶対年上じゃない?」
「分かる。同級生男子とかは幼稚過ぎてむり。カスミにはもったいない」
「カスミには精神年齢の高い、包容力の高い人がいいよね」
「そう、かな?」
 まだ盛り上がっている話に私は作り笑いを張り付ける。
 知ってる。これが呪いだって。私の高校生活では、彼氏できないよねって、そういう。
 確かに、みんなと同じようにスカートの丈を短くしてみても、肩口まで伸びている髪の毛先を巻いてみても、薄い唇に口紅を引いてみても、誕生日にもらったコロンでいい香りをさせていても、私には浮いた話の一つもない。
 私の属しているグループは特別派手ってわけでもない。校則のスカート丈を守って、髪も染めたこともなければ、きっちり一つ結びにしている真面目な子たちのグループもあったりする。その子たちに比べたら派手なほうかもしれないけど、五組の日下部さんたちのグループに比べたらそんなことない。スクールカーストで言えば、中の上あたりだと思う。 よくわかんないけど。
 所詮擬態していても、私はみんなの引き立て役として、グループに入れてもらえただけ。
 分かってる。でも、いいの。仲間外れにさえされなければ、それでいい。
 精一杯の大きな猫に自分の本心を隠しているから。
大丈夫、これは私に言ってるんじゃない。だから絶対、傷つかない。
 そう言い聞かせて、ぐっと何かに耐えるように奥歯を噛んだ。
何がきっかけとか、そんな一番最初のことは覚えていない。でも、自分で言うのもなんだが、私は人付き合いは得意な方だった。他人に合わせることできた。だからみんなの求める「私像」を収集して、気に入られるように努めた。
でも、小学校の卒業間際に、あることがきっかけで友情が崩壊した。
幸か不幸か、中学入学と当時に両親の仕事の都合で転勤することになり、全く新しい場所でのスタートを切ることができた。だった。公立の中学校と言えば、同じ小学校上がりの人間が大多数を占めるわけで、すでに仲良しグループが出来上がっているところに飛びこむのは相当な勇気がいる。でもだからこそ、同じ轍は踏まないように細心の注意を払っていた。
 誰からも嫌われたくない一心で、みんなに平等に親切に接していたら「カスミちゃんはやさしいよね」って免罪符をもらうことはできたけれど、それだけだった。誰も私を「親しい」の輪には入れてくれなかった。
 それに気づいたのが中学二年生。放課後、誰もいなくなった教室のベランダ。忘れ物を取りに学校に戻ってきたら、カーテンをなびかせた風が運んできたのは、楽しそうな笑い声。くすくすと、笑いあう同じクラスの女子がふたり、日の傾くベランダで二人っきりの世界にいた。
寄り添いあって、きゃらきゃらと話し合う二つの影を見て、ざらついた何かが胸の内をくすぐった。そして一つの疑問に駆られた。
 ――どうして私には「親友」がいないんだろう。
 それなりに楽しい学校生活は送っていた。教室の移動も、昼食を食べるのもひとりではなかったし、クラブ活動の人間関係も良好だった。友情が壊れる瞬間を経験したから、深い仲にならないように気を付けていたはずなのに、自分が望んだ環境に身を置いていたはずなのに。
同じクラスの彼女たちの様子を見て、「孤独」というものに、気づいてしまった。
大勢の中で笑うことも、楽しむこともあるけれど、私には「話」をする相手がいなかった。何か悩んでいること、不安なこと、心配なこと、楽しかったこと、嬉しかったこと、そういうことを「共有したい」と思える相手がいなかったのだ。
それからは、同級生の挙動が気になって仕方なかった。部活帰りの楽しそうな三人組、いつも勉強会やってる頭のいいふたり、休日の予定を立てる四人グループ。
卒業アルバムに写る私は大勢の中のひとりで、寄せ書き欄もたくさん「いつもやさしいカスミちゃんへ」のメッセージでいっぱいだったけれど、それが、無性に寂しく感じた。
高校はそれまでの環境を変えたくて、中学からの同級生が誰一人いないところを選んだ。
そこで、スクールカーストの、そこまで高くもないけれど、絶対に低くないグループの中に入ることに成功した。でも、期待していたようには、いかなかった。
彼女たちが嫌いなわけじゃない。なんだかんだ言って私を輪の中に入れてくれるから。そんなに嫌われては、いないのだと思う。
でも、だれか一人を除いたトークルームができるたびに、私もみんなに嫌われてるんじゃないかという猜疑心がどんどん、ぬぐえなくなっていった。信じたい気持ちはあるのに、うまく振舞えない自分に嫌悪感を募らせる。
それでも見ないふりをして、どうにかここまでやってきた。
「サエリは、浅田くんはナシ?」
 小悪魔のようにささやくサナに、サエリはまんざらでもなさそうな顔をする。
「いやぁ、でもあいつバカだよ? なんで人気あるかわかんないけど」
 すこしぼんやりして会話を聞いてなかったけど、それほど話題は大きくそれていないようだった。お互いを探るようなやり取りに、私が自分から話題がそれたことにほっとしながら、また窓際で音声読み上げソフトを使いながら会話する佐々木くんを見やる。
 スマホを壊してしまった事件からしばらく経つが、あれ以来、言葉を交わすこともなければ、視線が交わることもなかった。
そういえば、佐々木くんにとっての「親友」は、あのパーテーションの向こう側にいた人なのだろうか。結局姿を現さなかったから、声だけしか知らない人。あと、被検体って、どういうことだろう。
でも彼はきっと、今後も私とはかかわらないだろう。
かぶりを振って、わいた疑問を打ち消した。

**

「みんなくじは引き終わったかー? そしたら各自場所確認してさっさと席移動しろー、一時間目開始までには落ち着いておけよー」
 先生監視のもとに、毎月初め恒例の席替えが行われた。廊下側一番前の席の人から順番に教卓のくじを引いて、黒板に示された座席表を確認する。番号順に前から順に席が決まるのではなく、先生が毎回ランダムに数字を配置していくので、一番を引いたからと言って一番前の席になるわけではない。しかも男女混合の席配置にされるから、女の子ばかり、男の子ばかりのブロックができたりする。
「ねー! みんな席どこだったの?」
「真ん中の一番前? ご愁傷様」
「後ろの角席だったー、ラッキー」
 くじ引きに一喜一憂するクラスメイトの声を聞きながら、私の心臓はせわしなく動いていた。さっきから冷や汗が止まらない。
朝、登校してから私はずっと絶望の淵に立っていた。日ごろから忘れ物は無いように、といつも気を付けていたはずなのに。
『英語表現、ちょーだるい~』
 モモエが投稿したダイアリーを今朝電車の中で確認して、私は英語表現の教科書を忘れたことに気が付いた。
目覚まし時計のセットを忘れて、今朝起きた時には予定の起床時間を三〇分もすぎていた。いつもの電車を逃すと、登校時間ギリギリになってしまうものだから、それだけは避けたい一心で、電車を逃さないために大急ぎで準備をした。しかし、あまりに慌てていて英語表現の教科書を机の上に忘れてきたのに、命からがら電車に乗り込んでから気づいた。
英語表現の教科担当は忘れ物にうるさい。だからいつも忘れないように気を付けていたはずなのに。私は敢えて地元の同級生がほとんど来ないような学校を選んだ。だから他クラスに特別仲のいい友人がいるわけではなく。隣のクラスは体育の授業で一緒になるから、何人か知り合いはいるけれど、教科書の貸し借りができるような仲ではない。
登校したときから今日席替えがあるのは分かっていた。隣に来るのがせめて、友人のうちの一人であることを願いながら、一つ隣の席に荷物を移動させて周りを見渡した。
モモエとサナが前後になったみたい、サエリとナナミは斜め同士で窓際の席に。
誰も私の真ん中列一番後ろの席の隣にはならない。
そうなったらせめて、女子が隣に来てくれと願うけれど、左隣は学級委員長の男の子。「一か月よろしくね、河野さん」と律義に挨拶してくれるのに、愛想笑いで返す。こんな精神状態でなければ、もう少し心をこめられたというのに。ごめん委員長、と心の中で謝りながら、右隣りは女の子が来るように祈った。
徐々にクラスメイトの移動する波が収まってきたところで、隣にやってきたのは。
「え……」
 思わず声が漏れて、慌てて口を手で押さえた。それに気づいた佐々木くんがこちらを見た気がしたけれど、慌てて顔をそらしてごまかした。
 英語表現のノートを机の上に出すと、一時間目開始の本鈴が鳴った。まだ少しにぎわう教室に教科担当が入ってきた。
「正座、礼」
「よろしくお願いします」
「そしたら前回の続きで……」
 学級委員長の号令を合図に、先生が授業を始める。私は机の中に、あるわけがない教科書を探していた。前回、チャプターの途中で授業が終わってしまったから、先生はその文章の文法の説明をしている。まだ朗読のターンではないから、板書で乗り切れる。でも次のチャプターに移れば、ランダムで指され、英文を読み上げるように言われてしまう。
 どうしよう、ここは素直に、先生に教科書を忘れたことを言うべきか。でもそれなら、授業の始まったタイミングで言った方が、いくらかましだったかもしれない。
 声をかけるなら、委員長一択だけれど、どのタイミングで声をかけよう。
 板書の手が止まって、先生の声もぼんやりとしてきた。
『先生』
 突然、声をあげたのは、佐々木くんだった。
『すみません、教科書忘れてしまったので、隣の人から見せてもらってもいいですか?』
先生は眉間にしわを深く刻んだのが見えて、空気が一瞬にして凍るのが分かった。出席簿に鉛筆で何かを記し「次からは授業が始まる前に言え」と言い放つと、また黒板に向き直った。
どうか、お願いだから、右隣りの男子に頼んでくれ。板書に必死なふりをして、特に意味もない蛍光ラインを引きながら、神に祈った。
しかし、私の願いもむなしく、佐々木くんが声をかけてきたのは私だった。
『申し訳ないんだけど、教科書見せてもらってもいい?』
 佐々木くんはアプリに文章を読み上げさせることはせずに、スマホに打った文面を見せてきた。ごめんなさい、私も教科書持ってないんです。口の中で何度か文章を練習し、意を決して佐々木くんを振り返ると、彼の机の上には英語表現の教科書が出ていた。
 混乱して、その教科書と佐々木くんを見比べると、また別の文章を見せられる。
『机の中に入ってたの、僕のじゃなくて河野さんのだったんだ。だから、見せてもらってもいい?』
「……え」
そんなはずはない。だって私はちゃんと教科書を家に忘れている。今すぐ確認しに帰ってもいい。けれど、これが決定事項のように、佐々木くんが静かに自分の机を私の方に寄せてくるから、ある意味の現実を受け入れざるを得なかった。
『ありがとう』
 佐々木くんは机の端と端をくっつけた境目で教科書を開いた。どこかしらから視線がこちらに飛んできているのが分かったけれど、それに応えることはできなかった。ただ必死に視線はノートと黒板だけを行きさせた。努めて、机の中で光るスマホに気づかないふりをした。
 授業の合間にこっそり裏表紙を確認したが、そこには払うような筆遣いで「一年三組十一番 佐々木リョウガ」と書かれていた。
どうして佐々木くんは気づいたのだろう。
 考えてもしょうがないことなのに、胸が熱くなって、授業中にもかかわらず泣いてしまいそうだった。
 授業が終わると、佐々木くんは『ありがとうございました』と私に教科書を渡して、机を離した。誰にも裏表紙の名前に気づかれないよう、机の中に教科書をしまった。代わりに出したスマホの画面には『どういうこと?』『ねえ、佐々木と仲良かったの?』『カスミー』と質問が次々に送られてきていた。私がなかなか画面を見ないことに気づいてからは『昼休み、逃げないように!』とモモエからの返信で終わっていた。
だから、お昼休みには「佐々木くん、もしかしてカスミのこと狙ってるんじゃない?」と尋問にあった。
「そんなこと……」
 やんわりと否定してみても、彼女たちは面白がるばかりで。
「えー、でもわかんないよ。こういうとこから始まるんだから」
「そうだよ、だって右隣は男子なのに、わざわざ女子に行くってことはさ」
「ね、そういうことだよね?」
 きゃらきゃら、みんなが盛り上がるのに教室の端でいつものメンバーで昼食を食べている佐々木くんたちのところまで、会話が聞こえているんじゃないかと気が気じゃない。私は「ちがうよ」と力なく否定しながら、一生懸命考えていた。
 この前までは、私と恋愛を切り離して考えていたのに、今は獲物を見つけたようだ。浅田くんはだめだけど、佐々木くんはいいってこと? それって、彼女たちの中では、佐々木くんのランクが下だということだろうか。仮にそうだとしても、もし私が万が一にでも付き合い始めたら、面白くなくなるんだろうな……。
「ぶっちゃけどう?」
「ありか、なしかで言ったら?」
「え……」
 苦し紛れに私が出した答えは「わからないよ」だった。
 正直に、分からない。今の自分の気持ちはもちろん、佐々木くんのこと、よく知らないのに、まるで佐々木くんは私のことを知っているようにふるまって見せるから。
「えー、つまんない。ただの話なのに」
 口をとがらせるサナの言葉に、心臓がすくみ上がった。けれど、ほかのメンバーにとって この私の正直な回答は、どうやら正解だったみたいで。
「まあ、カスミだし。そりゃわかんないか」
「そうだよね。カスミのひとめぼれとかはちょっと解釈違いかも」
 ひとめぼれといえばさ、とナナミが仕入れた最新のゴシップを披露するからみんなの興味がそっちに移る。若干の違和感を抱きつつ、私も耳を傾けた。
時折佐々木くんのグループからの視線は感じつつも、佐々木くん自身もあれ以上私にかかわってくることもせず、一日が終わろうとしていた。

 嘘は、一度ついてしまえば、二度目のハードルは下がったように思う。適当に「先生に呼ばれた」とついた嘘をみんなは簡単に信じて、「またお人よし発揮して」と呆れながらも帰っていった。
 放課後の図書館は時間をつぶすにはもってこいだった。彼女たちはあまり本を読むわけでもないから、ここを訪れる心配もなかったし。頭上の掛け時計を確認すると、午後六時をちょうどすぎたところだった。膝の上の置いていた本を返して教室に戻ると、自分の隣の席が目に入る。
 結局あの後は、タイミングが無くて、教科書を返すことができなかった。
音楽室の方から楽器の音色が聞こえて着たりはするけれど、校舎に残っている生徒はほとんどいない。それもそうだ、今日は午後から雨予報で、今もしとしとと雨が降り続いている。冬の雨の日は寒い。ただで寒いのに、傘をさしていてもどうしても濡れてしまうから、皮膚に水滴がついたそこから体温を奪われていく感じがする。雨脚はそんなに強くはないが、家に着くまでに靴下は浸水してしまうだろう。ため息が出るのが、そんな憂慮から来るのもあるが、一番は緊張だ。
改めて教室内を確認する。私のスクールバッグだけがまだ机のフックにかかっていた。
 返すなら、今。もう一度、周囲に人がいないのを確認して「ありがとうございました」と書いた付箋を表紙に張り付けた。あとは何が好きかわからなかったから、お昼休みに購買で買ってきたクッキーも一緒に、佐々木くんの机の中に入れて、そっと手を合わせた。
廊下の閑散としている具合からも察せられたように、校舎に残っている生徒はほとんどいない。教室を後にするときも、各教室に私の後に帰りそうな人がいないかどうかを確認しながら、昇降口に向かう。
階段をおりようとして、靴箱の前に人がいるのに気付いた。外履きに履き替えて、体育座りでガラスドアの向こうを眺めている――佐々木くんだった。
何をしているんだろう。
 なんとなく下に降りづらくなって、頬杖を突く佐々木くんを眺める。
一度教室に戻って、出直すか。それとも、降りるまで気づかなかったふりをして、何事もなかったようにふるまうか。教科書を貸してくれたお礼を、ここで今いうべきか。
 そんなことを考えていたら、佐々木くんがふい顔をあげて、目が合った。
猫っ毛がふわりと揺れて、その目が見開く。佐々木くんが形式的にお辞儀をしてくるから、私も反射的に頭を下げた。
視線が交わったのは、ほんの数秒。それは私たちの関係値を示しているようだった。スマホを壊し、壊されて、教科書を忘れて、見せてあげた。それだけの関係。
佐々木くんの視線はまたラスドアの向こうの降りしきる雨に戻った。少し笑っているように見える口角の上がった口から、ため息が漏れていくのが聞こえた。
ため息って、声が出なくても、吐けるんだ。
 佐々木くんは、傘立てから傘を取る気配もなければ、ここを今すぐ出て行くような雰囲気でもない。もしかして、傘がない、と言ったところだろうか。
 私の傘は傘立てに一本ある。そして、スクールバッグの中にも折り畳み傘がある。以前サエリに貸した折り畳み傘を、今日ちょうど返してもらったのだ。
昇降口で座り込む佐々木くんには、傘を貸してくれる友人の一人や二人はいだろう。今ならまだ部活をやっている友達もいるだろうし、声をかければ一人ぐらい置き傘を貸してくれるはず。それに、玄関の傘立てに立ててある名前のない傘を勝手に拝借したって、佐々木くんをとがめる人はいないだろうに。
しかし、佐々木くんは依然として静かに外を眺めているだけだった。
このままいつ止むか分からない雨を待つのだろうか。
 ――でも、今が一番恩返しのチャンスなんじゃない?
 これは好機だと頭ではわかっているけれど、体はすぐに動いてはくれない。いつか浅田くんに教科書を貸したように、そうさせる口実が出来上がっていない、つまり自分で作り出すというのは、今の私にとって嘘を吐くよりハードルが高い。
 足踏みしている間にも時間は無情に過ぎていく。
佐々木くんは着ていたダウンコートのフードを目深く被り、立ち上がった。
「あの!」
衝動的に、自分でも驚くぐらい大きな声が出た。壁という壁に声が反響して、いつかの佐々木くんの笑い声、まではいかないにしても、なかなかの音量だった。耳の奥で自分の声がぐらんぐらんと響いている。
フードをかぶったまま、佐々木くんは私を見上げた。
 私はばたばたと音を立てて階段を降り、紺色に白のストライプが入った折り畳み傘をスクールバッグの中から出して、佐々木くんの目の前に差し出した。
「もしよければ……どうぞ」
 胸は早鐘を打ち、折り畳み傘を持つ手は震えていた。
佐々木くんはフードを取って、私と傘を見比べた。
間違えたかも。後悔が一気に押し寄せて、私は出した手を引っ込める。
まちがえた、まちがえた、まちがえた。
何てことしたんだろう。今すぐここから逃げ去りたい。でも、足がすくんでしまって、動けない。どうしよう、代わりに佐々木くんがこの場から立ち去ってくれないかな。頭の中は真っ白になって、羞恥に顔がどんどん熱を持っていく。
消え去りたい。
どうにもならないのはわかっているけれど、俯いでぎゅっと目を瞑った。
『でも、河野さんは?』
見上げた佐々木くんは、困った表情をしていた。
「……教室に、予備があるから」
 本当は傘立てにあるのに、とっさに嘘をついた。
『本当に?』
 あたらめて聞くと、佐々木くんは、こんな「声」だったのか、と妙に感動していた。「低い」という言葉より「深い」という言葉が似合いそうな優しい音色だった。本当に、心から私を気遣うような声音でなぜか目の奥が熱くなってきた。
「本当に、あるので、大丈夫です」
 それでも不安そうにする佐々木くんに念を押すように見つめ返すと、私から傘を受け取った。
『助かります。ありがとう』
その細い目元は、三日月のように弧を描いた。真っ暗闇の中に浮かぶ月明りを見つけて、自然と笑顔になるような、そんな気分になった。
「じゃ、じゃあ」
 ほとんど逃げるように、私は教室への階段を駆け上がった。下からこちらが見えない位置から玄関を見下ろすと、しばらくこちらを見ていた佐々木くんは、私の貸した傘を開いて、校舎を後にした。
 制服がぐしゃぐしゃになるにも関わらず、心臓を抑えつけるように自分の胸元をぎゅーっと手でつかんだ。大きく胸打つ鼓動が、耳の奥から聞こえてくるようだった。
誰かに手を伸ばして、だれかがそれを取ってくれるだなんて、久しぶりだった。
震える手でそのまま頬に触れると、しっとりと湿っていた。
こんな些細なことで泣けてしまう自分が、可笑しくて、緊張を吐き出すように笑いがこみ上げた。

**

六時間目終了の鐘が鳴って、今日一日の授業日程を終えた。
後は掃除をして、ホームルームで下校だ。なんてことない一日が終わろうとしている。今週から体育館の掃除当番だった。私はサエリとモモエと一緒に渡り廊下を使って体育館に向かった。
 体育館では先にやってきていたクラスメイトは、玄関ホールに集まっていた。その中に佐々木くんの姿もあった。
 私のクラスは男女ともに先生が適当に決めた四つの班に分けられ、一週間ごとに掃除場所をローテーションする。主に体育館の掃除に割り当てられて、三班分の人数が割かれる。私は二班で、四班の佐々木くんとは先週ぶりに掃除場所が一緒になった。
 遅れてやってきたクラスメイトが輪に入ってきて、「それじゃあ、掃除場所決めていこう」と誰かが言った。メンバーが変わる月曜日に、体育教官室を含む広い体育館のどこを掃除するかを決める。「私女子トイレ」「俺はギャラリー」と半年以上一緒にやってきた間隔で、だいたい誰がどの場所に行くかは宣言しつつも暗黙の了解で決まっている。
 次々にクラスメイトがやりたい場所をあげていく中で、いつも人気がない場所があった。
「じゃあ、カスミまた後でねー」
 そう言って女子トイレに連れ立っていくサエリとモモエに手を振り、私は唯一名前を呼ばれなかったいつもの場所へ向かった。
 入学の時から私の掃除場所。ギャラリーから舞台袖に続く階段と、舞台上の掃き掃除、そしてごみ捨て。最初の掃除決めの時に人気がなさ過ぎて私が手をあげて以来、誰が宣言することもなくあそこは私の定位置になっていた。
体育館はとにかく広くて、いろんな場所に人員を割かなければいけなかったのだ。だからひとりっきりで掃除しなければいけない場所は、当然人気があるはずもなく。入学当初はサエリ達とも特別仲が良かったわけじゃないから、私が「それなら」と引き受けた。
みんなは同情を向けたけれど、私はそこまで落ち込んでもいなければ、むしろラッキーくらいに思っていた。掃除の時間くらい、一人になりたかったから。「ひとり」は嫌なはずなのに、なんか矛盾してると思ってちょっと笑った。
 舞台袖の掃除用具入れから持ってきた箒で階段を掃いていく。カンっ、カンっ、と箒の音だけが、ひとりきりの空間に響く。あまり掃除範囲が広くないから、一人でも事足りる。他の子たちと同じように、玄関ホールでモップレースをしたり、女子トイレで泡だらけになったり、そういうことに憧れていないと言えば嘘になる。
でも、この忘れられている空間がこんなにも静かなこと、階段の踊り場の小窓から見える空の青がきれいなこと、体育館の壁の隅に兎の形をしたしみがあることは、今のところクラスの中では私しか知らない秘密、だと思う。
そんな小さな優越感に浸りながら、丁寧に階段を掃いて行く。それが終わると、舞台の上のモップをかけて、カーテンで隔たれた舞台袖に設置されているごみ箱のごみを確認する。ギャラリーへと続く階段と反対側は体育館倉庫としての役目も多少果たしているせいで卓球台や、体操用のマットが置いてある。休日、昼休みと部活生のたまり場になっているのでごみも溜まる。ペットボトルや燃えるゴミをごみ捨て場に放りなげて、また舞台袖に戻ると、ゴミ箱の前に人影があった。
その人は私の気配に気づいて、こちらを振り返った。
「あ……」
佐々木くんは私がいない間に、すべてのごみ箱に新しいゴミ袋を設置してくれていたようだった。
「え、あの……」
『あの! ちょっと待ってて! 手洗ってくるから! 待ってて!』
 佐々木くんはそう「言う」と、三段飛ばしで階段を上がっていった。ギャラリーと階段を繋ぐ鉄製扉の蝶番がギイっとこすれる大きな音が聞こえて、足音が遠ざかっていった。
なんで、佐々木くんはここにいたのだろう。彼は教室掃除の担当だったはずだ。
もしかして代わりにごみ袋を変えてくれたのだから、お礼を言うべきだろ言うか。というか、どうして佐々木くんがここの勝手を知っているのだろう。
ふと、舞台上の影に追いやられているグランドピアノの椅子に、紙袋が置いてあるのが目に留まった。有名パティスリーのロゴの入っている白い紙袋。
こんなの、あったっけ?
また鈍い音を立てて頭上の扉が開いた。駆け足で階段を下りてきた佐々木くんは、そのまま走ってきて、グランドピアノの椅子に置いてあった紙袋を、私に差し出した。
『これ、傘のお礼。昨日は本当にありがとう。遅くなって申し訳ないです』
「え、でも……」
『本当に助かったんだ。だから、良ければもらってください』
初めて会話をした時から思っているけれど、ほとんど、普通の人とと同じテンポで会話ができることに驚く。現代の音声読み上げソフトはかなりの高性能らしい。さっきだって、しっかりと驚いているイントネーションだったし、今の会話はずいぶんと落ち着いている。流暢さもさながら、佐々木くんのフリック入力もなかなかに早かった。
傘を貸すことなんて、そんな大したことでもないのに。佐々木くんは、まるで私が何か大きなことを成し遂げたように言う。こんな大層なもの、持って帰ったらみんなになんていわれるかわからない。変に勘繰られるかもしれない。それは本意ではないから遠慮したいところだけれど、嬉しいと思ってしまう自分は、確かにいた。
「あと、クッキーのお礼も、ありがとう」
 私がいうよりも先に佐々木くんがそんなことを言うから、ふと保健室での出来事が思い出された。
「おかしく、ない?」
 思わず口走ってしまい、ハッとなるけれど時すでに遅し。佐々木くんは目を丸くして私を見ていた。
『どうして?』
 紙袋の持ち手をぎゅっとつかんで、視線を逸らす。取り繕うこともできずに、唇をかんだ。ごまかすことなんてできないから、私は意を決した。
「だって、お礼を言うのは、私の方だから」
 心臓がうるさい。聞こえてしまうんじゃないかというほどに大きく、速く、胸をたたいている。
「教科書、貸してくれてありがとう」
 佐々木くんは私の返しにきょとんとしたけれど、すぐに相好を崩した。
『僕のセリフだったのに』
 会話がキャッチボールのようだと感じるのは、いつぶりだろう。いつもは壁打ちにすらならず、私ばかりがミットを持つか、あるいはただ投げられるボールに当たるばかりだったのに。
『それなら、どういたしまして?』
「どうして疑問なの?」
『だって、何をどういえばいいのかわからなくなった』
「佐々木くんはそれでいいよ。私は、ありがとう、だけど」
『でも僕ら、お互いの助けになったでしょ? だから僕も、ありがとう』
初めて会話をした時から思っているけれど、ほとんど、普通の人と同じテンポで会話ができることに毎回驚く。佐々木くんの音声読み上げアプリというのは、かなりの高性能らしい。言葉の抑揚も「普通の人間」と変わらないし、何より、佐々木くんの文字入力が尋常じゃない速さだ。
「カスミー」
 サエリが私を呼びながら、舞台に向かってくる。佐々木くんもそれに気づいて、『それじゃあ、また後で』と階段を駆け上がっていった。
「掃除終わった?」
「うん、終わったよ」
「ねえ、今だれかいた?」
「誰かと……って、その紙袋何?」
 隠し損ねた紙袋を指されて、私は気づかれないように小さく息を吐いた。
「お礼を、もらって……」
「え、お礼?」
 二人が首をかしげるのも、無理はないと思う。基本的に人付き合いは苦手なキャラだし、頼まれたら断れないってだけで、自分から進んで誰かに親切をするということは、幼いころに比べたら少なくなっていたから。
 下手に言い訳しても後が怖いから、正直に話すことにした。
「昨日、佐々木くんに、傘を貸して、それで」
「え、佐々木?」
 怪訝そうな顔つきになったモモエが言った。
「佐々木ってカスミに迷惑かけすぎじゃない?」
呼吸が浅くなっていく。そうだ、昨日教科書を忘れたのは、佐々木くんってことになっている。だから傘を借りたのも、佐々木くんが私に頼んだのだと思っているのだろう。そうすると、私はその日のうちに二回も彼を助けていることになるのだ。
でも正直には話す勇気は持ち合わせていなかった。
「わ、パティスリーエレじゃない、それ?」
「え、マジじゃん。てか、むしろ妥当では?」
「というか、やっぱり春の予感では?」
「そんなんじゃないよ」
二人をなだめるように声をかけて、舞台から降りた。
教室に戻ると、当然ナナミとサナからも関心を持たれて、そのまま放課後に女子会を開催する流れとなった。
「佐々木のあの音声? って結構すごいよね。なんのアプリなんだろ」
フードコートで頼んだポテトと、私が佐々木くんからもらったドラジェをつまみながら、サナが言った。
佐々木くんがくれたのは、雑誌でも取り上げられるような名店、パティスリーエレのドラジェだった。あの小窓から見える空のようなパステルブルーの丸い箱に、柔らかな雲の白いリボンがかけられて、蓋を開けると色とりどりの砂糖でコーティングされたアーモンドが所狭しと淡く輝いていた。
「なんだっけ。今まで関心持ったことないからわかんない」
「ていうかこの辺の中学じゃないんだっけ?」
「確か他県とかじゃなかった」
「いや、県内ではあった……はず?」
どんだけ佐々木に興味ないんだよ、ときゃらきゃらみんなが笑う。
教室に戻って四人から「いいなー」とほんのり妬みのようなものを含んだ眼差しを向けられてしまっては「みんなで食べよう」と言わざるを得なかった。「私、アーモンド苦手なんだよね」という言葉も添えて。
こんなことになってしまって残念に思っている私は、やっぱり醜い。
みんながきれいにネイルの施された細い指で、パステルカラーのアーモンドをつまみ、艶めくリップの塗られた口の中に放り込むのを眺めて、私はさっきからポテトをつまんでいた。ポテトの油で、何の装飾もない爪がテラテラと光る。
「ていうか本当に佐々木について、機械でしゃべる以外の情報知らないんだけど」
「それな、未知すぎる」
「でもさ、悪い奴ではないよね、しゃべれないってだけで」
「そうね、しゃべれないってだけで」
 それほど佐々木くんについて語ることがないのか、会話がだんだん途切れていく。
佐々木リョウガという名前は、この学校の生徒なら一度は目にしたことがあると思う。校内で唯一「スマホでしゃべるひと」だから。一応佐々木くんは「健常者」ではないので、授業中のスマホの使用も、発言時のみ許可されている。
そんな半分「ロボット」のような彼を身に、入学当時はいろんな人が彼を見に来ていた。教室の窓越しに佐々木くんが会話をするのを見に来る人たちは、さながら動物園の来園者のようだった。あんな見世物のようになってどんな気分なのだろうと思っていたけれど、本人は慣れているようで案外けろりとしていた。それに、自分のハンディキャップを気にしない彼は、すぐに周りと打ち解けていったように思う。
「でもさ、佐々木が恋愛対象になるかって言ったら、ならないよね」
 サエリの言葉に、他の三人は迷いなく頷いた。当然その好奇の視線は、私に向けられるわけで。
「ねえ、カスミはどうなの? ぶっちゃけあり?」
「男子でこんな風にお礼してくれるとか、結構本気なんじゃない? っておもっちゃうけどなー」
「あ、そうじゃん。だって浅田はこんなお礼、くれなかったよね」
物をくれたらいいのか、と言われれば必ずしもそうではないけれど、うれしかったことに変わりはなかった。だからと言って、恋愛対象として彼を見ているかと言われれば、現状と私の答えとしては「ノー」ではある。まだそんなにお互いを知り合っているわけでもないし、今日は面と向かって会話したけれど、まだ佐々木くんとの距離感も図りかねている。だから、生理的に受け付けないという意味での「ノー」ではない。
でも、そう口にすることは、彼の存在を否定していることに、ならないだろうか。
「お礼をくれたのは、確かにうれしかったけど……」
 そんな気持ちをどう表現していいのかわからずに言葉に詰まると、みんなは「だよねー」と少し安心したような表情をする。
「佐々木、確かにいい奴とは思うけど、それだけっていうか」
「うん、カスミにはもっと別な人と付き合ってほしいかな」
「わかるー」
 彼女たちは私の沈黙を都合のいいように解釈してくれたみたいで、私はあいまいに笑った。
高級お菓子を前にしてはしゃぐ彼女たちの言葉のとげは、しっかりと感じ取っていた。だから、自分から傘を貸したことは、決して言わないでおこうと心に決めつつ、これ以上話さなくてよくなったことに安堵する。
 彼女たちの指には、砂糖が溶けてついている。パステルカラーのピンク、オレンジ、青 黄、緑そして白。その宝石の粒は、カリっとこぎみ良い音を立てる。私はすっかり冷えてぱさぱさしてきた細いポテトを咀嚼する。ウーロン茶で流し込むと、塩気の中に、苦みを感じ取った。
「でもカスミもかわいそう、こんなおいしいもの食べられないなんて。
 彼女たちは同情を見せつつも、ほのかな優越感をにじませてドラジェをつまむ。
「うーん、でもこれをあげてる時点で、カスミにはないでしょ」
「事前に好き嫌いの調査もできないようなやつは、モテないか」
彼女たちの甲高い笑い声が、ぼんやり遠ざかっていく。私も何か返事をしたかもしれない。でも自分の声も、周りの喧騒も、どんどん混ざって、意味をなさないただの「音」になっていく。
私は笑えているだろうか。そればっかり気になっていた。        

**

年が明けてからは、選択授業の美術の時間はこれまで、油絵制作に費やされてきた。
冬休み前にカンバスに土台になる色を塗って乾燥しておき、下書きをした。三学期最初の授業から絵具をパレットに出して、カンバスとにらめっこ。
私は、そこまで想像力がある方ではない。それに先生が模写でもいいと言ったから、インターネットで素人でも模写できそうな絵画を検索した。そこで初めて、一人の画家が自分の描いた絵を何度も描きなおすことがあるのだということを知った。例えばゴッホだったら、題材にしたひまわりの絵を、そのモデルとなったひまわりではなく、「ひまわりを描いた絵の模写」だというのだから不思議に思った。もはや実物のひまわりなんてどうでもよくなっているのでは、みたいな。
結局ひまわりの模写はモモエがやることになって、「カスミはこれじゃない?」と適当に選ばれた、よく知らない昔の画家の海の絵を描いていた。技量が足りてないから、全く同じというわけではないけど、見本があるだけまだましな絵になっている。
あと二時間で油絵の時間も終わってしまう。早々に完成させたものは自由に過ごしているし、まだ終わってないものは一生懸命カンバスに向かっている。
私もそろそろ最終仕上げに入っていた。
「ちょーっ! お前何してんの」
少し離れた机から絶叫が聞こえた、みんなで声の方に注目すると、佐々木くんが友達に筆とカンバスを取り上げられているところだった。佐々木くんは「意味が分からない」とでもいうように、両手を上げて大きなリアクションを取っていた。
「は、早まるなよ! びっくりするなー」
 あきれ顔で物言う友人の肩をたたきながら、佐々木くんは自分の作品を返すように促すけれど応えてくれそうな気配はない。むしろ友人の男子生徒は作品をかばうように腕に抱きかかえて、佐々木くんに背を向ける。
 佐々木くんは大げさにため息をついて見せると、テーブルの上に置いてあったスマホを手に取った。
『それないと作業できないんですけど』
尤もな主張をする佐々木くんに対し、友人たちはさらに彼が使っていた道具まで下げてしまう。騒ぎを聞きつけた美術の先生が「なんだ、なんだ」と入ってきた。
「どうしたんだ、お前ら」
「先生聞いてください! 佐々木くんが狂っちゃっいました!」
『狂ってないって』
「だって、うんこ書き始めたんですよ」
「え、うんこ?」
この場に似つかわしくないいささか下品なワードが出たものだから、生徒たちは自分の席を立って佐々木くんのところに集まっていく。絵を取り上げた友人が「ほらあ!」と絵を見せるので、私もナナミたちと一緒に流れにのって佐々木くんのカンバスを覗き込んだ。
テーブルの上に積み上げられた果物や野菜、魚に肉、パンなど様々な食材が美しい色彩で描かれていたけれど、中央にべったりと張り付けられた茶色の絵具が、それを台無しにしていた。血迷ったのか、とか、気に食わなかったのか、とか周囲が言うけれど、佐々木くんは苦笑するだけで。
『初めからこのつもりだったんだよ』
そんなことを言うものだから「お前な」と友人たちに責められていた。
『だって食い物なんて、最終的にみんなうんこじゃん』
佐々木くんの言い分としては、綺麗に色付けまでされたみずみずしいものを全て茶色で塗りつぶして、テーブルの上にうんこをでーんと描く。それを計画していたのだと。『油絵の醍醐味は、重ね塗りにあるはずですよね。それを邪魔する権利なんてなくないですか?』と言い始めるから、またもうひと悶着起こりそうな勢いだった。
「佐々木」と美術の先生は小さい子にやるように、佐々木くんと視線を合わせようとしゃがみこんだ。
「実はな、お前の作品をコンクールにって、打診しようと思ったんだぞ」
 佐々木くんが「これを?」というように絵を指さすから、先生は「うんこの前の絵をな」と訂正した。
「とても綺麗に描かれていたし、配色が美しかった。何だかもったいない気もするよ」
『何ももったいなくないですよ。僕はもともと、こうするつもりだったし』
「どうして?」
諭すような先生の声音は優しい。でも、佐々木くんはきょとんとして言い放った。
『だってどんなに美味しそうな料理だって、可愛らしいスイーツだって、食べたらみんなうんこになって出てくるじゃないですか。末路はみんな一緒です』
どんなにみずみずしい果実も、新鮮な野菜も、ジューシーな見た目の肉塊も、キラキラのお菓子だって食べたらみんなうんこになってでてくる。佐々木くんはそう言った。
先生が好きなように描いていいっていうから、出来るだけ食べ物を美味しそうに書いて、油絵でしかできない重ね塗りを活かして、最後はうんこの茶色で全部隠してドン! と仕上げたかっただけ。
確かに、先生は好きに描いていいと言った。だから佐々木くんは彼の自由にしただけ。その「もったいない」という感覚は先生のものであって佐々木くんのものではないのだ。そんなことを言うなら、最初から題材を決めてあげればよかったのに。
「確かに……」
佐々木くんの言い分に納得して、思わずそう口から出ていた。鋭い視線を感じて顔をあげると、先生がこっちを向いていた。失言に気づいて私はあわてて口を手で覆うと、隣に立っていたサナから「バカ」と小突かれた。
一瞬にして氷点下くらいまで教室内の空気が冷たくなる。けれど、佐々木くんは太陽のような明るさで盛大に笑い飛ばした。スマホで笑い声を出すのも忘れて、腹を抱えてうずくまる。みんな呆然とひとしきり佐々木くんが文字通り声もなく笑うのを、見守っていた。
『先生、すみません』
目じりにたまる涙をぬぐって、佐々木くんは言った。
『コンクールには出さなくていいので、うんこ塗らせてください』
佐々木くんが頭まで下げるので、これにはさすがの先生もお手上げだったようだ。佐々木くんが嬉々として茶色に塗りつぶしていくのに、悔しそうな眼差しを向けていた。
「やっぱさ」
 各々の席に戻って作業を再開すると、モモエが言った。
「佐々木はないわ」
隠さない、音量で。
みんなそれぞれ好きなように雑談しながら作業を進めているから、きっとモモエの声は、反対側に座る佐々木くんには届いてないはず。
「ないねー」
「さすがに、ちょっとやっぱりおかしいよ」
「ねえ、カスミ」
「え?」
同意を求められるような声音に、すっと背筋を伸ばした。
「佐々木だけは、やめてね」
サナがあまりに真剣に言うから、私は動揺を察知されないように「ごめん」と呟いた。
「さっきなんかうっかり、って感じだったけど」
「そうだよ、びっくりしちゃった」
「ご、ごめん……」
 謝ることしか、できなかった。肯定も否定もできない。
みんなの話を聞きながら、佐々木くんの方を盗み見た。時々、友人たちの会話に笑顔を見せながた、せっせとカンバスに茶色を乗せている。
ふと、顔が上がって、その目とかち合った。胸が小さく跳ねて、私はなんでもなかったように逸らす。
体育館で話をした時には、ここから交流が深まるかもとほんのり期待も抱いた。でも結局ドラジェを一粒の食べずに、せっかくの好意を無碍にしてしまった気がして、私から彼に話しかけることはできなかった。それに、佐々木くんの方からも、特別私に接してくることはなかった。そこまで仲良くない男女がわざわざ会話をしないのと一緒で、私たちの席は隣同士だったけれど、お互いに、隣の席に誰もいないように振舞っていた。
返ってありがたい。だってさんざん釘を刺された後だったし、おまけに今日は念を押された。新しい出会いよりも、仲間外れにならないことを優先した方が、今の自分にとって良いのだ。憧れよりも、安定。
だって、ひとりぼっちには、なりたくない。

**

SNSの天気情報で確認した時には確かに今日は快晴だと言っていたのに、その雲行きが怪しくなってきたのは四限目の終わり。今年の冬は雨が多い。昼休みにやってきた男子の体育担当教諭が「雨が降ったら男子も体育館な」と告げに来たときから、なんとなく落ち着かない雰囲気が教室内に漂い始めた。
体育の授業は隣のクラスと合同で行われており、今月から女子は体育館でバスケットボール、男子は外でソフトボールをやっている。二クラス合同ともなるとそれなり人数も多いので、雨の日には座学で保健体育の時間になることが多いけれど、今日はどうやら違うらしい。
『雨が降ったら男子来るの、ヤバくない?』
 お昼休みにもそんな話で盛り上がったけれど、期待は午後の授業が始まってさらに強まっていくらしく、スマホにどんどん通知が溜まる。
『そしたら浅田もいんじゃないの』
『えー、あいつ球技は基本苦手なはずだよ』
『野球部なのに?』
『物を介するとマシらしい?』
『なあに、それ』
 私の教科書を貸した一件から、サエリと浅田くんの途絶えていたはずの交流が再び始まったらしく。先週末には思い人のいないサナも交えて何人かで遊びに行ったそうだ。その時の様子を聞いていたら、話はどんどん派生していって、気づいたら夜が明けていた。
 みんなで寝不足になりながら登校したら、サエリを除いたグループにポンと通知が来た。
『一人で盛り上がってほしいよね』
 発言者はサナだった。遊びに行ってる時も、サエリは浅田のことを自分の方がよく知ってると見せつけるような行動が多かったとか。確かに中学時代には、結構仲が良かったのかもしれない。でも浅田が気になってるのは、他クラスの女の子らしい、という情報まで当日に仕入れたというサナ。
 教えてあげたらいいのに、とモモエが嘲笑するように言えば、私をダシにしたことへのちょっとしたお返し、というのだから「そっかー」と私は当たり障りのない相槌を返した。ナナミは「恋は盲目ってやつかな」と笑っていた。
 サエリと浅田くんがよく廊下で話しているのは見かける。サエリとの会話に浅田くんの名前が上がることも多くなっていた。当然私たちはサエリが浅田くんに好意があると思っているけれど、彼女から明言されたことはない。「私は別に何とも思ってないけど」と前置きするサエリに「浅田から矢印向いてるんじゃない?」とからかう、ただの遊び。それに対してまんざらでもなさそうに反応するから、陰で今日も盛り上がるのだ。
『バッカみたい』
 みんなのトークルームだけを見れば恋バナに盛り上がっている女子高生のほほえましい会話なのに、からかって陰口を言いたいための口実なのだ。私は返信場所を間違えないように、注意を払った。
 でも、雨が降ることを楽しみ思っている部分は、本当なのだと思う。
 なんとなく、男女ともお互いに雨が降るのを望んでいるような空気を、教室からも感じていた。ぼんやりと曇天に心を奪われている生徒が多い気がする。悪天候によってもたらされるであろう面倒ごとよりも、何かが始まる予感に期待している雰囲気は、なんだか不思議だ。
結果として、みんなの願いは聞き入れられた形になった。
とりあえずまだ雨は降っていないから、ということで男子は外でのソフトボールを試みたようだが、授業開始きっちり十五分後、暗澹とした灰色の雨雲はざあざあと大粒の雨を降らし始めた。
ドリブルやシュート先週など基礎的な項目を終えて、二コートに分かれて行った一試合目がちょうど終わったところだった。やけに玄関の方が騒がしいなと思えば、頭を濡らした男子がぞろぞろと体育館の方に入ってきた。どよめく女子たちに答えるように、女子の体育担当教諭が大声をあげた。
「今から男子に半分コート貸すから、ネット引いて」
班コートになってしまえば同時に二試合進行できていたのが一試合しかできなくなる。みんなはコートが小さくなることに対して口では不平不満を零すけれど、その声音から満更でもなさそうなのが伝わってきた。
「はーい」と聞き分けの良い返事してた声は、男子が体育館に入ってくると、私たちを横切って向こう側へ行く男子たちが気になってしょうがないらしい。顔は見えなくても、視線がちらちらと彼らを追っていたのが分かった。
意中の相手や、あるいは彼氏がいたりするのか。どちらでなくとも、異性がいると言うシチュエーションに反応するのは女子だけではないらしく、全体的に体育館の中の人間が浮き足立っているのが察せられた。
自分はそんなことないって思っていたけど、髪を乱しながら入ってきた佐々木くんの姿を見つけた時には、多少ぎくりと心臓が跳ねた。
 普通の男子高校生らしく、ほかの男子とふざけながら反対側のコートに歩いて行く。体育の授業中には使わないのか、いつも手にしているはずのスマホは見えなかった。大きなリアクションを取りながら、私たちの前を横切っていく。
私は気づかれる前に、佐々木くんから視線を逸らして、次の試合の準備をする輪に混ざった。
コートの真ん中で網を引かれた、二分割された体育館。お互いの体育担当の笛の合図で、授業が再開されたわけだが、雨の中同じ箱に詰め込まれた男女の関心は、授業よりもお互いにあるようで。むしろさっきまで気だるげだったのが、幾らか士気が高まっているような気がした。
再開されたバスケの試合では、各チームとも真剣だったし、向こうの男子も同じようにバスケの試合をやっていたがお遊びもおふざけもなく、盛り上がっているようだった。ローテーションで得点板係になった私は、得点板をひっくり返しながら、こちらの試合状況を確認しつつ、男子のコートも気になっていた。
あくまでも色めいた理由でないことを弁解しておきたいのだが、スマホを持たない佐々木くんがどうコミュニケーションをとるのかが気になった。観戦組として、コート外からヤジを飛ばす佐々木くんは、実際には声の出ない口元に手を当てて誰かを呼んでいたり、周囲の観戦組と話そうとするときにはポケットから小さなメモ帳とペンを取り出して、それに何かを書いたりしていた。スケッチブックが大きいか、と納得する。
「カスミちゃん、点入ったよ」
「あ、ごめん。ありがとう」
つい気を取られてしまい、本来の役割を忘れるところだった。クラスメイトに指摘されて、得点板をひっくり返したところで、ピーっと電子タイマーが鳴った。
次のグループの練習試合に移る合図だ。
今の試合の結果をチームに報告して、私は試合に出る準備をする。ゼッケンを受け取りながら男子のコートに視線を移すと、向こうも次の試合の準備をしているようで、今度佐々木くんは選手としてゲームに参加するようだった。一瞬だけ佐々木くんと目が合った。
それはほんの一瞬のことだった。今度は、佐々木くんと、目が合って、私は胸騒ぎを覚えた。すぐに逸らされた視線は、決して喜んでいい種類のものではなく、ざわざわとよくわからない焦燥感を駆り立てた。
「頑張っていくぞー!」
同じチームの子の掛け声が聞こえて、我に返る。電子タイマーは設定されて、今まさにジャンプボールから試合を始めようとするところだった。とりあえずは目下の試合だ。
ジャンプボールは、私のグループ内では、どちらかと言えば身長が高めの私の役割だった。コートの中央に立ち、挨拶をした後、相手チームの代表と向かい合う。
ピーっという、審判の笛の音で試合が開始された。高く上げられたバスケットボールは、空中で私の方に寄って、手前に叩くと味方がボールをとった。
ボールを取った味方がゴールに向かってドリブルしていくのを見届けて私はディフェンスに入る。いつも通りの戦略。ボールは丁寧にパスで繋げられ、まずは難なく二点が入った。守りのゴールの下から拍手を送るが、私は男子のコートが気になって仕方がなかった。
試合中のメンバーを除いて、観戦組の他の女子たちは、こっちの試合を見つつも、やっぱり男子の方に興味があるようだ。半分くらいは私たちの試合そっちのけで、思いっきり男子の試合の観戦モードに入っている。
佐々木くんはボールを受け取ると華麗なドリブルで敵を交わし、ゴールに向かって一直線、綺麗なレイアップシュートを決めた。意外な一面に、歓声が向こうからもこちらからも上がる。私たちの試合でも、同じチームの子が点数を決めて、盛り上がる。両コートとも、次の攻防戦が始まろうとすると、また目が合った。何か言いたげな、でも戸惑うような視線は、どこか思い詰めたようなもので、ぐっと胸を掴まれた心地がした。
刹那、「佐々木!」と大声が聞こえた。
クラスメイトの声に気づくのが一歩遅れた佐々木くんは、パスを取り損ねて、その顔面でバスケットボールを受けた。鈍い音がしたと思えば、どんっと佐々木くんは頭から倒れた。
流石のこれには私以外の試合中のメンバーも驚いて、試合そっちのけで、佐々木くんの容体を確認しに男子コートの方に駆け寄った。
倒れた佐々木くんは大勢に囲まれ、何名かがかりで上体を起こされていた。
「大丈夫か、佐々木?」
男子の体育教諭に声をかけられ、佐々木くんは頷く代わりに人差し指と親指でオッケーサインを作った。強く打った頭を支えるように手を添えて、力なく笑って見せていた。
「とりあえず保健室いこうな。保健委員いるか」
 何ともないというように、手を振って断ろうとするけれど「頭を打ってるんだから」という先生に説得されていた。
佐々木くんは頭を押さえながら、よろよろと立ち上がり、同じクラスの保健委員に支えられながら体育館を後にした。
「はいはい、みんな戻って! 野次馬終わり! 試合再開するよ」
動揺を隠せない男子たちも、野次馬の女子も担当教諭の一喝で、持ち場に戻るように言われ、ぞろぞろと自分の場所に戻っていく。
私 も定位置に戻ったが、試合中も脳裏を過るのは佐々木くんのことばかり。その後佐々木くんは再び体育館に姿を現すことはなく、教室に帰ると佐々木くんの席からカバンが消えていた。

ここに来るのは、二度目だ。
保健室と書かれたホワイトボード、どこにも保健室の先生の不在や在室を告げる文字は見当たらない。
三回ノックをしてみても、中から声は聞こえない。二回、深呼吸を繰り返し、「失礼します」と声をかけて扉を引いた。
つんと鼻腔を掠める消毒液のにおい。中央のテーブルには花が生けてあり、奥のベッドのカーテンは二つとも空いていた。
事態を聞きつけた担任が帰宅の準備を整えて、佐々木くんに早退を促したというのは帰りのホームルームで知ったことだった。
でもなんとなく、まだ学校のいるのではないかと思ってきてみた。もしまだ居たら、話がしたいと思っていた。あの視線の意味が、知りたかった。一か八かで訪ねてみたけれど、実際に問うたところで正直に佐々木くんが話してくれる保障もないけれど、一か八かで訪ねてみることにした。仮に佐々木くんがまた帰宅していなくて、教えてくれと問うたところで、佐々木くんが正直に話してくれる保障もなかった。だって、そこまで親しい仲ではない。
結果は私の負け。私と佐々木くんの関係も、これまで。
帰ろうと、扉を引いた時だった。
「ねえ」
 右の奥、パーテーションで区切られた一角から、呼ばれて振り返った。椅子を引く音が聞こえて、中から出てきたのは一人の男子生徒。切れ長の目が印象な、すらりと背の高い人だった。上履きの赤ラインは、彼が一つ年上であることを示していた。
「リョウガなら、こん中」
 それだけ言うと、また戻ってしまう。私は誘われるように、その華奢な背中の後を追った。
 パーテーションで区切られた中には、大きめのテーブルがあって、その上にはその人の持ち物であろうパソコンと、その他機材、あと教科書が積まれていた。座ってパソコンに向かったその人は、私の視線に気づくと顎をしゃくるようにして、扉を指した。
 扉表札には「暁の間」と書いてある。どこかで目にしたことのあるその名前は、確か毎月の学校通信に掲載されているコラムの題名だ。
 この学校には保健室の先生とは別に、カウンセラーの先生が週三回学校に来ている。そのカウンセラーがいる場所が「暁の間」だ。保健室で予約をすれば、先生がいなくても部屋を使えるという話を聞いたことがあるけれど、実際に使っている人がいることは知らなかった。
 しかも、佐々木くんが。
この中に、佐々木くんがいるのだろうか。確認のためにもう一度彼を見てみても、もう我関せずというようにパソコンに向かって、何か作業を始めていた。
 軽くこぶしを握り、ノックしてみた。
 扉はすんなり開いて、出てきたのは佐々木くんだった。私を映す瞳はみるみる内に大きくなり「どうして」と顔が驚きを物語っていた。佐々木くんの視線がちらと私の背後を確認して、はあ、とため息を吐く。
 もしかして、迷惑だっただろうか。自分らしくない行動に今更後悔して後ずさると、『待って』と彼の口が動いた。佐々木くんは制服のポケットからスマホを取り出した。
『話を、させてもらえませんか?』
 その声音はいたって普通だったけれど、彼の表情から縋るようなものを感じて、私は頷いた。
 暁の間にはローテーブル、そして一人掛けのものと、四人ほどが腰かけられそうな大きなソファーが二つ置いてあった。ソファーの向かいにはテレビと、DVDプレイヤーもついている。そして、壁一面の本棚にはたくさんの本と、漫画が立ててある。
『どうぞ、かけて。お茶とかは出せなくて悪いけど』
 佐々木くんが一人掛けのソファーに座るので、私は大きいほうのソファーに腰を下ろした。
 何から聞けばいいのだろう。そもそも何か聞いてもいいのだろうか。体育の授業で頭を打ったのは大丈夫だったか、聞いてもいいだろうか。話をさせて、といったのは佐々木くんの方だから、彼から何か言われるのを待った方がいいのだろうか。
沈黙の中、色々と考えている目の前で、佐々木くんはスマホから目を離さない。さっきから文字を打っては消して、打っては消してと繰り返しているのが表情からもわかる。その様子をじっと見つめていると、佐々木くんが顔を上げた。
『緊張させてごめん。どこから話せばいいのか、分からなくて』
申し訳ない顔をして佐々木くんは笑った。
「え、あ、いや……」
 本当に、勝手な思い込みだとはわかっているけれど、何となく、周りのひと悩みなんてないと思っていた。クラスメイトもみんな学生生活を謳歌しているように見えて、「友達」と呼べる人間に対してこんな醜い感情を抱いて苦しい思いをしているのは、私だけなのではないか、と。
 佐々木くんも「周りのひと」に例外なく、楽しい毎日を送っているはずだった。うんこ事件で明らかになった、ちょっと変な感性を置いといても、私を助けてくれる性格の良さはもちろん、だれとでも打ち解けられる社交性の高さを持ち合わせて、友達にも恵まれているようだったし、笑っている姿をよく見かけた。
 だから、こんな部屋を使うようなひとではないと、勝手に思っていた。
「ごめん、なさい……」
押しかけてきて、迷惑だったのではないだろうか。
『それは、何に対して?』
 思わず漏れたつぶやきを、佐々木くんに拾われた。佐々木くんは、純粋に疑問だという顔をした。咎めるようなものではなく、私の真意を知りたい、とでもいうように。彼はスマホの画面を一度落として、私の話を聞く姿勢になった。
 俯いて、ぎゅっとスカートを握った。
『……佐々木くんの時間を、邪魔してしまったかと、思って……』
 私たち人間というのは、他人を「そういう人だ」と決めつけて、その通りのキャラクターだと思い込む節がある。自分がそれをやられている最たる例だと思っていたから、他の人もそういう状況にあるのかもしれないと、考えたことが無かったことに気づかされた。
 だって、私が佐々木くんに会うときは、いつも人の少なくなった放課後だった。帰りのホームルームが終わって、友達と連れ立って帰る姿を見たはずなのに、いつも彼は放課後の校舎にいた。どこで何をして過ごしているのかは、全くわからないけれど、今日ここに通されて、パズルのピースがはまっていくように、ある一つの考えが浮かんだ。
 佐々木くんだって、佐々木くんの人生と、自分の思いというものがある。だから、このような場所に佐々木くんがいたって、なんの不思議ではないのかもしれない。
 まるで佐々木くんを知ったような口をきいてしまった。でも問われたのだから、答えるのが筋だろう。
『この前の美術の時間、ありがとう。うれしかった』
「……どうして?」
私はあの発言で美術の先生からは悪い印象を受けたし、友人たちにはたしなめられた。自分はやっぱり余計な言動を慎むべきだと、再確認した出来事だったというのに。
「河野さんに深い意味はなかったかもしれない。けど、なんとなく、そのままでいいじゃん、って自分の存在を認められたようで。うれしかったんだ」
 僕は大まじめだったのにさ、と佐々木くんは茶化していったけど、私は奥歯をぐっと噛んで、泣きたくなるのをこらえた。
 今まで生きてきた中で、自分の意思をもって起こした行動で間違いを起こすことはあっても、感謝されるようなことはほとんどなかった。失言だったとあの時も後悔していたのに、それが「うれしい」と評価されるなんて、思ってもみなかった。
 だけど、私は自分の意思で、誰かに寄り添えることができるのだ。
 それが、嬉しかった。
「あり、がとう」
 気づけば、そう口にしていた。
『どうして?』
 佐々木くんはおかしそうに笑った。
『河野さんは僕に感謝しすぎだよ。何もしてないのに」
「なんか……自分の知らない自分を、見れた気が、したから」
 悪いと思っていた自分の性格が、そうではないと、少しだけ思えた。
『それは、いいこと?』
 戸惑いがちに尋ねる佐々木くんに、私はしっかりと頷く。
「いいこと。私にとって、大事なこと」
『それなら、良かった』
 少しずつ、緊張が和らいでいくのを感じた。
「そういえば、ぶつけた頭は、大丈夫ですか?」
 ああ、と佐々木くんは後頭部をさすった。
『脳震盪。冷やして様子見てたらよくなった。ご心配おかけしました』
「い、いえ……」
 部屋の中を見渡して、壁紙が紺色と深青色や濃い紫色とほんのり赤や黄の暖色が混ざったのを淡くした色合いなのに気づいた。暁の名を冠しているだけあって、夜明け前のほの暗さをイメージしてあるのだろう。天井には月明りのような電灯があって、壁紙は暗いはずなのに、明るい気がするから不思議だ。壁の埋め込み本棚に並ぶ書籍も小説は古典作品から現代のものまで国の東西を問わず様々で、経済や美術、歴史や科学などの幅広いジャンルの新書もある。テレビスタンドのDVDボックスには有名アニメーション制作会社の作品が全て置いてあった。
「佐々木くんは、よくこの部屋に来るの?」
『そんな頻繁でもないけど、たまに』
「本、読んだり?」
『基本的にはそのソファで寝てぼーっとしてる。さっきもそうしてた』
「そう、なんだ」
 部屋の広さも一人には充分で、ソファーも広いからひと眠りでもできそうだ。
『寝てみる?』
 いつも使っていると言うソファには、今は私が座ってしまっている。立ち上がって場所を譲ろうとすると、佐々木くんは首を振った。
『ううん、大丈夫。てか、寝てみてよ』
「あ、いや……」
『それ、結構寝心地いいよ』
 確かに、座り心地も良いからその通りなのだろう。寝転がっても私一人収まるには、十分な大きさがある。
「じゃあ、ちょっと失礼して……」
 佐々木くんの方に頭を向けて上履きを脱ぐと、スカートの中が見えないように裾を押さえてソファーの上に横になる。身体はゆっくりと沈み、ベッドではないのに包み込まれていく感覚があった。肘置きはちょうどいい高さの枕になっている。天井の電灯は目に優しい。
「眠りそう」
 率直な感想を述べると、くすくすと佐々木くんが笑った。
 外からの音漏れもなくとても静かだ。一人でぼーっとしていたら、眠りの世界にいざなわれてこのまま帰ってこれなさそう。
『昼休みに一度来たことがあって、寝過ごしそうになったことあるよ』
「そうだったの?」
『夏くらいに一回。ノックでも起きないから、叩き起こされた』
 叩き起こしたのはきっと、あの部屋の外でパソコンに向かうあの上級生だろう。なんでもないように話すから、さりげなく聞いてもあの人について答えてくれそうだけど、あえて聞かなかった。
「寝起きは、悪い方?」
『毎朝アラーム四つかけてる』
「スヌーズ機能、とか?」
『携帯と、目覚まし時計が三つ』
「そ、そんなに……」
『河野さんは、朝強いの?』
「……まあ、強い方、かも」
 悔しいことに、どんなに夜更かししても、なぜかちゃんと朝は起きることができる。眠りは浅い方だった。今日も朝が来てしまったと、静かに絶望する日も少なくない。そんなことを考えて黙ってしまうと、佐々木くんもそれ以上は聞いてこなかった。
『河野さん』
 改まって名前を呼ばれる。寝転がった体勢のまま聞いていいような話ではない気がして、起き上がった。佐々木くんの視線は、スマホに落ちていた。
『アーモンド、苦手だった?』
 犯人が探偵に暴かれるときって、こういう気持ちなんだと思う。びしっと指をさされたりはしなかったけれど、喉元に鋭い何かを当てられたように、息をのんだ。
 佐々木くんは、私がお礼にともらったドラジェを食べていないことを知っている。あの現場に居合わせていたのだろうか。一応同級生がいないか気を配っていたはずだけど、話が進むにつれて、箱の中の砂糖の粒が消えていくのを見ながらぼんやりしてしまっていたから、気づかなかった。
 どう、弁解すればいいのだろう。彼女たちに嘘を吐いたように、アーモンドが苦手だと言ってしまえば、丸く収まるのかもしれない。でも佐々木くんを前に、言葉が出てこない。かといって、彼女たちを貶めるようなことをいいわけにしたい訳じゃない。喉の奥に何かがつっかえたように、浅い呼吸を繰り返す。
 佐々木くんはうろたえたように『申し訳ない』と繰り返す。
『たまたま知っちゃって。改めて他のものでお礼をさせてほしいと思ったから、もしよけれな、苦手なものか、好きなものを教えてもらえると助かるんだけど』
 どうかな、とこちらを窺う。
「お礼、なんて……」
『させて欲しい』
 私の方が受け取っているものが大きいのに、佐々木くんからもらっているのがそもそも過剰だったのだ。断ろうとしたけれど、佐々木くんも譲らない。
『外にいるやつ。あの人と一緒に傘使わせてもらったんだ。向こうの提案で、お礼したいって言ってたから、受け取ってあげてほしい』
 あの人からは別に、何もされてないでしょ? と言われてしまっては、しぶしぶ受け入れるほかなかった。
 好きなものは、分からない。前はあったような気がしたけれど、周りに合わせていたら、分からなくなってしまったように思う。「今の私」の「好きなもの」や「苦手なもの」は、彼女たちに作られているから。
でも佐々木くんの好意を、今度こそ無駄にはしたくない。
「……チョコレートは、苦手です」
 今私が言える、私の精一杯の「真実」だった。
「チョコレートは、苦手なので……それ以外、だったら」
『わかった。チョコレート以外、ね』
 ありがとう、って言われなくて良かった、と胸を撫で下ろす。
 ふと、ローテーブルの棚に綺麗な白い箱を見つけた。身を屈めてその箱を手に取ると、それにはやっぱり見覚えがあった。いつか、佐々木くんが私にくれた、ドラジェの箱だった。
『あの人の実家なんだ、そのパティスリー』
「え」
『ここに来た人のおやつ用に持ってくるの、優しいよね』
 僕が言ったことは内緒ね、そう言って佐々木くんが唇に人差し指を当てた。
膝の上に箱を置いて蓋を取ると、中にはパステルカラーの砂糖をまぶされたアーモンドが入っていた。よく見ると、歪格好をしているものばかり入っている。まぶされた砂糖の量が不揃いのもの。いくつか食べられているのもあって、いつかもらったようにアーモンドたちは整列していない。
「食べてみても、いい?」
 佐々木くんは瞬きを繰り返す。
『苦手なんじゃ』
「……あまりにきれいだから、試してみたくて」
 この部屋の利用者ではないから、だめだろうか。
けれど佐々木くんは『ぜひ』と手を伸ばしてきて、箱の中から水色の物を取って頬張った。カリッと佐々木くんの口から小気味いい音がする。
 キラキラと光沢を振り撒く宝石のような小さな一粒を摘まんでみる。
佐々木くんが視線で促すから、そっと口の中に入れた。舌の上で砂糖が溶けて、上品な甘さが口に広がる。アーモンドはカリッと香ばしかった。
「おいしい」
 自然に口角が上がってしまう美味しさだ。
ブブっと、ポケットの中のスマホが震えた。楽しい時間は終わるのが早い。確認すると、彼女たちからのラインだった。一回目の通知が鳴ったのを皮切りに、次々と話が進んでいく。
『用事?』
小さな絶望が、気づかれなくて良かった。私は「もう帰らなきゃ」と立ち上がった。部屋を出ると、上級生さんはまだパソコンに向かっており、私たちには目もくれない。おまけにヘッドホンまで装着していた。
「あの……」
 ダメもとで声をかけると、せわしく動いていた手が止まった。聞こえていたのか上級生さんはヘッドホンを外すと視線だけ寄こしてきた。
「ドラジェ、おいしかったです」
「……そ」
 短く返事をすると、上級生さんはまた作業に戻った。後ろで佐々木くんが、ふふっと鼻を鳴らして笑っていた。
『河野さん、また明日』
 ひらひら手を振る佐々木くんに、同じように手を振り返した。
「また、明日」
私を現実に引き戻すように、ポケットの中のスマホが震える。でも、もう少し余韻に浸っていたくて、正門を出るまで口の中に残る砂糖の甘さを感じていた。