「ねえ、カスミ」
 甘えるような声でナナミに呼ばれて、返事をする。校則にぎりぎり引っかからないトップコートの塗られた爪、その手が持つのは男子用のネクタイだった。
「なに?」
「ネクタイ結んでくれない?」
「あ……いいよ」
 そういってナナミからネクタイを受け取る。すると、周りから小さくため息が聞こえてきた。
「ナナミ」
 別に私が呼ばれたわけではないのに、サエリのいつもよりほんの少し低い声に反応してしまい一瞬、手がこわばった。わずかに震える手にナナミが気づかないように祈りながら、首にネクタイをかけて結んでいく。
「なにー?」
「あんたさ、ほかのオンナにネクタイ触らせていいわけ?」
「え?」
最近ナナミは一つ上の先輩と付き合い始めた。その先輩彼氏からもらったというネクタイ。私たちの学校では男子はネクタイ、女子はリボンが与えられていて、付き合うとお互いのネクタイとリボンを交換する文化があった。もちろん、校則では原則禁止されているので、鞄の中に隠し持っていたり、休み時間に先生の見えないところでつけたりしている。
「私もサエリと同じ意見だなー」
 サナが髪の毛をいじりながら言った。
「だって、彼女じゃないのに彼氏のネクタイ触るの、私だったらいやかな」
「……まあ、確かに?」
 ナナミがあいまいに返事をしたところで、モモエが「いいなー、私も彼氏ほしいぃ」とため息をついた。
「モモエにも例の先輩いるじゃん」
「どうしたの、うまくいってないの?」
「それがさぁ」
 モモエの恋バナが始まろうとしたところで、突如『あっはっはっは』と気持ちのいいくらいの「爆音」が教室内に響いた。私を含めたクラスメイト全員の視線が一斉に「彼」に向く。
『すんません!』
 すぐさま謝罪の言葉がまた「爆音」で飛んできて「びっくりしたじゃん」「うるせえよ」「音量管理しっかり~」とそこかしこから、呆れ混じりの笑いがおこる。
振り向いた視線の先にいたのは、佐々木リョウガくん。談笑していた周りに「でけーよ、音!」なんて肩をたたかれて、今度は普通の音量で『すまん、すまん』と応えていた。
「びっくりしたぁ」
モモエが胸を押さえて驚きを表す横で、サナも「マジでビビるよね、あれ」と苦笑する。
「男子の馬鹿笑いはさ、うるさいって思うけど、佐々木の場合は驚きの方が大きい」
「わかる。なんでかな」
 ……たぶん、人間の出せる音量を超えてるからじゃないかな、って思う。けれど、私はわざわざ答えなかった。
「それで、なんだっけ。佐々木に邪魔されたけど」
「私の話。それがさぁ」
 モモエが話だそうとすると、今度は朝のホームルームの始まりを知らせる予鈴が鳴った。
ついてないね、なんてみんなでモモエの不遇さに笑う。「また後で聞いてよぉ」と嘆くモモエに、「放課後集まる?」なんて声が上がる。今日は部活もないし、いけるー。全然話聞くよぉ。そうやって、放課後の女子会が決まった。
 ほどなくして担任の先生が教室にやってきた。
出席を取って、今日の連絡事項を告げている机の中で、スマートフォンが小さく震えた。
画面にはメッセージの受信を知らせる通知が浮かびあがっている。
送ってきたのは、サエリ。トークルームは、ナナミを除いた四人のものだった。すぐに画面をタップして、メッセージアプリを開いた。
『ネクタイ自慢うざくない?』
 心臓が小さくすくみ上がる。
 それにすばやくモモエやサナの反応がつく。
『それな』
『マジ、わたしが上手くいってないの、知っててあれはない』
『カスミもおつかれさま』
 胸が早鐘を打って、少しだけ手が震える。
さて、なんて返すのが正解か。素早く考えて、すぐに返信した。
『私はなんてことないよ』
『まーた、カスミはお人よし発揮して』
『ほんとだよ、たまには愚痴ってもいいのに』
『というかモモエ、うまくいってないの?』
 サナがモモエに水を向けると、モモエは『それがさぁ』と、先輩との恋が上手くいってないことを、ポンポンと短文で伝えてきた。増えていく通知に既読を付けて『うん』『それで?』と返す。他の二人はもっと大げさに受け答えしている。
 どうせ放課後にはナナミも交えておんなじ話をするのに。でもサエリやサナは「初めて聞いた」ようにリアクションするのだろう。モモエだって、ナナミに自分の話を聞かせないと思っているわけじゃない。こういうすぐには解決しない恋バナをああでもない、こうでもないと会話する時間が、楽しいのだ、と思う。
 私は正直、自分が「ひとりではない」という事実だけが大事で、その裏でみんながどう思っているのかなんて、どうでもよかった。
――ううん、考えたくなかった。
だって、私は知ってるよ。あなたたちそれぞれが、誰かのことを悪く言うの。
サエリがSNSの投稿に「いいね」しなかったからって、彼女を省いたグループチャットを作っていたし。
この前はサナの化粧が濃いって、バカにしてたじゃん。
モモエが彼氏未満の先輩との約束を優先させたからって、放課後の集まりに呼ばなかったよね。
『でも、カスミは優しいから』
それが、みんなの「好き」な「私」。
「私」がそんな「自分」を「好き」かどうかなんて、今は関係ない。
授業中だって、先生に気づかれないように、慎重に、みんなとやり取りをする。いつかバレるんじゃないかって、ひやひやしながら、私は机の中で、トークルームに返事をする。
本音は全部、心の奥底に閉じ込めて、みんなの気に入る「自分」を精いっぱい演じる。
「みんな」が「私を好き」であれば、それでいい。
ただみんなの望む「好き」を持つ「自分」になれれば、嫌われない。
嫌われなければ、それでいい。
そう思っていた。
――のに。
先生が退室して、授業が始まるまでの約五分間、また少し教室内に私語が増える。私は、授業の準備をしながら前の席の方――クラスメイトと「話す」佐々木くんを盗み見ては、小さくため息をついた。
しゃべれなければ、私はもう少し、楽に生きれるんだろうか。
そんなことを「しゃべれない」彼を見ては、毎日のように思うのだ。
まあ、実際のところ文明の利器が発達してしまって、今ではスマホがあれば「会話」は成り立ってしまうから、話すことができなかったところで、彼女たちとのメッセージのやり取りはなくなったりしないけど。
それでも、スマホの音声読み上げアプリを駆使してまで、普通の人と同じような「会話」にこだわる彼のことが、私は理解できなかった。
しゃべれなければ、いいのに。
言葉なんてなければ、こんなに傷つくことはないのに。
そんな風に思ってしまうことが、少なくないからだ。

――パチン。
誰もいない教室では、ホッチキスの音がやけに響く。私の手には、数学のプリントがまとめられたものがあった。「ちょっと頼めないか」と声をかけられたのは、ホームルーム後に日誌を提出した時だった。明日の授業で使うプリントを人数分ホチキスでまとめてほしいとのことだった。
「友達に手伝ってもらったら、できるだろ」
 そう言われて、ずきりと胸を刺すような痛みを感じながら、「わかりました」とかろうじて答えた。サナたちには「頼まれごとしたから先行ってて」と声をかけた。期待していたわけではないけど「じゃあ、終わったら連絡して」と連れ立って帰る三人の背中をすこし複雑な気持ちで見送った。
 手伝ってくれる素振りくらい、見せてくれてもよかったのに。
 なんて考える私は、自分勝手だ。手伝ってほしいなら、自分から頼めばいいのに、もしかすると拒否されるかも、なんて考えて、言葉にできない。でもかえって良かったのかもしれない。モモエの話の続きは、授業中に確認できている。みんなが女子会でほかにどんな話題を出したのか知らないことは少し怖くはあるけれど、つかの間でも悪意の輪にくっわらなくても済んだ。この後解散したら、またトークルームが動くのだと思う。今日はたぶん、モモエの除いたグループで。
 使いたい机の主にはちゃんと許可を取って、先生から預かったプリントを迎え合わせでくっつけた机の列に並べ、一枚ずつ取ってまとめては、ホッチキスで留める。彼女たちに合流しなくてもいいように、できるだけ時間をかけて、丁寧にプリントをまとめていった。
他人に嫌われないように、他人の望む自分を生きるのは楽だ。敷かれたレールの上を、引かれるままトロッコに乗り続けていればいい。
でも時々、自分は本当にこの世に存在できているのか、不安になることがある。
ふいに、パチン、と耳に聞こえたホチキスの針の音にハッとなり、今持っているもので最後だったらしいことに気づく。
出来上がったプリント冊子を抱えて職員室に行くと、担任の先生は帰宅したそうで、机の上に置いて退室した。一月の日は短く。太陽はすっかり沈んでしまった。渡り廊下のガラス窓に私が反射して見えて、ふと立ち止まる。
一直線に結ばれた唇、何の表情も読み取れない、冴えない顔。口角を上げてみると、張り付けたような「笑顔」になる。試しに目じりまで下げてみると、もう少し口角が上がる。頬の筋肉が引き連れる感じがして、緩めると、無表情の自分が映る。
人前では、これよりももう少しうまく笑えているだろうか。最後に思いっきり笑ったのは、いつだっけ。
そんなことを考えながら、教室に戻った。
 この時間に学校に残っている生徒は少ないらしい。
 ダッフルコートを着込んで、戸締りと忘れ物を確認してから、蛍光灯のスイッチをすべて消して、教室を出た。
 ブブっと、存在を示すように、スカートのポケットに入れていたスマートフォンが震える。みんな話を終えて解散したのかもしれない、それを皮切りに、ブブっ、ブブっとスマホが振動を繰り返す。
ポケットからスマホを取り出して確認すると、モモエを除いたトークルームに次から次へと会話が生まれていく。
器用だな、と思う。相手に行為があるふりをしながら、同時に悪口を言えるだなんて。今のところ、その人の悪口をその人のいないトークルームでするような間違いは起きていないけれど、いつか起きた時に彼女たちはどうするんだろう。私は、どうなるんだろう。
『結局ナナミに嫉妬してるだけでしょ』
『そんなにイイカンジなんだったら、自分から告ればいいのにね』
『振られたときに、いいわけできないからじゃない?』
『でも話聞いてる感じ、そんなにイイカンジそうでもないけど』
『なにそれ、リア充の余裕?』
『そうともいう』
『ドやるな』
『わかる。ヒトリズモウ? っていうんだっけこういうの』
『秀才ぶるな』
 モモエへの悪口を餌に、盛り上がるトークルーム。 きっと女子会では「付き合うまで秒読みだ」というモモエを大いに励ましていたんだと思う。でも本心はこっち。人間に二面性があるなんてことは重々承知している。それなのに、受け入れられないと思ってしまう気持ちの方が大きい。私だって、醜い心を持っているはずなのに、彼女たちのことを「嫌だ」と思っている気持ちも、同じような種類のもののはずなのに、棚に上げてしまう。
『カスミ、見てるかな?』
『カスミおつかれー』
 そんなことを思っていたら、私へのメッセージが飛んできて動揺した。
 だから余計に気づけなかった。
目の前に人がいたことに。
 ドン、と鈍い音がしたかと思えば、次に聞こえたのは何かがカン、ガンっと硬質な音を立てて落ちていくような音で。とっさに顔をあげて目に入ったのは、画面が割れその真っ黒い液晶画面を仰向けに転がった、スマホだった。
 は、っと息を吐き出すのが聞こえてその影を見上げると、彼――佐々木くんと目があった。
 と、思ったら、佐々木くんは階段を下りていって、踊り場に転がったスマホを拾い上げた。カチ、カチとボタンを押して起動させようとするけれど、真っ黒い画面が光る気配は一向にない。
私の手のうちにあったスマホが、存在を示すように震えた。
「え……」
とっさに声が出た。私は手にスマホを持っている。でも、佐々木くんは持ってない。
ということは、歩きスマホをしていたせいで、佐々木くんの携帯を壊してしまったことになる。佐々木くんの生活に一番必要な、スマホを。
血の気が引いて、遠のきそうな意識を何とか捕まえて、慌てて階段を下りた。
あまりの事態にパニックになってしまって、口から出たのは「ごめんなさい」というか細い声。俯いて、頭を下げることしかできない。
落とした視線の先にある自分のスマホの画面には何度か落としてしまったせいで、多少の日々が入っているけれど、蜘蛛の巣のように割れ目が広がっている佐々木くんのよりはるかにマシ。その画面には、ポン、ポン、と次々にメッセージの受信通知が浮かび上がる。
まだメッセージの返信もできてない。そんな焦燥感にも駆られ、目頭がジワリと熱を帯びる。
 ふと、つま先が何かに隠された。それはスケッチブックで、はらうような筆跡で、文字が書かれていた。
『顔を上げてください。僕も不注意だったので、申し訳ない』
佐々木くんは私と目があると、困ったように笑って見せた。
『僕もちゃんと前を見ていなかったので、不注意でした。申し訳ない』
佐々木くんもそういって、頭を下げてくる。周りがすっかり見えてなかったから、佐々木くんとどうぶつかったのかはわからないけれど、私に気を遣ってくれているのが分かって、さらに申し訳なさが募る。
「弁償、します。……むしろさせてください」
もう一度謝罪する。さすがにスマホを壊したなんてのは重罪であり、それ相応の償いをしなければ気が済まない。今までのお年玉はお小遣いの貯金なんかを全部合わせたら、何とかなるかもしれない。最も大金を使うとなれば両親に話を通さなければならないから、その点においては気が重いけれど、スマホを壊された佐々木くんに比べたらはるかにマシだ。
佐々木くんまた『顔を上げてください』というページを私に見せて『弁償はしなくて大丈夫です』と、そのすぐ下に付け足した。
「でも……」
引き下がる私に、佐々木くん苦笑する。弁償しない以外の方法が思い浮かばなくて、もう一度提案するも、佐々木くんには『買い替える口実になるし、むしろラッキーだったから、大丈夫』と断られてしまう。何を言っても佐々木くんを困らせてしまうから、罪を償おうとする行為がだんだんと自己満足なように思えてきて心苦しくなる。
何も言えずに黙ってしまった私を見て、これ以上は埒があかないと判断したのか、佐々木くんがこの場を立ち去ろうとした。何か代替案がないかと考えを巡らせていた私は、スケッチブックを持つ佐々木くんの腕をつかんで、とっさに引き留めた。
「あの、だったら……私のスマホ、貸します」
 手の中のスマホがまた、震えた。
 瞬きを二三回繰り返して目を丸くした佐々木くんに、意外と背が高いのだな、とそんなことを考えた。

**

「いやあ、まあ仕方ないよね」
どちらかといえば気遣うような言葉を聞いて、ようやく息ができる、と思った。
「それにしても、災難だったね」
「代機とかなかったの?」
「ちょうど、全部出払ってたみたいで……」
「職務怠慢じゃない? 絶対その店いかないわ」
みんなは「呆れた」なんて言って私の味方に付いてくれたようだった。
「つか、困るよね、携帯ない生活」
「私だったら無理」
「私もー。彼氏と連絡とれなくなるし」
ナナミの返事に「ノロケおつー」と適当な相槌が打たれる。
登校して開口一番、私からの返信がなかったことを不思議に思ったサエリたちから「昨日返信なかったけど、何してたの」と問い詰められた。私たちとの約束すっぽかして、という言葉を裏に感じ取って、私は不安に駆られながらも昨日練習したように口にした。
携帯を落としてしまって。携帯ショップまで、行ってたから。返信する余裕がなかった。
言葉を口にするのが苦手だから、いつも話すときに詰まってしまう。それは演技では決してなかったけれど、彼女の想像より私の元気がなかったようで、糾弾するようなまなざしは、だんだん同情の色に変わっていった。さらに、金づちか何かでたたき割られたような画面の携帯を出せば、さすがに信じてくれたようだった。
「今日も携帯ショップ行くんでしょ? ついてこうか?」
 本当は用意していたセリフがあった。少しの間迷惑かけるけど、ごめんね。そういって、しばらく携帯のない生活が送れるのではとは期待半分、不安半分だったが、そんなものはなかったようにその一言が私の気持ちを崩していく。
「あ、と……お母さんと、一緒に」
 頭をフル回転させて答えると、よかったねー、と声をかけられる。
「今日行ったら修理できなくても、代機くらいあるっしょ」
「なきゃお店として困るんですケド」
「早く携帯直るといいね」
あ、ところでさー、と話題が次に移ったところで、私は窓側で友達と「話す」佐々木くんを盗み見た。私とそう大きさの変わらなかった手には、スマホ。男性の声が、流れてくる。いつもの、佐々木くんの「声」だ。
 でも中身は私のスマホだ。機種がたまたま一緒だったから、ケースだけを交換した。私がみんなに見せたのは、壊れた佐々木くんのスマホだった。
 昨日、私のスマホを貸すことを申し出たら、佐々木くんは渋い顔をした。アプリストアでは手に入らないと教えてくれた音声読み上げアプリは、個人的に作成されたものだったらしい。別の端末にも搭載できるということだった。
 個人情報の塊であるスマホを借りることはできないと遠慮していたけれど、最終的には彼の「声」であるスマホがないのはやはり何かと不便だと感じたようで。とりあえず今日の放課後までの一日、スマホを交換することで落ち着いた。
「カスミ、聞いてる?」
 呼ばれて、ハッとする。やばい、聞いてなかった。
「ごめん、なんだっけ」
「携帯なくてショック受けてんでしょ」
「わかるけど、ぼーっとしすぎ」
「ごめん」
 いや、だからー、と今度こそ、会話に集中した。
 私の携帯から、知らない男子の笑い声が聞こえる。相変わらず、楽しそうに人と「話す」姿が何度も脳裏をよぎって、胸の内にほんのりと昏い何かが影を落とした気がした。

 待ち合わせは、学校。帰り支度を済ませたみんなといつものように駅まで歩き「これから携帯ショップに行くから」と別れて、学校まで引き返した。嘘を吐く代償を身をもって感じながら、昇降口で上履きに履き替え、上がる息を整えながら佐々木くんを探した。
念のため、用事があって遅くなるということは伝えている。急いだけれど、結構時間がかかってしまった。
『じゃあ、明日。放課後、保健室で』
 入学初日の校内見学以来、保健室に行ったことはない。私たちの教室の隣の棟、一階の角、外からも出入りできる位置にあることくらいしか知らない。佐々木くんがどうしてここをわざわざ指定したのかは知らないけれど、彼の壊れたスマホを手に、扉にぶら下がっている小さなホワイトボードには保健室と書かれている。
扉を軽く三回ノックをした。中からの返事はない。
『たぶん返事ないかもだけど、そのまま扉開けて大丈夫だから』
 昨日佐々木くんにいわれた通り「失礼します」と断って、扉を引いた。
 勝手に消毒液の匂いがするのかと思っていた。でも、ラベンダーのようなほっと心が落ち着くような花の香りが白い部屋を満たしていて、消毒液の匂いは微かにするかしないかくらいだった。オルゴールの音色も聞こえる。広いテーブルと、パイプ椅子があって、ベッドが二台カーテンに仕切られて並んでいる。正面の奥にはオフィスデスク。
 右の端、パーテーションで区切られている一角に、人の気配がして背筋を伸ばした。
「佐々木くん、いますか?」
 保健室の先生かもしれない、と試しに声をかけてみるけれど、返事はない。そもそも先生なら、私が入ってきた時点で声をかけてくるか。
 どうしようかと考えあぐねていると、壁を三度、たたく音が聞こえた。パーテーションの中からだった。物音がして、パーテーションから顔を出したのは、佐々木くんだった。
『申し訳ない、ちょっと待ってて』
そう「言った」のは、私の携帯じゃなかった。
「あ、いえ……」
もしかして、無視、されてた?
でもその疑いはすぐに晴れた。
「ちょっと待て」
パーテーションの向こうから、もう一つ、男性の声が聞こえた。普段聞く佐々木くんの声よりも高めの、落ち着いた声。そっちは肉声だ、と思った。佐々木くんの声がそうでないというわけではなく、機械から流す声ではなく、目の前の肉体が生態を震わせて出す声のように聞こえた。
『もう終わってんじゃなかったの』
「今からやる」
『えー、来るっていったのに』
佐々木くんはパーテーションの向こうから出てくると『座って』とテーブル前の椅子を引いてくれた。
『今からやるっていうから、そんなに時間は取らせない。申し訳ない』
「あ、いえ……」
戸惑いながらも腰を下ろすと、佐々木くんは向かいに着席した。
「あの、これ。ありがとうございました」
 佐々木くんの壊れたスマホを返すと、彼は素早く画面に指を滑らせた。正面に座る佐々木くんの手にあるのは、私のでもない、全く別のスマホだった。
『なんで、ありがとう?』
「え?」
 返答を指摘されて、純粋に聞き返す。
『だって僕、全く河野さんのためになることしてないじゃん』
なぜか、と問われても、そうするのが当たり前のように感じたから、つい反射的に言ってしまっただけで、特別深い意味があるわけではない。
けれど、佐々木くんは続けた。
『スマホ、壊れてほしいって、思ってたの?』
 何かに喉を絞められたように、ひゅっと息がもれた。息が、苦しい。
佐々木くんの目はからかうようでもなく、いたって真剣だった。まるで、私の何かを知っているような口ぶりに、私はそれ以上答えることができずに、彼から視線をそらした。
正直、佐々木リョウガという人間は、できればかかわりたくない相手だった。入学してからなんだかんだ、一度も「会話」をしたことがなかったのは、私が意図的にそうしていた。同じクラスなので、存在は認識しているけれど、私は佐々木くんに対して複雑な感情を抱いていた。謎の罪悪感や劣等感があって、それが彼に伝わってしまうのではないかと不安で、あまり目も合わせないように、この九か月以上を過ごしてきた。
そんな相手に――いや、そんな相手だからこそ、胸の内を見透かされてしまったのだろうか。
「リョウガ」
 風が吹けば消えてしまうろうそくの灯のような声だと、思った。名前を呼ばれた佐々木くんは、ハッとした様子で何かを画面に打ったけれど、次には難しい顔をして、全部消した、のだと思う。
『怖がらせたかったわけじゃないんだ。すまない』
 口ぶりが、洋画の吹き替えのようで、ちょっと笑えた。佐々木くんは私と目を合わせると、頭を下げてきた。私は首を左右に振った。
スマホ、壊れてほしいと思ったこと、何度もある。踊り場に転がっていた黒い画面しか映らない電子機器が、私のだったらよかったのにと、本当はあの一瞬に思った。どうして「声」を必要とする彼の手からスマホが滑り落ちて、私がまるで溺れる者がわらを掴むように、それを握りしめていたのか、わからなかった。増える通知を見るのが嫌で、何度もベッドにたたきつけたことさえ、あったというのに。
スマホが壊れたら、多少は楽になれるのではないかと考えたこともある。みんなの悪口を見ることがなくなるから。数日でも離れられるんじゃないか、と。でも、彼女たちは私が早くスマホを手にすることを望んでいた。放っておいてほしいと願う自分はもちろんいるけれど、仲間認定をされたようで嬉しいと感じる自分も確かにいるのだと、不覚にも気づいて、自分の中の黒い昏いものが明るく清い場所に置いてあったものと混じってしまったような、複雑な気持ちになった。
「でも、どうにもならないから」
 知られてしまったのだからと、少し自棄を起こして、口走った。今度は私の言葉に佐々木くんが首を傾げたけれど「それ、新しいスマホですか?」と話題を変えた。
『うん。だから、河野さんのスマホお返しします。今音声アプリを消去してるんだ。少し時間かかるから、もう少し待ってくれる?』
「もちろん、です。ごめんなさい、もとはといえば私が悪いので」
『僕も、前よく見て歩いてなかったから』
「あの、でも本当に……やっぱり、弁償させてくれませんか?」
 昨日も同じ質問をした。それに佐々木くんは、僕の不注意だったし、と言って遠慮された。最新機種は無理だが、古いモデルであれば新品も自分の貯金で払えることが分かったから、弁償するつもりだった。もし最新機種をご所望であれば、お母さんに土下座することもやぶさかではない。
けれど、佐々木くんの返事は変わらなかった。
『本当に、大丈夫』
「で、でも」
『新品は買うかもだけど、結局僕は一銭も出すことにはならないから』
 ということは、ご両親に払わせているということで。言葉を変えたって事実は変わらないじゃないか。また食い下がろうとしたけれど、『ちがう、ちがう』と止められた。
『僕、いわゆる被検体だから』
「ひけん、たい……?」
『そう。早い話が、体のいいおもちゃ?』
 佐々木くんがおどけると「おい」と、パーテーションの向こうから咎めるような声が飛んできた。
『あれ、怒った? すまんて、悪気はない』
「終わったから、もってけ」
 佐々木くんは立ちあがって口を動かすだけで返事をすると、またパーテーションの向こうにいる誰かのもとへ行き、今度は私のスマホを手に戻ってきた。
『貸してくれて、ありがとうございました。助かりました』
佐々木くんに貸すにあたって画面ロックは解除していたから、いとも簡単にホーム画面が開かれる。一番見えるところにあるメッセージアプリの通知は上限を超えたようで、プラス表示のみになっていた。
『僕が使ってたアプリは消してある。あと、SNSは一切見てないから、安心してください』
 佐々木くんとの間にそれほどの信頼関係があるわけではないけれど、その言葉は信じられると思った。
「本当に、ご迷惑をおかけしました」
『いいえ、こちらこそ。じゃあ……また明日』
「……また……」
 明日以降、佐々木くんと話す機会なんて、あるだろうか。なんとなく、そんな想像はできなくて「明日」という言葉は言えずに保健室を後にした。