・【05 死の覚悟】


 僕は、いや僕も死にたい。
 でも入ってきた彼はやっぱり死にたくなさそうで。
 錠剤の瓶に手を掛けてから、完全に止まっていた。
 これが毒薬だということを理解したが、それ以上が出ない。
 当たり前だ。
 死にたくないんだから、死ぬための行動はとりたくないだろう。
 でも逃げ場の無い空間。
 多分いつか死を覚悟するんだろう。
 その時を僕は固唾を飲んで見守った。
 彼が止まってから何分経っただろうか。
 多分三十分以上止まっている。
 彼からは汗がぶわっと吹き出して、徐々に紅潮していった顔は、今や真っ赤だ。
 そろそろ手伝いに行かないとダメなんじゃないか、と思ってたその時、彼は大きな叫び声を上げた。
「クソ! やってやるよ! 死んでやるよ! クソがぁぁぁあああああああああっ!」
 そう言って錠剤から薬を取り出して、口に放り込み、手で水をすくって飲みこんだ。
《彼、錠剤の薬を出して、飲みましたね……じゃあこれで死ぬということ、ですか、ね?》
 おそるおそる溝渕さんにそう聞くと、溝渕さんは眉一つ動かさず、
《田中くん、様子を見ていこうか》
 と言うだけで。
 確かに溝渕さんは”毒薬ならいいんだけども”みたいな意味深なことを言った。
 じゃあ死ねないのか、死なないのか、じゃあこの薬は何なんだ?
 そう思いながら、見ているのだが、確かに彼に異変は起きていない。
 よくドラマとかで毒薬を飲んだら、すぐに倒れ込むみたいな描写があるけども、彼にそう言ったところは見られない。
 飲んだ後も全然ピンピンしている。
 というわけで、彼はまだ喋る。
「……全然何にもなんねぇぞ、もっと飲めということか? 一発で死ねる分量にしとけよ! クソがっ!」
 そう言って彼は何錠も何錠も薬を飲んだ。
 薬を飲む度に、錠剤が入った瓶には何故か減った分の錠剤が出現し、無限に継ぎ足されていった。
 そして。
 ついに。
 僕はつい大きな声を出してしまった。
《あっ! 彼、倒れましたね! 死んだということですかっ?》
 それに対して溝渕さんはゆっくり首を横に振って、
《いや、この空間は死ねたあと、体が砂のようになっていき、跡形も無く消えていく。つまり彼は死んでいないね》
《じゃあ僕と同じで気絶した、ということですか?》
《それよりも、これはきっと寝ているね。睡眠薬で眠ってしまったようだ》
 睡眠薬。
 そうか、あの薬は睡眠薬だったのか。
 でも
《睡眠薬って同時にたくさん飲むと死ねるんですよね? 死ぬんじゃないんですか?》
《いやきっとそういうことじゃないと思うよ。仕方ない、今度は俺たちが姿を現して、彼を自殺に導いてあげよう》
 自殺に導くって他殺では、と思いながらも、僕は溝渕さんの言う通りにするしかない。
 郷に入ったら郷に従えだから。
 まず最初に溝渕さんは目を瞑り、すぐさま「ハッ!」と声を上げると、何だか溝渕さんの見た目が一段階クリアになったような気がした。
 その時に自分の手を改めて目視すると、自分の体が何だか少し濁っているような気がした。
 あっ、これが膜を張っているというヤツなんだ。
 溝渕さんが「ハッ!」と言った時、声もこもっていなかったし、これで溝渕さんは膜を破ったんだ。
 僕も溝渕さんがやった通り、姿を現すことを念じつつ、気合いを入れると、確かに自分の手がハッキリと見えた。
「やっぱりできたね。誰でもできるみたいだ」
 溝渕さんはそう言いながら頷いた。
 僕は自分もできてちょっとホッとしていると、溝渕さんが、
「安心する暇なんてここからは無いよ。さて、このまま寝させていても意味は無いから、叩いて起こそう」
 と言った時、僕は一応の確認として、
「僕もあの錠剤を飲んでみていいですか?」
 すると溝渕さんは理解したような表情をし、
「そりゃ一回試してみたいよな。うん、蛇口のほうへ行ってくると良いよ。俺は待ってるから」
 ”俺は待ってるから”に死ねない意味合いが含んでいるけども、僕は気にせず、手洗い場のほうへ行った。
 そこには錠剤が入った瓶があったので、早速掴もうとすると、まるで自分が幽霊になったかのようにすり抜ける。
 掴むことすらできないとは、正直思わなかったので、めちゃくちゃ驚愕した。
 試しに手洗い場の蛇口に掴めるかどうか触れようとすると、それには普通に触れることができた。
 じゃあ蛇口の角に頭をぶつけて死ねるのでは、と思い、思い切って蛇口に向かって頭突きをかましたら、それはすり抜けた。
 スカッと空を切って、前のめりに転びそうになったくらいの感じ。
 その前のめりに転んだ勢いで死ねたら、とか一瞬思ったけども、まあ倒れたとしても最初の気絶くらいで終わるんだろうな。
 あまり何も考えずに蛇口に触れようとすると、蛇口に触れられるし、捻れば水が出るし、その水を手ですくって水も飲めた。
 正直久しぶりに何か口の中に入れたので、その感覚が嬉しくて、結構ガブガブ水を飲んでいると溝渕さんがやって来て、
「一度飲み始めると際限無いぞ」
 と言われて、僕はすぐに水を飲むことをやめた。
 そう言えば、水を飲んだらオシッコが出るのかな。
 オシッコを出しているところを、この自殺室を見ている人間に見られたくないな。
 というかこの水を飲む行動自体、めちゃくちゃ笑っているんじゃないのか。
 そう思ったら、急に自己嫌悪の波が襲ってきた。
 そんな僕を見ていた溝渕さんは、
「余計なことを考えていても何も起きないぞ。あとオシッコは出ないから安心しろ。それも経験済みだ」
 僕は少しホッとしながら、溝渕さんのあとをついていって、倒れている、というか寝ている彼のところへやって来た。
「田中くん、俺は彼を叩いて起こすから。田中くんは基本的に黙って見ているだけでいいから。でもまあ上手く説得できそうな言葉が浮かんだら構わず言ってくれ。そろそろ時間との勝負になるはずだから」
 溝渕さんは肝心なところを誤魔化す癖があると思う。
 ”そろそろ時間との勝負になる”って、どういうことだろうか。
 でもそれも説明し過ぎると、情報過多でパニックになるというヤツなのだろうか。
 確かに僕は何も分かっていない状態と言って等しい。
 蛇口の角で頭ぶつけて死のうとするくらい、何も分かっていないヤツだ。
 その言わないことも優しさだと思って、僕は黙って溝渕さんのことを見ていることにした。
 溝渕さんは倒れている彼の近くにしゃがみ、彼の顔を強めに何度かビンタすると、彼はゆっくりと瞼を開くように目を覚ました。
 僕らを目視した彼は、驚きながら、すぐに声を上げた。
「……! 何だオマエら!」
「目を覚ましたようだね、俺とこの子は君を自殺に導くための案内人だ。溝渕と言う」
「僕は田中です」
 僕の声に反応し、僕のほうを向いた彼は目をまん丸くしながら、
「オマエ! 直前のテストで”何故か”最下位をとった田中信太(しんた)か!」
 溝渕さんは溜息をついてから、
「田中くん、やっぱり君は……」
 と何かを言おうとしてきたので、それを遮るように僕は
「僕のことはどうでもいいんだ、それより時間との勝負になるんですよね? 溝渕さん」
 と言ったところで、彼が上半身を起こしながら、ガッツポーズを決め、
「いやいやいや! 生きてるじゃん! ということは死ななくていいということか! よっしゃ! 俺も一緒に生きるぞ! 田中信太!」
 確かにそう思っても不思議ではないな、と思っていると、溝渕さんはハッキリとこう言った。
「いや、この自殺室は死にたくない人間は自殺し、死にたい人間は死ねない空間なんだ。つまり君はここで自殺しないといけないんだ」
 それに対して彼はキョロキョロと目を泳がせながら、
「どういうことだよ! 普通逆だろっ? というか田中信太、オマエ、死にたいのか……? 何でだよ! テストの成績もスクールカーストも上位だったオマエが何故!」
 余計なことばかり口走る彼に少し嫌気が差しながら、
「僕の話はしなくていいよ、それよりも君の話だ」
「いやでも! オマエが生きているならオレも生きれるだろ!」
「それはさっき溝渕さんが説明した通りで」
「何だよ! 訳分かんねぇよ! ずっと! オマエが死にたいのも分かんねぇしよ! 正直この学校で頂点獲ってれば遊びたい放題だろっ? 底辺とは元々の格が、次元が違うもんだろ! 地頭がよぉ!」
 つい、バカのくせに言葉数が減らないな、という台詞が浮かんでしまった。
 いやいやそんなことを考えている時間だって、きっと無いんだ。
 これを言ってしまったら、マジで長引くだろうから、言わないようにして、
「とにかく、僕の話はどうでもいいんだ。君の話をするべきだ、今は」
「何だよ偉そうによぉ、まあそんだけ成績良ければ偉くなるよなぁ、それなのに自殺室行きってオイ、オマエ、何かやっちゃいけないことでもやったのか? 犯罪でも犯したのか? それも、とびっきりヤバイヤツ。ハッハッハ! スクールカースト上位のくせに、ヤバイことしてんじゃねぇよ! バカじゃねぇのっ!」
 バカはどう考えてもオマエだろと言いそうになったその時、溝渕さんがこう言った。
「まあ俺が言いたいことは一つだけだ。簡単に死ぬか、苦しんで死ぬか、選べ」
 それに対して彼は、
「何だよ、マジで誰だよ、オマエ、オッサンが急に何なんだよ」
 と言ったところで溝渕さんは一切顔を変えずにこう言った。
「簡単に言えば死神みたいなもんだ。鎌は持っていないが、空間は俺が操っている」
 そう言った瞬間に彼は顔の血の気が引いたような顔をした。
 いや溝渕さんの言ったことは嘘だけども。絶対に嘘だろうけども。
 溝渕さんが空間を操っているはずが無いけど。
 でもそっちのほうが話は早いと思う。
 見知らぬ人が死神を演じたほうが話の決着は早いだろう。
 彼は生唾を飲みこみ、こう言った。
「何で俺の地元の公衆便所が分かるんだよ……」
 溝渕さんは間髪入れず答える。
「俺が死神だから、としか言えないな」
 逆にそうとしか言わないことが、真実味を増させていた。
 溝渕さんは続ける。
「答えろ。楽に死ぬか、苦しんで死ぬか。どっちがいい」
 彼はさっきまでの威勢がどこにいったのかと思うくらい、静かに喋りだした。
「……まあ確かにこの際、田中信太の話なんざどうでもいいか、オレは田中信太のように生きたい。どうすればいい?」
 それに対して溝渕さんは答える。
「話を聞いていなかったのか。君は楽に死ぬか、苦しんで死ぬしかできないんだ」
 納得のいっていない顔を、僕にチラチラと向けながら彼は、
「オレはそのどっちかしかダメなのかよ……」
 溝渕さんは堂々と、
「そうだ。オマエは死ぬだけだ。でも今なら楽に死ねる方法もあるんだ」
 彼は頭をわしゃわしゃと両腕で掻いてから、
「どうやるんだよ。クソがぁ。全然毒薬では死ねなかったぞ」
 と言って、溝渕さんのほうを睨んだ。
 しかし溝渕さんは一切動じない。
 本当にこの役をやり慣れているんだ。
 死神という役を背負って、ずっとここで生きているんだ。
 溝渕さんは静かに口を開き、
「君が自殺する方法は分かっている。あの睡眠薬を飲んで、大便のほうの水洗便器に顔を出す。そして寝たところで水洗便器に張られた水に顔をつけ、そのまま溺死する。それが君の死に方だ」
 僕はゾッとしたし、何だその死に方って思った。
 でも確かに睡眠薬では死ねない。
 それはもう分かった。
 さらに手洗い場では水を溜めておく栓のようなモノは無かった。
 つまりそこで溺死ということもできない。
 だから水洗便器の水で溺死をするということか。
 でも何だこの違和感。
 というか何だその死に方。
 あまりにも気を衒いすぎているというか。
 いやまあ自殺室が見世物小屋だとしたら、そういうこともありえるのかもしれないけども。
 そう溝渕さんに言われた彼は激高した。
「何だよその死に方! そんな屈辱的な死に方するはずねぇだろ! オレはササ……じゃなくて! とにかく! そんな死に方はしねぇ!」
 一瞬何かを言いかけた彼。
 一体何を言いかけたのだろうか。
 いやそんなことを考えても無駄だ。
 よく分かった。
 この空間は考えても無駄ということだ。
 確かに溝渕さんは考えて、彼が死ぬ方法を導き出したけども、基本的に何を考えても無駄だということだ。
 彼は立ち上がり、しゃがんでいる溝渕さんを見下ろしながら、思い切り溝渕さんの顔を目掛けて蹴ってきた。
 しかし彼の足は空を切った。
 そう、彼は溝渕さんに触れられなかったのだ。
「化け物め……」
 そう恨めしそうに溝渕さんを睨んだ彼に、溝渕さんは立ちながら、こう言った。
「化け物は君のほうだよ。君はこういった公衆便所でイジメを繰り返していたんじゃないかな? たとえば、そう、水洗便器に顔をつけさせるような、ね」
 そう溝渕さんが言った時、僕は完全に分かってしまった。
 いや溝渕さんは既に何回かそのようなことを言っていたから、その時に分かるべきだったとは思うけども、今完全に理解した。
 そうか、死にたくない方法で死なないといけないって、そういうことからきているのか。
 過去に行なった自分の悪い行動からきているのか。
 さっき言いかけた言葉はきっとそのイジメをしていた相手の名前だ。
 ”オレはソイツじゃないんだ”みたいなことを言おうとしたんだ。
 僕は、余計なことを喋った彼を疎ましくは思っていたが、正直この状況に陥ったことへは同情していた。
 しかしそんな非道なことをしていたのならば、話は別だ。
 全然同情する余地なんてない。
 今すぐ死ねばいい、とまで思った。
 彼は声を震わせ、体全体も動揺させながら、
「……何で分かるんだよ……」
 と呟いた。
 それに対して溝渕さんは毅然と言い切る。
「この自殺室では、一番自分が死にたくない方法で死ななければならないんだ。だから自分が一番屈辱だと思うシチュエーションが出現するんだ」
 彼はキッと唇を噛んでから、
「そんな方法では死なねぇ! 舌を噛みきって死んでやる! ……うっ! うぅっ! うっ! ……全然噛みきれねぇ!」
「それ以外の方法は全て閉ざされるからね」
「じゃあ死なねぇでそのまま生き続ける! ざまみろ! それでいいだろ!」
「残念、いずれ死ぬんだ。その場合は最後まで意識を持った状態で苦しんで苦しんで死ぬんだよ。ほら、睡眠薬を飲んで便器に顔を出せば、最後の部分は苦しまず死ねるよ」
 溝渕さんは淡々としている。
 表情も変に厳しくは無い。
 全てを案じているような、そんな面持ち。
 僕は正直ハラワタ煮えくり返るような気持ちだが、溝渕さんからはそう言った怒りのような部分は感じられない。
 それがまた死神のような、本物の死神のような気がした。
 いや待てよ、溝渕さんは本当にこの自殺室の番人なのでは。
 見世物小屋として運営している側が用意した、案内人なのでは。
 そりゃまっとうな仕事じゃないけども、高い賃金をもらって行なっている仕事なのでは。
 いや、そんなことを考えることも無駄だ。
 全部無駄なんだ。
 きっとこの死のうとしない彼に対して、思っているこの気持ちも無駄なんだ。
 無になろう。
 なんとか無になろう。
 そんなことを考えながら見ている。
 彼はもう僕のことなんて気にせず、溝渕さんのほうだけ向いて叫んでいる。
「何だよ! どういうことだよ!」
「さぁ、実際あまり時間は無いんだ。早く睡眠薬を飲むべきだ。そうすれば最後は苦しまなくて済む」
「ちゃんと説明しろよ!」
「説明したところで君は理解できないだろうから。というか説明することもそんな無いんだ。俺は死神として君が死ねばどうでもいいだけだからね。でも苦しまず死ねるように、ちゃんと用意をしてあげているだけなんだ。むしろ感謝してほしい」
 彼はワナワナと唇を歪ませている。
 溝渕さんの誤魔化す言いっぷりが死神感をより醸し出している。
 多分この死神役をやりすぎて、こんな言いっぷりになったんだろうな、溝渕さんは。そう考えるようにしよう。
 さて、この彼はどうするか、と思って見ていると、彼は急に水洗便器のほうへ向かってゆっくり歩き出したので、僕はつい声を出してしまった。
「どうしたの、君。何か水洗便器のほうへ歩いていって」
 鬼気迫る表情で彼は、
「体が勝手に!」
 と叫んだ。
 それに対して溝渕さんはやれやれといった感じに、少々呆れながら、
「まあある意味、自分で死ななくていいから楽だけどね、そうなると」
 彼は慌てながら、腕を大きく動かしながら、
「待って! 待ってくれ! 睡眠薬を持ってきてくれ! 今から飲むから! 待ってくれぇぇえええ!」
 僕は走って手洗い場にあった錠剤が入った瓶を持った。
 本来モノに触れられない僕が、錠剤が入った瓶に触れることができたのは、きっと僕自身に今、この瞬間だけは死ぬ気が無いからなのだろうか。
 まあ理由はどうでもいい。
 僕は急いで持ってきたが、時既に遅し。
 彼は自ら水洗便器に顔をつけ、溺死を遂行していた。
「うばぁばぁばぁばぁばぁばぁがぁっぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁぁ……、……、……」
 彼は最初、排泄物ほどに汚い声を上げていたが、いつか声は出なくなり、その場でぐったりした。
「あーぁ、あの時に言う通りにすればまだ間に合ったのに。まあこれでおしまいだね」
 溝渕さんがそう言ったその時、動かなくなった彼は、急に砂のようにボロボロと崩れだして、自殺室のこの空間と共に風化し、彼が完全に消え去った時にはまた自殺室は真っ白い空間に戻った。
「次は物分かりのいい子がいいね」
 そう言って溝渕さんは部屋の隅に体育座りをした。
 こんな光景を見ると、なおも死にたくなる。
 もう見たくない。
 早く死にたい。
 でもきっと、そう願うほど死ねないんだろうな。
 果たして、僕は死ねる時が来るのだろうか。