ただでさえ弥宵の顔が糢嘉の顔の間近にあるというのに、弥宵はさらに自分自身の顔を糢嘉の顔へと近づけてくる。
 弥宵との触れ合いから逃れるために、糢嘉は顔を横に逸らすが弥宵のほうが一枚上手だった。
 口づけをすると思わせる巧妙なフェイク。
 糢嘉に勝ち誇った流し目を送りながら、弥宵は糢嘉の首筋に唇を押し当てた。
 糢嘉の体がバネのように大きく跳ね上がり、鼓動は激しく波打ち呼吸困難に陥ったかのように息苦しい。まるで心臓を直接鈍器で叩かれているみたいだ。
 叫びたいのに首の骨がねじれてしまったかのように、糢嘉の声帯は通常に機能されずにかすれた声すら出てこない。
 胃に穴が空きそうだ。いや、もうすでに空いているのかもしれない。
 この胃痛は尋常ではないが、コーヒーとサンドイッチが原因ではないことは断言できる。
 逃げ道を模索する糢嘉の両足は足掻きに足掻いて地面の上で雑に踊る。
 糢嘉の唾を飲み込む音でさえも弥宵には糢嘉が煽っているようにしか見えなくて、それは欲情する要素としては充分すぎる材料だ。
 弥宵の唇が肩からうなじへとすべり、糢嘉の皮膚は骨ごと焼けこげてしまいそうなほどに熱くなる。
 いっそのこと糢嘉の制服を全部剥ぎ取り、裸体の糢嘉を隅々まで味わいたいと弥宵は懇願する。
 糢嘉の両手首を痣になりそうなほどの力で服従させておいても、弥宵の唇は糢嘉の素肌に強く吸いつき、赤紫の痣を残すほどの威力はない。
 歯で噛みつきもしない。舌先で濡らしもしない。かすかな体温だけが行ったり来たりしているだけだ。
 手加減されているのだろうか。それとも遊ばれているのだろうか。
 どちらにしろ、愛撫と思わせる弥宵からの優雅な(ほどこ)しに糢嘉は脱力感に見舞われる。
 不思議と嫌悪感がまったく感じられない。
 むしろこのまま欲望に忠実に従い、もっと先へと踏み込んだ情熱的な快楽を望んでしまっていることが糢嘉には信じられないでいた。
 それでも、ここで常識を手放すわけにもいかず、糢嘉は説得力の無い反抗を続ける。
「な……が、くら……ッ! ふざけるの、やめろ……」
 なんとか絞り出した糢嘉の声は非常に弱々しく、頼りないものだった。
「ふざけてなんかいない。僕は本気だよ」
 ──本気──。
 それは糢嘉にもわかっている。
 弥宵から目を逸らしたことで、糢嘉の目と傍観している人たちとの目が合う。
 いつの間にか弥宵と糢嘉の周囲には数名の人だかりが作られていた。
 見るな。
 これは公開プレイなんかじゃない。
「人が見てんだろ!」
「見させとけばいい」
 見てよ。
 これは公開プレイとされている。
「頭おかしいんじゃねーの⁉」
「そうだよ。僕はおかしい。そして、その原因は全部モカのせいだよ」
 糢嘉の必死な抵抗も虚しく、一瞬の隙をつかれて糢嘉は弥宵に唇を許してしまった。
 唇が焼ける。上手いキスに妬ける。
 背伸びをして弥宵の首に腕をまわし、周囲の人たちにラブシーンを見せつけるのは簡単なことだ。
 それでも、今ここで弥宵に簡単に甘えてしまえるほど糢嘉の心は準備万端というわけでもない。
 一瞬の隙をつかれて、糢嘉は弥宵から唇を奪われた。
 その仕返しというわけではないが、糢嘉も一瞬の隙をついて弥宵に反撃した。
 弥宵の頬に痺れた痛みが走り、それは徐々に頬全体に広がりうっすらと赤くなる。
 弥宵はその頬をさすって痛みを和らげようとはしない。たとえ痛みだったとしても、糢嘉から触れられた箇所を弥宵は大切にしたいのだ。
 弥宵を平手打ちしたのと同時に糢嘉の眼鏡も外れて地面に落ちた。
 糢嘉の瞳からも(しずく)がこぼれ落ちる。
「その涙は嬉し涙? 悲し涙? 怒り涙? どれなのかな?」
「嬉し涙だけじゃないことはたしかだ」
 弥宵は糢嘉を泣かせてしまったことによる反省よりも、糢嘉の頬に光る一筋の涙に唇を寄せたいと願望する色欲魔となっていた。
 これまで抑制してきた愛しき想いは、
「好きな人にキスをして何がいけないの⁉」
 もう制御しきれない。
 糢嘉はボロボロに壊れかけている弥宵に同情もしなければ、(なだ)めもしない。
 しかし幻滅もしていない。
 冷静に、冷酷に、それでいて穏和に弥宵の精神を落ち着かせようとする。
「王子様がご乱心するもんじゃない」
「王子様? 誰のこと?」
「とぼけるなよ。いつも学校で振り撒いている王子様スマイルはどうした?」
「勝手に決めつけないで。僕は王子様なんかじゃない」
 いつの時代も王子様は凛々しいものだという固定観念を、今、捨てるときだ。
 これがもし、何百年前の王族が取り締まる独裁政治だったのならば、弥宵の美しい自慢の顔を叩いた糢嘉は投獄される前に即・処刑されてしまうであろう。
 けれども弥宵から届けられた愛の告白は処刑よりも頭を悩まし、狂った目眩がしそうだ。
「モカのことが、好きだよ」
「やめてくれよ」
「ずっと前から、モカだけが好きだよ」
「永倉、もうそれ以上、言うな」
「嫌だ! 言う!」
 どこか疲れきった様子に見える弥宵は、これ以上、愛する男の前で普通に会話することは無理なのだと言うように感情を爆発させた。
 声帯が破裂しそうなほどの弥宵の雄叫びは、まるで地盤沈下までも発生するほどの勢いだ。
 もしここで地面が沈んで地形が変形してしまい、弥宵と糢嘉の立つ間に亀裂でも入ったりしたならば、糢嘉はなんの迷いもなく、何も恐れることもなく、弥宵の立つ場所へと飛び移るだろう。
 なんの迷いもなく、何も恐れることもなく、常識枠から飛び出して、道徳観を投げ捨てて、弥宵は糢嘉に本心を見せた。
 弥宵と金輪際(こんりんざい)の別れになってしまうくらいなら、糢嘉は身の危険などかえりみずに弥宵との交際を選ぶ。
 たとえそれが世間一般では公にしにくい関係性だったとしても、正々堂々と突進された愛情は挑む価値があると思えるからだ。