ここはどこだろう?
 突然連れて来られた場所は地区名くらいしかわからない。
 弥宵と糢嘉は小さな喫茶店に入店した。お客は弥宵と糢嘉のほかには誰もいなく、まさに二人だけの貸し切り状態だ。
 小さな外見をそのまま表すかのように店内もそんなに広くはない。
 テーブルと椅子はそれほど多く設けられてはおらず、喫茶店というよりも山小屋のようで、まるで人目を避けて営業しているかのような喫茶店だ。
 お店自体はこじんまりとしているがコーヒーの味は一級品で、いつまでもここに長居したくなる、そんな心安らぐ味だ。
「ここのコーヒー、美味しいね」
 弥宵が幾度となくコーヒーを口に運ぶなか、糢嘉は弥宵が絶賛するコーヒーをまだ一口も味わってはいない。
 二つのティーカップに注ぎ入れられた出来立てホットコーヒーの豊かな香りが弥宵と糢嘉を柔和に包み込む。
 この香りだけで直接舌で味わっていなくても、糢嘉はここの喫茶店のコーヒーは絶品なのだと判断した。
「モカ、コーヒー飲まないの?」
 弥宵が糢嘉の様子をうかがいながらたずねる。
 そもそも糢嘉はコーヒーを注文してはいない。弥宵が糢嘉の許可なく二人ぶんのコーヒーを注文しただけだ。
 レトロな洒落たかんじの壁掛け時計の針がちょうど午前九時をまわったとき、地蔵のように固く止まっていた糢嘉の唇もゆっくりと動いた。
「いったいなんのつもりだよ?」
「え? 何が?」
「俺を引き立て役にして、もっと目立ちたいわけ?」
「引き立て役?」
 聞き返す弥宵のその声は非常に穏やかで、糢嘉の怒りを冷静に受けとめている。
「あのさ、見てたからわかると思うけど、俺は痴漢扱いされたサラリーマンを永倉みたいに助けなかった。遠回しにバカにするくらいなら侮辱して笑えよ」
 いつまでもネチネチとした卑屈をズルズルと引きずるだなんて逆にみっともないだけだと糢嘉は思ったが、弥宵からの好意がすべて危険信号の明かりに見えてしまい素直に向き合えないのだ。
 本音を沈めて糢嘉は弥宵を拒絶する。
「僕はモカに嫌われているのかな?」
 弥宵が顔を斜め下に伏せながら肩を落とし、寂しげに言った。
 この問いかけに関してだけ糢嘉は全否定する。
「嫌いとか、そういうんじゃなくて……」
「嫌いじゃないなら、どうしてそんなに突っかかるの? 僕はモカともっと話したいよ」
 糢嘉の顔色をうかがい、糢嘉との交流を強く望む弥宵の姿勢が糢嘉の頭を悩ます。
 それに弥宵には糢嘉に執着しなくても自然と人の輪が完成する。
「べつに俺なんかと話さなくても、永倉には話し相手がたくさんいるだろ。俺は見てのとおり、こんなだし……」
「何がこんななの?」
「だから、見てのとおり……ッ!」
 糢嘉が言葉を詰まらす。これ以上言葉を続けたら先程と同じ過ちを繰り返してしまう。
 自分の立場の現状維持のために感情的になってはダメだ。
 そしてなにより、糢嘉は弥宵の優しさを傷つけたくはなかった。
「モカ、コーヒー冷めちゃうよ。飲まないの?」
 糢嘉に是非とも飲んでもらいたくて弥宵がご馳走してくれたモカコーヒー。
 冷めて美味しさが失われてしまい、ただの茶色い汁になる前に糢嘉の手がティーカップに触れる。
「……飲むよ」
 糢嘉は『モカ』という名前を嫌ってから初めてコーヒーを飲んだ。
 糢嘉よりコーヒーを飲むスタートが早かった弥宵は糢嘉のペースに合わせてコーヒーをしばらく放置する。
 糢嘉より先に飲み干してしまいたくはない。
 弥宵にとってコーヒーは糢嘉そのもので、糢嘉専用に用意された飲料水だとさえ思えるほどなのだ。
 だから譲れない。
「モカって呼んでも良い?」
 この名前で呼ぶことを、この名前で呼ばせてもらえるまでは引き下がれない。諦めない。
「そんなの今さら言わなくたって、もう勝手に呼んでんじゃん」
「そうだけど、やっぱりモカ本人からの承諾が欲しい」
 真相を見破り、悪人を排除した人間は己のことを自らひどいと罵っていてもやはり誠実なのだ。
 眉目秀麗なだけではない。永倉弥宵は性格も素晴らしい。
 そんな弥宵からまっすぐに見つめられて真摯にお願いされた糢嘉は断れない。
「……勝手に呼べば」
「ありがとう」
 ぶっきらぼうな言い方ではあるが、糢嘉は弥宵から『モカ』と呼ばれることを許可した。
『モカ』と呼べる特権を得たことで、弥宵はさらに勢いをつける。
「ねえ、モカ。この後どこに行こうか?」
「はあ?」
 糢嘉が素っ頓狂な声をあげる。ティーカップに入れられたコーヒーを弥宵と同じ半分まで飲んだところだ。
「モカは普段、どういう場所で遊ぶの?」
「ちょっと、なんの話?」
 糢嘉には弥宵の言っている意味がよくわからないでいる。
 怪訝そうな表情で首をかしげている糢嘉に、弥宵は今、自分が要望していることをそのまま伝える。
「だからこうして学校をサボっているわけだし、モカとこのままどこか遊びに行きたいなと思って」
「学校サボるってマジだったわけ⁉」
「マジだよ」
 何を今さら。といったかんじに弥宵は学校をサボることに少しも抵抗なく、悪ぶれた様子もなく、さも当たり前のようにしている。
「モカは学校に行きたいの?」
「行きたいというか……てか永倉は学校に行かなくても大丈夫なのかよ?」
「大丈夫だよ。どうして僕を基準にして考えるの?」
「いや、だって、永倉って成績優秀だし、スポーツ万能だし、サボリがバレたら色々とヤバいんじゃないか? 今頃、学校から家に連絡いってるかもしれないし……」
 糢嘉はしどろもどろしながら弥宵の顔とティーカップを交互に見る。
「僕の心配をしてくれているの?」
「心配っていうか……」
 言葉を濁してはいるが、弥宵に対する周囲の人たちからの良い評価が自分と一緒にいるせいで下がるかもしれないと、糢嘉の表情が徐々に曇りはじめて心配の色を濃くさせる。
 その無自覚な親切心を認めようとはしない糢嘉があまりにいじらしいものだから、弥宵は満面の笑顔を糢嘉へと向ける。
「モカ、ありがとう」
「いや、だからべつに永倉のためとかじゃなくて……。つか、そんなお礼ばっか言うなよ」
 照れながらコーヒーを不器用に飲み急ぐ糢嘉のその姿がまぶしいほどに愛しくて、弥宵は調子に乗りすぎてしまった強引な行動もプラスになったと自画自賛する。
 恥ずかしさのあまり、糢嘉は弥宵の顔を直視できずにいる。
 なんとなく心が落ち着かなくて、糢嘉は照れ隠しとばかりにミルクと砂糖をコーヒーの中に入れて自分の感情を誤魔化した。
 頬を朱色に染めながら、糢嘉がぎこちなく笑う。
 弥宵は笑う糢嘉が見たかった。そしてその瞳ごと吸い込まれてしまいそうなほどの素敵な笑顔を独占したかった。
 笑顔の糢嘉は地味どころか、地味とはほど遠くかけ離れていて、それはとても、とても──。
 教師と両親から怒られるであろう覚悟と同時に糢嘉の心に新たに生まれたのは、弥宵と二人で街中を楽しく遊び歩くプランだ。
 これから弥宵と一緒に過ごす時間を誰にも邪魔されたくはないと思った糢嘉はスマートフォンの電源をオフにした。
 弥宵のスマートフォンは駅で糢嘉を引き止めたときからオフになっていた。
 この遊びは見つかってはいけない。見つかってしまったらアウトになってしまう。
 最終までセーフに仕上げる方法を考えながら、弥宵と糢嘉はコーヒーを飲み進めていった。