自転車に乗る学生たちが忙しなく行き交うなか、住宅街が夕暮れから夜の静寂へと自然と溶け込んでいく。
「じゃあね、モカ。後でラインするね」
糢嘉を無事に家まで送り届けると、弥宵は名残惜しそうに糢嘉の髪を撫でて指先にそっと絡ませる。
糢嘉も帰宅途中、睡魔に蝕まれることがなくて胸を撫で下ろした。
「永倉……」
糢嘉が何か言いたそうな顔で弥宵の名前を呼ぶ。
「ん? 何?」
首を少し斜めに傾けながら、鼓膜が蕩けてしまいそうなほどの甘く優しい声で訊き返されて、糢嘉の頭の中では歯の浮くような恥ずかしい台詞が次々と浮かんでいる。
「また明日、学校で……」
だけど実際に弥宵に伝えたかった言葉の数々は何一つ声には出せなかった。
「うん。また明日ね。ゴールデン・ウィーク、どこか行きたい所とかあれば言ってね」
「うん、考えとく」
ここで会話が途切れてしまい、まだ弥宵と一緒にいたい糢嘉はなんとか会話を引き延ばしたくて、何か良い話題はないかと話の種を探す。
「モカ、家の中に入らないの?」
玄関前から一歩も動かないでいる糢嘉のことを不思議そうな面持ちで見つめる弥宵からの問いかけに、糢嘉は「うん、まあ……」と曖昧に濁すだけで玄関の扉を開けて自宅に入ろうとはしない。体を反転させずに弥宵と向かい合っている。
口下手な糢嘉はどうやら弥宵に心を読み取ってもらいたいらしい。
「キスしよっか?」
臆面なく顔を近づけてくる弥宵に糢嘉はあわてふためいた。
糢嘉はもう少しだけ弥宵と一緒にいたくて、自宅付近を三十分ほど他愛のないお喋りをしながら散歩できたら良いなと思っていた程度であり、まさか口づけを迫られるとは予想もしていなかった。
弥宵はいつも糢嘉の想像のさらに上を超えてくる。
弥宵は糢嘉のことに関してだけは呆れるくらいに猪突猛進になり、ワガママで欲張りになるのだ。
そんな弥宵のことを糢嘉は羨ましく思っていたりもするのだ。
糢嘉は持病のことも含めて己の言動によって誰かに迷惑をかけてしまわないだろうか、不快感を与えてはしまわないだろうかと、余計なことを考えすぎてしまう傾向があるからだ。
「バカ! 何言ってんだよ!」
糢嘉は早口に言った。
一瞬で顔全体に熱が集まり、熟れて食べ頃な苺や林檎よりも真っ赤に染める。
「嫌だ」「ダメだ」といった拒否する言葉を貰わなかったことから、糢嘉の返事が「ノー」ではなく「イエス」だということは弥宵にもすぐにわかったが、弥宵はそれ以上キスの催促をしなかった。
キスではなく、べつの要望を糢嘉へと伝える。
「僕のことも苗字じゃなくて、下の名前で呼んでほしいな」
やはり苗字だと『その他大勢の一人』であるクラスメイトから抜け出せない。
何から何まで糢嘉の特別な存在でありたいと思う弥宵の独占欲はおさまることを知らないようで、それは永遠に続きそうだ。
『モカ』と呼びたいだけではなく、弥宵は自分の名前も親しみを込めて呼んでほしいのだ。
「べっ、べつに苗字のままでも良いだろ?」
名前を呼ぶだけなのに、なぜ、こんなにも緊張してしまうのだろうか。
今にも飛び出しそうな『弥宵』という文字は喉のあたりでさ迷いながら止まっている。
糢嘉は脳内だけで何度も弥宵と連呼して練習中だ。
「僕は少しも良いとは思えない」
どうしても『弥宵』と呼んでもらいたいのだと不満を述べる弥宵が根気よくねばる。
「……明日からでも、良いか……?」
子供っぽく拗ねる弥宵を見ていると、さすがの糢嘉も申し訳ない感情が生まれた。
同級生のことを気兼ねなく名前で呼ぶだなんで、いつ振りのことだろうか。
普通の学生たちが普通に楽しむようなことも、糢嘉は興味がないとばかりに素通りしてきた。いや違う。素通りではなく諦めてきたのだ。
「うん、良いよ。楽しみにしてるね」
上機嫌になった弥宵が爽やかに笑う。
別れ際、キスこそはされなかったが、糢嘉が家の中に入るまで弥宵はずっとその後ろ姿を見届けていた。
一度、糢嘉が足を止めて振り返ると弥宵が軽く手を上げる。
糢嘉は照れくさそうにはにかむと、急いで家の中へと駆け込んで行った。
とりあえず、ゴールデン・ウィークまではクローゼットの中に収納された数少ない衣服と相談する毎日になりそうだ。
「じゃあね、モカ。後でラインするね」
糢嘉を無事に家まで送り届けると、弥宵は名残惜しそうに糢嘉の髪を撫でて指先にそっと絡ませる。
糢嘉も帰宅途中、睡魔に蝕まれることがなくて胸を撫で下ろした。
「永倉……」
糢嘉が何か言いたそうな顔で弥宵の名前を呼ぶ。
「ん? 何?」
首を少し斜めに傾けながら、鼓膜が蕩けてしまいそうなほどの甘く優しい声で訊き返されて、糢嘉の頭の中では歯の浮くような恥ずかしい台詞が次々と浮かんでいる。
「また明日、学校で……」
だけど実際に弥宵に伝えたかった言葉の数々は何一つ声には出せなかった。
「うん。また明日ね。ゴールデン・ウィーク、どこか行きたい所とかあれば言ってね」
「うん、考えとく」
ここで会話が途切れてしまい、まだ弥宵と一緒にいたい糢嘉はなんとか会話を引き延ばしたくて、何か良い話題はないかと話の種を探す。
「モカ、家の中に入らないの?」
玄関前から一歩も動かないでいる糢嘉のことを不思議そうな面持ちで見つめる弥宵からの問いかけに、糢嘉は「うん、まあ……」と曖昧に濁すだけで玄関の扉を開けて自宅に入ろうとはしない。体を反転させずに弥宵と向かい合っている。
口下手な糢嘉はどうやら弥宵に心を読み取ってもらいたいらしい。
「キスしよっか?」
臆面なく顔を近づけてくる弥宵に糢嘉はあわてふためいた。
糢嘉はもう少しだけ弥宵と一緒にいたくて、自宅付近を三十分ほど他愛のないお喋りをしながら散歩できたら良いなと思っていた程度であり、まさか口づけを迫られるとは予想もしていなかった。
弥宵はいつも糢嘉の想像のさらに上を超えてくる。
弥宵は糢嘉のことに関してだけは呆れるくらいに猪突猛進になり、ワガママで欲張りになるのだ。
そんな弥宵のことを糢嘉は羨ましく思っていたりもするのだ。
糢嘉は持病のことも含めて己の言動によって誰かに迷惑をかけてしまわないだろうか、不快感を与えてはしまわないだろうかと、余計なことを考えすぎてしまう傾向があるからだ。
「バカ! 何言ってんだよ!」
糢嘉は早口に言った。
一瞬で顔全体に熱が集まり、熟れて食べ頃な苺や林檎よりも真っ赤に染める。
「嫌だ」「ダメだ」といった拒否する言葉を貰わなかったことから、糢嘉の返事が「ノー」ではなく「イエス」だということは弥宵にもすぐにわかったが、弥宵はそれ以上キスの催促をしなかった。
キスではなく、べつの要望を糢嘉へと伝える。
「僕のことも苗字じゃなくて、下の名前で呼んでほしいな」
やはり苗字だと『その他大勢の一人』であるクラスメイトから抜け出せない。
何から何まで糢嘉の特別な存在でありたいと思う弥宵の独占欲はおさまることを知らないようで、それは永遠に続きそうだ。
『モカ』と呼びたいだけではなく、弥宵は自分の名前も親しみを込めて呼んでほしいのだ。
「べっ、べつに苗字のままでも良いだろ?」
名前を呼ぶだけなのに、なぜ、こんなにも緊張してしまうのだろうか。
今にも飛び出しそうな『弥宵』という文字は喉のあたりでさ迷いながら止まっている。
糢嘉は脳内だけで何度も弥宵と連呼して練習中だ。
「僕は少しも良いとは思えない」
どうしても『弥宵』と呼んでもらいたいのだと不満を述べる弥宵が根気よくねばる。
「……明日からでも、良いか……?」
子供っぽく拗ねる弥宵を見ていると、さすがの糢嘉も申し訳ない感情が生まれた。
同級生のことを気兼ねなく名前で呼ぶだなんで、いつ振りのことだろうか。
普通の学生たちが普通に楽しむようなことも、糢嘉は興味がないとばかりに素通りしてきた。いや違う。素通りではなく諦めてきたのだ。
「うん、良いよ。楽しみにしてるね」
上機嫌になった弥宵が爽やかに笑う。
別れ際、キスこそはされなかったが、糢嘉が家の中に入るまで弥宵はずっとその後ろ姿を見届けていた。
一度、糢嘉が足を止めて振り返ると弥宵が軽く手を上げる。
糢嘉は照れくさそうにはにかむと、急いで家の中へと駆け込んで行った。
とりあえず、ゴールデン・ウィークまではクローゼットの中に収納された数少ない衣服と相談する毎日になりそうだ。