ほんの一時間ほど前にいたときと比べると、喫茶店の客層がずいぶんと変化していた。
 再び糢嘉と一緒に喫茶店へと戻ってきた弥宵は幼馴染みと会えたことに嬉しくもなったが、それと同時に困惑もした。
 だからといって、わざとらしく避けて離れた場所に座ったりするのも嫌味でしかないだろうなと思った弥宵はあえて隣のテーブル席に座り、そこに糢嘉も誘導する。
 キャンプ場での出来事も、弥宵、結歌璃と一緒になって花苗を探しまわったことなども含めて何も覚えていない糢嘉は初めて見る顔触れに余所余所しい笑顔を作ると、ぎこちない動作で腰を下ろした。
 残されたサンドイッチとロールケーキは残念ながら下げられてしまっていたが、帝、冬嗣、順平の三人が久しぶりに来店したことに上機嫌になっている徳彦は、ロールケーキと同等なほどのご自慢の特製シフォンケーキを作るべく腕を振るう。
「モカくんなの……?」
 琴寧は挙動不審になりながらも糢嘉に近寄ると、勇気をだしてたずねてみた。
 ドキドキとときめく胸の鼓動は治まる気配がない。
 糢嘉と同じくお洒落とは程遠い地味な眼鏡をかけている琴寧に、糢嘉は不思議と妙な親近感が湧いてきた。
「あの……私……。昔、キャンプ場で……その……」
 そこまで言うと、琴寧は己の軽率さに気づいて口を閉じた。
 糢嘉はキャンプ場で知り合った人たちのことなど誰一人として覚えていない可能性が高いかもしれないのだ。それを馴れ馴れしく話しかけたりなんかしたら気味の悪い女だなと警戒されてしまうかもしれない。
 今まで初露によって秘密にされていたキャンプ場で出会った友達のことや、弥宵を助けたこと。それをこれから弥宵がこの喫茶店で糢嘉に事細かく説明するところだったのだが……。今はそんな状況でもなさそうだ。
 芽羽が大きく息を吸っては吐く。そして心を落ち着かせるかのように静かにゆっくりと深呼吸を繰り返す。
「あの日、キャンプ場で何があったのか全部話すよ」
 良い機会だ。今、この喫茶店にはあのときのメンバーが勢揃いしている。
 芽羽は今までひた隠しにしてきた憎悪の塊でしかない体験をみんなに吐露すると決意する。
「芽羽、それはダメだ!」
 過去にキャンプ場で糢嘉と出会い、糢嘉に救われてそこで起きた出来事を糢嘉にすべて教えるつもりでいた弥宵ではあるが、それは無論、芽羽の身に起きた事件だけを除いてだ。
 弥宵が椅子から立ち上がり、すかさず芽羽を止めようとしたが芽羽の意思はかたい。
「良いの。本当は最初からこうすれば良かったの」
 無茶をして真犯人に立ち向かうとまではいかなくても、怯んで逃げたりなんかせずに犯人を野放しにしたことを芽羽は激しく後悔している。
 これまで弥宵以外の人たちには封印していた忌まわしき過去の一部始終を芽羽はすべて打ち明けた。
 芽羽がすべて話し終えると、各々、冷静さを失うまいと努めようとするが、それはかなり難しいことのようだ。
「マジでえん……」
 冬嗣が仰天した声をあげる。
「芽羽ちゃん……。嘘でしょう……」
 琴寧は顔面蒼白させながら瞳にはうっすらと涙の粒を浮かべており、その雫が頬を伝いすべり落ちる。
 これを聞いていたルナもさすがに同じ女として同情したのか、これまで芽羽に冷たい態度をしてきた己を省みる。
「だから弥宵は何一つも悪くないの。弥宵を責めたりするのはお門違いなの。みんなには前みたいに弥宵と仲良くしてほしい。あたしは仲良くしたい」
 琴寧は幼少期から長年当たり前のように芽羽の傍にいて、芽羽のことを誰よりも一番近くで見てきたつもりだった。
 琴寧は自分の家柄や学力を鼻高々に自慢することは一度もなかったが、芽羽の親友でいることは誇らしく何度でも自慢したくなるほどだ。
 密かに想いを寄せていた初恋相手の糢嘉との感動的な再会よりも、芽羽からの衝撃的な告白のほうが琴寧の心を惑わせた。
 糢嘉の持病を知ったときには憐れみと支えになりたいという母性愛に似たような感情が生まれたが、芽羽の悲痛な過去を知った琴寧の心には沸々とした怒りが込みあげてきた。
 それは学童指導員の男への怒りと、その男の汚らわしい悪の手から芽羽を助けてあげられなかった、相談すらされなかった自分自身への不甲斐なさに対しての怒りでもある。
 琴寧は芽羽のことを全身全霊で守ってあげたいと強く思った。思うだけではなく、それをしっかりと行動に移したい。
 琴寧は自分の恋愛対象の相手が誰なのか迷走していたのだが、ようやくその明確とした答えを導き出せたような気がした。

「帝、どこに行くうん?」
 顔色一つ変えずに芽羽の話を聞いていた帝がおもむろに立ち上がった。
「……ガム買ってくる」
 険悪とは違うが、和気あいあいとするどころか辛気臭い空気が漂うなか、甘い香りのシフォンケーキとマフィンが焼きあがり、上出来だなと自画自賛している徳彦を無視して退席するのはさすがに良心が咎める。
「マスター、これ、スッゲーうめえよ。また作ってよ」
 帝はシフォンケーキとマフィンを勝手につまみ食いすると徳彦に笑いかけた。