「モカ、もしここでキスしてもオッケーなら、今すぐ眼鏡を外してくれる?」
 弥宵からそう言われて歓喜しているはずなのに、ここにきて急に深刻に考えはじめた糢嘉は眼鏡を外すことをためらう。
「……俺の病気のこと、聞いたんだろ?」
「うん。聞いたよ」
 突如として訪れる、予測不可能な睡眠は常に危険と隣り合わせだ。
「じゃあ、もう答えはわかりきってるだろ? 俺は永倉とは一緒にいられない」
 どんなに弥宵と一緒にいたくても、糢嘉は貪欲まみれの心に蓋をして本音を押し殺す。糢嘉は我慢することに慣れてしまっているのだ。
「ねえ、モカ。これから僕がずっとモカの傍にいると約束すれば、モカは安心して生活できるのかな?」
「俺の話し聞いてたのかよ⁉」
「聞いてたよ。でも僕はこれからもずっとモカと一緒にいたいから、モカの傍から離れるつもりはないよ」
 最初から複数の選択肢など用意されてはいない。いつだって糢嘉しか眼中になく、糢嘉を中心に物事を考えて、糢嘉がすべてと言っても過言ではない弥宵にとっての答えはほんの少しの迷いすらない。
「何バカなことを言ってんだよ! 永倉は俺と一緒にいることがどれだけ大変で不安なことなのかわかってないんだよ!」
 これまで家族にどれだけの負担をかけてきたことだろうか。
 いつか弥宵が糢嘉のことを重荷に感じて、最終的には捨てたくなるのではないのかと糢嘉は恐怖のあまり泣きそうになる。
「モカのほうこそ、僕がどれだけモカのことを大切に想っているのか真剣に考えてはくれないんだね」
 常に目の届く範囲に糢嘉がいてくれないと、弥宵は心配で夜も眠れない。
「突然、俺がぶっ倒れたりしたらどうすんだよ」
「僕がおんぶしてあげるよ」
「永倉との記憶だけが抜け落ちちゃったらどうすんだよ」
「どんな些細なことも僕がメモして残しておくから大丈夫だよ」
 口先だけではない。
 弥宵は本当に実行するつもりでおり、それを少しを面倒なことだとは思わない。
「ねえ、モカ。もうすぐゴールデン・ウィークだね」
 意気揚々に語りかける弥宵の脳内では華やかな映像ばかりが広がっていくが、所詮は妄想、実現できなければなんの意味もない。
「僕はモカとデートの約束をしたんだよ」
 弥宵のカレンダーが空白ばかりなのは、プライベートは糢嘉と過ごすと決めており、いつでも糢嘉との予定を組めるようにするためだ。
「どうせ暇だから、永倉とのデート(お遊び)に付き合ってやるよ」
 生意気な口調とは裏腹に、糢嘉の心は喜びに満ちあふれている。
 そんな幸せいっぱいな表情は隠そうと思っても隠しきれないであろう。
 照れ隠しとばかりに糢嘉が弥宵のネクタイを引っ張って、弥宵の体を自分自身のほうへと引き寄せる。
 そうしてゆっくりと眼鏡を外すと、赤面した糢嘉が恥ずかしそうにキスの催促をする。
「永倉、今、人が見てる?」
 再び訪れた、公衆の面前での同じ状況、同じ台詞に弥宵は堂々たる態度で挑む。
「見させておけば良い」
 自信満々にそう告げた後、弥宵は糢嘉の唇に自分自身の唇を柔らかく重ねた。
 道行く人たちから好奇な視線を投げつけられて面白可笑しく騒がれても、弥宵と糢嘉は己の目の前にいる愛する人との口づけだけに終始没頭する。
 目眩がして、段々と意識が朦朧(もうろう)としてくるのは弥宵とのキスが気持ち良すぎるからなのだろうか。
 それとも、これはただの錯覚なのだろうか。
 今、この至福な瞬間だけは睡魔に負けたくないと思っている糢嘉は、咄嗟に鞄の中からノートを取り出そうとするが、その手を弥宵に強く握りしめられる。
「モカ、忘れてしまうのが怖い?」
 弥宵からの問いかけに、糢嘉は伏し目がちに小さく頷いた。
 もう、あのような失敗は二度と繰り返したくはない。想像するだけで糢嘉の心臓が恐怖にふるえてえぐられる。
 弥宵とのキスの最中、糢嘉が瞼を閉じて再び瞳を開けたときに、目の前に映る光景と人物が瞼を閉じる前の記憶の断片と一致していなかったらと思うと……。
 見覚えのない場所にいて、見知らぬ誰かと会話していたとしても、糢嘉は自力で解決できないかもしれない。
 そんな最悪な事態になる前に、糢嘉は自分自身の癖のある筆跡で形ある物して残しておかないと不安なのだ。
 弥宵が糢嘉の顔を包み込むようにして、両頬に両手を優しく添える。そしてそのまま自分の額と糢嘉の額をピタリと合わせる。そこからお互いの温かな微熱が素肌に浸透するかのように伝わってくる。
「モカと一緒にいるときは、僕も一緒に紙に書くから」
 その時、その場所の状況によっては、必ずしも『絶対に忘れたくはない大切な事柄』をノートに書き記して残せるわけではない。
 それでも弥宵から貰った言葉がとてつもなく頼もしく感じられて、糢嘉は安堵すると共に不思議と勇気が湧いてくる。
「モカ、ゴールデン・ウィークはどこに遊びに行こうか? 糢嘉はどこか遊びに行きたい場所とかある?」
 糢嘉に初デートを最高に楽しんでもらいたいと思う弥宵は、糢嘉の希望をできるかぎり叶えようとする。
 こんなふうに開放的で意欲的、前向きな気持ちになれたのは何年ぶりだろうか。
 糢嘉は弥宵との初デートが待ち遠しくて胸踊らせる。
「それかどこにも出かけないで、僕の家に遊びに来てまったり過ごすのでも良いよ」
 夢心地な気分で弥宵の提案するデートプランを聞きながら、糢嘉は自ら外した眼鏡を再びかけ直すと、ノートに『絶対に忘れたくはない大切な事柄』を書きはじめる。
「もしモカが突然眠ってしまったとしても、僕のベッドを使えば大丈夫だよ。モカが眠るその隣で僕もモカと一緒に寝るから。モカが目を覚ますまで、僕はずっとモカの傍にいるよ」
 それはいったいどういう意味なんだと卑猥に捉えてしまった糢嘉は真横でたたずむ弥宵の顔を凝視するが、残念ながら、どこか不敵で怪しげな笑顔を浮かべている弥宵からは何一つ本音を読み取ることができない。
 急激に想像力が豊かになった糢嘉の脳内では厭らしい考えだけがグルグルと高速回転しながら渦巻いており、不埒な感情に支配されてしまったのか激しい頭痛にさいなまれる。
 それでも心の片隅ではキスだけでは物足りないと嘆いており、糢嘉は弥宵となら一緒に境界線を飛び越えても良いと、そんな淫らな展開を望んでもいる。