喫茶店にはいつも必ずといっている、瑚城、ルナ、芽羽の三人の姿が珍しく見当たらない。
 徳彦は特製ロールケーキと一緒に、あの日と同じくサービスとしてだしたサンドイッチも持ってきた。
 弥宵はすっかり常連客となり徳彦とは気軽に会話する仲になったが、糢嘉はよそよそしい態度で頭をペコリとさげた。
 今、この喫茶店にはマスターの徳彦と弥宵、そして糢嘉の三人だけだ。
「ここのコーヒー、美味しいね」
 弥宵は初めて糢嘉と一緒に来店したときと同じ台詞を言った。
 糢嘉は怪訝そうな表情で弥宵とコーヒーを交互に見つめる。
「あのさ永倉。今から俺が言うことを聞いて変な奴って思うかもしれないけど……」
 糢嘉はコーヒーにミルクと砂糖を入れたが、まだ一口も飲んではいない。
「四月十六日って、何してた?」
 弥宵の心を探るように、そしてこちらの真意を悟られないように、糢嘉はさりげなくたずねた。
「どうして、そんなことを訊くの?」
 弥宵は糢嘉からの質問には答えずに訊き返す。
「俺と永倉はただのクラスメイトなのか?」
 緊張からなのか、糢嘉が少し早口になった。
 弥宵の瞳孔が興味深そうにかすかに揺れ動く。
「俺は何も覚えてないし、何も思い出せないんだけど……」
 糢嘉の言葉をさえぎるかのように喫茶店の扉が開く。
 反射的に視線を向けると主婦らしき二人が来店してきた。
 徳彦は「いらっしゃいませ」と言ってすぐさま営業用の笑顔を作る。
「俺と永倉は……その……」
 糢嘉はまだ気持ちの整理が上手くできておらず、静かにゆっくりと息を吸い、慎重に言葉を選びながら話している。
「あ、いや……。ごめん。やっぱいいや……」
 糢嘉はフォークを手に持つと、それで意味もなくロールケーキを突ついた。
「モカにね、見せたい物があるんだ」
 弥宵は朗らかにそう言うと、糢嘉の目の前に一枚の紙切れを置いた。
 その紙切れは弥宵と糢嘉が初めてこの喫茶店に立ち寄り、お会計の際に徳彦から手渡されたレシートだ。
 レシートには『四月十六日』と印字されている。
 注文したメニューはホットコーヒー二つだ。サンドイッチは徳彦のサービスだったのでサンドイッチの料金は印字されてはいない。
 どこにでもよくある、よく見る、ごく普通のありふれたレシートだが、裏面を見た途端、糢嘉の表情は一変する。心臓が跳躍しているみたいに激しく暴れまわり、尋常ではないほど鼓動が波打つ。
 恋人や友達と一緒に飲食店に入った場合、別々に料金を支払うか、善意で奢ってもらうかのどちらかだ。
 キャンプ場での一件以来、糢嘉は人に頼ったり、心を許したりすることを極力避けてきた。
 だから四月十六日に弥宵がコーヒーの代金を支払うとかたくなに言い張ったときも、弥宵に借りを作るのが嫌だった糢嘉は自分のコーヒー代は自分で支払うと言って強情になった。
 しかし弥宵のほうも一歩も譲らず、この喫茶店まで糢嘉を無理矢理連れてきたことに少なからず責任を感じており、たいした金額ではないのだからコーヒーくらい糢嘉にご馳走させてほしいと粘り強く言った。
 糢嘉をここまで可愛げなくさせる要因は謎に包まれた状態のままだが、弥宵はそこで交換条件を持ち出すことにした。
『じゃあこうしよう。今日は僕が払うから、明日のお昼休み、僕と一緒に食べてよ。そのときに缶コーヒーを一つ奢ってくれたら良いよ』
 強引に約束事を交わされてしまい、素直になれない糢嘉ではあったが、渋々、弥宵からの要求に承諾した。
 このときの弥宵はまだ糢嘉の持病のことを知らなかった。
 だからこれは計算で行ってはいないにしろ幸運な偶然なのだ。いや、ここは運命なのだと信じてみても良いのではないだろうか。
 十歳の頃にキャンプ場で出会ったことを糢嘉に忘れられていたことが弥宵にとってはかなりショックだった。
 どうしても糢嘉と一緒に過ごす時間が欲しくて、糢嘉のことを繋ぎとめておきたいと思った弥宵は念のためレシートの裏面に『明日のお昼休みは永倉と一緒に過ごす。永倉に缶コーヒーを一つ奢る』と糢嘉に無理矢理書いてもらったのだ。
 意地っ張りで素直になれない糢嘉が、後々「そんな約束をした覚えはない!」と言って逃げないようにするために。もうそんなことは忘れてしまったと簡単に片づけさせないために。
 弥宵から手渡された過去からの郵便はまぎれもない糢嘉の筆跡で書かれた文字だ。
 そうなると、糢嘉のパソコンに送られてきたもう一つの郵便の内容も事実である可能性が高くなり、信憑性が増してくる。