午前中は眠気もなく、ごく普通に授業を受けることができた。
弥宵は休み時間になるたびに糢嘉の席へとやってきた。
弥宵は他愛のないお喋りをするだけであり、糢嘉が記憶を失った部分にはいっさい触れようとはしなかった。
これまで学校で弥宵と糢嘉が一緒にいたことはない。
クラスメイトはその光景を不思議そうに見ており、弥宵と糢嘉が急激に親しくなったのは糢嘉が二週間休んだことと何か関係あるのだろうか? と二人について口々に噂しはじめた。
お昼休みになり、弥宵、糢嘉、結歌璃、花苗の四人は学食でご飯を食べることにした。
「あの……滝寺さんと石橋さんに訊きたいことがあるんだけど……」
今日の朝からずっと糢嘉の口数は少なく歯切れの悪い会話ばかりだった。
糢嘉のほうから話しかけるのは、これが初めてだ。
「その……俺が救急車で病院に運ばれたとき、二人は病院にいた?」
「うん! いたよ! モカくん、急に倒れるからビックリしちゃったよお」
動転した結歌璃は病院でもこんな調子だったため「静かにしてください」と看護師から何度も注意されていた。
ただ眠っているだけなので、大きな外傷がなければ救急車を呼ぶ必要もないのだが、糢嘉の持病を知らなければあわてふためくのは当然だろうし、あのような公共の場所で倒れたのだ。救急車を呼んだのは賢明な判断だったであろう。
「本当に、何も覚えてないの……?」
花苗が糢嘉の顔を覗きこみながらおそるおそるたずねた。
ああ、そうか。
みんな病気のことを知っているんだなと糢嘉は自嘲気味にうなだれる。
耀葉が言ってた病院にいた女子生徒二人というのは結歌璃と花苗の二人で間違いなさそうだなと糢嘉の中で疑念だったのが確信に変わった。
どういう経緯で、弥宵、結歌璃、花苗の三人と親しくなったのかはわからないが、このままこの三人と深く関わっていく自信が糢嘉にはない。自信がないというよりも恐縮してしまう。
だからこの温かく居心地の良い交友関係にはどっぷりと浸らないようにしなくてはと心がける。
「なんかごめん。みんなに迷惑かけちゃったみたいで……」
か細い声で呟く糢嘉の表情が段々と悲痛な暗い影に染まってゆき、食欲までもを奪っていく。
「全然、迷惑なんかじゃないよ」
迷わず即答する弥宵の顔がなぜだが怒っているように見えてしまい、糢嘉は食べていたパンを喉に詰まらせそうになった。
「えぇー! モカくんてばそんなことを気にしていたのお? また眠っちゃったり忘れちゃったとしても、ワタシと花苗、弥宵がいるから大丈夫だよ!」
結歌璃が持ち前の明るさと楽観的な思考で糢嘉を励ます。
いつだって陽気な結歌璃に糢嘉は気疲れするどころか癒やされる。
「でも松崎くん、早く退院できて良かったね。結歌璃と一緒にお見舞いに行ったら松崎くんが退院した後だったから」
花苗のその言葉を聞いて糢嘉は目を丸くする。
「え? 病院に来たの?」
「うん! 花苗と一緒にお見舞いに行ったんだよ!」
「そうだったんだ。本当に色々とどうもありがとう」
雑談に花を咲かせてはいるが、弥宵と糢嘉は心ここに有らずといったかんじで、それはただ機械的に動く蝋人形のようだ。
放課後になっても、弥宵は糢嘉の傍から離れようとはしない。
「モカ、家まで送っていくから一緒に帰ろう」
今日一日、『モカ』と呼ばれることに不機嫌にならなかったのは、あの過去から送られてきた郵便のせいだ。
けれども、勘違いだったらと思うと恥ずかしいから行動に移せない。
どうして手書きのメモを残しておかなかったのだと糢嘉は悔やむ。
「一人で帰れるから大丈夫だよ」
だから、こんなふうに素直になれないのは仕方がないのだ。
素っ気なく突き放してくる糢嘉に弥宵も我を通そうとする。
「僕はモカのことを少しも迷惑だなんて思ってないけど、一人で大丈夫だよと言っておきながら僕の見てない所で一人で倒れられたりしたら僕は心配だし迷惑だよ」
爽やかな笑顔から一変して弥宵から嫌味を言われた糢嘉は反抗的になる。
「永倉に俺の何がわかるんだよ! もう俺のことなんか放っといてくれよ!」
こんなのは、ただのみっともない八つ当たりだということはわかっている。
弥宵の言っていることは正しい。的を得ている。
どんなに反省してみても、叫んだ後ではもう遅い。
中学生のときも高校一年生のときもそうだった。周囲からは憐憫な視線が棘のように突き刺さり、眠ってばかりいる怠け者でしかないと陰口を叩かれる。だったら最初から罵られていたほうが心に負う傷は浅くてすむ。
百万人に一人と言われているこの病気の完全な治療法と処方薬はない。
どんなに孤独を公言しても、結局は身近な人たちを巻き込んでしまい大きな負担をかけてしまっている。
「何もわからないから、これからモカのことをもっとよく知りたいと思うのはダメなことなの?」
誰よりも特別な存在である糢嘉の一番近い存在でありたいと望む弥宵の糢嘉への独占欲は膨らみ続ける。この感情は衰えるどころか活性化するばかりだ。
「永倉、ちょっと話があるんだけど良いか?」
なぜ、こうも弥宵は鬱陶しいくらいにしつこく付きまとってくるのだろうか。その執着してくる理由を糢嘉は直接弥宵本人に訊いて確かめたい。
「それなら、モカと一緒に行きたい場所があるんだけど、そこでも良いかな?」
再び喫茶店でコーヒーを飲むという約束はまだ果たされてはいない。
糢嘉にはそんな約束をした記憶すら欠片も残ってはいないのだろうが、弥宵はあの憩いの喫茶店で糢嘉と過ごした至福な時間をなかったことにはしたくないのだ。
弥宵は休み時間になるたびに糢嘉の席へとやってきた。
弥宵は他愛のないお喋りをするだけであり、糢嘉が記憶を失った部分にはいっさい触れようとはしなかった。
これまで学校で弥宵と糢嘉が一緒にいたことはない。
クラスメイトはその光景を不思議そうに見ており、弥宵と糢嘉が急激に親しくなったのは糢嘉が二週間休んだことと何か関係あるのだろうか? と二人について口々に噂しはじめた。
お昼休みになり、弥宵、糢嘉、結歌璃、花苗の四人は学食でご飯を食べることにした。
「あの……滝寺さんと石橋さんに訊きたいことがあるんだけど……」
今日の朝からずっと糢嘉の口数は少なく歯切れの悪い会話ばかりだった。
糢嘉のほうから話しかけるのは、これが初めてだ。
「その……俺が救急車で病院に運ばれたとき、二人は病院にいた?」
「うん! いたよ! モカくん、急に倒れるからビックリしちゃったよお」
動転した結歌璃は病院でもこんな調子だったため「静かにしてください」と看護師から何度も注意されていた。
ただ眠っているだけなので、大きな外傷がなければ救急車を呼ぶ必要もないのだが、糢嘉の持病を知らなければあわてふためくのは当然だろうし、あのような公共の場所で倒れたのだ。救急車を呼んだのは賢明な判断だったであろう。
「本当に、何も覚えてないの……?」
花苗が糢嘉の顔を覗きこみながらおそるおそるたずねた。
ああ、そうか。
みんな病気のことを知っているんだなと糢嘉は自嘲気味にうなだれる。
耀葉が言ってた病院にいた女子生徒二人というのは結歌璃と花苗の二人で間違いなさそうだなと糢嘉の中で疑念だったのが確信に変わった。
どういう経緯で、弥宵、結歌璃、花苗の三人と親しくなったのかはわからないが、このままこの三人と深く関わっていく自信が糢嘉にはない。自信がないというよりも恐縮してしまう。
だからこの温かく居心地の良い交友関係にはどっぷりと浸らないようにしなくてはと心がける。
「なんかごめん。みんなに迷惑かけちゃったみたいで……」
か細い声で呟く糢嘉の表情が段々と悲痛な暗い影に染まってゆき、食欲までもを奪っていく。
「全然、迷惑なんかじゃないよ」
迷わず即答する弥宵の顔がなぜだが怒っているように見えてしまい、糢嘉は食べていたパンを喉に詰まらせそうになった。
「えぇー! モカくんてばそんなことを気にしていたのお? また眠っちゃったり忘れちゃったとしても、ワタシと花苗、弥宵がいるから大丈夫だよ!」
結歌璃が持ち前の明るさと楽観的な思考で糢嘉を励ます。
いつだって陽気な結歌璃に糢嘉は気疲れするどころか癒やされる。
「でも松崎くん、早く退院できて良かったね。結歌璃と一緒にお見舞いに行ったら松崎くんが退院した後だったから」
花苗のその言葉を聞いて糢嘉は目を丸くする。
「え? 病院に来たの?」
「うん! 花苗と一緒にお見舞いに行ったんだよ!」
「そうだったんだ。本当に色々とどうもありがとう」
雑談に花を咲かせてはいるが、弥宵と糢嘉は心ここに有らずといったかんじで、それはただ機械的に動く蝋人形のようだ。
放課後になっても、弥宵は糢嘉の傍から離れようとはしない。
「モカ、家まで送っていくから一緒に帰ろう」
今日一日、『モカ』と呼ばれることに不機嫌にならなかったのは、あの過去から送られてきた郵便のせいだ。
けれども、勘違いだったらと思うと恥ずかしいから行動に移せない。
どうして手書きのメモを残しておかなかったのだと糢嘉は悔やむ。
「一人で帰れるから大丈夫だよ」
だから、こんなふうに素直になれないのは仕方がないのだ。
素っ気なく突き放してくる糢嘉に弥宵も我を通そうとする。
「僕はモカのことを少しも迷惑だなんて思ってないけど、一人で大丈夫だよと言っておきながら僕の見てない所で一人で倒れられたりしたら僕は心配だし迷惑だよ」
爽やかな笑顔から一変して弥宵から嫌味を言われた糢嘉は反抗的になる。
「永倉に俺の何がわかるんだよ! もう俺のことなんか放っといてくれよ!」
こんなのは、ただのみっともない八つ当たりだということはわかっている。
弥宵の言っていることは正しい。的を得ている。
どんなに反省してみても、叫んだ後ではもう遅い。
中学生のときも高校一年生のときもそうだった。周囲からは憐憫な視線が棘のように突き刺さり、眠ってばかりいる怠け者でしかないと陰口を叩かれる。だったら最初から罵られていたほうが心に負う傷は浅くてすむ。
百万人に一人と言われているこの病気の完全な治療法と処方薬はない。
どんなに孤独を公言しても、結局は身近な人たちを巻き込んでしまい大きな負担をかけてしまっている。
「何もわからないから、これからモカのことをもっとよく知りたいと思うのはダメなことなの?」
誰よりも特別な存在である糢嘉の一番近い存在でありたいと望む弥宵の糢嘉への独占欲は膨らみ続ける。この感情は衰えるどころか活性化するばかりだ。
「永倉、ちょっと話があるんだけど良いか?」
なぜ、こうも弥宵は鬱陶しいくらいにしつこく付きまとってくるのだろうか。その執着してくる理由を糢嘉は直接弥宵本人に訊いて確かめたい。
「それなら、モカと一緒に行きたい場所があるんだけど、そこでも良いかな?」
再び喫茶店でコーヒーを飲むという約束はまだ果たされてはいない。
糢嘉にはそんな約束をした記憶すら欠片も残ってはいないのだろうが、弥宵はあの憩いの喫茶店で糢嘉と過ごした至福な時間をなかったことにはしたくないのだ。