弥宵が糢嘉の唇から離れた次の瞬間、ものすごい勢いで階段を駆け上ってくる音が聞こえてきた。そして糢嘉の部屋の扉が乱暴に開かれる。
「ここで何をしているの⁉」
 部屋に入ってきた初露は弥宵の姿を見るなり血相を変えて怒鳴った。
「貸して! わたしがやるから! 今すぐこの部屋から出て行って!」
 初露が弥宵から茶碗とスプーンを奪い取ると、力加減なしに弥宵を突き飛ばした。
 初露のよく整えられたフェミニンな内巻きボブヘアーが乱れる。
 弥宵はよろめき体勢を崩しこそはしたが、糢嘉の傍から離れようとはしない。糢嘉の部屋から出ていこうともしない。意地でも糢嘉の部屋に居座ろうとする。
「初露がどんなに僕を嫌っても、僕はモカに会いに来るよ」
 こればかりは譲れない。
 糢嘉の役にたちたい。糢嘉を支えたい。何もかも見透かしたように言ってくる弥宵の物怖じしない堂々とした振る舞いに初露はいきり立つ。
「わかったふうに言わないで! つい最近になって糢嘉の病気を知ったばかりのあなたに何ができるの⁉ 糢嘉が眠っている間はわたしがこうやってずっと糢嘉の世話をしてきたの!」
 ハンバーガーを頬張りながら耀葉も部屋の中へと入ってきた。手にはスーパーで買ってきたゼリーやヨーグルト、アイスなどが入った袋をぶら下げている。これらはすべて睡眠中の糢嘉に食べさせるためのもので冷蔵庫に常備しておくのだ。
 初露の怒りの叫びを聞いて驚いた歩帆が再び糢嘉の部屋に入ってくる。
 インターホンを押したのは初露だった。
 スーパーに行くときに自宅の鍵を持って行くのを忘れた初露は歩帆に扉を開けてもらおうとインターホンを押したのだ。
 そして玄関で揃えられたローファーを見た途端、嫌な予感がした初露は糢嘉の部屋に荒々しく入ったというわけなのだ。
 どちらも糢嘉を大切に想い、どこまでもその信念を貫いて曲げようとしない初露と弥宵の攻防戦に釘付けとなっていた耀葉が不意にアイスを持っていることに気がつく。
 耀葉は溶けかけのアイスとゼリー、ヨーグルトを急いで冷蔵庫の中に仕舞いに行った。
 歩帆が初露を説得して落ち着かせようとするが、初露は歩帆の話などまるで聞こうとはしない。
 耀葉が戻ってきたちょうどそのとき、糢嘉の睫毛がピクリと動いた。
 約一週間ほど眠り続けた糢嘉がようやく目覚めた。
 糢嘉の瞳に家族の姿がぼんやりと映り込むが、残念なことに視力の弱い糢嘉にはうっすらと人影が揺れ動いているようにしか見えていない。
「母さん? 初露? 耀葉? それから……」
 もう一人、誰かいる。
 父親の瑛轍だろうか。
 糢嘉は周囲を見回して、すぐに状況を把握しようとする。
 糢嘉は自分の持病を知ってから必ずとる行動がある。これはもう癖と言ってもいいだろう。
 目を覚ましたら、まずは一番最初に今日の日付を確認する。これでどれだけの時間、または日数を睡眠で費やしてしまったのかを把握するためだ。
 でも眼鏡がなければ何も見えないので、これでは対処しようがない。
 糢嘉が手探りで枕元に置かれた眼鏡を手に取り、それをすぐにかける。
 これで糢嘉は自分が今、自室のベッドの上にいることがわかった。
 すぐに歩帆が糢嘉の傍に近寄り、糢嘉の記憶の有無を確認する。
「糢嘉、どこまで覚えてる?」
 記憶の破片をかき集めた糢嘉は、一週間前、朝の通学途中の電車の中で「痴漢なんてやってない!」と必死になって騒いでいた中年サラリーマンのところまでは記憶に残っていたが、その後、弥宵がその中年サラリーマンを助けたことや、弥宵と一緒に学校をサボったこと、弥宵、結歌璃と一緒に花苗を探したこと、そして弥宵と情熱的な口づけを交わしたことなどはすべて忘れていた。
 つまり電車の中で弥宵と目が合う前のところから、帝と再会して倒れるまでの間に糢嘉の身に起きた出来事だけを忘れてしまっていたのだ。
 だから糢嘉は弥宵の姿を見て驚愕する。
 一度も話したことがない、特に親しくもないクラスメイトだけという接点しかない弥宵がなぜ自分の部屋にいるのだろうかと糢嘉には謎だらけだ。
 弥宵にとって絶対に忘れてほしくなかった肝心な部分だけを糢嘉が忘れていたことに、弥宵は落胆を隠せない。
 こんなのは嘘だ。信じない。
 あまりの絶望感に目の前が真っ暗になる。崖っぷちに立たされて、そこから崩れ落ちるみたいだ。
 他人行儀な糢嘉に戻っているだなんて、この距離感が縮まるのではなく広がっているだなんて、そんなつらすぎる現実を弥宵は受け入れられずにいる。
 なんとか平常心を保ちながらも、(わら)にもすがる思いで弥宵は糢嘉に詰め寄る。
「モカ、僕は……」
『松崎』ではなく『モカ』と呼ばれたことで糢嘉はさらに驚いた。糢嘉の脳内ではたくさんの疑問符が泳ぎまわっている。
 糢嘉は瞳に穴が開いてしまうほどに弥宵の顔を凝視する。
 眉目秀麗な弥宵からこんなにも見つめられて目眩を起こしそうになる。
 弥宵と糢嘉。二人はお互いにお互いの視線から逸らそうとする気配がない。
 初露は糢嘉が弥宵と関わったことを全部忘れていたことにほくそ笑んだ。
 だからといって気を抜くわけにはいかないし、初露の不安要素が完全に消えたわけでもない。
 やはり糢嘉と別々の高校を受験したのは間違いだったと初露は後悔していた。
 糢嘉を心配する初露は本当は糢嘉と同じ高校を受験するつもりでいた。しかし初露にはどうしても入学したい高校があった。
 それは新体操の名門校だ。
 初露は新体操に優れており、数多くの大会でメダルを獲得したこともある。
 糢嘉は初露の夢の邪魔だけはしたくなかった。
 大好きな新体操を犠牲にしてまで、双子の兄の面倒を見る必要はない。
 これは初露の人生だ。
 糢嘉は初露の夢を応援したかった。
『俺は大丈夫だから、初露が行きたいと思う高校を受験しなよ』
 初露は最後の最後まで悩んでいたが、糢嘉の強い後押しと、新体操を続けたいという気持ちには勝てなくて、最終的には糢嘉と違う高校に進むことを選んだ。
 
 糢嘉が何も覚えていないのに、いつまでも長居していては迷惑なだけだし、糢嘉も混乱するだけだろうなと思った弥宵は早々に退出することにした。
「モカはいつから登校しますか?」
 帰り際、玄関の外に出てまで見送ってくれた歩帆に弥宵はたずねた。弥宵はなるべく毅然とした態度を保たせているが、その声はどこか物悲しく感じられる。
 この一週間、糢嘉はまともに食事を摂取していないのだ。かなり体力が落ちていることだろうし、病院にも行かなくてはならない。
「とりあえず今週いっぱいはお休みさせるけど、来週以降は糢嘉の体調次第かな」
 糢嘉が登校したとしても、弥宵のことはクラスメイトとしての認識しかない。
 弥宵には残酷すぎる現実だが、悲しいことにこの事実が変わることはない。
 弥宵は歩帆にお辞儀をすると帰って行った。
 歩帆はこれまで弥宵が献身的に糢嘉のお見舞いに来てくれていたことを思うと胸が痛んだ。
 どことなく哀愁を漂わせながら立ち去って行く弥宵の背中を見ていると、歩帆はすぐさま家の中に戻り、そのまま玄関のドアの鍵を閉めることができなかった。