翌日の放課後も弥宵は糢嘉の家を訪問した。これはもう弥宵の習慣となっていた。
 毎回、糢嘉の母親の歩帆(あゆほ)は弥宵を快く出迎えてくれる。
 だけど弥宵と歩帆は玄関で立ち話をするだけだ。
「弥宵くん、いつもありがとうね」
 初露と耀葉は近所のスーパーに買い物に出かけており、糢嘉の父親の瑛轍(えいてつ)はまだ仕事から帰ってこない。
 初露は耀葉に荷物持ちをさせるべく耀葉を同行させた。
『荷物持ちを手伝ってくれたら、ハンバーガーを奢ってあげるよ』
 初露の交換条件に耀葉は負けてしまい、上手く言いくるめられてしまったなと渋々スーパーへと付き添うことにした。
「糢嘉は学校ではどんなかんじ?」
 糢嘉は学校でのことを家族に話したがらない。
 糢嘉の病気のことは学校側には伝えてあるが、学校で糢嘉が孤立しているのではないかと歩帆は心配しているのだ。
 そんな歩帆の心情を読み取った弥宵は、
「僕はモカと出会えたことをとても嬉しく思っているし、モカには感謝しているんです。モカがいるから、僕は学校に通うのが楽しいです」
 と言って、歩帆の不安要素を取り除こうとする。
 そんなふうに糢嘉を必要としてくれる弥宵に感激した歩帆は、さすがにもう玄関で追い返すのは失礼きわまりないと思った。
「糢嘉に会ってみる?」
 おっとりとした口調で歩帆が言う。
 予想もしていなかった嬉しすぎる言葉に弥宵は瞬きを繰り返す。
「会いたいです。でも……」
 初露が……という言葉を弥宵は飲み込んだ。
 そんな弥宵の気持ちを察したのか、目尻をたるませた歩帆が優しくほほ笑みかける。
「初露のことは気にしなくて大丈夫よ。私が上手く説得するから」
 柔和なほほ笑みを崩さないまま、歩帆は穏やかに言った。
 弥宵は戸惑いつつも、糢嘉に会いたいという気持ちには勝てなくて「お邪魔します」と礼儀正しく言うと靴を脱いだ。

「ちょうど今、糢嘉にご飯を食べさせるところなの。一緒にどうぞ」
 トレーに食事を乗せて階段を上る歩帆の後ろをゆっくりとした足取りでついて行く。
 歩帆が糢嘉の部屋に入った後、歩帆に続いて弥宵も緊張気味に入室した。
 糢嘉はベッドの上で静かに眠っていた。枕元には糢嘉の愛用眼鏡が置かれており、壁には学校の制服が掛けられている。
 本棚には漫画が数冊ほど収納されており、ゲーム機やDVD、CDやパソコンなどもある。ごく普通の高校生らしい部屋に弥宵の心は和んだ。
 糢嘉の部屋をじっくりと観察したい弥宵ではあるが、あまりキョロキョロと見回すのも気が引けるため自重する。
 歩帆がベッドの真横に食事を置く。
 糢嘉の規則正しい寝息がかすかに聞こえてくる。その生きていることを証明する呼吸が弥宵の鼓膜をくすぐるのと同時に安堵させる。
「不思議でしょう? 本当に眠っているだけなのよ」
 意識不明とは違う。
 用を足したくなると夢遊病のように一人でトイレに行き、眠りながら排尿、排便もする。口内に飲食物を注入すれば喉を動かして飲み込み、眠りながら食事もする。
 けれども、どんなに大声で名前を呼んでみても、体を大きく揺すってみたり叩いたりしてみても、大音量の音楽を耳元で流してみても糢嘉は目を覚まさない。
 外部からの刺激で糢嘉が目覚めることは滅多になく、糢嘉の瞼が自然と開かれるまで糢嘉は眠り続けるのだ。
 寝返りもしない、ベッドの上にまっすぐ横たわる糢嘉の体を歩帆がゆっくり起こそうとするのを見て、すかさず弥宵が「僕も手伝います」と言いながら糢嘉の肩に手をまわして抱き支える。
 こんな間近で糢嘉のあどけない寝顔を見ていると、キスしたい衝動に駆られてしまう。
 今はそんな淫らなことを考えているときではないのだと、弥宵は不謹慎な欲望の塊を心の奥底に深く沈めた。
 歩帆が茶碗に入ったご飯をスプーンですくい取り、それを糢嘉に食べさせていく。
 睡眠中の糢嘉にはお粥のような喉に詰まりにくい、なるべく胃に優しくて消化の良い食事を与えなくてはならないのだ。
 点滴からもある程度は必要な栄養素を補えるが、なるべくなら直接口から食事を摂取したほうが良いと、そのほうが栄養失調や脱水症状になりにくいと克騎は言った。
 食事を半分ほど終えるとインターホンが鳴った。
 一旦、食事を中断させて糢嘉の部屋から出ようとする歩帆を弥宵が引き止める。
「僕がモカにご飯を食べさせても良いですか?」
 弥宵はもう茶碗とスプーンを手に持っている。
「それじゃあ、お願いできるかしら」
 早口にそう言うと、歩帆は急いで階段を下りて行った。
 弥宵は歩帆の真似をして慎重な手つきで糢嘉の口元にスプーンを運ぶ。
 上手く咀嚼(そしゃく)できたと嬉しく思った矢先、口角から少しばかりこぼしてしまい糢嘉の口元が汚れてしまった。
 弥宵はすぐにティッシュで拭き取った。そして糢嘉の唇に触れたことで弥宵の高揚感が増していく。
 その感触を手離したくはなくて、忘れたくなくて、弥宵は愛撫するように糢嘉の唇を指先で何度もなぞる。
 追い払ったはずの欲望が急速に舞い戻ってきてしまった。指先が火傷したかのように熱くなる。
 今、この部屋には弥宵と糢嘉の二人だけだ。誰も見ていない。
 弥宵が糢嘉の額にかかる前髪と頬にかかる横髪を撫でまわすようにして軽く梳かす。そして糢嘉の手を抱擁するかのように優しく握りしめると、糢嘉の顔に自分自身の顔をゆっくりと近づけていく。
 弥宵の唇と糢嘉の唇が柔らかく重なる。
 この口づけを糢嘉は夢想の中でどう味わっているのだろうか。
 どこかの国のお伽噺のように『王子様のキスで目覚めました』なんていう運命的で奇跡的、それに加えて恍惚とした味だろうか。
 それとも気弱な老婆に扮装した、不道徳で惨虐な魔女が忍ばせた毒林檎による策略的な味だろうか。